日本軍「慰安婦」問題の解決を!950回水曜デモ ソウル・201012

                                

2010年の12月末、ソウルへはマイナス15度の寒波が押し寄せ、雪が舞い、漢江は氷結した。その寒波と雪が残る1229日正午、日本大使館前で、第950回めの日本軍「慰安婦」問題解決のための水曜デモが100人ほどの参加でもたれた。年末の水曜デモはその年に亡くなった被害者の追悼会の形で開催されている。

集会場には8人のハルモニの顔写真が飾られた。集会はその写真の前のろうそくへの点火から始まった。そして、一人ひとりのハルモニの歴史が朗読され、その人生に想いを馳せる時がもたれた。

朗読されたハルモニの歴史は、次のようなものだった。

故 キム・スンアック ハルモニ(慶北慶山)

 16歳で中国・北京に無理やり連れられて行き、日本軍「慰安婦」の生活を経験された。18歳で解放を迎えるが、13ヶ月余りの後、やっと故郷に戻られた。故郷に戻った後にも、1か所に定着することができず、仕事を探してソウル、群山、東豆川などの地を転々とした。それは女性として力に余る人生を生き抜かねばならないことだった。苦難に満ちた人生を終え、遺産の全額を「挺身隊ハルモニと共に行動する市民の会」で推進する歴史館の建設と恵まれない学生のために残された。 12日に逝去された。

故 イ・ジョムネ ハルモニ(全北益山)

 15歳で日本軍性奴隷とされ、中国とシンガポールなどの地を連れられ、日本軍「慰安婦」としての人生を耐え忍ばなければならなかった。重い肺病になり、21歳でやっと故郷に戻られた。どんなに辛くとも笑みを忘れなかったハルモニにだった。脳出血で倒れ、再び起き上がることを期待し、待っていたが、結局、210日の夜、目を閉じられた。

故 イ・ドゥスン ハルモニ (慶南巨済)

 1922年に巨済市の沙等面嘉兆で生まれた。1939年、17歳のとき網工場に就職させてあげると騙され、中国に連れて行かれ、6年余りの間、過酷な日本軍「慰安婦」の生活を強要された。2009年に下半身の麻痺と持病のために入院された。201039日、肋骨骨折と糖尿病悪化によって意識不明になられ、311日に落命された。

故 キム・ゲファ ハルモニ(慶北釜山)

 1938年頃に連行され、中国や日本などの地で日本軍「慰安婦」として過酷な日々を送られた。戦争が終わっても、日本から戻ることができなかった。ハルモニは1979年に帰還されたが、家族も無く、孤独で、辛い傷を抱えて生きてきた。さまざまな疾病と老齢による病気のため、養老病院で生活をしてこられたが、516日に落命された。

故 パク・スニム ハルモニ(慶南居昌)

 1920年に慶南の居昌で生まれた。193912月に大邱の通りで日本警察に連行され、釜山、上海などを経て、中国の地で解放される時まで、日本軍「慰安婦」として苦難の日々を送られた。戦争が終わった後も1年以上、中国で放浪生活を強いられ、上海から帰国した。さまざまな疾病で居昌の病院にいらしたが、628日の朝、630分頃に落命された。

故 チン・ファスン ハルモニ(全北井邑)

 1930年に全南の長城で生まれた。15歳で光州の製糸工場で働いていたが、ソウルの会社に就職させてあげるとの紹介を受けた。しかし、「満州」に連行され、「はるこ」という名前で日本軍「慰安婦」とされ、ひどい苦痛を体験させられた。解放後、上海を経て釜山港に帰還した。その後結婚したが、日本軍「慰安婦」の過去が明らかになり、離婚させられた。一人で全北の井邑で過ごして来られたが、911日に逝去された。

故 シム・ダルリョン ハルモニ(慶北大邱)

 1927年に慶北漆谷郡の貧村で生まれた。12歳の頃、姉と一緒に山菜採りに行った際に日本軍に捕まり、トラックに乗せられた。日本軍「慰安婦」とされ、台湾の「慰安所」に連れて行かれた。そこでの暴行と精神的ショックにより、長い間、精神疾患に苦しまれた。日本軍「慰安婦」の後遺症のために、いろいろな病気を患っていたが、奪われた名誉と尊厳を取り戻すために活発な活動をしてこられた。125日に逝去された。

故 イ・ヤングン ハルモニ(全北益山)

 1923年に益山で生まれた。1942年、紡績工場に就職させてあげるという言葉に誘われ、日本軍「慰安婦」にされた。シンガポールで解放される時まで、苦痛の日々を送られた。解放後、帰国されたが、経済的に苦しい生活を続けた。老人性の疾患で苦しまれていたが、1210日に脳梗塞で倒れ、その日のうちに落命された。

集会での追悼の発言につづき、日本からの連帯のあいさつがおこなわれた。続いて「金学順のアリラン」の歌や若い世代による踊りと手紙の朗読がなされ、ハンギョレ「市民の木」による合唱などの文化行事がおこなわれた。

「金学順のアリラン」(キム・パンス)は次のような歌詞であり、それは共感し、連帯し、清算をすすめ、平和を希求するというものだった。

1(反省)隣国日本は良心を覚ませ 立場を変えて考えれば涙が出ることだ

2(苦痛)日本の地を全部与えるとしても 解放されて65年、悔しさが限りない

3(清算)被害者が生きるとして、どれくらい生きるだろうね 我々が死ぬ前に過去を清算しろ

4(記憶)我々が強要に勝てなかった そのことを歴史に残しておかなければならない

5(平和)正義が勝つという真理を信じろ 韓日問題が解決されるなら共存共生するだろう

文化行事の後、亡くなったハルモニたちを追悼して、献花がおこなわれ、声明書が朗読された。朗読された声明書には、日本政府による立法での公式謝罪と法的賠償や韓国政府による解決への外交推進などを要求し、平和と人権を実現させること、日本軍「慰安婦」被害者への名誉と正義の実現に向けての活動をすすめていくなどが謳われている。

最後に、「絶望に屈せず、試練の中に自信を呼び戻し、来る解放世界の礎になる、岩のように生きよう」という詞で終わる「岩のように」を共に歌い、集会を終えた。    (竹)