重慶爆撃被害者・劉吉英さんの証言
2011年6月3日、浜松市内で「重慶大爆撃の被害者と連帯する会」の主催で劉吉英さんの証言集会がもたれ,20人ほどが参加した。劉吉英さんとともに劉さんを介護して重慶からきた劉鳳蘭さんも母親の爆撃被害について話した。以下、劉吉英さんの証言をまとめる。
わたしは重慶中心部から300キロほどの万県で育ちました。生まれたのは1932年2月で、現在79歳です。わたしが日本軍の空襲にあったのは1941年8月31日です。当時9歳でした。父は木船での運送業を営み、100トンほどの船で重慶から宜昌市や沙市に綿糸や塩・米などを運搬していました。日本軍が重慶を爆撃するようになると、父は木船にわたしたち姉妹を避難させ、わたしたちは船の上で暮らすようになりました。そのため、小学校に行くことができなくなりました。1941年2月には結婚していた上の姉に双子の娘が生まれ、上の姉一家に船に乗って姪をあやすこともありました。
1941年8月15日、父は万県の中心部の港に船をつけ、税の支払いに行く途中で、日本軍の爆撃にあいました。父の腿と尻に爆弾の破片が突き刺さり、父は万県の赤十字病院に入院することになりました。わたしは何度か、お見舞いに行きました。
8月31日、姉とお見舞いに行くため、渡し船を降りて階段を上がった時に、空襲の警報を聞きました。皆と逃げ、広場のような場所に着いたときに、日本軍が街中にたくさんの爆弾を投下しました。ものすごい音が聞こえ、まっくろい煙がたちのぼり、周囲からは鳴き声や叫び声が聞こえてきました。自分の足に触れた手が、ぬるぬると暖かいものを感じて、目をやると、左足のひざが血まみれになっていました。爆弾で肉が割け、白い骨の部分が露出していました。わたしは痛さと疲れで立っていることができず、地面に倒れ、そして意識を失いました。わたしは赤十字病院に運ばれ、父がわたしを発見しました。下の姉が看護してくれ、私は爆撃から6日後に奇跡的に生き返りました。
わたしは万県郊外の洞窟を利用した病院に移されましたが、左ひざの痛みはとても痛く苦しいものでした。十分な治療も受けることはできず、2カ月ほどたつと、退院させられることになりました。
このように日本軍の爆撃は父に重傷を負わせ、わたし自身も左ひざに重傷を負いました。万県への爆撃によって父の仕事の船も全壊し、わが家は全財産を失いました。姉の双子の姪の命も奪われました。日本軍の爆撃はわたしたちの運命を完全に変えたのです。
わたしは今もうまく歩くことができません。当初、左足の膝の部分は曲がったままで、伸ばすことができ無い状態でした。わたしは自分に劣等感を持ち、人生に見込みがないように思うようになりました。就職を申し込んでも、何度も採用を断られました。発作的に自殺しようとして長江に飛び込んだこともありましたが、救け出されました。
30歳のころ、左足の膝が激しく痛んだため、レントゲンを撮ったのですが、爆弾の破片が残っていることがわかりました。破片の摘出と左膝を伸ばした状態にするための手術を受けました。しかし、今度は膝を曲げることができなくなり、その不便さはかわりません。また、右足で自分の体重を抱えてきたため、右足のひざとくるぶしが骨増殖症になりました。結婚できたのは31歳の時でした。二人の子どもが生まれましたが、左足が不自由なため、妊娠はとても辛いものでした。いまでは2人の孫がいますが、その孫の顔をみると、姉の双子を失った父の悔しさを思います。
日本軍の爆撃で、わたしはわずか9歳で左足の膝に大きなけがを負い、心にも深い傷を受けました。しかし、日本政府は爆撃の被害者に謝罪していません。
わたしは重慶市に住む劉鳳蘭さんの介護で来日しました。かの女の母である張開俊さんは1940年5月30日の重慶爆撃で左腕を肩の付け根から失っています。かの女は原告ではありませんが、裁判の原告以外にもおびただしい数の被害者がいるのです。無数の中国人が言語の絶する大きな苦しみを味わってきたのです。わたしは、日本の裁判所がこの重慶爆撃の加害と被害の事実を認め、日本が被害者に謝罪と賠償を命じることを求めています。このような爆撃被害者の心の痛みを癒すことが、中日友好につながると思います。
(以上は、浜松集会での証言に、劉さんの2011年6月1日付の東京地方裁判所への意見陳述書から補足を加えたものである。)
陸軍の浜松基地から中国に派兵され、中国各地を爆撃した陸軍飛行第60戦隊は重慶爆撃にも参加している。劉さんが被爆した1941年8月31日には飛行第60戦隊も重慶攻撃をおこなっている。浜松から派兵された部隊による無差別爆撃という戦争犯罪についても調査が求められる。
なお、この集会で主催した弁護士が、浜松から「渡洋爆撃」があったと解説したが、それは間違いである。また、集会で補足資料として浜松からの航空部隊の派兵に関する記事を配布したが、参考文献や引用文献などの提示も必要だろう。
(竹)