浜岡原発の停止から全原発の廃炉へ 

      

 ○政府要請による浜岡原発の停止

2011年3月11日の東日本での大地震・津波とそれによる福島原発の事故から約2カ月後の5月6日、政府は浜岡原発の停止を中部電力に要請した。それにより中部電力は5月9日に停止要請を受け入れ、浜岡原発4号機・5号機は14日までに停止した。しかし、中部電力は5月14日に新聞に「津波に対する安全対策の強化に取り組み浜岡原子力発電所の運転再開を目指してまいります」という全面広告を掲載した。

すでに1号機は2001年末の非常用炉心冷却系配管ECCSの水素爆発による破断事故と圧力容器からの水漏れによって動かせなくなり、2号機もECCSからの水漏れなどが続き、2004年から止まったままだった。市民による浜岡原発震災裁判と廃炉要求のなかで、中電は2008年末には1・2号機を廃炉とせざるをえなかった。3号機は2010年11月から定期点検中であるが、福島原発事故が起き、市民による不安の声が高まる中で動かすことができないままである。そこに今回の停止要請となったわけである。

○浜岡での原発建設と運転差し止め訴訟

中部電力が浜岡での原発建設を申し入れたのは1967年9月のことである。それ以来、40年余の歳月が流れた。原発の建設は反対する農民や漁民を札束で殴りつけ、地域に交付金をばらまくというものだった。原発建設とそれに伴う形式的なヒヤリングに反対する労働者の隊列は警察機動隊の盾で排除され、原発に反対する市民運動関係者への姑息な排撃も繰り返された。無理を「安全」と謳うことでウソが重ねられた。たとえば、電気事業連合会の出すパンフレット類には、放射能はあっても大丈夫、放射能をうけても子どもへの遺伝障害は見られない。原発で働く人のがん死率は一般人と同じ、事故時には迅速に対応するなどのウソがいくつも記されてきた。

2001年の1号機の事故以後、静岡県内の市民グループは団結し、原発震災を想定して2002年には運転差し止めの仮処分申し立て、2003年には1号機から4号機の運転差し止めを提訴した。しかし、中電は2005年に5号機の運転を開始し、2007年7月には国が浜岡4号機でのプルサーマルの計画を許可した。2009年5月には浜岡にMOX燃料が搬入されたが、使用には至っていない。

2007年10月には、静岡地裁で浜岡の運転差し止め訴訟の判決が出されたが、市民側の敗訴だった。これに対し市民は控訴し、現在、訴訟は東京高裁で争われているが、そこに今回の福島原発震災がおきた。福島原発震災では、浜岡原発で想定されてきた事故が実際に起きてしまったのである。今回の事故は、浜岡周辺の自治体と住民の意識に大きな変化をもたらし、浜岡原発の停止と廃炉を当然とする声も強まっている。湖西市長のように反対を語る市長も現れ、市民の声に押されて廃炉を語る市議も目立つようになった。

○3.11後の静岡の動き

3.11から約1カ月後の4月16日、静岡市内で浜岡原発を考える市民ネットなどが共催して広瀬隆講演会を持った。そこには600人が参加し、同日、静岡でもたれた小出裕章講演会にも500人が参加した。広瀬さんは集会で「中電は浜岡の砂丘が原発を守り、さらに12メートルもの防水壁を作るというが、それでは守れない。取水トンネルは破壊され、取水槽の水は熱湯になってしまうだろう。直下型地震が来れば、浜岡原発はすぐに破局をむかえる。必要なものは電力ではなく、命である。今すぐに浜岡原発は止めるべきだ。」と強く訴えた。

4月24日には静岡市内で原発を問う「菜の花パレード」がもたれた。20〜30代の若者たちによるグループの呼びかけに、1000人ほどの市民が参集し、「世界一危険な浜岡原発を止めよう!」「静岡が危ない」「原発なしでも音楽は聴ける」「人災」「子どもたちを殺すな!」「想定外はもうゴメン!」と街を歩いた。5月7日には浜松市内で「アレクセイと泉」の上映会が持たれ、400人ほどの人々が参加した。5月8日には名古屋で、「脱原発×STOP浜岡」主催の集会とデモがとりくまれた。デモには1000人が参加し、中電前で浜岡原発の停止を訴えた。このような動きのなかで、5月6日の政府による中電への浜岡原発の停止要請はなされたのである。

5月19日にはドイツの緑の党の原子力・環境政策担当のジルヴィア・コッティング・ウールさんが浜岡を視察し、静岡市内で交流会をもった。その際、コッティングさんは「浜岡原発は3つのプレートが集まる場所にあり、さらに狭い敷地に5基もある。これは無責任であり、中電は住民の安全を考えていない」と浜岡の問題点を指摘した。

5月21日には、浜岡原発から30キロ圏にあたる袋井市でいわき市議の佐藤和良さんの「福島原発30キロ圏からの報告」会が持たれ、400人が参加した。佐藤さんは福島の住民が「原発棄民」とされ、原子力発電をすすめてきた「犯人」たちがTVに出続け、いまだに反省せず、「降伏文書にも調印していない」という実態を語った。そして、住民へのホールボディカウンターによる内部被曝調査の要求、保護者の上京による子どもの20ミリシーベルトの安全基準の見直しを求めての文科省交渉の動き、風評被害というよりも放射能による実害の深刻さ、今後の海洋汚染の問題などを指摘した。

○6.11脱原発 浜松での行動

浜松では4月・5月と「福島原発事故の真相」をテーマに2回の学習会をとりくんできた。5月の河田昌東講演会はチェルノブイリ支援の体験を踏まえた放射能汚染をテーマとしたものであり、好評だった。この学習をふまえ、市民による反原発・脱原発の表現の場を設定することをめざし、2011年6月11日の脱原発全国行動にあわせて「浜岡原発の廃炉」を第1課題とし、「浜岡原発を廃炉へ!やめまい原発!浜松ウオーク」に取り組んだ。

6月11日の「やめまい原発!浜松ウオーク」には200人ほどが参加した。1945年の浜松空襲で生き残った浜松市民の木の前の集会では、追悼のための沈黙の時、スピーチ、ベリーダンス、オカリナ演奏、歌、詩の朗読などがおこなわれた。ウオークでは「国策被曝」「エネルギーシフト」「しあわせはちっちゃくていいの」「みんな誰かを愛してる」など、さまざまな思いのプラカードが示された。参加者は「原発やめまい、命が大事」「原発反対、浜岡廃炉」「原発いらない、電気はあるよ、放射能は怖い、子どもが危ない、命が一番」などとさまざまなコールを繰り返して、街中を歩いた。中部電力浜松支店前では、「中電は浜岡原発を廃炉にしろ」と力強くシュプレヒコールをあげた。

6.11は全国各地で集会とデモが取り組まれ、百から万単位の集まりがあった。「これだけ放射能が出されているのに安全なんて嘘」「この地震の国に原発は無理」「原発止めて、日本の人を救ってくれ」「自然エネルギーを」などといった声が全国各地で叫ばれている。

各地域で、反原発・脱原発の声をあげる場をつくり、さまざまな出会いを積み上げ、新たな社会へと練り上げていくことが求められる。 (T)