済州島の旅2011
2011年8月、済州島を訪問した。今回の調査の課題は、旧日本軍の戦争遺跡、済州4・3抗争の遺跡、現在の江汀の海軍基地建設の状況などである。旧日本軍の戦争遺跡の見学の後、西帰浦で市民グループのアジア共同行動の訪問団に合流して江汀の海軍基地建設の現地を歩き、さらに、4・3抗争関係の遺跡を見学した。
韓国の南方にある済州島は東西73キロ、南北41キロメートルほどの島である。2006年には済州特別自治道となり、外交・国防を除いた中央事務が段階的に委譲され、国際自由都市として積極的に投資を誘致するようになった。
済州島は島の中央にある漢拏山の噴火によって生まれた。この島は火山島であり、海岸の岩には、噴火の跡を示すたくさんの小さな穴があいているものもある。2007年に漢拏山の天然保護区や溶岩洞窟群などは世界自然遺産に登録された。この島の石造の守護神をトルハルバンという。島の神話をポンプリといい、済州のグッは1万8千の神々の話を伝えるという。石造物の表情は豊かであり、島人の心根を示すものであるが、この島は繰り返し侵攻された歴史を持つ。
とくに、現代史では、日本の支配による戦争の拠点化と抗日運動、アジア太平洋戦争下での地下要塞化と民衆動員、分断と4・3抗争による3万人という虐殺の歴史があり、特にこの4・3抗争での過去の清算という歴史的体験を経るなかで、現在では「平和の島」として宣伝されている。
1済州島の抵抗史跡と戦争史跡
済州島の北東部の朝天は抗日運動が盛んだった地域である。この朝天には、いまでは「万歳の丘聖域化公園」が置かれ、公園内には抗日記念館や3・1独立運動記念塔、愛国先烈追慕塔、独立烈士碑などがある。
抗日記念館の1階には、安重根の書の複製をはじめ、抗日運動の年表、1918年の中文の法井寺抗日運動のジオラマなどが展示され、2階には朝天の3・1運動での判決文、朝天の3・1運動や拷問場面、海女の抗日運動などのジオラマがあり、白応善の墓や青年・農民などの運動を示すパネルなどがある。趙鳳鎬の獄死や1934年に農民組合運動で62人が検挙されたことなどが具体的に示され、済州島の軍事基地化を示すパネルも展示されている。朝天はこのように抗日意識の高い地域であり、解放後は人民委員会が設立され、活発な活動が展開された。
公園内の独立烈士碑には5つの墓碑が並べられている。そのうちの一つは「獄死夫生鐘墓」と刻まれている。墓碑の裏には、抗日運動に参加し木浦の刑務所に入れられて亡くなったことなどが詳細に刻まれている。遺族が「獄死」と大きく刻んだことは、圧政への怒りとそれに抵抗する精神の継承を物語る。
3・1独立運動記念塔は1991年に建てられた。そこには「日帝の暴政」と刻まれているが、建設の時期から自国の民主化運動につながる想いも感じる。愛国先烈塔も同様である。この二つの塔は、済州4・3抗争犠牲者の復権にむけての想いにつながるものである。このような想いを基礎に、済州島では「暴徒」とされ、歴史から抹殺されてきた4・3抗争参加者を復権し、殺された人々の遺体を発掘するという作業が、20世紀末から21世紀初めにかけておこなわれた。
済州島は日本の大陸侵略の拠点とされ、南東部の海軍航空基地からは南京への爆撃もおこなわれた。アジア太平洋戦争末期には、済州島は沖縄戦に続く戦闘地域として想定され、米軍の上陸を前提に島全体の要塞化がすすめられた。壕掘削のために多数の朝鮮人兵士や住民が強制動員された。
戦争末期の日本軍の配置と陣地構築と状況をみておけば、1945年7月には島中央部の漢拏山北東の御乗生岳(オスンセンアク)に58軍司令部がおかれ、拒文岳(コムンオルム)に108師団、三義譲岳に96師団、パリオルムに121師団、タンオルムに111師団の司令部がおかれた。済州島の日本軍は7万人にも及んだ。司令部の周辺には各部隊が陣地を構築した。その最前線として、島南西部の海軍済州航空基地(アルトル飛行場)や慕瑟浦(モスルポ)の軍港を中心にした松岳山周辺での陣地構築がすすめられ、海岸には特攻艇震洋の壕が掘削された。このような海軍の特攻用基地の壕は、他に日出峰、犀牛峰、三梅峰、水月浦などにも掘られた。陸軍の飛行場は済州や朝天にあった。現在の済州国際空港は陸軍の済州西飛行場が拡張されたものである。この陸軍済州西飛行場の完成は1944年5月のことだった。
このように済州島は、戦争末期には米軍の上陸を想定しての地下陣地構築による要塞化がすすめられたわけである。この要塞建設のために日本陸軍は朝鮮人兵士による建設部隊を編成した。その部隊に第1特設勤務隊があり、1中隊660人の計10中隊分の6600人が投入された。これ以外にも多くの朝鮮人兵士が動員されている。また、海軍は鎮海施設部から2000人という建設部隊を派遣した。
平和博物館のあるカマオルムには、第111師団の歩兵第243連隊司令部がおかれた。この連隊は住民を強制動員して陣地壕を掘り進んだ。平和博物館を運営する李英根さんの父李ソンチャンさんも動員された。平和博物館ではこの壕の一部を公開している。地下壕内には人形もおかれ、当時の風景が再現されている。この平和博物館は2004年に設立され、壕の保存・公開とともに、日本軍支配期と朝鮮戦争期の兵器や遺品の展示をおこなっている。日本支配時の革の手錠なども展示されている。平和博物館が作成した館の紹介映像があり、そこでは、戦争に勝ちも負けもない、ただ兵士や住民の死、人間の死があるだけだ、今も戦争は続いているが、平和に向けて何ができるのか考えよう、と呼びかける。
訪問者がさまざまな想いを横断幕に書き込んでいく。博物館で出会った李英根さんは、日本と韓国と中国との友好を語った。
平和博物館から10キロほど南にある海軍航空基地(アルトル飛行場)跡地には針金の日本軍機の模型がおかれ、その周辺には10数個の飛行機用掩体壕が残されている。この飛行場は1930年代に拡張をかさね、中国侵略の拠点として運用され、戦争末期には対米戦の前線基地としても整備された。近くのソダルオルムには高角砲がおかれ、地下壕も掘削されている。さらに松岳山の海岸に沿って特攻艇震洋のための壕も掘られた。「長琴の誓い」の看板の彼方には14本ほどの壕が現存している。
広大な飛行場跡地は今では農耕用に開拓されている。その中に掩体壕が散在し、ここに日本軍の飛行場があったことを物語る。軍事基地の拡張や地下施設工事は朝鮮住民の強制労働をともなった。また、この飛行場の地下弾薬庫では、解放後の分断に抵抗した人々が朝鮮戦争のなかで殺された。ここは分断への抵抗と虐殺を物語る場でもある。
これらの歴史の現場は、平和に向けてどのような表現を創造していくのかを問いかけているように思う。
2済州島4・3抗争
8・15解放にともない、朝鮮各地に人民委員会が設立されて自治活動が展開され、朝鮮人民共和国の建設がすすめられた。しかし米ソ対立の下で、朝鮮は南北に分断されていく。済州島でも抗日運動が盛んであった地域では自治精神が継承されていたから、解放にともない人民委員会の組織活動も盛んになった。その活動はアメリカ軍政とその意を受けた軍警との対立を生み、分断と弾圧の強化のなかで、武装蜂起をともなう人民抗争にすすんでいった。済州島でのこの動きを済州4・3抗争という。
この抗争での島人の死者は3万人とも、5万人ともいわれる。抗争参加者は共産主義者の暴動への参加者(「暴徒」)とされた。住民が抗争での死者を追悼する碑を建てれば破壊され、この事件についての表現の自由は制限された。4・3抗争参加者の名誉回復は、1999年12月の済州4・3事件真相糾明および犠牲者名誉回復に関する特別法によってなされることになった。しかし、抗争参加者のすべての名誉が回復されたわけではない。
特別法制定後、済州市明林路には済州4・3平和公園が建設され、4・3平和記念館と追悼施設が置かれた。
4・3記念館の展示は、横たわった白い無刻の碑からはじまる。統一後に4・3の犠牲者が刻まれるという。それは済州4・3抗争が分断統治に反対する意思表示であり、朝鮮の統一によって彼らの想いが実現するということを示す。さらに展示は、解放と挫折、武装蜂起、大虐殺、真相糾明の順に、芸術表現を組み込ませながらすすむ。
展示のなかに、朝鮮人民共和国済州人民委員会の印鑑がある。米ソの介入がなければ、朝鮮人民による共和国建設がすすんだはずである。この共和国建設の動きを、朝鮮南部を支配した米軍政は日本支配下の警察組織を利用して弾圧する。1947年3月1日、済州での3・1運動を記念する行動に警察は発砲、3月10日には済州でゼネラルストライキが起こされた。米軍は済州島を島民70%が左翼の「レッドアイランド」とみなし、島に軍警や右派組織の西北青年団を派遣し、島民の活動を弾圧した。
展示には留置場のジオラマがあり、4・3までに2500人が検束されたことや拷問で殺害された例も示されている。この動きに抗して、1948年4月3日、済州島の南朝鮮労働党組織は武装蜂起する。済州島の軍と蜂起部隊とで4・28の和平交渉がなされたが、軍政・警察は5月5日に軍の連隊長を更迭し、吾羅里放火事件を仕組み、内戦をあおった。済州島での1948年5月10日の選挙は分断に反対する民衆が、投票をボイコットしたために過半数に達しなかった。そのため済州島からの国会議員は空席となった。
1948年8月に大韓民国が成立すると、韓国政府は米軍の指揮のもとで済州島での鎮圧作戦をはじめる。11月には戒厳令を布告し、中山間村での焦土化作戦をおこなう。この時に多くの島人が、武装隊に協力したという理由で虐殺された。1949年5月には再度選挙がおこなわれ、議員が選出された。
1950年6月に朝鮮戦争が起こされると、島内でも予備検束がおこなわれた。検束後に集団で虐殺され、朝鮮半島各地の刑務所に収監されていた抗争関係者も集団で虐殺された。1954年9月になって漢拏山の禁足区域が開放されたが、内戦は7年7カ月続いたことになる。展示には、夫到良ほか267人の引き渡し記録、軍法会議による死刑判決の記事などもあり、多くの人々が連行されていったことがわかる。
新たに指揮官となったハムビョンソンが元日本軍志願兵出身であり、彼が殺害を指揮し続けたことや戦略村が設定されたことなどの解説を聞くと、旧日本軍が間島やシンガポール、中国の抗日地域で繰り広げた抗日軍への殺戮作戦が、場所を変えてこの済州島で展開されたように思われる。米軍指揮下で日本統治機構が再利用され、反共意識を利用して、民衆殺戮が展開されたといっていいのだろう。
展示では、1992年に発掘されたダランシ村の洞窟現場が再現されている。この洞窟では1948年2月18日に11人の民間人が討伐隊の攻撃によって窒息死した現場である。発掘当時の白骨が再現され、当時の避難状況と44年間の抑圧の歴史が示される。
4・3抗争の真相糾明の動きは、1960年の4・19学生革命によって李承晩政権が倒されたときにはじまろうとするが、朴正煕のクーデタによってその芽は摘まれた。真相究明はそれから20年後の1980年代の民主化運動の高まりを受けておこなわれ、1999年の4・3特別法の制定となった。その後、2003年の盧武鉉の公式謝罪を経て、済州島は「平和の島」とされた。
展示では「平和と和解への夢」「歴史的信頼の回復」などが提起され、見学者が平和への想いを記した札を記していく。
展示館の周辺は追悼のための公園となっていて、中央の慰霊塔には亡くなった人々の名前が村ごとに記されている。その奥には位牌奉安所があり、ここにも死者の位牌が並べられている。現時点で判明している13887人分の名前が記されている。地域的には北部の済州で9164人、南部の西帰浦の4659人、その他64人である。いまだに名前も不明のままの人々が判明者の倍以上いるとみられる。
位牌奉安所の奥の公園には行方不明者の墓標が並んでいる。多くが移送された各地の刑務所で虐殺された人々である。地区別に分かれ、墓石の表には名前、裏側には地名、生年や死亡年などが刻まれている。中央には「行方不明犠牲者慰霊塔」があり、死体も骨もなき者たちをここに祀ったことが記されている。碑の建立は2009年10月27日と新しい。
碑の周りには、獄中からの手紙の一節を刻んだ柱が置かれている。「牛と馬を、責任を持って育てておくれ」「体調が悪いから、薬を送ってほしい」「島全体が監獄だ」など、親族などに送った文章の一節が記されている。個別の墓碑の裏には大田刑務所などの文字もあり、刑務所に送られ、殺害されたことがわかる。
4・3記念館と追悼の公園は、過去の清算の運動によって建設された。その清算は終わってはいないが、清算への方向性は示されている。その動きを後に戻すことはできないだろう。館は4・3事件の本を発行している。そこには展示に関する詳しいデータも含まれていた。また、パンフレットには済州島の4・3関係遺跡の地図も収録されていた。
その地図を頼りに、いくつかの遺跡を訪れることにした。
北村には北村里ノブンスンイ4・3記念館がある。ここでは500人近くが殺されている。北村は朝天邑の西方にある村であり、抗日運動が盛んな地域であった。解放後はその力は人民委員会の運動に引き継がれていった。記念館内には犠牲者の名前や虐殺事件の経過や周辺の遺跡の案内が展示されている。
案内文によれば、1947年8月にはビラ張り中の住民に警察が発砲し、3人が負傷する事件が起きた。1948年4月には武装隊が北村里の選挙管理委員会事務所を襲撃、6月には警察官二人が殺された。これに対して軍は12月16日に北村近くのネンシビルレで24人の民保団員を殺した。1949年1月17日には、北村里で300人の大虐殺がおこなわれた。きっかけは朝、細花里に駐屯していた第2連隊第3大隊の兵力の一部が大隊本部のあった咸徳里に向かう途中に、ノブンスンイで武装隊の攻撃を受け、2人の軍人が死亡したことによる。それにより、軍は北村の住民を小学校の運動場に集め、村の家屋400余に火を放った。そして、軍は軍警の家族以外をノブンスンイ、堂パ、テッチルなどで殺しはじめた。このとき、350人ほどが殺された。さらに翌日、咸徳里に行くように命令された住民の100人ほどが殺された。1954年1月13日には朝鮮戦争の戦死者の告別式がおこなわれたが、その際、人々は4・3事件の無念の死者を想起して泣いた。警察はそれを知り、その後の集団行動を禁止した。
この北村での虐殺事件は、公然と語ることを禁止されてきたのだった。1978年に北村里の事件を題材に「順伊おばさん」を記した作家の玄基栄は拘留され、拷問されている。
今では、記念館の近くに追悼碑が建てられ、真相を通して本当の平和を学び、戦争に反対するという趣旨が記されている。また、犠牲者の名前を刻んだ碑も建てられている。順伊おばさんの碑もあり、強要された忘却と闘うこと、失われた記憶を呼び起こし、歴史とともに歩むことなどが記されている。
虐殺のあったネンシビルレ、堂パ、ノブンスンイなどの場所は保存され、海岸近くの軍の弾丸跡を残す塔明台、武装隊侵入防衛を口実に積まれた石垣なども残されている。海岸から西の犀牛峰は日本軍が住民を強制動員して特攻基地建設をおこなったところだが、ここでも4・3時には住民が銃殺された。
この北村の現場には、殺された者たちの多くの記憶が、形を得ることのないまま残されている。それらの記憶はここに立つ者に、これからどのような平和を作っていくのかを問いかけているように思った。
この北村から南の楽仙洞には戦略村の城壁が保存されている。村の内部には監視塔や住居、警察詰所などが復元されている。城壁には外部を見張る穴がくり抜かれていて、外側には掘りも掘られていたことがわかる。
このような、人々を武装隊から分離し監視する戦略村をみて、かつて日本軍が「満州」や中国の侵攻地に設定した戦略村が、この済州島に現れたような印象をもった。8.15解放から数年、米軍指揮下の軍政と親日警察組織の反共による結合は、この済州島に戦略村を出現させたのだった。今では学習用に復元され、外側を歩く道もつくられているが、この戦略村の遺構は、この戦略村の存在をどれくらい自覚していたのかを問うものであり、今後の歴史への考察を問うものだった。
集団虐殺の現場であり、その後遺体の発掘がおこなわれた場所としては、アルトル飛行場跡地の弾薬庫にある「百祖一孫の墓」がある。ここにあった地下弾薬庫で1950年7月16日に住民が虐殺され、爆破されて埋められた。遺体が発掘されたときの状態を示す穴が2か所残されている。その穴の周辺には追慕の道が整備されている。この発掘現場の前には「百祖鎮魂の碑」がある。この碑は2007年12月に建てられたものである。以前は住民が建てた碑を警察が破壊したという。現在では碑に名前がわかっている人々が刻まれている。李相順17歳、趙亨培18歳など、若い人々も多い。
発掘された穴の横には、爆発でねじ曲がった鉄筋を含んだコンクリートの塊が鉄筋を弾かせるように転がっていた。その残骸は、軋んだ唸り声をあげるようだった。
西帰浦には正房の滝があり、観光地になっている。滝の水が海に流れ落ち、霧となる。そこに太陽の光が差し込み、虹色に輝く。ここは磯の香りと水しぶきの交わる安らぎの場であるが、この場所も集団処刑の場という。滝は何もなかったかのように、流れ落ちている。
他には、民衆が集まった観徳亭広場、収容所とされた第2埠頭近くの工場跡、破壊された坤之洞跡地の碑など遺跡を訪れた。記録されていることがらは少ないけれども、その現場の記憶から学んでいくことがらは多い。
3 江汀村・海軍基地建設反対の闘い
江汀は済州島南部の西帰浦市にある人口1900人ほどの村である。海に面したこの村には、クロムビと呼ばれる岩浜がある。それは火山岩が海波にうたれることで、さまざまな形状の平面を呈するようになったものであり、海波による芸術である。黒い岩が座布団を敷き詰めたように浜を占め、地下水が湧きでる箇所もある。岩は岩礁となって沖に広がり、魚介類の住処となる。サンゴも群生している。
クロムビの名はクロムビナン(浜枇杷)に由来するという。岩浜は人々の祈りの場でもあり、火山島・済州島を象徴する場でもある。この浜の横を江汀川が流れる。この川はこの地での稲作の水源となった。波で造形され、ひしめくように並ぶクロムビの岩は、江汀の住民にとって村の共同性を象徴するものである。
韓国政府はこのクロムビを埋め立てての海軍基地の建設をすすめている。済州での基地建設計画は韓国での駆逐艦建造計画がすすむ中で提示されたが、基地対象地とされたファスンでは反対の運動が高まった。韓国がイージス艦の建造をはじめるなかで、ウィミが基地対象地とされたが、ここでも反対の声があがった。
そのため、江汀での建設が画策され、2007年4月に村の総会が80人ほどでもたれ、拍手で誘致を決定した。しかし、海軍基地反対対策委員会が結成され、8月には住民投票がもたれ、725人の投票者のうち680人が反対した。圧倒的多数が反対の意思表示をしたのである。
住民は絶対保全地域変更処分の無効や軍事施設実施計画承認処分の無効などを訴えたが、敗訴、2010年末からは工事が始まった。2011年3月ころから住民は体を張って抵抗した。これに対し、海軍側は工事妨害行為禁止の仮処分を申請、業者の一部は抵抗する住民に対して損害賠償を請求した。
このように、ここでは基地建設をめぐって江汀住民・市民団体と政府・海軍とが攻防を繰り広げてきた。すでに工事区域の多くが白い鉄板で区切られ、建設工事がすすめられてはいるが、海岸の埋めたて工事には至っていない。軍港はイージス艦を配備するものであるが、クルーズ船も停泊できる「軍民共用港」と宣伝され、2014年の開港とされている。しかし、現在の工事の進捗率は14%ほどという。
この海軍軍港建設に対しては、韓米同盟下、米軍が利用できるものであり、米軍の戦略に沿ったもの、中国を敵とするものであること、米軍のミサイル防衛に組み込まれていること、航空母艦も入港し、空軍基地もできるだろう、済州は軍事拠点となる、済州島を「平和の島」ではなく「軍事の島」とするもの、などといった批判がある。
中徳(チュンドク)三叉路には、工事阻止のためのテント村ができている。ここは海岸への資材搬入道の入り口にあたり、住民の阻止行動の拠点である。入口には「公権力導入反対、平和的に解決せよ」の垂れ幕がかかる。住民がテントや車両で農道をふさいで、工事車両の移動を阻止している。さらにクロムビの岩浜沿いに海岸テント村があり、海岸での工事着工を監視している。岩浜沿いのテント村から出城のテントが置かれている。これは、幹線道路にある工事用車両入口から海岸に向かう工事車両の進行を阻止するためのものであり、最前線には石垣が積まれている。また、文ギュヒョン神父らは祈祷用テントを江汀川近くの工事車両用の門前などに建て、抗議活動を展開している。祈祷用テントは攻防のなかで各所に移動してきた。
中徳三叉路などの拠点で話を聞いた。
民主労働党済州島支部委員長で元国会議員のヒョンエジャさんはいう。済州での基地建設の動きは2002年からあり、10年ほどになる。ここ江汀での闘いは4年目になる。建設には住民の同意が必要だが、右派の80人ほどで決定してしまった。それに抗して、海軍基地反対対策委員会を作り、反対してきた。今建設に向けて積極的な動きが出てきた。反対する住民はそれに対抗して座り込んでいる。
江汀村対策委員長の高イルサンは、おととい連行された村長が、今日業務妨害の容疑で拘束された。李明博政権は国民を無視する最悪の権力だ。我々は最後まで闘う、と語る。
文ギュヒョン神父はいう。「6人が連行され、わたしは昨日釈放された。血と涙の闘いが続いている。今日から再び決死の闘いを始める。意識は高い。人々の結集を呼び掛ける」と。
文ギュヒョン神父は、搬入口に祈祷用のテントを再び設置し、そこに座り込み、墨で字を書き始めた。その後方をみると、住民がふたたびテントを張り始めている。この日、8月26日の夜にはここでろうそく集会がもたれ、50人ほどが参加した。集会では人々が発言し、手を携えて歌をうたい、海軍基地反対をコールした。
8月27日には、アジア共同行動、民主労総済州島本部、軍事基地汎対策が主催する国際フォーラムが江汀でもたれた。フォーラムでは東アジア情勢と軍事基地問題、新自由主義と非正規問題などが討論された。
江汀についてみれば、江汀住民対策委員会のホンギリョンさんはつぎのように語った。
政府のやり方が村民の分裂をもたらした。責任は政府にある。2011年3月から公権力が介入し、公務執行妨害で住民が逮捕され、あるものは暴力を受けた。たくさんの警察が村に駐屯するようになり、恐怖の雰囲気がつくりだされた。建設をすすめる軍事主義者は「最小限の軍事力が必要、韓半島が危険になるから」という。しかし、最小限の防衛力の概念に問題があり、敵の武力の倍以上の力がないと防衛力とは言えなくなる。果てしない軍拡がすすめられ、済州島は軍事要塞になる。南方の海上での紛争が起きると海軍が防衛するというが、海上警察庁で充分だ。海軍が出動すると戦争になるから、有事にならないようにすることが大切である。海軍基地建設が沖縄をはじめアジア各地で問題となっているが、島々の民衆の連帯によるネットワークが必要だ、と。
平和と統一をめざす人々の現地対策委員会の金ジョンイルさんはつぎのようにいう。
金泳三時代の冷戦が終わるころに海軍基地建設計画が出され、1992年に新しい敵として中国が想定された。アメリカは韓米同盟中心から東北アジアの地域同盟の方向に変換し、それにより海軍基地政策も変化した。済州島での基地建設推進の歴史は20年あり、本格化したのは李明博政権からである。かれは暴力を使いながら、建設をすすめてきた。米軍は兵力・装備・基地などの自由な移動による「戦略的な柔軟性」を掲げるが、江汀はその3つを保障する海軍基地になる。基地ができると情勢が変わる。背後にアメリカの基地建設要求があり、1953年の韓米相互防衛条約では米軍は韓国内の基地を自由に使えることになっている。新たな海軍基地は、韓米の同盟を侵略的な同盟にかえ、日米韓の三国軍事同盟につながる。また、MDシステムの基地となり、航空母艦も入港出来るようになり、海軍基地だけではなく空軍基地まで入るようになるだろう。この基地は中国に対抗するものであるが、済州島は観光収入が主であり、中国人観光客が80%を占めているから、島の観光業を危なくするものでもある。海軍基地と平和の島は共存できない。この基地は東北アジアの平和には寄与しない、と。
中徳三叉路入口には、公権力導入は野蛮な国家暴力、アメリカ帝国主義の対中国海軍基地決死反対、江汀村海軍基地決死反対などの横断幕が並ぶ。宗教団体、労働団体、農民組合、政党など様々な団体の幕が周辺に掲げられている。中徳三叉路近くには収用批判の絵があり、そこには、「警告、この地域は海軍が不法に占領した地域であり、無断侵入したら区別なく発砲する、1818部隊長」とパロディが記されている。中徳三叉路から海岸に向かう農道には、江汀の自然と世界平和はわれらの良心、江汀の海軍基地はイヤだ!李明博政権はイヤだ!、語らぬクロンビ!江汀に正義と平和を!などの幕が張られていた。
工事車両入口から中徳三叉路に向かう道の鉄板には「大韓民国の海賊の財産」と記されていた。それは海軍を「海賊」と表示し、接収に抗議の意思を示すものだった。海外沿いのテントのなかには、海軍基地反対を求める人々の札が飾られている。そのテントの周辺にはさまざまなオブジェが展示されている。たとえば、くりぬかれた軍艦のオブジェがあり、その空間からは虎島が見える。ほかには、海岸を守る立像、亀を象った平和ポスト、「防邪塔」などが並ぶ。
この江汀の闘いに注目し、全国の100余の市民団体は済州海軍基地建設阻止のための全国対策会議を結成し、2011年8月27日から9月4日にかけての集中訪問週間を設定した。この動きの中で、海軍の工事妨害の禁止を求める仮処分申請の裁定が8月29日に出された。それは、工事車両の侵入阻止のための出入口の占拠、工事車両の妨害、施設設置への妨害などに対し、1回あたり200万ウォン(14万円)の罰金を科すというものであった。それは住民の体を張っての抵抗を違法行為とするものだった。
この裁定を受け、9月2日未明、警察部隊は中徳三叉路を封鎖し、フェンスを張るという動きにでた。住民は「住民の胸に杭を打つな」「胸に流れる血の涙を感じろ」「村を愛することが罪なのか」「クロムビ岩を歩き、座り、寝ころんでみろ、そこから見える風景を感じろ」「クロンビ岩にコンクリートを打ち込むな」などと激しく抗議した(その後、クロムビの岩浜に重機が入って岩を砕きはじめた)。
工事建設をすすめる側は、反対する人々に「従北左派」のレッテルを張る。韓国本土から来た警察部隊は、住民を「討伐」するような形で排除する。住民は、国家暴力を肌で感じると語っている。これが国際自由都市、「平和の島」という済州島の現在である。
クロムビの岩浜に立って海の音を聞く。岩浜に向かって抵抗のオブジェが並ぶ。岩にできた池の中で貝や海虫が動き、岩間を蟹が走る。かなたに「海軍基地反対」の黄色い旗が翻る。日本軍による要塞化、分断による4・3抗争とその清算という歴史を振り返りながら、この島の平和を願う。クロムビ岩を歩き、座り、この場所で話し合うべきだろう。この地にコンクリートなどは似合わない。クロムビの岩浜に杭を打つな!という思いが人々をつないでいる。
アジア共同行動の2人は8月26日に済州空港で入国を禁止され、送還されることになった。8月28日、訪韓団と民主労総済州支部、海軍基地汎対策委員会は、空港で横断幕を広げて記者会見をもち、抗議行動を展開した。
4済州島の労働運動は今
国際フォーラムでは民主労総済州本部から済州島での労働運動の活動が報告された。ここではその報告をまとめておこう。
済州島は国際自由都市と宣伝され、2009年には600万人の観光客が誘致され、今後は1000万人の誘致が計画されている。、観光産業の発展は歓迎するが、地域の労働者の生活の質はどうか。資本が入ることにのみ関心があり、投機資本による開発で自然環境が破壊され、低賃金は改善されず、整理解雇も多くなった。新自由主義の実験場となっているのが現状だ。資本の利益は保障されるが、労働者は賃金を減らされ、整理解雇や派遣の法律も成立し、非正規職の問題は深刻である。
済州島の民主労総の活動は、当初は4つの正規職の労働組合の協議体から始まった。済州地域観光産業労働組合の結成など組織が拡大し、労働争議も増えた。しかし、資本の弾圧がはじまり、地方政府も弾圧した。観光サービスの職場での争議をみれば、中文のパシフィックランドの労働組合弾圧問題がある。パシフィック資本は職場を閉鎖し、解雇と職場封鎖、業務妨害の告発などで組合を弾圧した。長い闘争のなかで退職や組合からの離脱が増え、組合は弱くなった。パラダイスカジノ労組についてみれば、会社の過失による業務停止命令を組合のストライキによる休業にした。違法な外国人カジノ運営は放任され、ストライキの過程で4人が解雇、7人が無期停職とされ、御用組合も作られた。他にはホテル労組や植物園労組の争議がある。
済州島の中文などでは観光産業発展のために土地が奪われている。産業発展のなかで労働者の状態が良くなっているわけではない。済州島は特別自治道であるから、雇用影響評価制度を導入することができる。独自の道による労働者の権利擁護の対策も可能である。労働者の権利をこれ以上うばわせてはならない。
観光産業労働組合の経験は意義あるものだった。構造調整のなかで観光産業労働組合は多くの闘いを組織する拠点となった。観光は公共部門であるという認識をもち、非正規の観光産業労働者の組織化が求められている。職場は正規と非正規が混在するものが多い。そこでは、低賃金、不安定雇用、労働内容の悪化など、様々な問題がある。女性労働者をみれば、一日8時間労働でも給料が月100万ウォンという状態やマニュキアの色まで規制されているというケースもある。資本の分割統治をやめさせて団結し、新自由主義に対抗する地域労働者の連帯をすすめたい。社会的な連帯への具体的な政策と戦術が求められる。また、労働者階級の政治主体形成が課題である。
報告では、済州島での具体的な争議の状態の話を聞くことができた。観光の町は一見、華やかにみえるが、そこでの労働者の実態から世界は表現されるべきなのである。フォーラムでは、「小さな目標は、生き延びられる隙間を作ること、大きな目標は、社会の変革をじつげんすること」というユニオンの言葉に共感が集まった。
以上、旧日本軍の戦争遺跡、済州4・3抗争の遺跡、現在の江汀の海軍基地建設の状況、済州島での労働運動の順に済州島で学んだことについて記した。 2011.9 竹内