「アメリカ元捕虜・家族との交流会」

20101022日に「元アメリカ兵捕虜・家族との交流会」が東京で開催された。日本政府(外務省)は元アメリカ兵捕虜との「心の和解」をすすめる招請事業を昨年から始め、今回の交流会はその事業の一環として「元捕虜・家族と交流する会」の主催でもたれた。交流会は昨年につづいて第2回となる。

 日本軍はアジア太平洋地域で30万人を超える連合軍の将兵を捕虜とし、現地兵の一部は解放されたが、多くが占領地での労働を強制された。そのうち「白人」捕虜は約13万人だったが、3万数千人が死亡した。この約13万人の「白人」捕虜の内、3万人余は日本に連行され、日本国内の約130か所に収容された。

アメリカ兵についてみれば、2万7千人が捕虜となり、1万1千人が死亡した。

フィリピンのバターン死の行進では85千人のアメリカ人とフィリピン人の捕虜の強制的な移動のなかで、アメリカ人1200人、フィリピン人16千人が死亡した。泰緬鉄道建設でも多くの捕虜が死亡した。

 今回は元アメリカ兵捕虜7人が招請されたが、かれらはフィリピンのコレヒドールやミンダナオで捕虜となり、日本や満州に連行され、労働を強いられた人々である。コレヒドールでの捕虜はバターン死の行進の体験者でもある。

交流会では、元捕虜がその体験を紹介した。以下、発言と集会資料から体験を紹介する。

ロバートJフォグラ―さん(90歳)は、奉天捕虜収容所から三井神岡鉱山に連行された。フォグラ―さんは、1940年に陸軍航空隊に入隊した。航空計器の訓練を受けてフィリピン大学で工学も学んだ。1942年2月に捕虜となり、バターン死の行進の後、オドネルやカバナツアン収容所に入れられ、194210月に鳥取丸でマニラから出港し、釜山を経て、奉天捕虜収容所に送られた。奉天には1200人ほどのアメリカ人捕虜が連行された。奉天では満州工作機械(MKK)で研削の労働をさせられた。19445月には奉天から岐阜県の三井鉱山神岡鉱業所に連行された。150人の捕虜とともに亜鉛や鉛を掘る大変な労働だった。一人の看守とは友人になり、その後45年間の友情をもち、2年前に彼の長男と再会した。戦後はエンジニアとして働いた。

ラルフEグリフィスさん(88歳)は1941年に17歳で陸軍入隊し、フィリピンに送られた。19425月にコレヒドールで捕虜となり、194210月に鳥取丸で、マニラ、高雄を経由して、釜山から列車で奉天に送られた。奉天では、満州工作機械で労働した。米軍の諜報部隊がヘリからパラシュートで降りて解放、ソ連軍が来て正式に解放となった。沖縄を経由して帰国した。23歳で帰国した時の写真は笑顔だ。

ロイ・エドワード・フリースさん(88歳)は三井三池炭鉱に連行された。フリースさんは、1941年に陸軍航空隊に入隊し、フィリピンに送られ、19425月にコレヒドールで捕虜となった。19437月クライド丸で日本に送られ。大牟田の三井三池炭鉱で石炭坑夫とされ、2年間の強制労働を体験した。そこでの想いでは苦しく、憎いものであった。気を付け、右向け右の日本語は今も記憶している。強制労働を逃れるために仲間に自分の左指を砕いてもらった。懲罰房に3日間閉じ込められ、飲まず食わず、だった。173番と番号でよばれた、という。今回、大牟田を訪問したら、たくさんの報道陣に囲まれ、市民に歓迎された。そのもてなしは素晴らしいものであり、これまで抱いていた感情を覆すことができた。戦後は陸軍、空軍で仕事をした。退役後エレクトロニクス関係の仕事をし、顕微鏡写真装置の会社を立ち上げた。

ハリーコーレさん(88歳)も三井三池炭鉱に送られた。コーレさんは、ボストンの高校を卒業し、1941年に陸軍に入隊した。19425月にコレヒドールで捕虜となり、カバナツアン収容所に送られた。捕虜を一日に50人ほど埋葬することもあった。19437月に大牟田に送られ、三井三池炭鉱での労働を強制された。三池では10日間連続の労働であり、1日10時間から14時間の労働を強いられた。危険な現場で落盤も多く、けがが多かった。コーレさんも落盤に2回巻き込まれ、重傷を受け、外での仕事となった。外での作業従事中に、長崎に原爆が投下された。帰国してからはエンジニアの仕事をした。退役軍人病院の患者支援者として働き、戦争捕虜コーディネーターのボランティアの仕事もしている。

ジェームスCコーリアさん(88歳)は、富山の北海電化に連行された。コーリアさんは、バージニアで生まれ、1940年に16歳で陸軍沿岸砲兵隊に入隊した。19425月にコレヒドール攻防戦で捕虜となり、カバナツアン第3収容所送られたが、食糧は劣悪だった。1944年ころにはクラークフィールドで働かされ、その後の1944年8月に能登丸で大阪に連行され、砂利の上に一晩、寝させられた。大阪から富山の北海電化伏木工場に送られ、そこの労働を強制された。そこは「仕事たくさん、飯少し」という状態だった。朝早くから夜遅くまで働かされ、14日間働いて一日の休みが与えられた。アメリカに帰ると捕虜は「天皇の特別ゲスト」と呼ばれた。戦後は、英語やスクールカウンセリングの詩カウを取り教職にあった。教職は引退したが、捕虜の体験については複雑な気持ちのままだった。

ハロルド・バーグバウアーさん(91) 富山の北海電化に連行された。バーグバウアーさんは、イリノイの高校を卒業して1939年に陸軍航空隊に入隊した。1942年4月にミンダナオで捕虜となり、19448月に能登丸で日本に送られ、富山に連行された。高岡の北陸電化伏木工場で労働した。戦後も空軍に勤務し、1954年から57年まで航空自衛隊設立の訓練のために家族とともに再来日し、浜松と板付で働いた。そこでは電気系統の教育訓練の仕事に携わった。

オスカー・レオナードさん(92歳)は、川崎埠頭の三井倉庫や日本鋼管川崎工場、日本鉱業日立鉱山で労働を強制された。レオナードさんは、1939年にアイダホ州の陸軍の騎馬隊に入り、1940年には陸軍航空隊に入隊した。19424月にミンダナオでのゲリラ戦で捕虜となり、マライバライやビリビッドの収容所に入れられた。10月に地獄船・鳥取丸で川崎に送られ、埠頭の三井倉庫や日本鋼管川崎工場で労働を強いられた。さらに日本鉱業日立鉱山の製錬所で労働させられた。解放後、ミズーリ号の上で敗戦の署名式に立ち会った。マニラに戻った時には体重は38キロほどになっていた。戦後は薬学部に通い、薬剤師となった。

交流会では最後に、POW研究会の代表である内海愛子さんが、「交流会では若い世代と戦争体験世代がともに議論できた。今後も、「和解」というよりも対話ができるような調査活動をしていきたい。」とまとめた。

三井三池炭鉱には1700人を超える連合軍捕虜が連行され、労働を強いられた。死亡者は138人とされ、連合軍捕虜が国内では最も多く連行された場所である。また、連行された朝鮮人は1万人を超え、連行中国人も約2400人が連行され、中国人の死亡者は560人を超えている。三井三池炭鉱は多くの連行者による強制労働の地だった。その連行は政府によって計画され、実行された。

今回政府の招請で来日した元捕虜たちは「政治的な要求はしない」と語る。だからといって捕虜虐待と強制労働の歴史的な責任が免除されるわけではない。日本政府と三井資本はこのような歴史をふまえ、きちんと歴史的な責任をとるべきである。日本政府が連行朝鮮人や連行中国人を招請し、強制労働の現場で市民と交流する時も、実現されなければならないと思う。                  (竹内)