2011.11.6 国際シンポジウム「強制連行犠牲者と遺骨奉還」開催

二〇一一年一一月六日、札幌の本願寺札幌別院を会場に、国際シンポジウム「強制連行犠牲者と遺骨奉還」が強制連行・強制労働犠牲者を考える北海道フォーラムと遺骨奉還・和解と友好のための東アジアネットワークの共催で開催された。

会場には、北海道で発見された遺骨や遺品などが展示された。正面には、北海道土建関係(札幌別院)、朱鞠内発電工事(光顕寺)、三菱美唄炭鉱(常光寺)、江卸発電工事( 寺)などの朝鮮人死者の遺骨が安置され、キリスト式、韓国式、仏式などで犠牲者追悼式がもたれた。仏式の法要では、半鐘や雅楽とともに読経がおこなわれ、参加者が焼香した。

 

追悼式の後に、国際シンポジウム「強制連行犠牲者と遺骨奉還」がもたれ、北海道フォーラムの共同代表の殿村善彦さんが、浅茅野飛行場跡地での遺骨発掘の報告と今後の北海道フォーラムの活動方針を話した。続いて、今回のシンポジウムに参加した被害者遺族の金敬洙さん、朴進夫さん、元済赫さんが遺族の体験を話した。

金敬洙さんの父である金益中さんの遺骨は、本願寺札幌別院内の一〇一体の合葬遺骨のなかにある。本願寺札幌別院内で合葬遺骨が「遺骨遺留品整理簿」ともに一九九九年一二月に発見され、二〇〇二年に公表された。この問題を考える強制連行・強制労働犠牲者を考える北海道フォーラムが結成され、遺族を探した。金敬洙さんは金益中さんの甥にあたる。金益中さんは北千島の軍事基地工事に連行され、菅原組の下で労働を強制された。死亡日は一九四四年四月一〇日とされる。

朴進夫さんの父の朴先鳳さんは日本に渡り、北海道の朱鞠内、平取、赤平などで働いた。朴先鳳さんには日本人の妻がいた。一九四四年六月頃に連行され、一ヶ月ほどで死亡し、母親が遺骨を受け取りに行った。朴さんは今も父が亡くなった場所を探している。朴さんは原稿を読んで話し始めたが、途中から原稿には目をやらずに、長年ためてきた父への想いを語った。

元済赫さんの父の元光義さんは、平沢郡松炭面から東邦弥生炭鉱に連行された。元光義さんは一九四一年四月一五日のガス爆発事故にあい、一週間後に亡くなった。創氏名は原本光義だった。新聞には軽傷者「原本光輝」の名で出ているが、亡くなっていたのである。このガス事故では一一人の朝鮮人の死亡が確認されていたが、元済赫さんの証言で、新たな死者の名が明らかになった。元済赫さんが一三歳のとき、母は朝鮮戦争のなかで亡くなった。元さんは親族に育てられ、中学に行くことができず、ソウルでの土木仕事で生計を立ててきた。日本人の記憶は薄れても、苦痛のなかで生きてきた遺族の心にはその痛みが残っているとし、父の未払いの賃金や被害の補償を求めている。解放後に母が亡くなったことを語るとき、その悲しみがよみがえり、元さんは言葉を詰まらせた。

シンポジウムの講演では、金英丸さんが「東アジアに和解と信頼を育てるために」という題で話した。金英丸さんの母は東京で生まれ、解放によって帰国した。金さんは日本から朝鮮に送られた祖父の遺骨を探し、故郷を訪ね、それを掘り当てた経過を語り、最後に朝鮮学校の子どもたちの笑顔の写真を示して話を終えた。金さんは祖父の遺骨探しを紹介しながら、名もなき民衆一人ひとりの歴史を掘り起こす意義を話した。

金英丸さんの話の後、林炳澤さんの司会で、坂原英見さんが広島の高暮ダム工事の犠牲者と遺骨奉還、近藤伸生さんが東川町の江卸発電工事連行者を招待しての交流活動、蔡鴻哲さんが北海道フォーラムの遺骨発掘と奉還の活動などを紹介した。最後にテッサ・モーリス・スズキさんが、現代を東アジアの歴史の転換期として捉え、歴史の忘却を克服していく民衆運動の大切さを提起した。

北海道に強制連行された朝鮮人は一五万人ほどとみられる。北海道フォーラムが浅茅野飛行場建設現場で発掘した遺骨は三九体分となった。赤平や室蘭の遺骨は二〇〇八年に現地の市民団体の活動によって返還されたが、多くが現地に残されたままである。

シンポジウムで示された課題は、遺骨となった歴史を糾明すること、遺族の意向によって返還をすすめること、強制労働の歴史を語り伝える作業が求められていること、政府や企業関係者、そして市民の人間としての歴史的な責任などであった。(竹内)