11・25「太平洋戦争開戦から70年
        戦争責任・植民地責任を考える集い」報告

 

2011年11月25日、「太平洋戦争開戦から70年 戦争責任・植民地責任を考える集い」をもった。講師は戸塚悦朗さん、講演は「東アジアの平和にむけて−戦時奴隷制・文化財返還問題を中心に−」というテーマである。

以下、戸塚さんの講演の内容をまとめる(文責・人権平和浜松)。

 

戸塚悦朗「東アジアの平和にむけて−戦時奴隷制・文化財返還問題を中心に−」

●はじめに

こんばんは、浜松の皆さん、私は浜松で生まれて、掛川で育ちました。叔父は浜松空襲で亡くなっています。私は物理学を専攻しましたが、原子力に違和感を持ち、弁護士となりました。スモン訴訟原告代理人や精神障害者等被拘禁者の人権問題にかかわり、日本軍「慰安婦」問題などの日本の戦争責任も問い続けてきました。その後、神戸大学や龍谷大学などで教授となり、現在は、国際人権法政策研究所の事務局長として活動しています。

 

●戦時性奴隷制

はじめに戦時性奴隷制について話しますと、わたしは、1992年2月国連人権委員会で日本軍「慰安婦」問題を提起しました。わたしは、性奴隷という言葉で問題を提起したのですが、それ以来この用語が使用されています。国連機関やILO機関での討議がすすみ、決議や勧告がだされ、報告書もだされました。戦争責任問題については、『普及版日本が知らない戦争責任日本軍「慰安婦」問題の真の解決へ向けて』を現代人文社から2008年に出しています。

2011年には韓国憲法裁判所が、日本軍「慰安婦」や原爆被害者での韓国政府の不作為を違憲とする決定を出しました。わたしは韓国憲法裁判所に意見書を出しています。その内容は、「元日本軍「慰安婦」被害者申立にかかる事件に関し大韓民国憲法裁判所へ提出された意見書‐いわゆる「条約の抗弁」について−」(龍谷法学42巻1号2009年)に記しました。1965年の日韓請求権協定で日本政府は被害者の請求権は消滅したといっていますが、日本軍「慰安婦」被害者の個人賠償請求権は残されているのです。

韓国政府はこの決定により、日本政府に協議を求めましたが、日本政府は拒否しました。それにより韓国とのシャトル外交が途絶え、文化財の返還にも支障が出ています。韓国では慰安婦問題の解決を求める日本大使館前での水曜デモが1992年1月8日から始まり、2011年12月14日で1000回目を迎えます。世界最長の抗議行動としてギネスブックにも記載されます。しかし、この問題の解決に日本社会は呼応できていません。かつて、一億玉砕を呼号した日本の構造は残存しているように思います。仲裁裁判による解決が望まれます。

 

●韓国「保護条約」と「併合条約」の無効性 

1965年の日韓基本条約では、韓国併合が「もはや無効」とされています。日本政府は対等な立場で結ばれたものであり、条約は有効であり、1948年の大韓民国の成立で無効になったと解釈しています。村山内閣の答弁でも、「不当だが合法」であり、条約は有効としています。研究者でも日本の海野教授が「不当だが合法であり、有効としています。

韓国政府は不義不正な条約は当初より無効と解釈しています。韓国の学者の李泰鎮や白忠鉉は不法、無効論です。国際法学者の白忠鉉は、1905年「韓国保護条約」及び1910年「韓国併合条約」を含め、日本が韓国の主権を段階的に強奪した五つの条約について、これらすべての条約の内容は国家の主権制限に直接関連した事案とし、条約締結のための全権委任状及び批准手続のすべての要件を取り揃えるべきだと主張、「批准必要説」を唱えています(白忠鉉「日本の韓国併合に対する国際法的考察」笹川紀勝・李泰鎮『国際共同研究韓国併合と現代―歴史と国際法からの再検討 ―』所収)。

韓国の「併合」をめぐっては、わたしは1905年の韓国「保護」条約の効力問題について記された国連国際法委員会の1963年の報告書を「発見」しました。この文書については、国連人権委員会に1993年に国際友和会IFORの文書のかたちで発表しました。その内容は毎日新聞が1993年2月16日に報道しました。論文としては「統監府設置100年と乙巳保護条約の不法性―1963年国連国際法委員会報告書をめぐってー」(『龍谷法学』39巻1号、2006年6月)で発表しました。

1963年の国連国際法委員会の報告書は1905年の保護条約を絶対的無効な条約としています。日本軍と伊藤博文が韓国側の閣僚個人を脅迫して締結の形を作ったものであり、追完も許さないものとしています。

この1905年の保護条約にはタイトルがありません。英文のものは日本政府が勝手にタイトルをつけて発表していますが、韓国文にはタイトルがないというので、私は外交史料館で日本文の原本を閲覧しました。日本文にもタイトルがなかったのです。

1905年の保護条約にはタイトルがないのですから、未完成な文書です。それは、条約起草段階の原案とみるのが、法手続きの理解として合理的です。当時の日本政府は、条約の文書を適法であるかのような外観をつくりあげ、外形的な信用性を与えたのです。欧米列強を欺くために、未完成の条約文原案に日本政府の判断で英文のタイトルつけ、完成した形の条約につくりあげて、一方的に内外に公表したのです。

また、この保護条約には、高宗皇帝の署名もなければ、韓国側の批准もありません。1905年当時の大韓帝国では、全権代表により署名された条約は、一定の手続を経た後、皇帝が条約批准書に署名し、玉璽を押捺して承認・批准しなければ、効力を発生しないこととされていのです。ところが、1905年の保護条約には、高宗皇帝は最後まで署名も玉璽の押捺もしなかったのです。同条約に批准がなかった点では、日韓間で争いはありません。

これまで、日本政府は、批准なしで外交権を奪う保護条約を締結することが国際法上ありえるとし、批准不要説をとってきました。例えば、海野説でも日本の外務省の実務基準(1936年)を根拠として「批准を必要としない国家間協定もありうる」としていました。ところが、当時の国際慣習法の解釈学は批准必要説で一致していたのです。

当時の著作『ホール氏国際公法』をみれば、「條約ヲ有効ナラシメルタメニハ国家ノ最高ナル條約締結権限ヲ有スル機関ニヨリ・・批准セラレルルコトヲ要ス」とあります。また、高橋作衛『平時国際法論』1903年、 立博士述『平時国際公法完大正14年東大講義』、倉知鉄吉『国際公法』1899年、などでも同様の批准必要説が記されています。21点の文献を調査しましたが、批准不要説は見当たりません。

ところで、1899年に『国際公法』を記した倉知鉄吉の略歴をみると、彼が韓国併合に深く関与した人物であることがわかります。彼は、1870年に金沢で生まれ、1894年に東京帝国大学法科大学を卒業し、内務省に入ります。1899年には『國際公法』を上梓します。さらに伊藤博文統監の事実上の秘書官である統監府書記官となります。そして、1909年10月26日の安重根義軍参謀中将による伊藤博文公爵射殺直後、外務省政務局長として旅順に派遣され、小村寿太郎外相の命により安重根を「極刑」に処すために働くのです。1910年には外務省政務局長として、韓国併合を取り仕切り、韓国の「併合」という新法律用語を考案したのです。彼は1913年に外務次官で退職となります。

倉知は『国際公法』で、「有効ニ締結セラレタル條約ハ更ニ其上ニ批准セラルルコトヲ要ス條約ノ批准ハ法律ノ裁可ニ似タル所アリ條約ハ締結ニ依リテ製作セラレ批准ヲ俟テ有効ニ成立スルモノトス」 「君主其ノ他條約締結ノ大権ヲ有スル者カ直接ニ條約ヲ締結スル僅少ナル場合ノ外條約ハ總テ批准ヲ俟テ初メテ効力ヲ生スルコトトナレルヲ以テ未タ批准セラレサル條約ハ未タ條約ノ効力ヲ有スルモノニアラス」と記しています。彼は批准が必要であることを知っていたのです。

韓国ではこの条約に対して11人の政府高官が抗議の自決をし、さらに義兵運動が起こっていきます。また、高宗は1907年のハーグ平和会議に密使を派遣していきます。そのハーグには李ジュン平和記念館があります。ここで高宗皇帝署名・押印の事例などをみました。

日本政府はこれまで真実を述べてきたのでしょうか。いつまで韓国の併合は有効と言い続けるのでしょうか。韓国併合条約についても日本の批准書はありません。日本側は全権委任状があり、天皇の署名と玉璽があるとします。韓国側は批准書がなく、勅諭に皇帝の署名がなく、印は日本が奪ったものが押されているといいます。併合条約の問題点については、「韓国併合」100年市民ネットワーク編のブックレット『 今、「韓国併合」を問う』に細かく記されていますので、ぜひ参考にしてください。笹川紀勝・李泰鎮『国際共同研究韓国併合と現代―歴史と国際法からの再検討 ―』明石書店、2008年、李泰鎮『東大生に語った韓国史:韓国植民地支配の合法性を問う』明石書店、2006年などもお勧めします。

 

●安重根の遺墨と安重根裁判の不法性

 この問題へのかかわりは、龍谷大学に安重根義士の遺墨があったことから深く研究するようになりました。遺墨は岡山県笠岡の浄心寺にあったものが、龍谷大学に寄託されたものです。

龍谷大学の図書館に保管されていた遺墨は、「韓国併合」100年市民ネットワークが関与する形で、韓国へ貸し出されることになり、ソウル芸術の殿堂で2009年10月26日から2010年1月まで展示されました。10月26日は安重根が伊藤を射殺した日ですが、2009年の10月26日には明洞大聖堂で安重根義士ミサがもたれました。また、国際学術会議やコンサートも持たれました。世宗通りには世宗と李舜臣の像がありますが、子どもたちの手形を集めて作った安の強大な手形の垂れ幕も吊るされました。

2008年10月には「韓国併合」100年市民ネットワークの設立に参加し、2009年3月には、安重根裁判が不法であることを「安重根裁判の不法性と東洋平和」(龍谷法学42巻2号)の形で公表しました。また、2010年11月に出された『現代韓国朝鮮研究』に「「韓国併合」100年の原点と国際法−日韓旧条約の効力問題と「批准必要説」に関する文献研究−」を記しました。

安重根は韓国の独立を守るために「義軍参謀中将」として大日本帝国に対する軍事作戦行動に従事していました。かれは、1909年10月26日午前9時にハルビン駅に到着し、警備にあたっていたロシア軍を閲兵するなどしていた伊藤博文を拳銃の3発の射撃で死亡させました。その安重根裁判の公判ですが、安重根は大日本帝国の植民地であった旅順の関東都督府地方法院が殺人罪で起訴しました。1910年2月7日からの4日間公判で、同法院は、安重根が選任した弁護人の弁護活動を不許可とし、安重根は捕虜の地位を主張しましたが、法院は、日本帝国刑事手続法の下に審理し、韓国刑事法を適用しなかったのです。日本政府は裁判に介入し、「極刑」を法院に要求したとみられます。2月14日、日本帝国刑法により、死刑判決が出され、伊藤の死亡から5ヵ月後の1910年3月26日午前10時に安重根の死刑が絞首刑によって執行されました。

検察官と裁判所が裁判管轄権の根拠としたのは、1905年の韓国保護条約です。しかし、これまでみてきましたように、保護条約は締結されていたとはいえないものです。仮に締結されていたとしても、無効なものです。裁判所には管轄権を確立すべき法的根拠がなかったと考えるしかないのです。

安重根裁判の不法性をまとめれば、裁判所に裁判管轄権がなかったこと、国際法と捕虜問題の判断が脱漏したこと、政府が裁判に干渉したこと、弁護人依頼権を剥奪したことなどがあります。

安重根処刑から100年にあたる2010 年3 月26 日の朝日社説「日韓歴史研究「国民の物語」を超えよう」では、安重根処刑100年には触れていません。また、「併合が非合法という韓国学会の主張は、欧米など国際法学者の多くが支持するには至っていない」(第2 期歴史共同研究の日本側主張)と引用しています。このことは、日本社会が朝鮮植民地支配の原点を「無視」し続けていることを示すものです。その安重根が獄中で執筆した「東洋平和論」は伊藤が主張する日本中心の東洋平和とは全く違った日本・中国・韓国が対等な立場で協力するという思想で、未来に向けて参考にすべき視点を提示しています。

 

●日本の歴史認識と文化財返還

2010年8月10日に菅直人首相談話が出されました。これは閣議決定によるもので、閣僚以下行政機関はこれに従う必要があります。

肯定評価できる点は、「政治的・軍事的背景の下、当時の韓国の人々は、その意に反して行われた植民地支配によって、国と文化を奪われ、民族の誇りを深く傷付けられました」という認識をしめしとところです。また、これまでの人道的協力(在サハリン韓国人支援、朝鮮半島出身者の遺骨返還)だけでなく新たに日本政府保管の「朝鮮王朝儀軌等の朝鮮半島由来の貴重な図書」を「お渡ししたい」としたことです。宮内庁が所蔵している朝鮮王朝儀軌とは、朝鮮王朝時代の主要行事を時期・テーマ別に絵や文章で記録した古文書の総称です。日韓併合後の1922年、当時の宮内省が朝鮮総督府から163冊の移管を受けたとするものです。

しかし、批判を免れない点は、首相談話が沈黙した事柄です。ひとつは、「慰安婦」問題等です。国連人権高等弁務官が日本軍性奴隷問題への対応を促してきましたが、触れられてはいません。国際労働機関ILOは、強制労働問題について強制労働条約違反を指摘してきましたが、強制労働問題についても沈黙しています。

さらに、併合条約等旧条約の不法・無効性の問題についても触れていません。併合条約は「はじめから無効だった」とする韓国側の強い主張を受け入れず、1965年日韓基本条約の「もはや無効」の条文解釈にも触れることができていません。

これを契機にして、今後も民間の文化財を含め、文化財を全面的に調査し、実質的な返還原則の確立に向かうことはできないかと思います。

 2005年には北関大捷碑が返還されました。日露戦争中に日本軍が略奪し、靖国神社におかれていたものですが、義兵の子孫と南北仏教界が協力して返還されました。2005年10月に韓国へ返還され、2006年3月1日朝鮮民主主義人民共和国へと戻されたのです。韓国への武力行使は戦争です。それゆえ、国際慣習法である戦時国際法の適用があります。歴史的記念碑の略奪は違法です。

知られざる市民の返還としては、西宮市民の八馬理(ただす)氏の文化財返還があります。国立中央博物館の寄贈館に338点が展示されています。

●  まとめ

わたしは、身の回りから研究を始めました。政府、社会、学会、草の根社会とも動かないなかで、「なぜ研究ができないのか?」が研究テーマとなりました。どうしたら相手方の立場を理解できるかが課題です。植民地支配の問題や「慰安婦」問題からは多くの事柄を学びました。東アジアの平和にとっても教育は大きな課題であり、未来社会をどう拓くかという問題意識、「国民」から人類の構成員につながる視点、人類の視点からの歴史学が求められると思います。

日本は国家や天皇は大切にしてきましたが、民衆の生命や被害補償は無視してきました。日本人の軍人軍属への補償はあっても、空襲被害者への補償はないままです。政府は、パンドラの箱があき、「慰安婦」から強制連行、軍人軍属へと賠償が広がることを恐れているようにいわれますが、日本人の戦争被害への賠償の拡大をおそれているとみられます。

日本政府は100年たっても未だに韓国併合を有効と言い続けています。批准なしでは無効と知っていたにもかかわらず、有効とごまかしてきたのです。裁判権がないのにもかかわらず、安重根を処刑しました。「慰安婦」問題は早急に解決すべきです。日本政府は韓国の日本大使館前に建立しようとする少女像にまで反対しています。

韓国のドラマを見て思うことですが、まず第1に真実を認め、一言「ごめんなさい」ということです。それによって関係が変わります。また、歴史的な責任について考えることです。文化財は歴史を学ぶ格好の材料です。この間の日本の特徴は、政府が真実を認めない、歪曲・隠ぺいがなされる、メディアに洗脳され日々を過ごす、草の根でその政府を信用する、真実に目をつぶる、日本はどんどん悪くなる、つぶれていくということです。3.11以後の状況と同様です。みなで滅んでもいいという「一億玉砕」の志向は今も生きています。そのような方向を変えてゆかなければなりません。

人類としての視点、国際人権、同胞の精神をもって、日韓中は共同する必要があります。大崩壊のなかで、生き抜く力、起ち上がる力を蓄えておかねばなりません。報道のウソを見抜き、自らを信じ、研究し、行動すべき時です。