原発責任 東京電力福島第1原発 
      40年間の歴史と東電の抱える根源的問題

 

2011年12月11日、たんぽぽ舎の山崎久隆さんを講師に、「原発責任 東京電力福島第1原発 40年間の歴史と東電の抱える根源的問題」のテーマで集会を持った。以下は山崎さんの話の要約である。

  

山崎久隆「原発責任 東京電力福島第一原発 40年間の歴史と東電の抱える根源的問題」

こんにちは、浜松の皆さん、原発責任・今日は東電の抱える根源的問題をテーマにお話ししたいと思います。

●はじめに

福島原発事故は今も収束せず、その責任も取られていません。二本松のゴルフ場の除染を求めての仮処分申請では、東電は汚染物質を「無主物」とし、裁判所は申請を却下する始末です。広範な汚染はさらに深刻な状況をもたらすでしょう。

1号機から3号機の「炉心損傷」は、炉心溶融から「炉心貫通」への道を辿っていたことが、東電自らの中間報告でも明らかになりました。こんなこともあり得ると警鐘を鳴らしてきましたが、さすがにここまでとは思いませんでした。

すでに、中部電力の浜岡原子力発電所(静岡県御前崎市)で、東海、東南海、南海地震が連動して発生し、炉心が崩壊するような大事故になってしまうというストーリーは、石黒耀氏の小説「震災列島」(講談社2004)に描写されていました。

原発と地元自治体などとの間で繰り返された莫大な買収劇の結果、商業用57基(現在の

54基に廃炉になった3基を加える)の原発が建てられ、あげくに3基をメルトダウンさせたのです。いままでに「天寿を全うした」原発は3基(日本原子力発電・東海発電所、中部電力・浜岡原子力発電所1・2号機)であり、メルトダウンは3基なのですから、「事故死」率は50%です。しかし、確率的安全性評価においては、原子炉が炉心溶融などの破局的事故を起こす確率を「100万炉年に1回」などと評価してきたのです。

大事故は、1957年の英国ウィンズケール原子炉黒鉛火災、1979年の米国スリーマイル島原炉心溶融事故、1986年のソ連チェルノブイリ原発事故の原子炉暴走爆発事故と続いてきました。「確率論的安全性評価」などといいますが、所詮はこんなものです。

 

1原子力推進体制の特徴

●原子力推進体制

産官学による「原子力推進体制」についてみてみましょう。

原子力推進の原動力は紛れもなく莫大な資金です。その多くは電気料金とともに徴収されている「電源三法」と呼ばれる税金です。電源開発促進税などの税金は田中角栄政権時代に作られたのですが、電源立地、特に原発立地の財源にするためだったのです。

産官学の推進体制といわれますが、マスコミと労働組合もそこにいれなければなりません。その推進の実態は、個人名を当てはめていかなければ見えづらいものです。東電の電力族議員には、元東電副社長で原子力本部長でもあった加納時男元参議院議員や甘利明元通産大臣がいます。

文部科学省には日本原子力研究開発機構がぶら下がっていますが、これは旧動燃と旧原研の合体した機関です。もんじゅの事故や1999年の東海村JCOの臨界事故などで解体が叫ばれた動力炉・核燃料開発事業団を原子力研究所とくっつけて存続させたのですが、現在の機構のトップは鈴木篤之、前の原子力安全委員会の委員長です。

この人物が安全委員長だったとき、2006年10月の衆議院内閣委員会での質疑では、共産党の吉井英勝委員による、原発の全交流電源喪失事故を想定した安全体制を確立すべきとの追求に、「日本の(原発の)場合は同じ敷地に複数のプラントがあることが多いので、他のプラントと融通するなど、非常に多角的な対応を事業者に求めている」などと答弁していました。鈴木篤之は東大教授で、現在の斑目春樹原子力安全委員会委員長と同じ「原子力ムラ」の住人です。いずれも巨額の寄付などを受け取っていた大学で研究をしていたわけです。

資源エネルギー庁などからの電力会社や関連事業への天下りも非常に多いのです。例えば資源エネルギー庁の石田徹前長官は、今年1月に東京電力の顧問に就任しています。東電と東大との関連で言えば、現在の東電社外取締役小宮山宏は2005年まで東大総長だったのです。官僚からの天下りをみれば、経産省から電力各社への直接の異動という限定された条件においても、50年間で68名にもなるといいます。現職が13人もいます。

学会への影響力も並大抵のものではありません。例えば土木学会(原子力土木委員会・津波評価部会)では、東電はじめ全国電力会社の現役社員が委員を務めています。この委員が大学教授ならば、その研究資金を電力会社が出すわけです。これでは自由な議論などとてもできません。

●マスコミと労働組合

原発推進体制にはマスコミ対策は欠かせません。広告宣伝費に莫大な資金が投入される結果、原発に批判的な記事に対しては広告の引き上げという「制裁」を行います。原発推進体制に水を差すようなニュースはニュースたり得なくなってしまうのです。大きな事件になった検査偽装などの不祥事はガス抜きのように取り上げますが、原発の本質的な問題点については、ほとんど無視し続けてきました。原発反対のデモや集会については、3.11以前には無視されてきました。莫大な原発マネーが東電などからメディアに流れていました。

マスコミ各社の幹部や経済部記者などとの「親睦」を深める海外ツアーやゴルフコンペなどが頻繁に開催されていました。3月11日に東電の勝俣会長が、マスコミや出版会社との訪中団に資金提供をして同行していたことはその一例です。

これまで原発推進体制にとって最も重大な影響を与える情報というのは、立地点の原発の

安全性を脅かすような地震や地質に関するデータの偽造やねつ造でしょう。その種の問題は

ほとんど記事にされません。

原子力推進体制を支えるもう一つの柱は、労働組合です。2011 年5 月26 日付の朝日新聞の夕刊には、連合の原発推進方針見直しの記事が掲載されています。そこには、連合が東京電力福島第一原子力発電所の事故を受けて原発推進政策を凍結し、新規立地・増設を「着実に進めるとしてきた方針を見直すと記されています。連合は昨年8月、傘下の労組間で意見が割れていた原発政策について「推進」を明確に打ち出したばかりだったのです。

連合の有力産別は各電力などの従業員で構成される電力総連や電機連合であり、基幹産業労組などの親会社は原子力産業を支える企業です。これらは一貫して原発推進を方針としてきのです。「プルサーマル計画」についても、事業者と全く同じ立場で積極的に推進し続けてきました。

これに対して40年間ずっと、原発反対運動の中心的労働組合だったのが「自治労」ですが、昨年、大会で原発推進を容認したのかと思われるような方針を採用していました。この大会後に連合の原発推進体制が確認されました。連合の支援を受けてきた民主党政権は、自治労組織内候補でもある仙谷由人官房長官(当時)などが、反原発色が強いとみられていた菅直人政権のもとで、ベトナムに原発を売り込む「トップセールス」を行っていたのです。

●恣意的な原発立地

原発を作るためには、まず立地する先を決めなければなりません。日本で最初に決められた原発建設のための指針は「原子炉立地審査指針」という1964年に原子力委員会によるものです。その最初に書かれている「基本的考え方」には「大きな事故の誘因となるような事象が過去においてなかったことはもちろんであるが、将来においてもあるとは考えられないこと。また、災害を拡大するような事象も少ないこと」です。

現実の原発立地にはいくつかの道があります。一つは立地自治体が自ら誘致に動くこと、もう一つは電力側が恣意的に立地点を決めて働きかけること、最後に、科学的研究により地質や地盤が十分強固で、かつ自然災害に見舞われにくいと考えられる場所を広く議論を尽くして調べることですが、三番目の方法で立地された原子力施設は世界中にも一つもありません。実は一番目も実際には一つもありません。日本においては全て二番目の方法で立地されてきたのです。「いや、そんなことはない原発誘致決議を行った議会はたくさんあるでは無いか」と思われるかもしれませんが、どの場合でも前もって電力などからの働きかけがあってのことです。

ある地点に原発の立地が決められるには、それぞれに事情がありますが、柏崎刈羽原発=田中角栄、島根原発=竹下登、福島原発=木川田一隆元東電社長(福島県出身で原発の誘致を福島県に持ちかける)、浜岡原発=原田昇左右元建設大臣(静岡県選出の衆議院議員で運輸官僚から転身)などが関わっています。最初からその地点ありきで原発建設が進められるわけです。立地点が指針に沿っているかどうかは、立地調査において証明すればいいということになり、その調査を請け負うのは常に原発推進側のメーカーですから、意に反する結論など出しません。その結果、地震常襲地帯だろうと津波が襲う場所であろうと、何ら問題は「無い」ことになってしまうのです。

●核兵器産業を支える原発

1960年代に始まった商業用原発の建設は、そのきっかけが1953年の米国アイゼンハワー大統領による「原子力平和利用」の国連演説でした。核兵器開発に巨額の軍事予算をつぎ込みながら、水爆開発でソ連に抜かれ、米国の核の独占体制は崩壊していました。米国が軍事予算だけで核兵器開発を続けていては国家財政が破綻します。それを防ぐには核を世界中に拡散させることだったのです。しかし核兵器として拡散させたのでは、米国の安全保障にとって重大な問題が生じます。従って、巨大な原子力産業を維持させるために、世界中に米国製の原発と核燃料を売りまくる一方で、核兵器への転用を阻止するという方針をとりました。それがIAEA体制と原子力発電所の売り込みでした。

もともと原発は米国の核兵器産業を支えるためのものでした。従って、当時の米国の核兵器産業に合わせた仕組みになっているわけです。軽水炉と呼ばれる加圧水型軽水炉と沸騰水型軽水炉は、原潜や空母など原子力動力艦のエンジンとして開発された原子炉を発電所に転用したものです。黒鉛炉は核兵器級プルトニウム生産炉からの転用ですし、再処理工場はプルトニウム抽出システムを核兵器仕様から原発の燃料仕様に変えたものです。高速中性子炉は核兵器級プルトニウム生産炉ですし、その再処理システムは臨界管理が極めて難しい高純度プルトニウム239を取り扱うための特別仕様として設計されているわけです。

核拡散防止条約とIAEA 体制は、これら「商業用」のものを「軍事用」に転用させないための歯止めだったはずですが、一方で原子力の平和利用を「加盟国の権利」としていることから、実質的には完全に阻止することは出来ないわけです。そこで、一定の範囲までの核兵器開発と同等の技術開発は「容認」されることになったのです。この「一定の範囲」は極めて恣意的のものです。

例えばウラン濃縮は日本においては六ヶ所村で大々的に行われていますが、イランや北朝鮮がたとえ小規模だろうと行えば、軍事的圧力をかけられます。さらに核燃料を再処理して軍用プルトニウムを取り出す設備を建設した北朝鮮に対して、米国は爆撃を計画したことさえもありますが、同様の同じ設備を稼働させているイスラエルに対しては何の制裁措置もないのです。他方、イスラエルは1981年にはイラクの原子炉を爆撃し、2007年にシリアの原子炉(ただし未確認)を爆撃し破壊しています。

●稼働40年目のメルトダウン

日本は単独の国としては唯一、商業規模のウラン濃縮工場を保有し、核燃料の加工全てが出来るプラント、高速中性子炉「常陽」と「もんじゅ」(いずれも事故停止中)、核燃料再処理工場を稼働させています。核武装国以外では、これらの施設を有する国は無いのです。日本が核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」の非核三原則を隠れ蓑にし、核武装に必要な全ての技術体系を完成させようとしてきたことはもはや秘密ではありません。そのためには日本にも巨大な原子力産業が必要だったのです。

再処理工場施設の建設費用で2.5兆円もの資金を調達するには、原発を続ける場合にのみ特別に巨額の資金が電力会社に集まるようにしておき、その中から「核燃料再処理費用」としての引当金や出資金が日本原燃などに集中できるようにしたのです。経済性などはじめから度外視です。廃棄物処理なども含めれば、21 兆円を超えるものになります。

しかし一定の経済性があるとしなければ、誰も納得させられないことから、ウソで塗り固めた発電原価なるものを公表し続けています。この発電原価の異常さについて、一般にも知られて来たため、こんどは一度建てた原発を40 年から60 年へと運転の引き延ばしを計ると共に、連続運転が出来る期間を従来の13 ヶ月から最長24 ヶ月まで拡大したのです。これらは、原発の稼働率を90 %以上に引き上げることで、ウソの発電原価に現実を合わせようとしたものでした。しかし、このような無茶をすれば、早晩大事故を引き起こすと批判を浴びていました。

その40 年を超えるはずだった原発が福島第一原発1 号機でした。3 月26 日、その日を迎えたときには、原子炉はすでにメルトダウンし、建屋は自爆し、内蔵する放射性物質を世界中にぶちまけていたというわけです。

 

2 福島原発事故の歴史

 

この福島原発震災は、突然起きたものではありません。長い日本の核開発史の中で「周到に」準備されてきたものです。ここでは、東京電力(以下東電)福島原発の最近の歴史に絞ることにします。

特に今回の福島第一原発震災に関連して重要だった事故は、福島第一原発2号機で1981年5月に発生した給水喪失・ECCS(緊急炉心冷却装置、以下ECCS)の作動事故と、2010年6月に発生した電源喪失事故、福島第二原発3号機で1989年1月に発生した再循環ポンプ損傷事故、福島第一原発3号機や志賀原発1号機などで多数発生した定期検査中の原子炉臨界事故の4つだと思います。

これらについて概要をみていきましょう。一つ一つに、今につながる教訓があったのです。

●福島第一原発2号機ECCS作動事故

第一原発2号機のECCS作動事故は、事故そのものが長い間隠されていたこともあり、実態はよく分かっていません。ただし原子炉冷却系統がトラブルを起こして炉心から冷却材が抜け、原子炉水位が低下したためにECCSのうちの高圧注入系が作動して冷却材を入れはじめたものの、注入圧力が不足していて水がなかなか入らず、炉心の水位回復に手間取ったことは、わずかに残されたチャートのコピーなどでわかっています。この事故が示したことは、このタイプの原子炉で共通する欠陥、ECCSの能力不足だったのです。同時に起動していた原子炉隔離時冷却系RCICも十分冷却材を回復する能力が無かったのです。

今回もこの系統は作動していたのに止まってしまいます。その原因は依然として不明だといいます。内圧に負けて水が入らなければ、高圧状態で冷却材を喪失する事故の場合は、ECCSが実質的に機能しません。機能させるためには手動で減圧するしかないのですが、それには逃がし弁を開くことになります。しかし弁を開ければ蒸気となって冷却材を一気に失い、その段階でもECCSが正常に作動しなければ、あっという間に空だき状態になってしまいます。

ECCSの能力が不足している福島第一の1〜5号機で、冷却材を失う事故が起きた際に、それを補充するために存在する高圧注入系の能力が期待できないならば、必ず逃がし弁を手動開放して圧を急激に下げなければならないことになります。こんな欠陥があったことが、今回の福島第一原発震災でも影響を与えたと思われます。ECCSの能力が期待できない以上、逃がし弁を開いて圧を逃がそうとしていたことと格納容器ベントの強行に結果的につながっているわけです。

今回、圧力容器の圧力が高圧になり、破損の危険が迫っていたわけでは無いのに、逃が

し弁を開いて減圧する操作をしています。圧力は蒸気となり、サプレッションチェンバーに流れます。このため格納容器の内圧が急激に増大し、格納容器を守るためには、危険な格納容器ベントを行うしかなく、そうしなければ破壊される危険性があったわけです。無理矢理の格納容器ベントが強行されてしまい、大量の放射性物質が大気に流れました。住民の大量被曝を引き起こした最初の放射能は、格納容器ベントに伴い放出されたキセノン133という希ガスと、テルル132やヨウ素131などの低温でも気化しやすい核分裂生成物だったのです。セシウムが大量放出されるのはその後のことでした。

●福島第二原発3号機 再循環ポンプ損傷事故

再循環ポンプ損傷事故が福島第二原発3号機で起きています。78.5万キロワット級の福島第一の2〜5号機で、原子炉に取り付けていたBWRに特有の冷却材再循環ポンプを、さらに大型化したBWRタイプ5用に設計する際、そのまま110万キロワット用にスケールアップしたことで起きました。

ポンプ運転に伴い発生する振動が内部の部品である水中軸受けリングと共振することに気づかないまま使い続け、ついに共振による応力集中により重さ100キロを超える鋼鉄製リングの溶接線を切断してしまい、運転中の再循環ポンプの真上に落下するという事故が起きました。1989年1月、昭和が終わった時の出来事です。あろうことかそれに気づかない運転員は、振動が増大し続け警報も鳴る中で運転を継続したために、リングと羽根車がお互いを削り合い、合計30キログラム以上の金属片を炉心にまで流し込んでしまったのです。 

一つ間違えば、燃料が破損して溶融したり、再循環系配管の破壊につながる事故でした。炉内で何が起きているかを見極められないで行われる運転操作は、安全側とは逆の操作を行うことが往々にしてあります。

福島2−3と同様の失敗を今回も繰り返し、行ってはならない操作をしていたのです。

●福島第一原発3号機 制御棒脱落事故

この事故は、定期検査中に本来は全て挿入されているはずの制御棒が次々に脱落し、燃料が核分裂の連鎖反応を起こして「臨界状態」になってしまったというものです。蓋の開いた状態で原子炉が臨界になるという、想定されていない事態がいくつもの原発で起きていたのです。その最初が、78年に福島第一原発で起きていました。ところがこの事故は隠されてきたため、その後も臨界事故は複数の原発で再発していました。

運転停止しているから安全と考えられた原発が、定期検査という環境で、安全保護系も冷却系のポンプも外された中、制御棒が脱落するなどあってはならないことです。この事故で原子炉に非常に危険な事態を引き起こし得ることが実証されてしまい、事故は徹底して隠されました。そのため重大事故として認識されるのは1999年のJCO臨界事故以後の2006年に志賀原発が1999年に起こした事故で15分も臨界が続いたことが問題になってからのことでした。

今回は4号機の使用済燃料がクローズアップされましたが、結果的にここからは大量の放射能放出は無かったとされています。しかし定期検査中の4号機が爆発により破壊されたのは紛れもない事実であり、それを引き起こしたのが定期検査中の手順無視による空調設備の設定ミスです。本来はあり得ない水素の漏れ込みが3号機から起きたとされています。

4号機の使用済燃料プールには1552体の燃料が入っていました。炉心には燃料は無かったとされています。このような状態では爆発が起きるはずが無いのに、建屋は大破状態になっています。一時期は1552体の燃料が圧力容器と格納容器の外側で溶融している恐れが指摘され、史上最悪のチェルノブイリ原発事故を遙かに超える大惨事になるかと世界が震撼しました。幸いなことに燃料プールの燃料体はほとんど破壊されていないことが後日確認されるのですが、それほどの危機を引き起こしたのが4号機と3号機を繋ぐダクトの閉め忘れだったというのです。

●福島第一原発2号機 「電源喪失」事故

2010年6月17日、原発では起きてはならないステーション・ブラックアウト(SBO)に直結する「外部電源喪失事故」が発生しました。非常用ディーゼルは起動し全交流電源の喪失時間は15分だったため、東電は事故と認識していなかったのですが、念のため原子力安全・保安院(以後保安院と略)に報告に出向きました。しかし保安院も事故とは扱わなかったのです。通常ならば短時間とはいえ、全交流電源喪失事故は電気事業法上の「事故」であると同時に原子炉等規制法上の報告事項に当たるはずですが、その取扱をしなくて良いとしてしまったのです。これが今に禍根を残す結果となったのです。

では、この事故はどういうものだったのでしょうか。

6月17日、この日は二号機の中央制御室(中操)において電源盤の点検作業が行われていたといいます。原発を運転しながらこの種の作業を同時並行で行っていることにも驚きますが、電力は軽微な作業ならば特に意識もしないようです。

以下は、その時に何が起きたかの報告書からのものです。

午後2時52分頃、作業員が一つのリレーに複数回接触しました。しかし作業員自身は否定しています。また、実際に触ったとしても認識できないほどだったとされています。リレーは箱に収められており、肘が接触した振動で5ミリ秒から7ミリ秒程度回路が「開」になりました。これらは全て後日の解析により推定されたものに過ぎず、本当にそうだったのかは分からりません。このわずかなリレーの作動で「常用電源遮断」信号が発信され、所内電源がオフになりました。このため常用・非常用共に電源が失われるのですが、記録には「発電機磁界遮断器トリップ信号」が発信されたとなっています。これは、発電機の電磁石に磁界をかける電源が失われたために起き、そのため発電不能になります。これに続いて「発電機」「タービン」「原子炉」が次々に自動停止しますが、この際に実行されるはずの「外部電源への接続」がされず、全交流電源喪失を引き起こし、非常用ディーゼルが自動起動して回復しました。しかしディーゼルが動かなければ、そのまま冷却ポンプなどの設備が電源喪失のために止まったであろうと考えられます。

問題は所内電源の落ち方と、それを外部電源に切り替えることが出来なかった原因です。外部電源の遮断が起きれば、所内電源、特に非常用ディーゼルが自動起動すると、誰も

が思っていたでしょうし、そのように想定されていました。ところが外部から切り替えるためには、このリレーの場合は200ミリ秒の時間、回路が閉じていなければならなかったのです。福島第一の電源システムでは、このような瞬間的なリレー動作は作動条件に入らない設計だったのです。

仮に瞬間的な回路動作だけで外部電源から内部の非常用ディーゼル発電機など電源に切り替わるようになっていたら、誤動作を起こした場合に極めて危険な状態になるからと言うのが東電の言い分でした。リレーの誤動作を想定した場合、外部電源がまだ生きているのに電源系統が切り替われば、大きなアーク放電が発生して機器が破損する恐れがあるといいます。そのため十分に外部電源が切れる時間、つまり200ミリ秒の時間リレーが閉じ続けるまで、電源系統の切り替え動作は起動しないという仕様だったのです。これがこの場合は電源喪失を引き起こす原因になりました。

原発の内部には数多くのポンプ、弁、リレー、モニタがあります。これらは電源が無ければ動きません。原子炉内の核燃料は、運転を止めても大量の崩壊熱を出し続けます。運転停止直後でも7%程度、100万キロワット級原発ならば7万キロワットもの熱量を持ちます。一日経っても1%、現在でも福島第一原発で強制冷却を続けなければ放射性物質の放出を止められないのはこのためです。

核分裂生成物及びウランなどに中性子が取り込まれて出来る「超ウラン元素」は、放射線と熱を出しながら他の物質に変化します。崩壊する度に熱を放出するため、原子炉の冷却が出来なくなると燃料そのものが溶けてしまうことになります。水による強制冷却が順調に出来るならば、5年ほどで自然冷却(空冷)に移行しても溶けなくなります。この空冷方式が「乾式貯蔵」です。

それまでは熱を取るには冷却水を循環させ続けなければなりません。そのために大型ポンプを何台も稼働させるので大量の電力が必要です。実は原発は発電していなくても発電電力量の5%程度の電力を必要とします。その多くは冷却水を循環させるためです。いま一ワットも発電していない福島第一、第二原発は冷却のためだけに、合わせて推定40〜50万キロワットもの電力を必要としていることになります。真夏の日中、毎日の節電を強いられていたのは原発を冷やすための電力を捻出するためだと言っても、言いすぎでは無いのです。

全原発4700万キロワットが全部止まると、日本中で核燃料を冷やすためだけに約230万キロワットもの、原子炉や使用済燃料の冷却用に所内電力を送電する必要があるのです。所内電源に加えて外部電源を失うと、大量の電力を非常用ディーゼル発電機でまかなわねばならないのですが、それが稼働しなければどんなことが起きるか。今の日本で知らない人は

いなくなりました。しかし昨年夏、そのことを知っていた人はほんのわずかでした。

福島第一原発の電源設備について、私たちは3度にわたって東電と話し合いをし、保安院にも申し入れました。しかし当時、電源設備の脆弱性と設計の不備について、およそ誰にも

認識が無かったのです。では、どのように認識不足だったのでしょうか。

2010年6月17日、2号機は定格出力の78.4万キロワットで運転中でした。電源喪失を起こした瞬間に水位は80センチ急降下しました。もちろん燃料上端までは4メートル近くあるので、すぐ露出するわけではないのですが、このままあと1メートル下がれば緊急炉心冷却装置(ECCS)が作動したでしょう。水位は非常用ディーゼルによる電源回復と共に5分後に回復しています。

電源系統については、所内電源である「常用系交流電源A、B」が共に遮断された後、通常ならばA系統は自動で隣の1号機から受電、B系統は外部電源である大熊線から受電することになっていました。このことを「外部電源への接続」といいます。しかしこのような切り替えが出来なかったのです。実は1号機は定期検査中で発電しておらず、この場合はA系統も自動で大熊線に切り替わるはずだったのですが、これも切り替えることが出来なかったのです。せっかくA系統、B系統と多重化したつもりであったのに、定期検査でそれが多重性を失っていたわけです。

このような事例は今回の福島第一原発震災でも起きています。4つある大熊線のうち、ライン3が補修工事で分解されており使えなかったのです。原発が運転を止めた場合、所内電源と呼ばれる自前の電力は当然失うことになります。先に述べたとおり、その瞬間外部電源に切り替わらなければ電源を喪失します。非常用ディーゼルはあくまでも非常用です。常用設備が正常に起動しないことは大変な問題です。もともと所内電源が遮断された原因は一つのリレーの誤動作とみられています。そのリレーは機能していなかったのです。「死んだ」リレーがどうして「悪さ」をしたのか。その原因も実際のところ、よく分かっていません。

それについての東電による説明は次のようなものでした。

このリレーは、もともとは「系統安定化装置」というものにつながれていた。系統安定化装置とは、送電網上で起きる大規模停電や、送電線そのものの損傷により、原発から送っている電力量が過剰になった場合、送電設備を破壊する恐れがあるため、供給過剰になったことをきっかけに、変電所から信号を送り、原発を緊急停止するためにある装置である。しかしながら、この装置は設置以来使用したことは無いという。近年は送電系統の多重化、系統内部の他の発電所や原発そのものの柔軟運用、所内単独運転(タービンを通らずに蒸気を復水器に送る能力を有する原発で行う運転方法で原子炉を100%で運転していても蒸気を全部復水器に捨てる運転が出来る原発)への移行などにより、原子炉そのものを停止しなくても良くなっていた。緊急停止すること自体、原子炉を傷めるので東電としても避けたい。その結果、安定化装置は運用上も使用しなくなった。ところが原発と変電所を結ぶ回線は撤去したのに、中央制御室内のリレーだけが残っていた。そのため、この装置の唯一の「起動」は、してはならないタイミングでの原子炉停止という皮肉な結末になった。

この装置は、原子炉を停止させるほどの「威力」があるのですが、設置許可等の届け出は何らされていません。保安院はこれについて「原子炉そのものでは無く周辺の設備なので届出義務は無い」といいます。原子炉すなわち原発の停止は、発電支障事故に当たるし、原子炉そのものの安全性を損なう可能性があるのに、この装置の設置、点検、撤去のどの段階においても誰も監視していないのです。安全に対するほころびというのは、常にこういう場所をきっかけにして起きるものですが、それへの危機感のかけらも無かったのです。原子炉を緊急停止させる機能を持つ装置が、中途半端なまま放置されていたわけです。

●おわりに

2010年6月の福島第一原発2号機 「電源喪失」事故について、東電の話を聞けば聞くほど、こんないい加減な設備保守は聞いたことが無いと、呆れたものです。原発の内部は一事が万事この調子だということは、2002年の東電不祥事あたりから広く世間にも認識されていたのですが、いっこうに改まる様子が無いことに怒りを感じました。東電の他の原発もこの装置を取り外していたりいなかったり、結局は何の基準も無く適当に処理されていたのです。そのことを保安院に問うても、別に何の問題も感じていない様子に二度驚くと共に、この人たちは本当に大丈夫なのかと大きな危惧の念を感じました。

その結論はわずか9ヶ月後に最悪の姿で出されることとなりました。これは東電や福島第一原発の特殊性などではないのです。このような欠陥を抱えて全国の原発が動いてきたのです。今すぐ全国の原発を点検すべきです。そもそも設計通りの安全性能が維持されている保証さえないのです。

これら原発震災以前の事故の数々のなかで、特に福島第一、第二原発に関わる事故を見つめ直していれば、結果は変わっていたのではと、今さらながら悔やまれます。安全とは、工学的な設計さえ安全に考慮して行えば達成されるというものではないのです。現在では、そのような「超楽観論」が、きわどい事故を引き起こしてしまったことを考えるきっかけになっていますが、残念ながら手遅れです。

これら事故のたびに私たちは、原発を止めないのであれば原因の徹底究明をと、警鐘を鳴らしてきました。また、事故引き起こした東電及び、原子力産業や「原子力ムラ」や国の行政の内部にある「事なかれ主義」や「原発推進に邪魔」「なるべく隠しておこう」「問題にならないよう情報を加工しよう」というような意識構造をこそ問題にしてきました。

地震や津波が原発を破壊したという側面は重要ですが、それ以前に「核」(この場合はこの言葉がふさわしい)の持つ大変な脅威を全く認識しなかった、東電の原子力事故の歴史を一端ではあるものの振り返る必要があります。

そして、このような核の脅威を一掃するために、浜松をはじめ全国各地で反原発の声をあげていくこと呼びかけます。