「大庭伸介『レフト』(闘う労働運動)を語る」報告
2012年10月13日、労働運動史研究を集成し『レフト』の形で出版した浜松市出身の大庭伸介さんを講師に集会をもった。以下はその報告の要約である(文責・人権平和浜松)。
浜松のみなさん、こんばんは、大庭です。今日は20世紀の日本の帝国主義の戦争と労働者民衆の闘いの歴史についてお話しし、それをふまえて現在の地域ユニオンの闘いの重要性について提起したいと思います。
ここで強調しておきたいことは、戦争と団結の破壊とがぴったりと重なり合うということです。外に向かっての侵略戦争と内に向かっての階級戦争とが同時にすすむわけです。団結の破壊は侵略戦争にむけての支配体制を盤石にするためにおこなわれます。
●日露戦争と大逆事件
日露戦争をみてみれば、国内ではロシア撃つべしという宣伝がなされ、国民を戦争に動員していきました。これに対し、平民新聞は非戦論を展開しました。戦争は明治天皇の挑発行為であり、それに乗ってはならない、ロシアの兄弟と殺しあうなと、堂々と主張したのです。当時海軍工廠の労働者だった荒畑寒村は報道記事をみて共感しています。1904年の第2インターナショナルのアムステルダム大会ではロシア社民党プレハーノフと日本の片山潜が握手をして、国際連帯を表明します。
このような動きは1910年の大逆事件につながります。大逆事件はアナキストが爆弾を製造する計画を立てたことが弾圧のきっかけになりましたが、それとは無関係な社会主義者が全国で検挙され、秘密裁判で幸徳秋水をはじめ22人が死刑とされました。明治天皇の特赦で半数が無期とされましたが、この事件は天皇に反対することが、肉体的抹殺となり、家族も含めて村八分とするということをみせつけたのです。別の事件で獄中にいた堺、山川、大杉、荒畑たちは難を逃れることになります。この大逆事件の年に、韓国併合もおこなわれていきます。
●1920年代の左翼労働運動と日本楽器争議
このような弾圧のために、1920年代に盛んになった左翼労働運動でも活動家のなかに、天皇制のタブーや社会主義を悪とする意識がありました。1925年の共同印刷労組の少年部の意識調査をみても社会主義者を「憎い人」とする数値が高いものになっています。
第1次世界大戦を経て、機械金属産業がさかんになり、日本の労働者構成も成人男子が多くなります。1925年には左翼労働組合の全国組織である日本労働組合評議会が結成されました。資本主義と対決する労働運動が力をつけたのです。1926年の第2回大会の組織人員をみれば、3万1千人と倍増します。
評議会は関西と関東を拠点としますが、中部地域にも拠点を作り、全国展開へのばねにしようとします。全国各地で地域合同労働組合が結成されていきますが、浜松では浜松合同労組が結成されました。浜松合同は1926年初めの鈴木織機の争議に勝利しました。この争議は遠州地域での労働運動の始まりでしたが、闘いは燎原の炎のように燃え広がります。帝国製帽、日本形染、三立製菓など地場資本のほとんどすべての企業の労働者が浜松合同に結集し、日本楽器での闘いに行きつきます。
日本楽器争議へと評議会からは全国的な支援態勢がとられます。そこには三田村四朗もいました。三田村四朗たちは「争議日報」を発行していますが、それは1925年の5・30事件での中国のストライキの支援で学んだ手法でした。この1926年の105日に及ぶ日本楽器争議には内務大臣の直接指示のもとで5月、7月末から8月にかけての2回にわたる弾圧がかけられました。特に7月末からの弾圧は評議会の大阪にあった本部をはじめ評議会関係の全組織の幹部が拘束されるような激しいものでした。
当時、日本共産党は国際共産党(コミンテルン)日本支部・日本共産党の形をとり、革命ロシアの支部として活動しています。その大衆的基盤が評議会であったわけです。この評議会を日本の権力は敵視し、評議会の運動が全国に展開する前に日本楽器争議を弾圧したわけです。そこには支配権力の鉄の意志が働いていたわけです。
地方都市の楽器という消費財メーカーの争議が階級闘争の焦点になったのです。聞き取りで感じたことですが、弾圧された当人たちはそのことには無自覚でした。翌年には中国の国民革命に介入する山東出兵がおこなわれます。国内の運動を弾圧し、権益擁護や居留民保護を口実に、侵略戦争がすすめられていくことになります。
●左翼労働運動の総括
結果としては日本の民衆は戦争を許すことになります。弾圧には激しいものがありましたが、それを理由にしてしまえば、総括にはつながらず、教訓を得ることはできません。
個別の闘いには労働争議だけではなく、都市民衆の米よこせの闘いや農民組合運動をはじめ優れた運動がありましたが、それが戦争反対、天皇制反対に結びついていたのかを検証すべきです。政治スローガンとしては反戦があっても、それを目の前の運動とむすびつけるための、だれにもわかりやすい説明はなかったといえるでしょう。
また、労働運動が民族主義や排外主義を克服することができなかったのです。左翼であっても中国・朝鮮を見下し、日本を優位に置くという姿勢を克服できなかったとみるべきでしょう。天皇制イデオロギーは具体的には教育勅語と軍人勅諭として現れますが、この忠君愛国の思想は天皇ために命をささげるというものです。1936年生まれの私も当時は軍国少年でした。
当時共産党は『赤旗』とは別に非合法出版物や合法紙の『無産者新聞』などを出していますが、排外主義を克服するための意識的な努力が弱かったのです。労働現場でも朝鮮人労働者の賃金差別に対しても、連帯の闘いはわずかです。社会主義者が集まった1922年の極東勤労者大会では朝鮮の代表がこの差別の問題を訴えています。その際にコミンテルン議長のジノビエフは、「日本人は母乳とともに愛国主義の毒液を飲まされている」と批判していますが、この「愛国主義の毒液」への自覚が不十分でした。その会議に日本代表として出席していた片山潜の発言をみても、主体的に取り組もうとする姿勢に欠けていました。
●地域ユニオンへの結集を
もう一つ重要な課題は地域社会と労働運動との関係です。地域社会は支配の網の目が張られる場でもありますが、労働者も非労働者も地域住民として生きる場であり、賃金を生活物資に変える場でもあるわけです。この地域社会を土台から変えていかないと戦争に向かう動きを止めることができません。戦前の左翼の活動にはこの地域社会への視点が弱かったと思います。
満州事変前の1930年12月から31年8月にかけて、軍部は将官クラスが講師になって住民を対象に全国1866会場で165万人余を動員して講演会を実施しています。地域社会を軍の側に獲得することが狙いです。それは、満州に行けば広大な大地があり、土地を獲得できるとするものであり、「土地を耕作農民に解放せよ」と主張していた農民運動の要求を侵略戦争へとすり替えるものでした。
ゾルゲというスパイがいましたが、かれは優秀なオルグ、研究者でした。彼は農村を実地調査しています。農村での身売りに象徴される荒廃した実態をみるなかで、かれは日記に、優れたアジテーターがいれば軍部は大きな顔ができない旨を記しています。大衆にわかりやすく、生き生きと扇動するアジテーターが求められるわけです。貧困の拡大のなかで、戦争を阻止する条件が十分にあったとみるべきでしょう。
大阪では、橋下の維新の会がファシズム的な手法で支持を増やしています。それは社会的弱者や差別されているものに攻撃を集中するというものです。没落した人々に組織労働者への憎悪を煽り、攻撃させるのです。かつてヒトラーは突撃隊を使って労働者クラブを襲撃させ、労働者の日常的な連帯の拠点を破壊しました。
何百年もの闘いのなかで獲得した労働者の権利をなきものにする、それが新自由主義です。彼らは目的意識を持って、そのような権利のはく奪を進めています。それを横から支えるような「連合」労働運動もつくりあげてきました。それは御用組合の枠を超えた動きであるとみます。
新自由主義によって非正規の労働者が増加する中で、貧困が広がり、その不満をファシズムが組織するのか、地域ユニオンが組織していくのかという時代に入ったのです。世の中を変えたいと考える労働者民衆は、地域ユニオンに結集して活動をすすめるときです。