いま天皇制を問う―女性宮家と排外主義―   

 20121223日、「いま天皇制を問う―女性宮家と排外主義―」をテーマに集会を持ち、討論をおこなった。はじめに「靖国中毒」という映像を見て靖国神社の本質を考え、桜井大子さんが「女性宮家と排外主義」をテーマに講演した。桜井さんは、女性と天皇制研究会や反天皇制運動連絡会での活動の体験から天皇制の現在を語った。その後の討論では、関心のない人々への提起の仕方、「Xデー」対応、排外主義の原因、天皇元首化の動き、アメリカの政治意思と天皇制・保守政権など様々な視点で論議が交わされた。最後に、NONOBANDが反戦歌を歌った。

 討論を聞きながら、戦後も未精算であった戦争を支えてきた問題が両目をあいて起き上がり、これからの改憲・戦争政権を支えるようになったように感じた。けれども、戦争と植民地支配の歴史は大地と民衆の記憶である。それを改ざんすることはできない。その歴史の地平から人間の尊厳・生命を起点に民衆の歴史を作りあげていくしかない。王様は裸であるし、嘘は最後には、ばれるものだ。

また、朝鮮認識は日本の現実を映し出す鏡であり、その鏡を壊そうとする力との対抗がいっそう求められるようなったように思った。それは、排外主義の言動を支えている植民地主義と戦後の冷戦構造を克服する認識が、この社会で支配的になっていくことでもある。課題は多いが、解決させていきたい。

以下は桜井さんの講演の要旨である。(文責・人権平和浜松)

 

 桜井大子「いま天皇制を問う―女性宮家と排外主義―」

 

はじめに

 浜松のみなさん、こんにちは、桜井です。一二月の衆議院選挙の結果、自民党が多数をとりましたが、安倍は改憲を掲げ、天皇元首化や自衛隊の国防軍化をすすめようとしています。その動きは2006926日から2007827日の時とは比べようのない危険なものです。

女性と天皇制研究会の連続講座では『いま反逆の女たちに出逢いなおす』をおこなっていますが、そこでの話し合いでは、「こんな時が来ることを見越して始めたのではないか、と思っちゃうね」という意見も出ました。このような状況の中で、隠微な形で繰り返される弾圧や右翼の暴力はいっそうエスカレートすると思われます。

それは、運動的には「冬の時代」なのかもしれませんが、それなら、頑張って冬を越しすしかありません。危機の時代を自覚し、春を目指しての越冬の闘いをすすめるしかないと思います。

●「女性宮家」と排外主義 

でははじめに、「女性宮家」と排外主義がどこでどう繋がるのか考えてみたいと思います。

「女性宮家」問題は、若い皇族は女子ばかり、という天皇制側の問題です。それは、近い将来である悠仁の時代には、皇族は皆無の可能性が大ということです。もし、悠仁が結婚できても、男子が生まれなければ皇位継承者も不在になります。さらに近い将来、女性皇族は結婚して「臣籍降下」します。そうすると、若くて元気な皇族が不在という情況が生まれます。また、天皇79歳、皇后78歳という高齢化の中で、「Xデー」も近いわけですし、体力の衰えにより「公務」も困難になっています。

権力の側は「公務」は維持させたいのですが、それがうまくいきません。皇太子夫婦への不安・不満もたかまっています。他方、秋篠宮に期待が集まりますが、皇族が減少するという事態は同じです。

このなかで「女性宮家」で急場をしのぐという案が出されてきたわけです。宮内庁やリベラル派は、ゆくゆくは女性の女系天皇が擁立することも考えていると思います。しかし、右派の伝統主義者は男系血統主義を維持させようとしています。「女性宮家」設立は女系への道であり、それは日本の伝統が滅びることであり、日本が滅びることと批判しているわけです。かれらは、皇籍離脱した元男子皇族を復活させ、女皇族と結婚させて、男子を出産指せるということまで言い始めています。天皇制はその存続が危機の中にあるわけです。 

 つまり、「女性宮家」問題は、世襲制である天皇制の伝統の破綻とそれに対する悪あがきによるものです。「世襲制」とは、女性に生身の身体を要求するという政治システムであり、非人道的なシステムであると思います。世襲制では差別が重層化されますが、それが天皇制の本質的な問題点です。そのような差別構造が社会全体で内面化されていることが問題です。女系天皇制となってもこの世襲制や身分制の本質は変わらないのです。

 天皇制ヒエラルヒーは天皇、皇族男、皇族女、「民間」男子、「民間」女子、被差別条件を持つ男女という身分制度で、それぞれの身分内でさらに細分化されます。女性の身分内でも、本妻、側室(妾)、遊女(売春婦)などで差別されてきました。「女性宮家」はこの構造におさまらないものになる可能性が高いわけですから、伝統主義者は嫌うわけです。

 「女性宮家」問題とは、その論議が展開されるなかで、このようなヒエラルヒーや家父長制的な価値観、残酷な人権無視の世襲制、天皇一族が特別でなくてはならない存在であることなどを、内面化させようとするものです。それは、天皇との距離で社会的なステータスを決めるという身分制度を容認させるものともなります。

 そもそも、戦前からあるこのヒエラルヒーが残っていること自体が問題です。かつては、この天皇制の価値観を内面化することで侵略が正当化されました。いま、そのような歴史の反省をしない親や共同体によって育てられた2世、3世の自国民主義が問題になっているわけです。ここに、日本の排外主義の特徴の一つがあると考えます。

 わたしは、「女性宮家」問題としてみるのではなく、「女性宮家」論議の問題として捉えること、つまり、女性宮家がいい、悪いと論じるのではなく、女性宮家の議論が生まれる、その本質の問題や、その論議が展開される事による社会的影響に対してのカウンター言説が必要であると思います。

●排外主義跋扈の現在とは

「広辞苑」では排外主義を「外国人または外国の文物・思想を排斥すること」としていますが、反天皇制運動では、排外主義が日常的に、暴力的な攻撃、暴力的な言辞を伴ってあらわれています。たとえば、デモ参加者への殴り込み、デモ車への攻撃、デモグッズの強奪などの暴力や「たたき殺せ」「日本からたたき出せ」「この害虫ども」「朝鮮に帰れ」「売春婦」などなどの暴言があびせかけられます。

けれども、右翼・排外主義者の排斥の対象は、中国人・朝鮮人、元軍隊「慰安婦」などです。ある在特会メンバーが「アメリカ人やイタリア人に間違われてもかまわないが、中国人や朝鮮人と間違われるほどいやなことはない」と語っているのを聞いたことがあります。排斥の対象は決して外国人一般ではないのです。また排外的な言動を示してはいますが、在日の人たちをそれほど憎むような具体的な経験はないのではとみられます。

彼らのような排外主義者にとって、中国人・朝鮮人は一種のイコンのようなものであり、排撃への思いを形象する記号のようにされているわけです。反天連もまた「朝鮮人」とされ、排撃されます。罵倒するための表現に「朝鮮人」「中国人」が使われているわけですが、そこには、特定の歴史観やイデオロギーが内在しています。天皇制を否定したり、戦争責任を追及し、過去の戦争についてとやかく言う存在への忌避感があります。

さて、もう少し具体的に排外的な動き、日本社会の問題点について考えてみたいと思います。

なぜ、反天連は白昼の街頭で「コーロセ、殺せ、ハンテンレン」のコールを浴びるのでしょうか。なぜ、反天皇制実行委や反天連の集会・デモでは、右翼と警察になやまされるのでしょうか。なぜ、そもそも会場や公園を借りられない、デモ申請でもめるという情況にあるのでしょうか。なぜ、反天皇制のデモでは、「国賊」に加えて「朝鮮人」と呼ばれるのでしょうか。なぜ、軍隊「慰安婦」問題の集会会場の防衛など手伝っていると「お前も売春婦だろう」といわれるのでしょうか。なぜ、街頭でチラシを配っていると、多くの人は恐ろしい相手から逃げるように避けるのでしょうか。なぜ、なぜ、それらは日本社会の常識となり、その問題性が気づかれないのでしょうか。

靖国をめぐる反天皇制の行動への排撃が最も激しいものになっていますが、それは一つのバロメーターであり、表現への攻撃の同様な事態が進行していくのではないでしょうか。

具体的な体験からこのような問いが次々に湧いてきます。ここには、天皇制ヒエラルヒーからはみ出す者、まつろわない者を胸はって排斥するという論理が跋扈しているのだと思います。「女性宮家」論議には、そういった排外主義を支える思想醸成のための言説に一つです。天皇制の存続のための対策ではなく、天皇制自体を問い、なくすべきなのです。

 

おわりに

いまや、右翼・保守派の歴史観が、特別に酷いものとしてあった時代は終わり、それがメインストリームのようになっています。それは、歴史観をめぐる最後の本格的な闘いの局面に入ったといえるのかもしれません。この半世紀、天皇制の戦争責任、植民地責任を国家が果たすことなくきたわけですが、その責任を国家にキチン取らせることが求められます。真実と正義の実現に向けてともに活動しましょう。

ドイツではネオナチの行動が民衆に包囲されると聞きます。天皇制に反対する行動が日の丸を掲げた集団から暴行・暴言をうけるという異常を、異常と感じられない日本の現実をともに変えていきましょう。