中島飛行機浅川地下工場
二〇一三年三月、強制動員真相究明ネットワークの主催により第六回強制動員真相究明全国研究集会が開催され、集会後に浅川地下壕の見学会がもたれた。中島飛行機浅川地下工場については、斉藤勉『地下秘密工場 中島飛行機浅川地下工場』、浅川地下壕の保存をすすめる会『フィールドワーク浅川地下壕』や「フィールドワーク用資料」(中田均作成)などがあり、それらの資料から中島飛行機浅川地下工場についてまとめてみよう。
陸軍は中央線高尾駅の南西部に巨大な地下施設の建設を計画した。この地下壕工事は東京では最大級のものであり、「ア工事」と呼ばれた。陸軍東部軍経理部が施主となり、工事は一九四四年九月から鉄道建設興業へと発注してはじめられた。鉄道建設興業の下で工事を請け負ったのは佐藤工業であり、その下に多数の朝鮮人が動員された。
一九四四年末、東京への空襲が激しくなり、中島飛行機武蔵工場が被害を受けるなかで、この浅川の地下施設は中島飛行機武蔵工場の地下工場として利用されることになった。一九四五年二月には第一期工事である落合のイ地区工事が完成し、工作機を据え付けて発動機生産がはじまった。さらに第二期工事がおこなわれ、イ地区の整備・拡充、金比羅山のロ地区、初沢山のハ地区の掘削などがすすめられた。この工事でロ地区は佐藤工業が、ハ地区では新たに大倉土木が請け負った。
また、地上の倉庫・事務所・宿舎などの建物の建設や引込線の敷設工事もすすめられた。地上施設の建設には大倉土木、青木組、海軍工作学校、陸軍経理部特設作業隊があたった。六月に「派遣演習」として動員された海軍工作学校の生徒には台湾と朝鮮の「特別志願兵」が含まれていた。本部は料亭高橋屋におかれ、生徒は旅館や寺に分宿した。引込線の建設には青木組の下で五〇〇人の朝鮮人が動員され、飯場が一二棟ほど建てられた。
朝鮮人は高槻や平牧での地下壕建設のように、東部軍経理部特設作業隊、地下施設隊、建設勤務中隊、国鉄熱海地方施設部(第一特設建設隊)、大倉土木や佐藤工業の下など、さまざまな形で動員されていたとみられる。
イ地区の佐藤工業の労働者の飯場は、落合や浅川国民学校の南東側につくられた。下請けの組には岡田組、林組、山田組、米林組、竹田組、木田組などがあり、その配下に朝鮮人約五〇〇人がいた。佐藤工業は落合と初沢の両方から掘り進んだ。
ハ地区の工事は一九四五年四月ころからはじまったが、そこには大倉土木・日本坂トンネル工事現場から転送されてきた池田組の朝鮮人もいた。飯場は浅川町原にあり、転送者は三角兵舎に詰め込まれた。
一九四五年に、大倉土木へと朝鮮人二〇〇人を「斡旋」する計画があったように、軍による建設計画の実行のために朝鮮人が労働力として計画的に動員・連行されていたのである。浅川での地下壕工事へと集められ、労働を強制された朝鮮人数は二〇〇〇人ほどになるだろう。
このような形で、地下工場が建設されていったわけであるが、地下工場は湿気が強く、低温であり、換気も悪かった。生産の能率は上がらず、空襲の増加により出勤率も低下した。空襲が増加し、地下壕の建設に動員されるなかで、敗戦による解放は近いと感じた人々もいただろう。それは地下壕の暗闇の中に光る希望だった。
当日のフィールドワークでは、朝鮮人飯場の跡地や巨大な地下壕のなかを歩き、発破やトロッコの跡などをみた。当時の労働の現場に立ち、その歴史を考えることができた。
(二〇一三年記事)