日本での朝鮮人強制連行調査の現状と課題         2013330日 

                 

はじめに

 

日本での朝鮮人強制連行調査の現状と課題をテーマに、1日本各地での強制連行調査の歴史、2強制連行調査のための史資料、3強制連行数と動員先、4強制連行調査の課題の順にみていきます。

わたしは1957年生まれですが、強制連行・強制労働の地域調査を始めたのは、1980年代の後半でした。歴史研究としては地域史、アジア関係史、民衆運動史などに関心があったのですが、天皇代替わりのなかで民主主義と戦争責任が問題となり、地域から戦争責任や植民地支配の責任を問う形で静岡県での強制連行の調査をはじめました。

朝鮮人中国人強制連行強制労働を考える全国交流会にも参加し、静岡での強制連行調査や東京麻糸沼津工場朝鮮女子勤労挺身隊裁判などに関わったのですが、1990年代半ばからは全国動員先の調査をはじめ、全国地図の作成をおこないました。2000年に入って真相究明の動きが高まるなかで、死亡者名簿の作成、連行者数・未払い金・遺骨の調査、軍人軍属名簿や行政文書などの分析をおこなってきました。地域調査だけではこの問題が解決できないと考えたからです。

わたしは、皇国臣民化と集団移入は、「人道に対する罪」での奴隷化や強制移送(強制連行)にあたるものであり、戦争犯罪とみる立場です。とくにその強制性への歴史認識が大切であると考えています。

 

1日本各地での強制連行調査の歴史

 

 最初に、日本各地での強制連行調査の歴史からみます。ここでは1940年代、50年代、60年代と順を追って現在に至るまでをみていきます。これから研究される方も利用できるような形でまとめていきたいと思います。

 

@    1940年代

1940年代前半は、国家総動員により、皇民化政策が強められ、朝鮮半島からの強制連行が展開された時期です。この時点での行政の調査は強制連行をすすめ、動員した朝鮮人を監視するためになされました。日本敗戦後の40年代後半は隠蔽と過去の正当化のはじまりです。

中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」1942年には、42年3月と42年6月までの都道府県ごとの移入数と事業場名が記され、6月の時点では移入数は17万4170人、動員事業場は約400箇所です。この史料は官斡旋が展開される時期での統計です。陸海軍返還文書の内務省警保局保安課『協和事業関係』に含まれていたもので、この『協和事業関係』には1943年3月の「移入労務者就労職場数調」「移入朝鮮人労務者数調」も収録されていました。ここから動員現場が522事業場、動員数が28万2931人であったことがわかります。この頃に連行企業の側の視点で記されたものが、前田一『特殊労務者の労務管理』です。

内務省警保局「特高月報」にも募集や官斡旋、家族呼び寄せなどの連行者数が記されています。「移入者現在調」から都道府県ごとの移入数が1943年12月まで判明します。政府による調査のための県レベルでの調査が、宮崎県「昭和18年2月事業別移入朝鮮人調」(地方長官会議書類1943年)、福岡県特高課「労務動員計画ニ依ル移入労務者事業場別調査表」(1944年1月現在)などです。

 朝鮮からの動員数(送出数)を示す史料が、朝鮮総督府財務局の「第85回帝国議会説明資料6労務事情」1944年9月、「第86回帝国議会説明資料4労務事情」1944年12月などです。ここには、それまでの朝鮮からの年度ごとの送出数、軍要員送出統計が記されています。その数値は朝鮮総督府鉱工局勤労動員課の資料によるものです。後に言及しますが、朝鮮総督府鉱工局勤労動員課関係の資料調査が重要です。朝鮮総督府の帝国議会説明資料については『帝国議会説明資料』(全17巻)が復刻されています(1994〜98年)。

また、厚生省「朝鮮人勤労状況報告」(1944年12月)があります。ここには1944年3月までの動員数、39万2997人の記載があります(金英達収集史料)。

 動員朝鮮人の名簿も作成されています。企業作成の名簿類もありますが、名簿については次の「強制連行調査のための史資料」の項でみます。軍関係の名簿には陸軍「留守名簿」、「工員名簿」、海軍「軍人履歴原表」「軍属身上調査表」などが作成されています。

戦後の行政調査についてみれば、厚生省勤労局「朝鮮人集団移入状況調」(1945年10月)があり、動員数を調査しています。また、未払い金が問題になるなかで厚生省勤労局による「朝鮮人労務者に関する調査」(1946年)がおこなわれました。この調査では、事業場ごとの名簿が作成されましたが、17府県分が集約されたようです。未払い金問題については供託がなされましたが、この実態調査は、労働省『朝鮮人の在日資産調査報告書綴』1950年にまとめられ、のちに大蔵省『経済協力 韓国105労働省調査朝鮮人に対する賃金未払債務調』に集約されていきます。

また、1946年3月には外務省「華人労務者就労事情調査報告書」(全5分冊)が作成されました(1995年復刻『中国人強制連行資料−外務省報告書全五分冊ほか』)。これらは「華人労務者就労顛末報告書」(135事業所)をまとめたものです。「華人労務者就労顛末報告書」には朝鮮人についての記載があるものもあります。これらの書類は東京華僑総会に所蔵され、1994年に日本政府は実物と認知しました。現在では外交史料館で閲覧できます。

さらに1946年には『日本人の海外活動に関する歴史的調査』の調査が始まります。同書の通巻8朝鮮編7、同10朝鮮編9には労務動員の統計が収録されています。

日本建設工業会「華鮮労務対策委員会活動記録」(1947年)からは、動員をした側が政府から補償金を獲得したことがわかります。

南北分断国家成立前から徴兵・徴用への賠償要求があり、1949年2月には、韓国で対日賠償審議会が設置され、「対日賠償要求調書」が作成されます。植民地支配や徴用(強制連行)が賠償請求の対象とされていったわけです。

 

A    1950年代

 1950年代の特徴は、朝鮮戦争と日本の独立、日韓交渉の開始と日本による植民地支配の正当化、中国人連行者遺骨送還の開始などです。

 1951年10月には第一次日韓交渉がはじまりますが、この交渉での請求権委員会で、韓国側は対日請求項目を提示し、そこには被徴用韓人未収金の項目がありました。1953年4月には第二次日韓交渉、10月には第三次日韓交渉がはじまりますが、植民地支配を肯定する久保田発言により、会談は止まりました。日本側が久保田発言と在韓日本人私有財産請求を撤回する中で、1958年4月に第四次日韓交渉がはじまりますが、北への帰国事業問題で対立し、中断します。

 このような日韓交渉がすすむなかで、法務省入国管理局総務課「朝鮮人人員表(地域別)分類表(陸軍)」1953年、法務省入国管理局総務課「終戦後朝鮮人海軍軍人軍属復員事務状況」1953年などの書類が作成されました。ここでは朝鮮人軍人軍属数は約37万人となります。53年5月、外務省調査員から入国管理局総務課に法務事務官として入った森田芳夫は「数字からみた在日朝鮮人」『入管執務調査資料』8(法務省入国管理局1953年)を記しています(同「数字からみた在日朝鮮人」『外務省調査月報』1−9外務省北東アジア課1960年12月、『数字が語る在日韓国・朝鮮人の歴史 』1996年に収録)。さらに森田は「在日朝鮮人処遇の推移と現状」(『法務省研究報告書』43−3法務研修所1955年7月、復刻1975年)なども記しています。ここでは労務動員を約60万人としています。なお、朴在一「在日朝鮮人に関する綜合調査研究」が1957年に出されています。

この時期には返還されない朝鮮人遺骨も問題になっています。呉地方復員部による『朝鮮出身死没元海軍軍人軍属御遺骨等奉安名簿』(1955年)が作成されたのはこのころです。

韓国側に対抗して、外務省は「在日朝鮮人の渡来および引揚げに関する経緯、特に、戦時中の徴用労務者について」(記事資料1959年7月)で入管の資料を利用して、徴用数が少ないというキャンペーンをおこないました。しかし、その宣伝に使われた原資料をみると、徴用数が少なくはないことが逆にわかります。森田は59年8月に外務事務官として北東アジア課に勤めるようになります。

1950年代は、民間での中国人強制連行が調査すすみ、1950年11月、東京華僑連合会主催「花岡殉難者416烈士追悼会」が開催され、1953年2月には中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会が発足し、全国各地で連行調査と遺骨発掘事業が展開され、64年までに約2300体、9次の遺骨送還がなされました。各地で報告書が発刊されています。その活動には在日朝鮮人も参加しました。1960年には中国人殉難者名簿共同作成実行委員会 により『中国人強制連行事件に関する報告書』全3篇がまとめられます。この報告書や中国人連行者名簿は復刻され、『資料中国人強制連行』1987年、『資料中国人強制連行の記録』1990年に掲載されています。

 

B    1960年代

1960年代の特徴は、ベトナム戦争の拡大と日韓条約の締結です。冷戦下のアメリカの政治意思が日韓支配層を結合させ、植民地支配は未清算のまま、経済協力金による国交回復となります。 

1960年5月に第五次日韓交渉が始まると、韓国側は対日請求要綱(八項目)を提示しますが、そこには、被徴用韓人の未収金、人的被害補償、他の請求が含まれていました。しかし交渉は、1961年5.16の朴正煕クーデターで中断します。

1961年10月には第六次日韓交渉がはじまり、被徴用者未収金などの具体的な交渉がなされます。しかし、1962年10・11月の大平・金会談で「経済協力」での決着がすすめられ、1965年6月22日の日韓条約締結へとつながります。

この第6次日韓交渉では1962年2月に一般請求権委員会の下に被徴用者等関係専門委員会がもたれ、外務省会議室で計4回の交渉がもたれます。ここで徴用問題(連行)での具体的なやり取りがなされたわけです。

この第6次日韓会談下での日本政府による調査資料が重要です。資料には、豊島陞「朝鮮人の労務動員に関するメモ」(元朝鮮総督府鉱工局勤労動員課長、外務省への1961年提示資料)、大蔵省理財局「韓国請求権補償金問題参考資料」(理・外)1961年10月、外務省「被徴用韓人関係資料」1961年10月、外務省北東アジア課「朝鮮人移入労務者数」1962年2月、外務省北東アジア課「韓国人移入労務者数について―討議用資料―」1962年2月、厚生省援護局「朝鮮在籍旧陸海軍軍人軍属出身地別統計表」1962年などがあります(金英達収集史料)。

外務省北東アジア課の「韓国人移入労務者数について―討議用資料―」では、外務省は厚生省資料から集団移入朝鮮人労務者数 66万7864人終戦時現在数32万2890人と認知しています。韓国側主張の被徴用韓人の数値と同様のものを認めていたわけです。

この間の日本側の賠償に関する数値の検討資料をまとめたものが、大蔵省理財局日韓請求権問題参考資料』1963年です。この史料は国立公文書館に所蔵されていますが、主要な数値は黒塗で「公開」されています。また、1964年1月に『日韓会談における韓国の対日請求八項目に関する討議記録』もまとめられていますが、これも黒塗り公開です。また、1963年4月には「朝鮮人労務者の動員と徴用経緯について」(『入管管理月報』31)が出ています。

 さらに、外務省北東アジア課は『日韓国交正常化交渉の記録』の編纂を1967年に指示し、1総説、2手記談話、3資料の形で、森田芳夫らが編集をすすめていきます。この文書も1・3の主要な部分が黒塗で公開されました(復刻・浅野豊美・吉沢文寿編『日韓国交正常化問題資料 基礎資料編6』2011年)。

なお、森田芳夫は「戦前における在日朝鮮人の人口統計」(『朝鮮学報』48、1968年、『数字が語る在日韓国・朝鮮人の歴史 』1996年再録)を記しています。さらに1970年には外務研修所で講演し、その内容は『日韓関係史』外務省北東アジア課(1973年)にまとめられています。ここで森田は朝鮮での戦争動員についてもふれています。森田芳夫の経歴については「森田芳夫先生略年譜」(『年報朝鮮学』3、九州大学 朝鮮学研究会1993年)に詳しく記されています。

なお、強制連行の問題については1965年12月、参議院日韓条約等特別委員会で黒柳明が強制労働とそれへの補償について質問しています。

さて、このような徴用(強制連行・強制労働、軍人軍属も含む)への賠償要求が出されるなかで、日本国内での民間調査がすすんでいきました。

太平洋戦争中朝鮮人殉難者慰霊準備委員会「朝鮮人殉難者資料」、「太平洋戦争時朝鮮人殉難者慰霊大法会報告」から、1959年に「太平洋戦争時朝鮮人殉難者慰霊大法会」がもたれたことがわかります。朴慶植『太平洋戦争中における朝鮮人労働者の強制連行について』(朝鮮大学校地理歴史学科1962年)を中国人強制連行調査に触発されながら記しています。連行され死亡した人も多い筑豊では、福岡県在日朝鮮人殉難者慰霊祭実行委員会兄弟よ安らかに眠れ「朝鮮人殉難」の真相』(1963年)を発行しています。また、大島渚・牛山純一『忘れられた皇軍』(1963年)が制作されましたが、これは元日本軍在日韓国人傷痍軍人会を描いた作品でした。

法政大学大原社会問題研究所の『日本労働年鑑 太平洋戦争下の労働者の状態』(1964年)の第2編第3章産業労務動員と国民徴用では、朴慶植の仕事を引用して記述しています。この64年には、中国人強制連行事件資料編纂委員会編による『草の墓標中国人強制連行事件の記録』も出版されました。

日韓条約は植民地支配下での強制連行問題を解決することなく調印されようとしていたわけですが、それを批判して朴慶植は調印前の1965年5月に『朝鮮人強制連行の記録』を出版しました。この本の最後に「在日朝鮮人に関する文献目録」があり、当時の調査状況がわかります。

1967年には松村高夫「日本帝国主義下における植民地労働者」(『経済学年報』10慶應義塾経済学会、『日本帝国主義下の植民地労働史』2007年に再録)が記されています。現地調査では、『長野県における朝鮮人強制連行の実態調査について』信州大学朝鮮文化研究会1967年、日朝協会仙台支部『太平洋戦争中の細倉鉱山における朝鮮人労働者の実態』(1968年)などが出されています。

 

C1970年代

1970年代には、韓国朴政権による政治弾圧が強まり、政治犯救援運動がたかまりました。また、民間の強制連行調査がはじまりました。

民間での運動としては、1972年の朝鮮人強制連行真相調査団の結成があります。朝鮮人強制連行真相調査団は朝鮮人と日本人が共同して1972〜75年と北海道、沖縄、東北調査をおこないました。その活動は『第2次大戦時沖縄朝鮮人強制連行虐殺真相調査団報告書』1972年、『朝鮮人強制連行強制労働の歴史―北海道・千島・樺太編』1974年、『1970年代強制連行真相調査団の記録』(1992年復刻)などにまとめられています1972年には北海道在日朝鮮人の人権を守る会が『ホッカイドー!ホッカイドー!生きて再び帰れぬ地』という冊子を出しています。

朴慶植らは1976年6月に東京で在日朝鮮人運動史研究会を結成し、1979年には関西部会が活動を始めます。この会は『在日朝鮮人史研究』を発行し、そこには強制連行調査関係論文や資料が掲載されていきます。

朴慶植は『在日朝鮮人関係史料集成』(1975〜76年)全5巻で「特高月報」・「社会運動の状況」や裁判調書などを復刻します。4・5巻には強制連行期の史資料が多数収録されています。中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」1942年や北炭史料他を収録した小沢有作編『近代民衆の記録10在日朝鮮人』(1978年)、金賛汀『証言朝鮮人強制連行』1975年、山田昭次「朝鮮人・中国人強制連行研究史試論」(『朝鮮歴史論集下』、1979年)なども出されました。

また、地域での調査もすすめられ、小池喜孝『鎖塚 自由民権と囚人労働の記録』1973年、『掘る 北海道の民衆史掘り起し運動』北海道歴史教育者協議会1977年、『相模湖ダムの歴史を記録する会中間報告相模湖ダムを記録する会1977年、長野県朝鮮人強制連行・強制労働調査準備会『松代大本営工事朝鮮人強制連行・強制労働の実態調査報告書』『戦時下松本市里山辺における朝鮮人強制連行・強制労働の実態調査報告書』1977年、『調査報告(中島飛行機吉見地下工場)』中島飛行機朝鮮人強制連行の歴史を調査する会1977年、戸塚秀夫「日本帝国主義の崩壊と『移入朝鮮人労働者』−石炭産業における一事例研究」(隅谷三喜男編『日本労使関係史論』1977年)、朴秀馥・郭貴勲・辛泳洙『被爆韓国人』1975年、広島朝鮮人被爆者協議会『白いチョゴリの被爆者』1979年などが出され、サハリン在住朝鮮人の調査も始まります。1970年代には、三菱、三井、帝人、大成、鹿島、間など企業の侵略責任を問う動きも起きました。

 

D1980年代

1980年代は、韓国で民主化運動がすすみ、1987年には韓国で太平洋戦争犠牲者遺族会の活動が再出発しました。日本では指紋押捺拒否の運動が高まり、そのなかで植民地主義の継続が問題になりました。また、80年代は各地で市民による調査が民衆史運動として展開した時期です。さまざまな調査・研究の成果が出版され、それらの活動が1990年の第1回朝鮮人中国人強制連行強制労働を考える全国交流集会開催につながります。

資料集としては、朴編『朝鮮問題資料叢書』の1・2巻戦時強制連行労務管理政策1981、82年、4巻協和会機関誌1982年、13巻日本敗戦前後の在日朝鮮人の状況(千葉県警察部特高課『昭和20年内鮮報告書類編冊』、新潟県警察部特高課『昭和20年内鮮関係書類綴』)1990年があり、『戦時強制連行「華鮮労務対策委員会活動記録」』アジア問題研究所1981年も復刻されました。1986年には辛基秀の記録映画『解放の日まで』が上映されました。

労務での連行を調査したものを北海道から九州の順にみれば、森岡武雄『はるかなる海峡 蔡晩鎮物語』1982年、『続 掘る』民衆史道連1988年、『笹の墓標 朱鞠内・ダム工事掘りおこし』1986年、石田真弓『故郷はるかに』1985年(常磐炭田)、埼玉県滑川高校郷土部「比企地方の地下軍事施設」『比企』3,1984年、和田登図録松代大本営』1987年、沢田猛『石の肺』1985年、金浩「日本軽金属(株)による富士川水電工事と朝鮮人労働者動員」(『在日朝鮮人史研究』19)1989年、『悲しみを繰り返さないようここに真実を刻む』東南海地震旧三菱名航道徳工場犠牲者調査追悼実行委員会1988年、川瀬俊二『もうひとつの現代史序説』ブレーンセンター1987年、兵庫朝鮮関係研究会『兵庫と朝鮮人』1985年、金慶海・徐根植・宋成一・鄭鴻永・洪祥進『鉱山と朝鮮人強制連行』1987年、県北の現代史を調べる会『戦時下広島県高暮ダムにおける朝鮮人強制労働の記録』1989年、内藤正中『日本海地域の在日朝鮮人』1989年、梶村秀樹「海がほけた」(『在日朝鮮人史研究』10長生炭鉱)1982年、林えいだい『強制連行強制労働』1981年、同『消された朝鮮人強制連行の記録』1989年、上野英信・趙根在『アリラン峠 写真万葉録筑豊9』1986年、鄭清正『怨と恨と故国と』1989年、李興燮『アボジが越えた海』1987年、林えいだい『朝鮮海峡』1988年、山田ゼミ『生きぬいた証に』(多摩全生園での聞き取り)1989年などがあります。

樋口雄一『協和会』1986年は朝鮮人を監視した協和会についてまとめたものです。田中直樹『近代日本炭礦史労働史研究』1984年には連行初期の朝鮮人坑夫の統計や明治平山への連行状況を示す表があります。

軍務での連行については、内海愛子・村井吉敬『赤道下の朝鮮人反乱』1980年内海愛子『朝鮮人BC級戦犯の記録』1982年、宮田節子『朝鮮民衆と皇民化政策』1885年、福地曠昭『哀号朝鮮人の沖縄戦』1986年、海野福寿・権丙卓『恨!朝鮮人軍夫の沖縄戦』1987年、川田文子『赤瓦の家』1987年、浮島丸事件殉難者追悼実行委員会『浮島丸事件の記録』1989年などが出されました。

被爆者についても、吉留路樹『アイゴ!ムルダルラ』1980年、長崎在日朝鮮人の人権を守る会『原爆と朝鮮人』1〜6発行1982年〜94年、朴寿南『もうひとつのヒロシマ』1982年、鎌田定夫編『被爆朝鮮・韓国人の証言』1982年、広島長崎の証言の会『イルボンサラムへ』1986年、伊藤孝司『原爆棄民』1987年などが出されました。

映像としては『文部省非検定教科書日帝36年韓国・朝鮮と日本』日本テレビ1982年、牛山純一『あの涙を忘れない』(江華郡)テレビ朝日1989年などがあります。

 

E1990年代

1990年代は、強制連行、戦争責任、植民地支配責任、戦争被害者個人への賠償などについての問題が提起され、歴史認識が問われた時期です。裁判や証言での連行被害者の訴えや市民の支援のなかで、日本政府も1993年河野談話で「慰安婦」の問題を認め、1995年村山談話で植民地支配への謝罪の意を示しました。戦争被害者の声が時代を動かしはじめたのです。他方、90年代後半からは歴史改ざんの流れ、強制連行否定の宣伝が強められました。

 

a名簿・資料

韓国での過去清算の動きのなかで、1990年の盧泰愚訪日の際、日本側に名簿調査を求めました。その結果、発見された名簿類が韓国に提供されました。労務動員で主なものは厚生省勤労局「朝鮮人労務者に関する調査」1946年です。軍務動員では、陸軍「留守名簿」、「軍属名簿」(工員名簿)、海軍「軍人軍属名簿(軍人履歴原表・軍属身上調査表)」、「臨時軍人軍属届」、「兵籍戦時名簿」、「軍属船員名簿」、「病床日誌」、「俘虜名票」などが集約され、送られたわけです。

しかし日本政府はこれらの名簿を日本国内では公開してはいません。厚生省勤労局「朝鮮人労務者に関する調査」の名簿類は、韓国民団が日本国内で公開したことにより、93年に市民団体も見ることができるようになりました。NHKは『調査報告・朝鮮人強制連行初公開6万7千人の名簿から』1993年を制作しました。

真相解明のための調査がすすむなかで、1990年に第1回朝鮮人中国人強制連行強制労働を考える全国交流集会名古屋で開催されました。開催の呼びかけはピッタムの会でした。その後、交流集会は、91年兵庫、92年広島、93年奈良、94年長野、95年高槻、96年岐阜、97年松江、98年金沢、99年九州などで開催されていきます。交流集会では開催にあたり、開催現地での調査をまとめた資料集などを発行しています。このような運動の連携のなかで資料調査もすすみました。

飛田雄一、金英達、高柳俊男、外村大「共同研究 朝鮮人戦時動員に関する基礎研究」『青丘学術論集』4、韓国文化振興財団1994年2月では、戦時動員の概念整理と行政や企業の資料の整理がなされています。飛田雄一・金英達編『朝鮮人・中国人 強制連行強制労働資料集』1990年〜94年(新聞記事・文献目録)では、その間の新聞が収集され、文献目録も作成されています。

梁泰昊編『朝鮮人強制連行論文集成』1993年は、これまでの研究をふまえて、主要論文を収録し、各地の文献論文目録も掲載されています。そこには、朴慶植「朝鮮人強制連行」、山田昭次「朝鮮人強制連行研究史覚書」をはじめ、長澤秀「戦時下南樺太の被強制連行朝鮮人炭礦夫について」、佐久間昇「太平洋戦争下山形県における朝鮮人労働者の強制連行をめぐって」、伊田稔「山形県における朝鮮人強制連行の概況」、古庄正「在日朝鮮人労働者の賠償要求と政府及び資本家の対応」(岩手)、長澤秀「戦時下常磐炭田における朝鮮人鉱夫の労働と闘い」、佐藤泰治「新潟県における朝鮮人中国人強制連行連行に関するノート」、相沢一正「茨城県における朝鮮人中国人強制連行に関するノート」、戸島昭「徴用・動員・強制連行-戦時下山口県の工場労働者」、山田昭次「筑豊炭田の朝鮮人強制連行」富士川発電、神岡鉱山、多賀城工事、古河永松鉱山、日立鉱山、白根地下工事(山梨)、松代、平岡ダム、峰之沢鉱山、中島飛行機半田、高槻、鳥取、高暮ダム、高知、沖縄戦など各地の調査が集録されています。

 また、つぎのような史料集も出版されました。

戦後補償問題研究会編『戦後補償問題資料集』(全11巻1990〜94年)は、1戦時動員資料(企画院・軍需省、陸軍省)、2労務動員統計(戦時・戦後)、3軍事動員,4兵力動員実施、5新聞スクラップ1989〜91,6戦後補償関係法令通達1(援護・日韓協定)、7戦後補償関係法令通達2(未払金・軍事郵便貯金)、8GHQ文書(未払い金),9解放帰国関係、10BC級戦犯、11傷痍軍属補償裁判資料などで構成されています。今読みなおしてみても、主要なものが数多く収録されています。この資料集は残部があります。

林えいだい編『戦時外国人強制連行関係史料集』(全7冊1991年)は、T俘虜収容所 U朝鮮人1林えいだい(上下)、V朝鮮人2(白戸仁康・美唄、加藤博史・北炭、守屋敬彦・鴻之舞)、W中国人・朝鮮人・オランダ人・イギリス人(林えいだい・白戸仁康・武松輝男)などで構成されています。それまでに発見された史料類が数多く収録されています。

炭鉱関係の資料をまとめた、長澤秀編『戦時下朝鮮人中国人連合軍俘虜強制連行資料集 石炭統制会極秘文書』(全4巻1992年、「半島人労務者供出状況調」石炭統制会「労務者移動状況調」「県別炭砿労務者移動調」「労務状況速報」他)長澤秀編『戦時下強制連行極秘資料集』全4巻1996年(常磐炭鉱ほか)なども出版されました。収録された石炭統制会労務部京城事務所「半島人労務者供出状況調」は1943の朝鮮半島から日本の各地炭鉱への集団的な連行数を示す史料として重要です。

協和会関係では、『協和事業年鑑』[1941年復刻版]1990年、樋口雄一編『協和会関係資料集』全5巻1995年などが出されました。また、愛知県朝鮮人強制連行調査班・日朝協会愛知県連編『朝鮮女子勤労挺身隊と勤労動員・朝鮮「毎日新報」(1943〜45)から』(1993年)という記事調査もなされました。

 

b全国調査

1990年代には、全国各地で現地調査がすすみました。全般的なものとしては、朴慶植「朝鮮人強制連行についての調査研究」1991年7月(『在日朝鮮人・強制連行・民族問題』)、林えいだい『清算されない昭和』1990年、大阪人権歴史資料館『朝鮮侵略と強制連行』1992年、「百萬人の身世打鈴」編集委員会『百萬人の身世打鈴』1999年(証言集)、西成田豊『在日朝鮮人の「世界」と「帝国」国家』1997年などが出されています。

全国各地の調査では、朝鮮人強制連行真相調査団の活動の成果があります。朝鮮人強制連行真相調査団編による『朝鮮人強制連行調査の記録』が10年のうちに1992年四国、93年兵庫、93年大阪、97年中部東海、01年中国、02年関東Tとまとめられました。また、真相調査団による各地の調査や発見資料をまとめた『資料集』1〜20(1992〜2007年)が出され、『資料集』10には国鉄の「半島人労務者配置状況」1945年などが収録されています。証言集としては『強制連行された朝鮮人の証言』1990年が出されています。また調査団は各種の連行名簿を収集し、公開しました。

各地の調査団関係団体も次のような報告書を発行しています。京都府朝鮮人強制連行真相調査団『京都府の朝鮮人強制連行』1・2 1991・1993年、朝鮮人強制連行の真相を調査する千葉県朝日合同調査団『第2海軍航空廠と朝鮮人労働者』1・2 1991年、神奈川県朝鮮人強制連行真相調査団『強制連行の傷跡』1〜4 1993〜4年、大分県朝鮮人強制連行共同調査団『朝鮮人「強制連行」大分県の記録』1993年、山口県朝鮮人強制連行真相調査団『朝鮮人強制連行調査の記録』、『続・朝鮮人強制連行調査の記録』1994年・1995年、愛知県朝鮮人強制連行真相調査団『活動記録資料集』1994年、静岡県朝鮮人歴史研究会『朝鮮人強制連行の傷跡』1995年、西東京朝鮮人強制連行真相調査団『あの忌まわしい過去は再び繰り返されてはならない』1997年、埼玉県朝鮮人強制連行真相調査団『朝鮮人強制連行調査の記録 埼玉編 中間報告』1998年、栃木県朝鮮人強制連行真相調査団『遥かなるアリランの故郷よ』1998年、野添憲治『秋田の朝鮮人強制連行』1999年、李鐘泌『私の見てきた大分県朝鮮民族50年史』1992年。兵庫や大阪などの調査団も報告書を出しています。

全国各地の調査を北海道から九州の順にみていけば、北海道では、桑原真人『戦前期北海道の史的研究』1993年、杉山四郎『語り継ぐ民衆史』北海道出版企画センター1993年、路かささぎの会『一枚の火葬認許証から』1994年、鄭ル仁『当事者が書いた強制連行』彩流社1999年、守屋敬彦「第二次大戦下における朝鮮人強制連行の統計的研究」(北炭への集団的連行表作成、『道都大学教養部紀要』13、1994年)などがあります。1991年には『北海道開拓殉難者調査報告書』が出され、この時に北海道各地でおこなわれた調査の資料は北海道立文書館に収蔵され、閲覧ができます。ここには強制労働関係の調査資料も数多くあります。サハリン関連でも、朴亨柱『サハリンからのレポート』1990年、高木健一『サハリンと日本の戦後責任』1992年などが出されています。

 東北では、李又鳳『傷跡は消えない』1991年(花岡)、大塚一二『トラジ 福島県内の朝鮮人強制連行』1992年、 許在文・金潤任『はてしなき涯』1992年(田老)、『アイゴーの海 浮島丸事件下北からの報告』下北の地域文化研究所1994年、佐藤光安『韓国の心を知る旅』1996年(古河永松鉱山)などが出されています。

関東では、日吉台地下壕保存の会『日吉台地下壕』1993年、斎藤勉『地下秘密工場―中島飛行機浅川地下工場』1990年、東京都立館高校フィールドワーククラブ『これが運命だ・姜壽熙さんの聞き取り』1994年、群馬県朝鮮人韓国人強制連行犠牲者追悼碑を建てる会『「消し去られた歴史」をたどる』1999年、江東在日朝鮮人の歴史を記録する会『東京のコリアンタウン枝川物語』1995年、一條三子「埼玉県比企地域の地下軍事施設と朝鮮人労働者」(『在日朝鮮人史研究』21)1996年などがあります。

中部では、岐阜の地下工場や神岡鉱山での死亡者を調べた『ピッタム・地下軍事工場と朝鮮人強制連行の記録』1990年をはじめ、『証言する風景 名古屋発朝鮮人・中国人強制連行の記録』1991年、瀬戸地下軍需工場跡を保存する会『証言・資料集瀬戸地下軍需工場』1998年、内田すえの・此川純子・堀江節子『黒部底方の声』1992年、澤田純三「太平洋戦争化の雄神地下工場について」(『近代史研究』15富山県近代史研究会)1992年、強制連行の足跡をたどるIN富山『草民譜』1〜8 1991〜95年、小松現代史の会『石川県における朝鮮人戦時労働力動員』1〜3 1992〜93年、石川県教組金沢支部平和教育専門委『地域に学ぶ日本の侵略史』1993年、加端忠和「白鳥地下軍需工場建設(未完)の強制連行朝鮮人と直下村の人々」(『えぬのくに』37江沼地方史研究会)1992年、長野県歴史教育者協議会『戦争を掘る』1995年、里山辺朝鮮人中国人強制労働調査団『里山辺における朝鮮人中国人強制労働の記録』1992年、『故郷への轍』冊子刊行委員会1995年、強制連行展ぎふ1996実行委員会『岐阜県強制連行ガイドブック』1996年などが出されました。『静岡県史通史編6』1997年には厚生省勤労局名簿や地域調査をふまえた強制連行に関する記述が入りました。

 関西方面では、兵庫朝鮮関係研究会『地下工場と朝鮮人強制連行』1990年をはじめ、鄭鴻永『歌劇の街のもうひとつの歴史』1997年、脇本寿『朝鮮人強制連行と私』1994年、田中寛治編『朝鮮人強制連行強制労働ガイドブック奈良編』1997年、高野真幸編『朝鮮人強制連行強制労働ガイドブック資料集天理・柳本飛行場編』1999年、高槻「タチソ」戦跡保存の会『朝鮮人強制連行強制労働ガイドブック高槻「タチソ」編』1999年、『ワシらは鉱山で生きてきた』丹波マンガン記念館1992年、久保井規夫『地下軍需工場と朝鮮人強制連行』明石書店1995年、石田米子「岡山県における在日朝鮮人史の概要および研究の状況」(『在日朝鮮人研究の現段階』在日朝鮮人運動史研究会関西部会1991年、和久田薫『地域で育てる社会認識』(大江山鉱山)1990年、岡山15年戦争資料センター『岡山の記録1』1999年、花房英俊『はじまりはアリランから』1992年、亀島山地下工場を語りつぐ会『亀島山地下工場』1990年などが出されています。

 中国・四国では、広島の強制連行を調査する会『地下壕に埋もれた朝鮮人強制労働』1992年、深川宗俊『海に消えた被爆朝鮮人徴用工』1992年、『忘れられた兵士たち・ヒロシマ朝鮮人救援部隊』NHK199110月、鄭忠海『朝鮮人徴用工の手記』1990年、『山陰強制連行ハンドブック』全国交流会山陰実行委員会1997年、尾上守・松原満紀『住友別子銅山で「朴順童」が死んだ』1997年などが出されました。

 九州・沖縄では、林えいだい『死者への手紙』1992年(三菱高島)、田中直樹「第2次世界大戦期における朝鮮人「移入」労働者について」日本大学生産工学部研究報告B26−1・1993年(明治平山炭鉱の史料調査)、八幡製鉄の元徴用工問題を追及する会『八幡製鉄と強制連行』1998年、長澤秀「貝島炭砿と朝鮮人強制連行」(『青丘学術論集』14)1999年、坪内廣清『「募集」という名の強制連行』1998年、小松裕「近代の縮図球磨郡深田銅山の歴史」(『文学部論叢』57熊本大学)1997年、高實康稔『韓国・朝鮮人被爆者と強制連行』1996年、『九州の強制連行』全国交流集会九州実行委員会1999年などが出されました。

 軍務での動員については、樋口雄一『皇軍兵士にされた朝鮮人』1991年、伊藤孝司『棄てられた皇軍』1995年、1・20同志会『虐げられた青春』1991年、林えいだい『証言集 朝鮮人皇軍兵士』1995年、金元栄『或る韓国人の沖縄生存記』1991年、朴壽南『アリランのうた・オキナワからの証言』1991年、金成寿『傷痍軍人金成寿の「戦争」』1995年、李佳炯『怒りの河』1995年、姜徳相『朝鮮人学徒出陣−もう一つのわだつみのこえ』1997年などがまとめられました。

 朝鮮内での連行については、広瀬貞三「『官斡旋』と土建労働者 『道外斡旋』を中心に』(『朝鮮史研究会論文集』29)1991年があります。

 

c戦後補償裁判・行政調査

1990年代の特徴は、戦後補償裁判が始まり、日本政府と連行企業の責任が問われたことです。企業裁判関係では、古庄正編『強制連行の企業責任』1993年、山田昭次・田中宏編『隣国からの告発』1996年、『三菱は未払い賃金を支払え』三菱広島元徴用工裁判を支援する会1996年、全国一般長崎連帯支部『三菱重工と日本政府の戦後責任を問う』1992年、戦後責任を問う関釜裁判を支援する会『強制動員された朝鮮の少女たち』1995年、金景錫さんの日本鋼管訴訟を支える会『訴えられる日本鋼管』1993年などが出されています。浮島丸訴訟、朝鮮女子勤労挺身隊関係の不二越訴訟、三菱名古屋訴訟、東京麻糸沼津工場訴訟などの裁判資料も出されています。

軍人軍属を含む訴訟では、アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件訴状』第2版1992年、『韓国朝鮮BC級戦犯者の国家補償等請求事件訴状』1991年などが出されています。現地調査ではラバウルへの連行調査『金飛虎さんらは訴える』1993年などがあります。

市民の声に押されて行政による調査がすすめられたことも特徴です。松本市における戦時下軍需工場の外国人労働実態報告書』松本市史近代現代部門編集委員会1992年、神奈川と朝鮮』神奈川県と朝鮮の関係史調査委員会・神奈川県1994年、『半田の戦争記録』半田市1995年、『戦時下逗子の朝鮮人労働者』逗子市1995年、掛川市における戦時下の地下軍需工場の建設と朝鮮人に関する調査報告書』1997年、『北海道と朝鮮人労働者』朝鮮人強制連行実態調査報告書編集委員会1999年などが発行されています。

とくに北海道は、1994年に朝鮮人強制連行実態調査委員会を設置し、調査をはじめました。出版された『北海道と朝鮮人労働者』には北海道関係の史料や文献、年表などが掲載されています。また、編集にかかわった白戸仁康報告「労務動員関連資料の所在状況−北海道の強制連行実態調査資料を中心に」(日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会 出帆1周年記念国際シンポジウム2005年)では、数多くの資料の所在が明らかにされています。

 

d地下工場調査

1990年代には地下工場への動員の調査がすすみました。ここでは、坂本悠一「『高槻地下倉庫』工事と労働力動員」『ヒストリア』(152大阪歴史学会1996年)などから、高槻の地下壕への朝鮮人動員についてみておきます。

高槻は長野の松代、東京の浅川、愛知の楽田、福岡の山家などとともに戦争末期の5つの「緊急地下施設工事」のひとつですが、これらの工事は陸軍軍管区司令部の経理部が施主となり、国策会社・鉄道建設興業に発注され、高槻では間組に配分されました。工事にあたり運輸通信省下の国鉄の地方本部が建設隊を組織し、工事を担いました。高槻では第2地下建設部隊の下に3500人ほどの朝鮮人が動員され、地下壕の掘削にあたっています。

間組は各地の現場から高槻へと朝鮮人を動員しましたが、この他にもさまざまな形で労働力動員がなされています。中部軍管区特設作業隊の朝鮮人徴用者200人が奈良の北宇智村の航空燃料貯蔵庫の建設現場から高槻の現場へと転送、第31航空通信隊の一部が磐手国民学校に駐屯して動員、京都師管区工兵補充隊で編成された建設勤務514中隊、515中隊約五〇〇人の動員、大阪師管区歩兵第1補充隊員の朝鮮人兵士の動員、日窒鉱業土倉鉱業所から70から80人が動員、工兵第四連隊も動員されたとみられます。在日朝鮮人の地下工場建設の協力団体一心会による動員もありました。現地調査や資料調査でこのような動員状況が明らかになっています。

1945年11月の高槻の人口統計での男3009人、女674人から、男性の増加分は地下壕工事関係とみられます。空襲が激しくなると高槻の地下壕は川崎航空機明石工場の地下工場にされました。各地の調査からさまざまなことがらを学ぶことができます。

 

F2000年代

 2000年の特徴は2004年に韓国で日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会が結成されたことです。韓国内では民主化とともに2001年には太平洋戦争被害者補償推進協議会が結成され、被害者への補償を求めました。韓国内で過去清算の運動がすすみ、立法により過去清算のための各種の委員会が組織されました。韓国真相糾明委員会はその一つです。それに呼応して、日本で強制動員真相究明ネットワークが結成されました。 

また、2001年ダーバン会議(人種主義、人種差別、排外主義、および関連する不寛容に反対する世界会議)が開催されました。このような世界的な動きのなかで植民地責任論も提起され、略奪文化財の返還も課題とされるようになりました。2002年の日朝平壌宣言では植民地支配の過去の清算が明示され、日朝国交正常化にむけての交渉が開始されることになりました。

全国交流会に続いて、2000年からは強制連行調査ネットワークの主催で交流集会がもたれました。集会は2000年神戸と呉、01年大阪、02年花岡、04年北海道、06年済州島と開催されました。この動きに続いて、韓国での真相糾明委員会の設立に応えて、2005年7月には強制動員真相究明ネットワークが結成されました。ネットワークは名簿などの史料調査、遺骨の調査や発掘、未払い金調査をおこない、全国研究集会を開催してきました。集会は06年には福岡、07年東京、09年・11年神戸、12年東京と続いています。

日韓会談文書公開運動や遺骨の返還を求める運動も始まります。日本の過去の清算を求める国際連帯協議会も組織され、2002年の平壌集会以後、結成集会が03年に上海でもたれ、以後04年ソウル、05年東京集会、06年マニラ、08年ハーグなどで開催されました。

2004年に設立された日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会は、資料調査、調査報告書や証言集の発行、20万人に及ぶ被害申告の調査と被害の認定、海外での遺骨調査、釜山での強制動員資料館の建設をすすめました。2010年には対日抗争期強制動員被害調査及び国外強制動員犠牲者等支援委員会となり、これまでの事業を引き継ぎながら、被害認定と支援金の支給、動員戦犯企業リストの作成などをおこない、財団設立にも関与してきました。このような活動がすすむなかで、日本政府は韓国政府へと埋火葬史料、供託名簿(発見分)を提供し、軍人軍属遺骨(南分)を返還しました。

韓国内では、太平洋戦争被害者補償推進協議会、民族問題研究所、強制動員&平和研究会、韓日民族問題学会などによる民間の研究もすすみ、多くの書籍が出版されています。『韓日民族問題研究』には強制連行関連の論文も収録されています。

このような韓国内での強制動員に関する過去清算の運動は2012年の韓国大法院強制動員判決をもたらしました。その判決は三菱・日本製鉄動員被害者の訴えを認め、強制動員は不法であり、個人の損害賠償請求権は存在し、会社には支払責任があり、時効は認めないというものでした。それが信義・誠実であるとしたのです。

2013年には韓国の強制動員・委員会が解散することになり、今後の真相調査や遺骨返還、資料保存などに多くの課題があります。

 2000年に入っての資料集や全般的な調査報告をみてみます。庵逧由香編『朝鮮労務』(朝鮮労務協会、全4巻・別冊1、2000年)は官斡旋動員のためにつくられた朝鮮労務協会の雑誌の復刻です。資料集としては、樋口雄一編『戦時下朝鮮人労務動員基礎資料集』全5巻2000年、長澤秀編『戦前朝鮮人関係警察資料集』全4巻2006年(サハリン警察文書)、塚崎昌之編『大阪府特高警察関係資料昭和20年』2011年、山田昭次編『朝鮮人強制動員関係資料』全2巻2012年などが出されています。

新聞資料としては、広島の強制連行を調査する会『広島在留朝鮮人関係新聞記事データベース』2012年、広島韓国・朝鮮社会研究会編「戦前日本在留朝鮮人関係新聞記事資料集」2008年などがあります。戦前の記事については「戦前日本在住朝鮮人関係新聞記事検索」(京都大学水野直樹HP)があります。

福岡県での情報公開請求によって「火葬許可願綴」飯塚市、「火葬認許証控綴」穂波町、「埋火葬許可原簿」宮田町・笠松村、宮若市、「埋火葬書類」小竹町、「山田町役場受附帳」山田市などが公開されています。この公開によって炭鉱関連の死亡者が多数明らかになりました。

全般的な調査・研究としては、山田昭次・古庄正・樋口雄一『朝鮮人戦時労働動員』2005年、外村大『朝鮮人強制連行』2012年、内海愛子『戦後補償から考える日本とアジア』2002年、『告発証言集2』朝鮮日本軍「慰安婦」強制連行被害者補償対策委員会2003年、

野添憲治『遺骨は叫ぶ』2010年、吉沢佳世子「内地派遣朝鮮農業報国青年隊の研究」(『姜徳相先生古希退職記念 日朝関係史論集』)2003年、室田元美『ルポ悼みの列島』2010年などがあります。

各地での動きをみれば、北海道フォーラムによる遺骨調査、筑豊での無窮花堂の建設、紀州鉱山、長生炭鉱、神戸港湾、群馬などで追悼碑建設、北海道・東川、長野での証言調査などがあります。

労務動員に関する調査報告としては、北海道・サハリンでは、『2007年浅茅野調査報告書』強制連行・強制労働犠牲者を考える北海道フォーラム2007年、西田秀子「戦時下北海道における朝鮮人「労務慰安婦」の成立と実態」(『女性史研究ほっかいどう』1)2003年、石純姫「北海道近代における朝鮮人の定住化とアイヌ民族」(『東アジア教育文化学会年報』3)2006年、片山通夫『追跡!あるサハリン残留朝鮮人の生涯』2010年、今西一「樺太・サハリンの朝鮮人」(『小樽商科大学人文研究』121)2011年などがあります。

東北では、龍田光司『炭鉱に「強制連行」された朝鮮人』(常磐炭鉱)2010年、加藤昭雄『あなたの町で戦争があった』(岩手)2003年、野添憲治『秋田県における朝鮮人強制連行』2005年、大信田尚一郎「岩手県内朝鮮人受難者追悼之碑」2009年があります。

関東・中部では、群馬県朝鮮人強制連行犠牲者の追悼碑を守る会『記憶・反省そして友好』、下野チョソン問題研究会「栃木、茨城県下における強制連行、労働に関する調査状況」(『強制連行調査ネットワークの集い神戸資料集』)2000年、相沢一正『茨城県における朝鮮人中国人の強制連行』2011年、東京大空襲・朝鮮人罹災を記録する会『東京大空襲・朝鮮人罹災者の記録』1〜3,2010年、『学び・調べ・考えようフィールドワーク浅川地下壕』浅川地下壕の保存をすすめる会2005年、『新潟県内における韓国・朝鮮人の足跡をたどる』新潟県高教組平和教育研究委員会2010年、広瀬貞三「佐渡鉱山と朝鮮人労働者」『新潟国際情報大学情報文化学部紀要』3,2000年、『不二越強制連行未払い賃金訴訟』太平洋戦争韓国人犠牲者遺族会2001年、山川修平『人間の砦』2008年(三菱名古屋裁判)、『韓国聞き取り調査報告』長野県強制労働調査ネットワーク2013年などがあります。

関西・中国・四国では、神戸港における戦時下朝鮮人中国人強制連行を調査する会『神戸港強制連行の記録』2004年、飛田雄一「アジア・太平洋戦争下、神戸港における朝鮮人・中国人・連合軍捕虜の強制連行・強制労働」『世界人権問題研究センター研究紀要14』2009年、篠山市人権同和対策研究協議会『デカンショのまちのアリラン』2006年、和久田薫『大江山鉱山 中国人拉致・強制労働の真実』2006年、河かおる・稲継靖之「滋賀県の近現代史のなかの朝鮮人」(滋賀県立大学人間文化学部地域文化学科編『大学的滋賀ガイド ―こだわりの歩き方』)2011年、日本韓国の市民友好と地域の国際化を考える会『アジア太平洋戦争期の島根県雲南地方における韓国朝鮮人の生活記録』2008年、三菱広島元徴用工被爆者裁判を支える会『恨 三菱・廣島・日本』2010年、『ガイドブック高知の戦争遺跡』平和資料館草の家2000年、日本コリア協会・愛媛『植民地朝鮮と愛媛の人々』2011年などがあります。

九州では、福富登巳男・林えいだい『異郷の炭坑 三井山野鉱強制労働の記録』2000年、林えいだい『筑豊・軍艦島 朝鮮人強制連行、その後』2010年、芝竹夫『炭坑と強制連行』2000年、金光烈『足で見た筑豊』2004年、同『風よ、伝えよ 筑豊朝鮮人鉱夫の記録』2007年、長崎在日朝鮮人の人権を守る会『軍艦島に耳を澄ませば』2011年、鄭根埴『韓国原爆被害者苦痛の歴史』2008年、『鹿児島、韓国封印された歴史を解く』2002年などがあります。金光烈調査により筑豊での朝鮮人死亡者が数多く明らかになりました。

軍務動員については、樋口雄一『戦時下朝鮮の民衆と徴兵』2001年、『未来への架け橋』在韓軍人軍属裁判を支援する会2002年、河田宏『内なる祖国へ ある朝鮮人学徒兵の死』2005年、塚崎昌之「朝鮮人徴兵制度の実態」(『在日朝鮮人史研究』34)2004年などがあります。北原道子「『朝鮮人第五方面軍留守名簿』にみる樺太・千島・北海道部隊の朝鮮半島出身軍人』(『在日朝鮮人史研究』36・2006年)のように、軍人軍属名簿資料をみることで、動員実態を明らかにできるようになりました。また、雨宮剛『もう一つの強制連行 謎の農耕隊』(2012年)のように農耕隊員として動員された朝鮮人の調査もすすみました。軍人軍属については樋口雄一『戦時下朝鮮の民衆と徴兵』に参考文献目録が収録されています。

遺骨問題については、内海愛子・上杉聡・福留範昭『遺骨の戦後』2007年、曹洞宗人権擁護推進本部『東アジア出身の犠牲者遺骨問題と仏教』2007年、韓国・朝鮮の遺族とともに全国連絡会「名古屋全国集会資料」 2007年7月、『遺骨の声に応える』強制連行強制労働犠牲者を考える北海道フォーラム2009年などがあります。

北海道フォーラムは日本に残された朝鮮人遺骨について、遺骨が犠牲者の生命を引き継ぐものとして大切に扱われること、遺骨に対する遺族の決定権を尊重し、返還の際にはその連行の歴史が究明されること、政府と企業による謝罪・賠償がともなわれるべきであること、その史実の継承・記憶が求められることなどを提起しています。

 映像としては、NHKが『韓国・朝鮮人戦犯の悲劇』2008年、『もうひとつのシベリア抑留韓国朝鮮捕虜の60年』2009年、『朝鮮人皇軍兵士はるかなる祖国』2010年、『戦争に動員された人々』(日本と朝鮮半島3)2010年などを制作しています。また、『散華・或る朝鮮人学徒兵の死』2005年静岡放送などもあります。

 

2強制連行調査のための史資料

 

つぎに強制連行調査のための史資料についてみていきます。

@    史料調査報告

史料調査の報告としては、飛田雄一、金英達、高柳俊男、外村大「共同研究 朝鮮人戦時動員に関する基礎研究」『青丘学術論集』4、韓国文化振興財団1994年(金英達著作集U『朝鮮人強制連行の研究』2003年収録)に多くの史料の所在がまとめられています。ここには、連行・労務管理・逃走・治安対策・軍事動員・慰安婦などの通牒類、概況報告、治安状況報告、地方行政文書、中央協和会、地方協和会、翼賛団体、企業等作成文書、労務関係調査などの史料の一覧表があります。また、『朝鮮』『高等外事月報』『総動員』『協和事業』『石炭時報』『内外労働週報』『労務時報』『東洋之光』ほかの雑誌類の朝鮮人動員関係記事の見出しの紹介もあります。

国会図書館の史料については、金英達『GHQ文書ガイド−在日朝鮮人教育問題』1989年、金英達「国会図書館憲政資料室のUSSBS資料群のなかの朝鮮人戦時動員関係の資料について」1995年が役に立ちます。   

北海道の北炭などの企業文書については、姜徳相「開拓記念館所蔵 朝鮮人鉱山労働者関係史料について」(『在日韓国・朝鮮人の戦後補償』1991年)に紹介があります。また、北海道の調査にかかわった白戸仁康「労務動員関連資料の所在状況−北海道の強制連行実態調査資料を中心に」にも多くの情報が記されています。

韓国強制動員被害真相糾明委員会による『強制動員の名簿解説集1』2009年、韓国強制動員調査支援委員会の『強制動員の名簿解説集2』(2013年出版予定)にも多くの名簿類の紹介があります。『名簿解説集1』には303種の名簿表が掲載されています。なお、韓国委員会では収集資料目録を作成しています。収集資料が自由に閲覧できるような環境整備が求められます。

 

A    行政史料

この項目では、白戸仁康「労務動員関連資料の所在状況−北海道の強制連行実態調査資料を中心に」を参考にしながら、他の参考文書を加えて行政史料についてみていきます。この論文はネット検索でみることができます。

国立国会図書館憲政資料室文書としては「旧陸海軍関係文書」に「協和事業関係」内務省警保局保安課1944年、「朝鮮人関係書類」内務省警保局1941〜1942年、「協和会関係会議書類」内務省警保局1943年、「年度別朝鮮人治安維持法逮捕検挙調」内務省警保局1936〜1945年などがあります。

米国戦略爆撃調査団報告書関係では、「内地渡航朝鮮契約労働者数」(『米国戦略爆撃調査団報告書』53、翻訳本『アメリカ合衆国戦略爆撃調査団 日本戦争経済の崩壊』)や『米国戦略爆撃調査団報告書』42『日本の戦時生活標準と人的資源』用基礎資料があり、E-No.41pacific Survey Reports and Supporting Records 1928−47」(「太平洋戦争の調査報告及び援用資料1928−47年」)Roll249には厚生省勤労局「朝鮮人集団移住状況調」1945年、「昭和二〇年度半島労務者移入計画表」1945年2月、日本土木建築統制組合「昭和二〇年度第一次朝鮮人労務者割当表」等が所収されています。

大野緑一郎関係文書には「内地在住朝鮮人帰鮮希望者見込」1945年9月、「全国炭礦労働者移動状況調」1943年8月〜1944年7月、「咸境北道管内状況」1942年などがあります。

柏原兵太郎関係文書(寄託)の目録には物資動員関係史料があり、企画院第三部「新事態対処人的動員計画確立に関する方策要綱案」、企画院第二部「北海道炭礦視察報告」(労務状況と所見)などがあります。目録はHPでみることができますが、「石原産業株式会社海南島田独鉱山現況」「海南島石碌鉄山開発計画」、企画院第二部「伊豆明礬石開発利用に関する件」といった資料などもあることがわかります。関連して原朗・山崎志郎編『後期物資動員計画資料』全8巻2001年がでています。

「GHQ/SCAP RECORDS」では、法務局(LS)に、赤平炭鉱の戦時中の北海道における中国人朝鮮人鉱夫に関する文書、三井三池炭鉱の労働者名簿などがあります。民間財産管理局(CPC)文書には、北海道から引き揚げた朝鮮人の未決済口座、朝鮮人のために北海道で集められた金額等1946年5月1日〜1948年2月18日、1946年5月以降の未払い金処理関係文書、1946年5月31日現在、北海道第74軍政中隊からGHQ/SCAP管理口座に預金された金額といった文書があります。

国立公文書館には、「政府返還文書」「昭和18臨時地方長官警察部長会議書類(昭和18年度国民動員計画など)、「昭和19年11月〜12月勤務日誌」、「昭和20年雑書綴」などがあります。

外務省外交史料館には、「太平洋戦争終結による内外人保護引揚 旧日本国籍人」(第16回公開)に朝鮮人関係があります。

引揚・未払い金関連では、『GHQへの日本政府対応文書総集成』全24巻1994年、1巻「朝鮮人の引揚に関する件」ほか、2巻「朝鮮人炭鉱労働者の郷里送金」、「朝鮮人の船舶による引揚計画」ほか、3巻「朝鮮人炭鉱労務者の貯金送金」、4巻「朝鮮人炭鉱労働者の郷里送金」ほか、5巻「朝鮮人引揚者手荷物に関する件」ほか、6巻「朝鮮人台湾人中国人労務者に対する未払金」ほか、7巻「帰還邦人朝鮮人の持参金有価証券に関する件」ほか、8巻「帰還邦人朝鮮人の持参金有価証券」ほか、9巻「日本の炭鉱朝鮮人労務者の郷里での預金、特別手当支払いに関する件」ほかの文書があります。『昭和戦前期内務行政史料‐昭和元年~21年「地方長官・警察部長会議書類」』第19~36巻が2001年に復刻されています。

地方での朝鮮人の動向を記した文書としては『知事事務引継書』、『長官事務引継書』、『参事会関係書類』などがあります。史料公開によって、北海道、栃木、京都、神奈川、三重、兵庫、山口ほかで朝鮮人の動向が判明しています。

防衛省防衛研究所図書館では、南方への動員の文書である西部支庁土木課『朝鮮人労務者関係綴』などが発見されています。現在ではHPで資料目録が検索できるようになりました。「アジア歴史資料センター」での文書検索も便利です。

 

B    企業史料

企業史料についてみてみます。

北海道炭鉱汽船関係では、北炭本社資料(北海道大学附属図書館)、北炭札幌事務所寄託史料(北海道開拓記念館)、北炭万字炭鉱関係史料(北海道開拓記念館)などがあります。北大図書館にある北炭の史料のなかでは「釜山往復」「争議関係」が重要です。開拓記念館にある北炭史料のうち万字炭鉱関係は公開されていますが、札幌事務所史料は北炭の許可が必要になっています。この開拓記念館の札幌事務所史料については「北炭札幌事務所寄託資料目録」があり、「災害事変報告」、「朝鮮募集」や「移入半島人関係綴」などの重要な史料があることがわかります。

住友鉱業関係の史料は、住友鴻之舞鉱山(北海道開拓記念館、紋別市立博物館)、住友歌志内(北海道立図書館)などがあります。紋別市立博物館には「住友鴻之舞鉱山文献資料目録(第一次稿)」1988年があり、「労務手帳関係書類綴 解用報告書(半島)」、「貯金番号簿附申込書綴(半島労務員の部)」、「住友鉱業株式会社八十士鉱移住半島鉱員名簿」、「新規徴用者名簿」、「半島労務員募集関係書類」、「伊奈牛坑半島労務員名簿」、「半島人等名簿」、「被保険者台帳(喪失分)」、「被保険者証」などが所蔵されていることがわかります。紋別市立博物館の住友鴻之舞史料の閲覧は制限されています。

他には日曹鉱業天塩炭鉱(北海道開拓記念館)、明治鉱業平山鉱業所(九州大学記録資料館)などの史料の所在が明らかになっています。日曹鉱業天塩炭鉱の史料は公開されています。『九州石炭礦業史資料目録』をみると、九州大学記録資料館には明治平山以外にも朝鮮人関連の記載のある文書が所蔵されているとみられますが、閲覧は制限されています。

慶応大学図書館の日本石炭産業関連資料コレクションのデータベースからは、北炭平和坑「鉱員台帳」(1942〜60)、北炭真谷地楓坑「楓坑鉱員名簿」(1939〜1969)があり、北炭本社関係資料には「朝鮮募集関係」「朝鮮募集・社外関係」(コピー)などの史料があることがわかります。

ここでは、北炭万字炭鉱と明治平山炭鉱の史料についてこまかくみておきます。

「北海道炭礦汽船万字炭鉱史料」は北海道開拓記念館に所蔵され、史料目録があります。主な文書名をあげておけば、「坑夫名票」朝鮮人分、「災害関係第二」庶務部1939年、「美流渡変災関係」万字礦1939年、「変災綴」1940年5月〜1943年12月、「変災事変報告」1943年〜1947年、「美流渡礦初音礦左四片変災関係」、「殉職者関係書類綴」1943年〜45年、「負傷報告綴」1943年度、「負傷報告」1945年、「障害扶助料関係書類」1943年〜45年、「厚生年金関係書類雑綴」1945年〜46年、「労務者職別人員表」1940年12月〜42年1月、「労務者人員表」1942年2月〜44年1月、「幌内鑛業所美流渡礦建物配置図』」1943年12月、「北海道炭砿汽船萬字礦建物配置図」1944年1月、「昭和二〇年度以降 求人申込及割当認可綴」1945年、「半島人関係雑書綴」1945年、『殉職産業戦士名簿』北海道産業報国会1943年、『殉職産業人名簿』大日本産業報国会1943年 などがあります。

明治鉱業平山鉱業所関係史料は九州大学記録資料館にありますが、未公開です。『九州石炭礦業史資料目録』から主なものをあげれば、「鉱夫異動簿」「労務員異動簿平山鉱業所」「坑内夫採用簿 天道炭礦労務課」「半島人移入状況調査表綴 半島係」「移入朝鮮人労務者送金控 労務係」「半島人解雇者名簿綴(各坑)」「解雇者名簿(半島人)労務課」「労務員名簿(半島人)」「半島人解雇稟議簿 1坑労務係」「移住半島人名簿」「半島人関係雑書類綴」「死亡金明細簿半島人係」「被保険者台帳」「朝鮮人置去金清算書類」「半島人置去金未整調書」などがあります。

 

C連行者名簿

労務動員された朝鮮人の名簿についてみていきます。16府県分ですが、厚生省勤労局「朝鮮人労務者に関する調査」があります。そこから100人以上が連行され、その名簿が判明した事業所を以下にあげてみます。

秋田・花岡鉱山、小坂鉱山、三菱尾去沢鉱山、鹿島組花岡、鹿島組不老倉、小真木鉱山、醍醐村明沢溜池工事、多田組相内鉱山、多田組小坂鉱山、日本鉱業花輪鉱山、発盛鉱山、堀内組先達、宮城・菅原組多賀城、西松組塩釜、三菱細倉鉱山、東北配電新花山、新潟鉄工三本木鉱山、間組小牛田、萬歳鉱山、茨城・日本鉱業日立鉱山、日立製作所水戸工場、羽田精機、栃木・古河足尾鉱山、日産土木、日本鉱業木戸ヶ沢鉱山、日本鉱業日光鉱山、古澤組、静岡・宇久須鉱山、戦線鉱業仁科鉱山、古河久根鉱山、日本鉱業峰之沢鉱山、中村組、黒崎窯業清水工場、鈴木式織機、土肥鉱山、日本鉱業河津鉱山、間組久野脇発電、岐阜・三井神岡鉱山、長野・鹿島組御嶽、相模組大町、飛島組波田、三重・石原産業紀州鉱山、兵庫・川崎重工葺合工場、川崎重工兵庫工場、神戸製鋼本社工場、日亜製鋼、播磨造船所、三菱生野鉱山、三菱明延鉱山、三菱中瀬鉱山、三菱重工神戸造船所、春日鉱山、大倉土木桜山、神崎組、神戸貨物自動車、神戸船舶荷役、住友電工伊丹製作所、日本セルロイド網干工場、日本製鉄広畑工場、日本制動機、日本パイプ製造園田工場、広畑港運、吉原製油西宮工場、福岡・三井三池炭鉱万田坑、宝珠山炭鉱、三菱化成黒崎工場、三菱鯰田炭鉱、浅野セメント、黒崎窯業、東海鋼業若松工場、博多港運、佐賀・貝島岩屋炭鉱、唐津炭鉱、杵島炭鉱、小岩炭鉱、川南工業浦ノ崎造船、麻生久原炭鉱、唐津港運、杵島北方炭鉱、立川炭鉱、立山炭鉱、西杵炭鉱、新屋敷炭鉱、長崎・川南工業深堀造船所、伊王島炭鉱、中島鯛之鼻炭鉱、中島徳義炭鉱、日窒江迎炭鉱、日鉄鹿町炭鉱、神林炭鉱、三菱崎戸炭鉱、三菱高島炭鉱、大志佐炭鉱、清水組、平田山炭鉱、長崎港運、町営溜池工事、三菱長崎製鋼。

その他の名簿には、北炭幌内・万字炭鉱「坑夫名票」1939〜45年、「住友鴻之舞鉱山名簿」、明治炭坑「雇入異動簿綴」1939年、「日鉄船尾鉱業保険者名簿」、東洋工業「半島応徴士身上調査表」1945年、「霧島隊便覧」川南工業香焼造船所、「三井染料・電気化学工業大牟田工場朝鮮人労務者(徴用)調」、日鉄二瀬「勤労隊半島鉱員索引」中央坑「報告控(特務)」、サクション瓦斯機関製作所「半島労務者ニ関スル書類」1945年、「都茂鉱山調査表」、「長崎朝鮮人被爆者一覧表」長崎市1982年、呉海軍工廠福浦第二寄宿舎「舎生帰郷先」1946年、「豊川海軍工廠工員給与調査表」、明治鉱業平山名簿、「日本製鉄朝鮮人名簿」(古庄正「連行朝鮮人未払い金供託報告書」『経済学論集23−1』駒沢大学経済学会1991年)などがあります。

 軍人軍属関係の名簿についてみれば、陸軍では「留守名簿」、「軍属名簿」(工員名簿)、海軍では「軍人軍属名簿(軍人履歴原表・軍属身上調査表)」などがあり、さらに「臨時軍人軍属届」、「兵籍戦時名簿」、「軍属船員名簿」「病床日誌」「俘虜名票」などもあります。

陸軍の「留守名簿」には約16万人、海軍の軍人軍属名簿には約10万人分が記されています。陸軍留守名簿は114冊に及ぶものであり、中国北部、中国南部、朝鮮南部、関東軍、航空軍、朝鮮北部、フィリピン、ビルマ、南方軍、船舶軍、日本国内、島嶼、北方、台湾、農耕隊、歩兵補充隊の順に整理されています。(これらの名簿については『戦時朝鮮人強制労働調査資料集』2に一覧表があります)。

 

D死亡者資料

つぎに死亡者関係の史料をみてみましょう。

労務関係では、大日本産業報国会『殉職産業人名簿』1942年をはじめ、北海道関係では、北海道産業報国会『殉職産業戦士名簿』1940年・43年、北海道平和愛泉会『朝鮮半島出身戦争犠牲者名』1979年、北海道炭砿汽船北海道支店真谷地坑「過去帳」、北海道炭砿汽船平和鉱業所真谷地砿登川「殉職者過去帳」、「平和鉱殉職者過去帳」、北海道炭砿汽船北海道支店萬字坑「過去帳」、北海道炭砿汽船夕張砿「過去帳」、幌内砿美流渡死亡者名簿(加藤博史編『戦時外国人強制連行関係史料集』V朝鮮人2中)、「美唄朝鮮人関係死亡者調査書」、「安楽寺追悼碑」(住友上歌志内坑分)、「住友歌志内砿殉職者名簿」・「韓国人遺骨奉安過去帳写」・「(茂尻砿)殉職者名簿」・「〔宝性寺〕過去帳」(杉山四郎『語り継ぐ民衆史』1993年)、幌加内・風連埋火葬認許証(『和解の架け橋 続笹の墓標』空知民衆史講座1994年)、「泊村埋火葬認許証」、「小樽関係資料」、本願寺札幌別院「遺骨遺留品整理簿」、「牧之内飛行場死亡者名簿」、猿払村「埋火葬認許証」、浜頓別村「埋火葬認許証」、信証寺過去帳(浅茅野)、蔡晩鎮『北海道朱鞠内ダム工事朝鮮人犠牲者名簿』1983年、「赤平市殉職者名簿(外国人)」、平和炭鉱労働組合『平和よ永遠に解散記念誌』1977年、『太平洋炭鉱労働組合30年史』太平洋炭鉱労働組合1976年、浅利正俊「国鉄松前線敷設工事に伴う朝鮮人中国人らの強制労働」(『松前藩と松前』23、1985年)など、さまざまな名簿があります。

 本州では、塩釜埋火葬認許下附資料(朴慶植文庫)、花岡朝鮮人関係死亡者資料(同文庫)、宮城県朝鮮人死亡者資料細倉鉱山(同文庫)、同和鉱業花岡鉱業所「七ツ舘遭難者朝鮮人名簿」、長澤秀「戦時下常磐炭田の朝鮮人鉱夫殉職者名簿」、茨城県朝鮮人慰霊塔管理委員会「本山寺・朝鮮人殉難病没者名簿」、「浮島丸死没者名簿」、「沼倉水力発電所建設工事朝鮮人殉職者追悼碑」碑文、『戦災死者遺骨名簿』東京都1972年、横須賀・良長院「殉職者弔魂碑」碑文、平岡村「埋火葬認許証口頭受付簿」、神岡町「埋火葬認許証関係史料」、金静美「紀州鉱山朝鮮人死亡者名簿」、石原産業「従業物故者忌辰録」、塚崎昌之「大阪朝鮮人死亡者調査」、鄭鴻永「甲陽園地下工場調査資料」、「播磨造船所戦災殉職者名簿」、「広島朝鮮人被爆者調査資料」、「岩美鉱山朝鮮人関係資料」、宇部炭鉱関係過去帳調査(朴慶植文庫) 、布川宏「長生炭鉱犠牲者名簿の総合」(『宇部地方史研究』19)などがあります。

 九州では、筑豊関係過去帳調査(朴慶植文庫)、貝島大之浦炭鉱「炭鉱災害報告書」・「貝島炭鉱殉職者名簿」・「貝島炭鉱朝鮮人殉職者名簿(6・7坑)」、「小倉炭坑朝鮮人坑夫殉職者」、明治鉱業「変災報告書」「明治鉱業所赤池炭鉱殉職者名簿」、三菱上山田「西照寺万霊塔」(林『史料集』)、三井三池炭鉱「死亡者調査表」、「安楽寺過去帳」、金光烈筑豊調査(『足で見た筑豊』など)、芝竹夫「田川郡川崎町過去帳調査資料」(古河大峰)、「収集遺骨名簿」無窮花の会、崎戸町「埋火葬認許可交付簿」、高浜村「火葬認許証下附申請書」(端島)、長崎市「長崎朝鮮人被爆者一覧表」、「朝鮮人連盟長崎県本部遺骨名簿」,「過去帳資料」(佐賀県分・金旻栄『日帝の朝鮮人労働力収奪研究』)、大鶴炭鉱・光明寺墓碑などがあります。九州の史料は林『史料集』に多数収録されています。

軍務関係では、厚生省から韓国政府に渡された資料から、『被徴用死亡者連名簿』1971年が作成されています。「戦没船員調査表」朝鮮人分名簿、『朝鮮出身死没元海軍軍人軍属御遺骨等奉安名簿』呉地方復員部1955年、「平和の礎」朝鮮人分・沖縄県などの資料があります。

 

3強制連行数と動員先

 

 つぎに労務と軍務での強制連行数と動員先についてみていきます。

@    労務動員の実態 

はじめに労務での動員についてみます。豊島陞「朝鮮人の労務動員に関するメモ」(仮題)からは、1942年度から45年度にかけての朝鮮各道からの年度ごとの労務動員数、月ごとの労

務動員者数を知ることができます。メモから1942年から45年度にかけて朝鮮半島から約544千人が動員されたことがわかります。豊島は元朝鮮総督府鉱工局勤労動員課長であり、このメモは1961年に外務省へと提示した資料です。

1939年から41年度までの郡別の送出数については記載がないため、不明です。しかし、朝鮮総督府の「帝国議会説明資料」から、193953210人、194059398人、1941年度67098人の計179706人の動員があったことがわかりますし、中央協和会の「移入朝鮮人労務者状況調」では19426月までに174170人が各地の事業場に配置されたことがわかります。この2つの史料から、39年から41年度の間に約18万人の動員があったとみることができるわけです。この18万人動員者に、豊島メモの54万人を加えると動員数は約72となります。

この54万人の動員者の各道別・年度別の連行状況、各月ごとの連行人数の表を以下に示します。また、連行末期の19452月の動員状況表も示します。何年何月にどれくらいの朝鮮人が動員されたのかがこれらの表から理解できると思います。

このメモのコピーは金英達が収集したものですが、不鮮明なため、推定して判読した箇所が多いため、特に不鮮明な部分については?で示しました。年度数の合計値と合わない箇所もあります。原史料を探し、数値を確定すことが課題ですが、このメモは道別の連行数、年月別の連行者数などを具体的に示すものであり、重要ですので、ここで紹介します。

 

表1 1942年から45年度までの道別朝鮮人連行数(送出数)

年度分連行数(送出数)

 

 

 

出身道

1942年度

1943年度

1944年度

1945年度

京畿

14117

15764

34585

796

65262

忠北

8318

7501

14721

944

31484

忠南

12996

14528

30326

1236

59086

全北

12147

15061

28406

2043

57657

全南

14816

17434

35746

1924

69920

慶北

18713

20982

38451

1539

79685

慶南

16557

15067

32725

欠落?

64349

黄海

11162

8561

18262

537

38522

江原

10838

10672

25445

795

47750

平南

 

946

6917

 

7863

平北

 

795

7695

128

8618

咸南

57

891

8999

 

9947

咸北

 

94

3403

 

3497

119721

128296

285682

10622

544321

(285681)

(9942)

(543640)

( )内の数字は年度ごとの合計値であり、メモの数値と合致しないもの。

 

表2 1942年度分の道別連行数(送出数)

1942

石炭

金属

土建

工場その他

南洋

京畿

6086

65

4815

2529

622

14117

忠北

5654

877

 

1617

170

8318

忠南

9766

1132

730

1068

300

12996

全北

8457

935

1596

859

300

12147

全南

13171

892

100

149

504

14816

慶北

10081

1962

4843

1640

187

18713

慶南

6554

1469

6546

1988

 

16557

黄海

9544

50

 

1568

 

11162

江原

8680

250

299

1609

 

10838

咸南

 

 

 

57

 

57

77993

7632

18929

13084

2083

119721

 

表3 1943年度分の道別連行数(送出数)

1943

石炭

金属山

鉄鋼

造船

土建

その他

南洋

京畿

8731

972

946

185

4357

573

 

15764

忠北

4301

782

614

 

993

445

366

7501

忠南

7555

3063

711

 

2157

969

73

14528

全北

8753

1555

915

 

3090

748

 

15061

全南

10783

2048

 

 

4195

50

358

17434

慶北

9062

2773

381

 

7847

463

456

20982

慶南

4130

1417

1112

 

7934

474

 

15067

黄海

6561

580

732

 

595

93

 

8561

平南

 

 

549

 

 

397

 

946

平北

 

 

392

 

 

403

 

795

江原

8441

573

249

 

447

962

 

10672

咸南

 

 

252

273

 

366

 

891

咸北

 

 

94

 

 

 

 

94

68317

13763

6947

458

31615

5943

1253

128296

 

表4 1944年度分の道別連行数(送出数)

1944

軍?

石炭

金属

造船

土建

工場その他

京畿

7644

9627

2094

5374

3492

6354

34585

忠北

3229

3647

1271

2032

255

4287

14721

忠南

4655

9740

3924

2460

1310

8237

30326

全北

3640

8626

3527

2387

2680

7546

28406

全南

7114

10203

990

5304

5393

6742

35746

慶北

6937

12708

3840

3288

4279

7399

38451

慶南

5101

11832

1669

4038

6216

3869

32725

黄海

1731

5232

1274

4031

 

5996

18262

平南

477

732

109

3817

 

1782

6917

平北

779

845

250

3599

 

2222

7695

江原

3237

8222

1865

3034

751

8336

25445

咸南

476

1146

529

4019

 

2829

8999

咸北

292

299

101

1844

 

867

3403

45312

82859

21443

45227

24376

66466

285682

黄海の合計は18262、総計は285683となる。「軍?」は判読困難である。

 

 

表5 1945年度分の道別連行数(送出数)

1945

石炭

金属

土建

工場その他

京畿

80

 

 

716

796

忠北

150

 

70

724

944

忠南

99

74

194

869

1236

全北

21

103

202

1717

2043

全南

 

 

71

1853

1924

慶北

84

 

133

1322

1539

黄海

109

 

57

371

537

平北

44

 

 

84

128

江原

210

52

109

424

795

797

229

836

8760

10622

工場その他で680人の記載が欠落し、慶南分も欠落している。総計は9942となる。1945年度の動員は約1万人である。この数値は4月から6月にかけてのものであり、表7から1944年度分の動員もこの時期におこなわれていることがわかる。44年度と45年度分を合わせると4月から6月での動員数は約3万人となる。

 

表6 19452月の道別連行数(送出数)

1945.2

割当

輸送?

逃走

病気

引継

逃走

病気

減計

出港

比率

京畿

4495

3544

81

9

3454

103

21

214

3330

74

忠北

850

766

19

 

747

10

7

36

730

85

忠南

4450

4158

113

33

4012

53

7

206

3852

86

全北

4950

4013

138

13

3862

93

24

268

3745

75

全南

3115

2573

108

20

2445

54

22

204

2369

75

慶北

6570

5925

75

13

5837

171

23

282

5643

85

慶南

6100

5532

41

15

5476

112

24

192

5340

89

黄海

1500

1436

5

8

1423

11

5

29

1407

93

平南

1850

1751

38

9

1704

21

10

78

1673

90

平北

300

298

1

 

297

13

2

16

282

94

江原

300

300

 

 

300

 

10

10

290

96

咸南

200

195

 

 

195

 

17

17

178

89

咸北

200

199

3

1

195

 

3

7

192

96

34800

30690

622

121

29947

641

175

1559

29031

 

19452月には朝鮮各道郡から3万人を超える朝鮮人が集められ、日本にむけて送られた。その内訳がこの表である。朝鮮からの出港までに1559人が逃亡や病気で減少した。

 

表7 194245年度月別・朝鮮からの送出者数

1942年度月別送出数

 

1942.6

4919

官斡旋の動員

 

1942.7

13092

月約1万動員

 

1942.8

9335

 

1942.9

9309

 

1942.10.

14012

 

1942.11.

10511

 

1942.12.

11727

 

1943.1

9927

 

1943.2

9639

 

1943.3

11037

1943年度月別送出数

 

1943.4

10096

1943.4

730

4月計10826

 

1943.5

4924

1943.5

9386

5月計14310

 

1943.6

1193

1943.6

7723

6月計 8916

 

年度計

119721

1943.7

12098

 

 

 

1943.8

13693

 

1943.9

12424

 

1943.10.

5648

 

1943.11.

12333

 

1943.12.

9906

 

1944.1

10211

 

 

 

1944.2

9171

 

 

 

1944.3

9360

 

1944年度月別送出数

1944.4

9578

 

1944.5

19435

1944.5

5712

5月計25147

 

1944.6

12399

1944.6

323

6月計12722

 

1944.7

14036

年度計

128296

 

1944.8

19633

 

1944.9

43208

徴用による動員

1944.10.

33369

9.10月で

76千人動員

1944.11.

13876

 

1944.12.

32560

各月で約3万人の計9万人を動員

 

1945.1

28690

 

1945.2

30049

 

1945.3

16783

1945年度月別送出数

 

1945.4

11379

1945.4

1697

413076

 

1945.5

8666

1945.5

1542

510208

 

1945.6

1599

1945.6

7383

6月 8982

 

年度計

285682

年度計

10622

 

 

 

この表の校訂ができれば、勤労動員課が把握していた1942年度から1945年度までの月別の動員数を確定できます。朝鮮総督府鉱工局勤労動員課の史料類の調査がもとめられます。豊島メモの数値は下の表の大蔵省管理局「朝鮮人労務者対日本動員調」での1942年、43年、45年の動員総数の値と合致し、44年の数値とも近いものです。それは、この大蔵省管理局調査の表が豊島(元勤労動員課長)の資料をもとに作成されたからです。

 

参考表

表8−1 大蔵省管理局「朝鮮人労務者対日本動員調」

年 度

計画数

石炭山

金属山

土建

工場其他

豊島メモ

1939年度

85,000

34,659

5,787

12,674

 

53,120

 

1940年度

97,300

38,176

9,081

9,249

2,892

59,398

 

1941年度

100,000

39,819

9,416

10,965

6,898

67,098

 

1942年度

130,000

77,993

7,632

18,929

15,167

119,821

119721

119721

1943年度

155,000

68,317

13,763

31,615

14,601

128,296

128296

1944年度

290,000

82,859

21,442

24,376

157,795

286,432

286472

285682

1945年度

50,000

797

229

836

8,760

10,622

10622

907,300

342,620

67,350

108,644

206,073

724,787

 

終戦時に於ける現在数

121,574

22,430

34,584

86,794

365,382

 

出典:大蔵省管理局『日本人の海外活動に関する歴史調査』通巻第10冊朝鮮篇第9分冊、1947年(戦後補償研究会編・刊『戦後補償問題資料集』第2集、1991年、180頁)原表注:1 昭和19年(度)計画数は年度中途に於て326,000に変更せられたり。 2 昭和20年(度)計画は第14半期計画として設定せられたものである。

編注:下線を付けた数値は、集計しても合わない数値である。 

竹内註 筆者による算定値を( )内に記入した。また、豊島メモの欄を作成した。

 

表8‐2朝鮮総督府鉱工局勤労動員課「内地樺太南洋移入朝鮮人労務者渡航状況」194412

年度別

区分

国民動員計画

渡   航   数

による計画数

石炭

金属

土建

工場其他

1939年度

内地

85,000

32,081

5,597

12,141

 

49,819

 

樺太

 

2,578

190

533

 

3,301

 

85,000

34,659

5,787

12,674

 

53,120

1940年度

内地

88,800

36,865

9,081

7,955

2,078

55,979

 

樺太

8,500

1,311

 

1,294

 

2,065

 

南洋

 

 

 

 

814

814

 

97,300

38,176

9,081

9,249

2,892

59,398

1941年度

内地

81,000

39,019

9,416

10,314

5,117

63,866

 

樺太

1,200

800

 

651

 

1,451

 

南洋

17,800

 

 

 

1,781

1,781

 

100,000

39,819

9,416

10,965

6,898

67,098

1942年度

内地

120,000

74,098

7,632

16,969

13,124

111,823

 

樺太

6,500

3,985

 

1,960

 

5,945

 

南洋

3,500

 

 

 

2,083

2,083

 

130,000

78,083

7,632

18,929

15,207

119,851

1943年度

内地

150,000

66,535

13,763

30,635

13,535

124,286

 

樺太

3,300

1,835

 

976

 

2,811

 

南洋

1,700

 

 

 

1,253

1,253

 

155,000

68,370

13,763

31,611

14,606

128,350

1944年度

内地

290,000

71,550

15,920

51,650

89,200

228,320

 

樺太

 

 

 

 

 

 

 

南洋

 

 

 

 

 

 

 

290,000

71,550

15,920

51,650

89,200

228,320

★合計

内地

857,300

320,148

61,409

129,664

122,872

634,093

 

樺太

19,500

10,509

190

5,414

 

16,113

 

南洋

23,000

 

 

 

5,931

5,931

 

899,800

330,657

61,599

135,078

12,803

651,141

出典「第86回帝国議会説明資料4労働市場」(戦後補償問題研究会編・刊『戦後補償問題資料集』第2集、199129-30頁)、原本注:昭和十九年度分は12月末迄に送出すべき割当人数とす。6月以降に於て内地供出更に100,000人の要請あり。従って現在の国民動員計画計画計400,000人と改定す(19、8、29現在)。編注:◎原表記載の数字は2,117である。これは明白な誤記なので、訂正した。〇原表記載の数字は13,207である。これは明白な誤植なので、訂正した。★1939-1944年度の産業別の合計の欄は原表にはなく、編者が算出したものである。(参考の表8−1,2は、山田昭次・古庄正・樋口雄一『朝鮮人戦時労働動員』から引用、加筆)。

 

以上の表から、1939年から41年にかけて約18万人、1942年度分119721人、1943年度分128296人、1944年度分285682人、1945年度分1622人が動員されたことがわかります。

このように送出された人々が日本各地にどのように分配・配置されていったのかをみるために以下の表をつくりました。表から1940年3月末から1944年3月末までの都道府県別の受け入れ数がわかります。1945年3月末、6月末の統計が見つかればこの表は完成します。

表9 都道府県別朝鮮人連行者数と事業場数(19443月まで)

都道府県

1940.3

1941.3

1942.3

1942.6

1943.3

1943.12

1944.3

連行数

連行数

連行数

連行数

事業場数

連行数

事業場数

連行数募集@

連者数官斡旋A

連行数数@+A

連行数

北海道

10984

25283

39060

43251

97

68155

104

35415

64102

99517

95171

青森

574

806

1493

1664

6

2389

8

1539

429

  1968

3349

岩手

 

1434

2396

3359

12

4875

10

2929

3723

 6652

8032

宮城

100

541

819

1099

2

1506

4

1009

756

  1765

2654

秋田

216

724

853

853

6

885

6

853

1098

  1951

2169

山形

80

220

350

591

3

1060

4

590

881

  1471

1516

福島

1931

6008

7771

8711

8

12376

8

7779

7672

15451

15805

茨城

1118

1633

2447

2462

3

3633

6

3002

1742

  4744

5767

栃木

100

404

1122

1122

4

2019

9

1602

2107

  3709

2552

群馬

 

 

0

0

0

201

2

0

1551

  1551

2073

埼玉

 

96

20

216

1

372

3

168

0

   168

57

千葉

 

 

0

0

0

0

0

0

0

 0

0

東京

 

0

91

292

5

838

10

224

2331

  2555

2041

神奈川

 

602

2288

3476

13

6118

17

1955

5496

  7451

6323

新潟

329

685

1629

1866

8

2492

12

1838

1313

  3151

3445

富山

 

384

382

383

1

628

2

384

246

   630

1066

石川

60

142

241

342

2

465

1

242

355

   597

0

福井

 

 

899

1049

6

1425

7

150

804

   954

1569

山梨

1381

2301

2274

2274

3

2835

1

2464

163

 2627

1587

長野

1056

1913

2132

3381

7

5670

9

3294

4707

  8001

9590

岐阜

500

1971

1080

1080

2

3485

3

1081

1401

  2482

5085

静岡

574

2645

4258

4534

11

4226

13

4589

1565

  6154

4644

愛知

 

 

115

311

3

319

3

128

191

   319

424

三重

197

293

896

896

5

999

5

544

600

  1144

1282

滋賀

 

26

26

225

2

221

3

26

295

   321

298

京都

 

167

141

141

0

351

1

238

438

   676

433

大阪

 

 

200

154

0

2041

12

0

3155

  3155

3699

兵庫

250

932

1717

1835

11

4142

18

1189

4775

  5964

6728

奈良

 

 

0

0

0

100

1

0

100

   100

150

和歌山

 

124

99

167

2

192

2

99

205

   304

441

鳥取

 

389

516

621

2

667

13

516

0

   516

536

島根

 

428

655

737

4

686

3

705

290

   995

1185

岡山

174

274

373

570

4

1001

4

290

724

  1014

759

広島

 

100

1022

1497

6

2037

5

1388

944

  2332

2797

山口

877

3123

5172

5863

16

10033

14

4869

8073

 12942

13480

徳島

 

55

54

54

1

1060

14

55

0

    55

68

香川

 

217

0

328

1

536

1

632

96

   728

652

愛媛

95

279

670

819

10

1247

10

1665

0

  1665

2366

高知

666

695

1320

1371

5

1705

3

733

377

  1110

1581

福岡

7946

25271

42416

52876

66

82162

70

42004

67218

109222

117370

佐賀

1947

3616

5343

6582

13

12184

13

5335

11095

  16430

17054

長崎

2729

6947

8838

12120

20

19053

25

9513

14781

 24294

25694

熊本

251

599

436

436

2

1563

9

1253

1754

   3007

175

大分

505

831

1285

1387

6

1721

7

1291

791

   2082

1655

宮崎

1009

1829

2115

2115

9

2469

8

2169

689

   2858

3870

鹿児島

150

735

1060

1060

8

1441

1

1189

493

   1682

15805

沖縄

0

0

0

0

0

0

0

0

0

      0

0

樺太

9348

38

    

合計

35799

94722

146074

174170

396

282931

522

146938

219526

 366464

392997

19403月の数値は「募集に依る移住朝鮮人労働者に関する調査表」(『特高月報』19403月)、19413月の数値は「募集に依る移住朝鮮人労働者の状況」(『特高月報』19413月)による。19423月、6月の数値は中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」1942年(警保局保安課『協和事業関係』1944年)による。移入先の事業場名の記載がある事業場数には、この時点で閉鎖された現場は計上されていないため、動員先は400を超える。19433月の数値は「移入朝鮮人労務者就労職場別数調」「移入朝鮮人労務者数調」(『協和事業関係』1944年)による。194312月の数値は「国民動員計画に基く移入朝鮮人労務者の状況」(『特高月報』19442月)による。194312月段階で、他県からの転入者が募集では4437人、斡旋では4724人あるが、ここでは省略した。東京の欄には「警視庁」への動員数を記載した。募集と斡旋の合計は筆者による算定である。19443月の数値は厚生省「朝鮮人労務者勤労状況報告」194412所収の統計表による。雇入数には他県からの転入者9630人も含む。石川県は0となっているが、在籍数は315人である。神奈川県の6323に横には246の記事があり、合計すると6569人となる。

この表での連行数は、募集や斡旋などで各都道府県に動員された朝鮮人の累計数である。史料では雇用数、移入数などと表記されているが、ここでは連行数とした。。沖縄や千葉は0となっているが、その後連行された。樺太については43.3末の史料に記載があるため、項目を作成したが、他の年度での連行もあった。

 

この表から、19443月末(1943年度)までに約393千人が移入されたことがわかります。半数ほどが福岡と北海道への連行です。1944年度には、内務省警保局調査では約286千人を超える朝鮮人の移入がなされ、1945年には約1万人が動員されました。その数を合計すると、日本などへの動員移入者数は70万人ほどになります。

1944年になると、石炭山や金属山への連行に加えて、軍需工場や地下工場建設現場への動員もおこなわれるようになり、在留朝鮮人への動員もなされていきます。さらに軍人軍属としての動員もなされ、敗戦期には約11万人の朝鮮人軍人軍属が日本に在留していました。1945年には、主要事業場での現員徴用も強化され、日本国内で労働を強制された朝鮮人は100万人を超えることになります。事業場数も1500カ所を超えたとみられます。

 

A軍人軍属の動員数・動員先

つぎに陸軍の軍人・軍属の動員数・動員先についてみます。

ここでは、陸軍の「朝鮮人人員表(地域別)分類表(陸軍)」から25万7404人分の軍種別の動員表と地域別の動員一覧を掲載します。その後の1962年に厚生省は、陸軍に軍人94978人軍属48395人の計143373とします「朝鮮在籍旧陸海軍軍人軍属出身地別統計表」1962年2月28日調 厚生省援護局)。下の表と比べると11万人少ないものとなりますが、留守名簿外とされた分が減らされたようにみえます。

海軍については「終戦後朝鮮人海軍軍人軍属復員事務状況」入国管理局総務課1953528日(引揚援護庁第二復員局残務処理部復員業務部19535月調査による)があります。この史料では、海軍の軍人軍属の総数は106782人であり、死亡者で未記載に人々を加えると11万人を超えることになります。「朝鮮出身者調査表(軍人の部)」(1952年1月25日調)からは、軍人2万2430人の動員先がわかります。

海軍軍人としての動員は2万人、軍属の動員は8万人を超え、合計すると約11万人になるとみられます。1962年の「朝鮮在籍旧陸海軍軍人軍属出身地別統計表」では、海軍軍人21316人、海軍軍属77652人の計98968としています。

今後、海軍軍属個票から横須賀、呉、佐世保、舞鶴、大湊などに連行された朝鮮人軍属が、日本内外にどのように動員されていったのかを分析する必要があります。

1950年代には36万人を超える人員とされていた朝鮮人軍人軍属が、どのような処理で1962年に24万人とされたのかの解明が求められます。

 

表10−1 陸軍への朝鮮人動員 軍種別動員数257千人

 

陸軍朝鮮人軍人軍属数

 

 

軍人

 

 

 

 

軍属

 

 

 

 

 

 

死亡

復員

生存見込

死亡推定

死亡

復員

生存見込

死亡推定

 合計

地上

5137

49857

24319

455

79768

731

31936

7297

30

39994

119762

 

245

40707

58703

12

99667

1

8503

2402

0

10906

110573

 

5382

90564

83022

467

179435

732

40439

9699

30

50900

230335

航空軍

125

1012

854

0

1991

108

1540

3339

0

4987

6978

 

0

1822

203

0

2025

0

188

17

0

205

2230

 

125

2834

1057

0

4016

108

1728

3356

0

5192

9208

船舶

153

3074

302

0

3529

264

2352

1476

1054

5146

8675

 

0

0

0

0

0

0

0

0

0

0

0

 

153

3074

302

0

3529

264

2352

1476

1054

5146

8675

軍属船員

 

804

2230

6143

0

9186

9186

総計

 

5660

96472

84381

467

186980

1908

46758

20674

1084

70424

257404

原注に、内は留守名簿にのせられているもの、外は同名簿にのせられていないもの、とある。

航空軍・軍人・内・復員の数値は原資料では1102だが、合計値から1012に訂正した。

「朝鮮人人員(総括)表(陸軍)」1952131日による(九州大学韓国研究センター、森田文庫蔵)


表10−2 陸軍軍人軍属・朝鮮人動員地域別数 約257千人

 

陸軍・朝鮮人軍人軍属地域別人員表

地域

分類

軍人

軍属

合計

総計

内地

名簿内

6748

10865

17613

 

 

名簿外

(34787)

(8404)

(43191)

60804

朝鮮

名簿内

45049

19217

64266

 

 

名簿外

(25904)

(188)

(26092)

90358

北方

名簿内

355

207

562

562

満州

名簿内

7299

6234

13533

 

 

名簿外

(40943)

(2515)

(43458)

56991

中国

名簿内

16092

 

 

名簿外

(4)

 

 

  20841

台湾

名簿内

1280

68

1348

 

 

名簿外

(49)

(4)

(53)

1401

南方

名簿内

3102

3902

7004

 

 

名簿外

(5)

 

(5)

7009

フィリピン

名簿内

3211

338

3549

3549

ビルマ

名簿内

1693

1267

2960

2960

島嶼

名簿内

459

3284

3743

3743

軍属船員

9186

9186

9186

累計

名簿内

85288

59313

144601

 

 

名簿外

(101692)

(11111)

(112803)

257404

総計

 

186980

70494

257404

 

入国管理局総務課「朝鮮人人員表(地域別)分類表(陸軍)」による。19535月ころ、引揚援護庁復員局の資料をもとに入国管理局総務課が作成。表10の1と2は同種類の資料から作成されたものとみられる。

 

103 朝鮮人陸軍軍人軍属地域別統計表(143373人)

部隊所在地域別

軍人

軍属

復員

死亡

復員

死亡

復員

死亡

内地

16,324

55

16,379

1,666

124

1,790

17,990

179

18,169

朝鮮

43,780

108

43,888

21,920

64

21,984

65,700

172

65,872

千島・樺太

372

23

395

368

190

558

740

213

953

満州

8,751

57

8,808

6,570

39

6,609

15,321

96

15,417

中国

15,287

654

15,941

5,039

428

5,467

20,326

1,082

21,408

台湾

1,154

266

1,420

161

43

204

1,315

309

1,624

フィリピン

951

2,156

3,107

470

479

949

1,421

2,635

4,056

ジャワ、スマトラ、ボルネオ、ニューギニア

1,014

1,863

2,877

4,080

704

4,784

5,094

2,567

7,661

ビルマ

1,324

498

1,822

1,299

94

1,393

2,623

592

3,215

小笠原、沖縄、太平洋

151

190

341

3,831

826

4,657

3,982

1,016

4,998

89,108

5,870

94,978

45,404

2,991

48,395

134,512

8,861

143,373

朝鮮在籍旧陸軍軍人軍属の所属部隊所在地域別統計表 1962228日調製・厚生省援護課から作成、

これは朝鮮人陸軍軍人軍属を14万人とするもの。

 

表11−1 海軍・軍人 朝鮮人地域別動員数 約22千人

地域

部隊

解員者数

死没者数

その他

管区

動員先

志願

徴兵

志願

徴兵

志願

徴兵

志願

徴兵

内地

内地

7030

478

67

 

10

 

7107

748

 

7030

478

67

 

10

 

7107

748

ソ連

千島

5

 

 

 

162

 

167

 

 

樺太

1

 

 

 

2

 

3

 

 

北朝鮮

482

86

 

 

 

 

482

86

 

488

86

 

 

164

 

652

86

中国

華北

105

 

4

 

 

 

109

 

 

華中

294

 

12

 

 

 

306

 

 

華南

 

 

3

 

 

 

3

 

 

海南島

177

 

5

 

 

 

182

 

 

台湾

6

 

 

 

1

 

7

 

 

582

 

24

 

1

 

607

 

米国

小笠原

33

 

1

 

 

 

34

 

 

中部太平洋

 

 

3

 

 

 

3

 

 

沖縄

 

 

2

 

 

 

2

 

 

フィリピン

14

 

150

 

 

 

164

 

 

南朝鮮

3512

8599

40

4

1074

7

4626

8610

 

3559

8599

196

4

1074

7

4829

8610

英国

香港

37

 

 

 

 

 

37

 

 

マレー

 

 

 

 

1

 

1

 

 

37

 

 

 

1

 

38

 

仏印

南部仏印

7

 

16

 

 

 

23

 

 

7

 

16

 

 

 

23

 

 

総計

11703

9163

303

4

1250

7

13256

9174

「朝鮮出身者調査表(軍人の部)」1952125日調から作成、海軍軍人の総数は22430 人となる。

 

112 海軍軍人軍属・朝鮮人地域別動員数 約11

 

 

軍人

軍属

軍人軍属

地区

地域

合計

合計

総計

ソ連

ソ連外蒙

45

1

46

 

旅順・大連

 

13

13

 

北朝鮮

568

5485

6053

 

千島

122

12

134

 

樺太

3

 

3

 

艦船

 

488

488

 

738

5999

6737

米軍

小笠原

34

149

183

 

中部太平洋

1

9439

9440

 

鹿児島大島郡

 

119

119

 

沖縄

2

152

154

 

フィリピン

25

1525

1550

 

南朝鮮

13156

15680

28836

 

艦船

150

833

983

 

13368

27897

41265

中国

華北

106

5

111

 

華中

294

111

405

 

華南

 

20

20

 

海南島

178

266

444

 

台湾

7

24

31

 

艦船

23

173

196

 

608

599

1207

英軍

香港

37

44

81

 

タイ

 

10

10

 

ビルマ

 

15

15

 

アンダマン・ニコバル

 

87

87

 

マレー

1

404

405

 

艦船

 

11

11

 

38

571

609

蘭軍

ジャワ

 

65

65

 

南ボルネオ

 

199

199

 

セレベス

 

24

24

 

小スンダ

 

3

3

 

ハルマヘラ・セラム

 

288

288

 

西部ニューギニア

 

203

204

 

艦船

 

56

56

 

 

838

838

濠軍

東部ニューギニア

 

46

46

 

ビスマルク

 

2148

2148

 

ソロモン

 

197

197

 

ナウル・オーシャン

 

614

614

 

艦船

 

55

55

 

 

3060

3060

 

仏印

20

77

97

 

内地

7527

45442

52969

 

合計

22299

84483

106782

「終戦後朝鮮人海軍軍人軍属復員事務状況」入国管理局総務課1953528日(引揚援護庁第二復員局残務処理部復員業務部の19535月調査をもとに提示した資料)から作成。この表の原注には、死没者中には終戦前に公報されたものは含まれない、それを含めると、死没軍人は265人、死没軍属は12496人となると記されている。この時点で死者数は計12761人となる。表には軍人250人、軍属6971人の計7221人の死者が計上されているから、5540人分の死者が欠落していることになる。この欠落分の5540人を総数106782人に加えると、海軍への動員総数は112322となる。

 

4 強制連行調査の課題

 

@強制連行の概念

強制連行調査の課題を示す前に、強制連行の概念、朝鮮人強制連行をどう定義するのかについてみておきます。定義についてははさまざまな意見がありますが、朝鮮人強制連行真相調査団による『朝鮮人強制連行調査の記録』での定義を参考に、以下のように表現してみました。

「朝鮮人強制連行とは、国家総動員法の下での1939年からの労務動員計画による朝鮮本土からの連行、国民徴用令による日本国内からの労務動員、1938年からの志願兵や1944年からの徴兵による軍人としての動員、軍要員、工員、軍夫などによる軍属としての動員、さらには軍隊「慰安婦」としての動員など、戦時下の朝鮮人への強制的な動員・連行・労働などを包括する概念である」。このような形で歴史用語として定義をしてはどうかと思います。

強制動員真相究明ネットワークの「強制動員Q&A(2012年)では次のようにしました。

「アジア太平洋地域での戦争の拡大にともない、日本が多くの朝鮮人を労務や軍務などに動員したことをいいます。その動員は朝鮮内外でなされ、日本政府による労務動員計画や軍の命令により実施されました。動員では、詐欺や暴力をともなう強制的な連行がなされ、動員現場では労働が強制されました。これを朝鮮人強制動員あるいは朝鮮人強制連行といっています。強制動員や強制連行は歴史用語です。日本に住んでいた朝鮮人も動員されました。

動員計画にともない、企業は必要な人数を政府に申請して許可を受け、朝鮮現地で動員に関わり、連行して労働させています。ですから、企業にも責任があります。韓国では真相究明と被害者の救済にむけて、2004 年に韓国政府内に日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会が設立されました。この委員会は 2010 年に対日抗争期強制動員被害調査及び国外強制動員犠牲者等支援委員会となりました。強制連行・強制労働のことを韓国では強制動員としています。強制連行と強制動員の用語に大きな違いはありません」。

 

@  問題の解決に向けての課題

 では、強制連行問題の解決に向けての課題を5点にまとめてみます。

 

強制性についての歴史認識と連行責任

第1に、1905年保護条約から1910年併合条約による植民地支配が朝鮮での植民地戦争による結果であること、その支配の不法性を認識することです。植民地支配は詐欺と暴力によるものであり、戦時の皇国臣民化政策による植民地民衆の奴隷化と労務・軍務での動員の強制性について認識すべきです。植民地支配の強制性と動員・連行の強制性への歴史認識が大切です。それにより、国家責任と企業責任が明確になります。

 

政府による歴史調査と歴史史料の公開

第2に、日本政府がこの問題に関する資料を公開し、その歴史の調査をおこない、報告書を出すことです。韓国側の調査資料なども提供され、活用できるでしょう。国内での歴史改ざん派の誤った宣伝を否定しえる史料は、ここでも示してきたように日本政府内に保管されています。政府が持つ動員関係の資料を公開すれば、歴史改ざん派のプロパガンダは一掃されるでしょう。労務・軍務関係名簿、厚生年金や供託名簿などは公開すべきものです。

 

強制労働被害者救済のための立法

第3に、政府が主導して連行企業なども参加する強制労働賠償基金を日本で設立することが求められます。それをもって韓国での被害者救済にむけての財団設立と共同すべきです。強制連行に関わった企業は現在も数多く存続しています。、それらの企業はその歴史的な責任を果たし、そうすることで社会的な信頼がえられることを理解すべきです。強制労働被害者個人を救済するためにドイツが「記憶・責任・未来」基金を設立し、個人補償と記憶の社会的な継承に努めたことに学ぶべきです。

 

民衆の側からの調査

第4に、強制連行の全体像を明らかにするための、民衆の側からの研究・調査が求められます。連行数・連行先の把握、朝鮮内外での動員状況の解明、東アジア・東南アジアでの民衆動員の実態把握、企業・行政資料の発掘、労務連行者名簿の発見や整理、軍人軍属関係名簿の分析・整理、抵抗の歴史、死亡者・遺骨の調査・返還、証言の歴史資料としての整理、強制労働関係史料の収集と出版なども課題です。韓国の真相糾明のなかで出版された書籍類の日本での翻訳・紹介も必要です。引揚の記録や徴用船員の詳細な調査も課題です。

 

植民地責任を問う民衆運動

第5に、この問題解決に向けて現地での活動をすすめ、強制労働の現場を国際的な友好と平和の場とする活動を強めることです。それは、過去の清算の活動を地域で担い、歴史認識を高め、記憶を継承し、歴史を自らのものとし、地域から国際的な連帯をつくりあげていくことです。各地に残る朝鮮人遺骨の調査と返還にむけての行動をすすめることは、戦争責任、植民地責任をとることにもつながります。

 

おわりに

 

朴慶植が1965年に『朝鮮人強制連行の記録』を出して、日韓条約締結に抗議の意思を示してから約50年、日本ではこのように数多くの調査・研究が市民の側からおこなわれ、韓国では21世紀に入り、政府による調査委員会の活動がおこなわれてきました。

これらの真相究明の活動は、史料の隠蔽という闇を照らし、過去の清算をすすめるものです。その中で「志願」者や「応募」者も、強制動員被害者であるという歴史認識が形成されてきました。強制性に関する歴史認識の深化は、「対日協力者」という眼差しからの解放をもたらしました。

2011年には、韓国憲法裁判所が「慰安婦」問題や在韓被爆者への韓国政府の不作為を違憲とし、さらに2012年には韓国大法院が強制動員関係被害者の個人賠償権を認めました。韓国内では「戦犯企業」の提示もおこなわれ、被害者救済のための財団設立に向けての討議もすすめられています。

戦争と植民地支配を肯定するのではなく、誤りとして批判的に捉えなおすべきです。そのような批判的な歴史認識のうえに、東アジアの民衆の友好や平和があるのであり、戦時下、強制労働を強いられた人々や戦争被害者の側から歴史をみつめて表現すべきでしょう。

戦争と植民地支配は、国家の暴力によって人間の生命が破壊されていった歴史です。その歴史は、わたしたちに生命の大切さを示すものです。また、個々の生命が尊重されるためには、平和的な関係性がなければなりません。そのような平和的な関係性を形成するために必要なものが歴史認識であると思います。その歴史認識は、植民地主義や「冷戦」支配、そして現在のグローバル戦争の危機に対抗できるようなものであるべきです。

過去の清算は民衆による歴史獲得にむけての運動です。強制性に関する歴史認識をすすめ、この問題の解決にむけて、真相究明による真実の共有と正義の実現への心ある共同とそのような文化の創造が求められます。

最後に、北海道での連行朝鮮人の遺骨発掘の動きのなかで作られた歌を紹介します。過去の歴史に思いをはせ、新たな歴史への希望として、さまざまな表現を受け継いでいきたいと思います。                       

 

 

徴用者アリラン 作詞作曲 鄭泰春 訳 塚田タカヤ

 

月よ、高く のぼり 異国の山河 帝国を 照らすとき
殖民徴用の 青春 飢えて 労働に骨も溶け 眠れず
アリ アリラン 故郷の両親 帰りだけを 待ちこがれ
月よ、高く のぼり 今日息絶えた 魂を 数えよ

月よ、高く のぼり 北風に震える わが夜を 照らすとき
墓もなく 捨てられた 魂 帝国の 空 さまよい      
アリ アリラン 残した 妻 病の 慟哭も聞けず   
月よ、高く のぼり わが魂 故郷の 庭に 散らせ

アリ アリラン 捨てられた 魂 故郷にかえる ことなく   
月よ、明るく照らせ 悲しき 霊の名を 探そう

帰れぬ 故郷は あの世も 遠い・・・     
月よ、高く のぼれ 
月よ、高く のぼれ     
タラ ノピゴム オルララ・・・       


                    (強制動員真相究明ネット 第6回研究集会での報告  竹内)