戦争・軍拡と反戦・反基地の民衆史

 

はじめに

歴史認識を問うという形で靖国に反対する行動が計画されていますが、ここでは反戦・反基地運動をテーマに歴史認識について話したいと思います。

1980年代後半の天皇代替わりに際に、この国はこんな国だったのかと思いました。天皇の病気による自粛の動きや代替わりの天皇行事のなかで、民主主義や天皇制の戦争責任が問われました。それは生存権の問題でもあったと思います。それから20年、3・11福島原発震災の中で、この国の民主主義、生存権、歴史的な責任が再度問われています。生存を奪う放射能汚染と被害者救済の放置、歴史的な責任を問うことのない原発推進と再稼働という現状があります。

安倍政権は経済での3本の矢を語って政権維持を計っていますが、その矢は、金融を緩和してマネーを投機し、公共事業で税金を使い、解雇の自由を含む企業の利益を強化するというものであり、民衆の生活を良くするものにはならないでしょう。

彼らの歴史認識は過去の問題を歪曲し、軍拡を強化するというものです。それに対して、彼らを撃つ3本の矢をわたしたち自身がそれぞれ持つべきときであると思います。

 

1 軍拡・戦争の歴史と反戦運動

 

近代150年は戦争と軍拡の時代でした。そのなかで軍事基地がどのように形成され、どのように使われてきたのか、それに対して、軍事基地をなくす運動がどのように形成され、継続されてきたのか、それを考え、今どうしていくのかが問われています。この間の歴史は、帝国主義の時代の侵略戦争と植民地支配の時代、米ソ冷戦での朝鮮戦争・ベトナム戦争などの時代、現在のグローバル資本主義でのグローバル戦争の時代の3期に分けてみていくことができると思います。

第1期の侵略戦争と植民地支配の時代、アジア太平洋戦争では2000万人という人々が日本による戦争で死を強いられました。この戦争では虚偽の宣伝によって人々が動員されました。万世一系の天皇であるとか、靖国に合祀するといったことがら自体が作り話であり、偽りでした。戦争を遂行した人々はその戦争と植民地支配を肯定しましたが、現在においてもこの国ではそれを肯定し、戦争責任、植民地責任をとろうとしないものたちが主流です。

この7月、韓国で強制労働被害者への賠償を認める判決が出されましたが、マスコミは「不当判決」と社説で主張しています。軍事力で土地と民衆を奪い、植民地支配をおこない、強制性をもって民衆を動員したことを認識し、そのうえで戦争被害者への賠償請求を実現していくことが求められます。

第2期の米ソ冷戦期の動きをみれば、ここでも偽りの宣伝が繰り返されてきました。非核3原則があっても核密約によって核が持ち込まれ、安全保障とはいうものの実際には米軍の自由出撃が保障され、沖縄返還とは結局は軍事基地の固定化と日米共同の軍事支配でした。密約は「半世紀のウソ」でした。その中で自衛隊の強化がすすめられました。

この軍拡と戦争の動きに抗する形で、1950年代には沖縄の島ぐるみ闘争、砂川闘争のような反基地闘争がおこなわれ、その動きは安保闘争につながりました。ベトナム戦争の中ではベトナム反戦運動が高まり、べ平蓮や反戦自衛官の活動などもおこなわれました。

現在は第3期のグロ−バル戦争の時代ですが、このグローバル戦争についてみる前に首都圏の軍事基地の歴史についてみておきましょう。

 

2 所沢・立川・入間などの航空基地

 

 所沢には1911年に日本最初の飛行場である所沢飛行場が開設されました。第1次世界戦争後の1919年には所沢陸軍航空学校がおかれ、この航空学校は24年には飛行学校になります。25年には陸軍航空本部技術部がおかれ、3年後には立川に移転します。36年には陸軍航空兵団司令部が置かれるなど、陸軍航空の中心になっていきました。ここで学んだものたちがアジアへと派兵され、重慶をはじめ各地を爆撃します。

 戦後は米軍が接収し、52年には米軍の兵器分廠がおかれますが、1960年代になると市民による基地返還運動が高まります。ベトナム戦争が激化するなかで、66年には市議会が全面返還を決議し、基地内に運動場を建設しようという1万人署名運動がおこなわれました。67年には所沢基地全面返還運動市民大行進がもたれ、68年には返還運動をすすめるために所沢市基地対策協議会が設置されました。69年には市長がハワイ司令部に出向き、基地の返還を訴えています。米軍住宅の移転反対の運動も起きました。

このような基地返還運動は71年の第1次返還を実現させ、82年の第3次返還までに米軍基地の7割の返還を実現します。74年には対大陸間弾道ミサイル用のOTHレーダーの撤去運動も起こりました。しかし、米軍は横田への軍の集中をおこない、77年には横田の374空輸航空団の通信基地とする形で所沢の基地を再編しました。今では基地の跡地は所沢航空記念公園などになっていますが、現在も米軍の通信基地があります。所沢市のスローガンは「基地全面返還は市民の願い」です。

立川では1922年に飛行場が完成し、飛行第5大隊がおかれました。後にこの飛行第5大隊は飛行第5連隊、飛行第5戦隊などへと改編されていきますが、この飛行第5大隊の設置とともに立川は陸軍航空の研究・開発・製造の拠点とされ、陸軍航空技術研究所、陸軍航空工廠などがおかれました。さらに民間の飛行機工場として立川飛行機ができ、周辺には日立航空機、昭和飛行機、中島飛行機武蔵工場などができます。

戦後は米軍が接収し、米空軍極東司令部がおかれました。航空資材司令部もおかれ、朝鮮戦争時には極東最大に輸送基地になっていきました。54年には第315航空師団が移駐し、航空運輸サービスといって民間輸送もきました。この中で、米軍立川基地の滑走路の拡張が狙われ、それに対して、砂川基地拡張反対同盟が結成されました。57年には基地内測量反対闘争がおこなわれましたが、事後に検挙されるという弾圧を受けました。しかし、59年に米軍駐留を憲法違反とする地裁判決を勝ち取りました。これに対しアメリカが介入して最高裁での差し戻し判決を画策し、結局、有罪とされるのですが、69年には米軍機の飛行を停止させていきます。跡地の一部には72年に自衛隊が移駐することになりますが、77年には米軍基地は全面返還されます。米軍は横田へと軍事機能を集中するわけです。

立川自衛隊監視テント村はこのような基地反対運動の中で結成されたわけですが、自衛官への反戦の呼びかけを継続しておこなってきました。2004年の自衛隊官舎のイラク派兵に反対するビラまきでは弾圧され、裁判では敗訴しました。けれども最終的には、別の裁判ですが、イラク派兵違憲市民訴訟での2008年の名古屋高裁の勝訴によって、イラクへの派兵に反対した行為が正義であることを政府に認知させました。

入間の基地は、1938年に所沢から陸軍航空士官学校分校が移転し、陸軍航空士官学校がおかれたことからはじまります。戦後は米軍が占領し、アメリカ第5空軍司令部が移駐し、ジョンソン基地の名で使われます。朝鮮戦争にともない、第5空軍の主力は朝鮮へと投入されました。軍用機の墜落事故も数多く起きました。この入間には54年に自衛隊が展開し、58年には航空自衛隊入間基地ができます。そして、日米共同の使用協定が結ばれました。78年の米軍基地は返還されましたが、入間の米軍の機能は横田に集約されていきます。

その後、入間には空自の中部航空方面隊司令部、中部航空警戒管制団司令部、航空開発実験集団司令部、第1高射群本部、航空総隊司令部飛行隊、第2輸送航空隊などがおかれ、空自の拠点となりました。2007年にはPAC3が配備され、09年には破壊措置命令によって、習志野や武山のPAC3とともに首都圏に展開しました。これは、米軍の再配置にともなうミサイル防衛の強化でした。なお、朝霞には2007年に中央即応集団が置かれましたが、これも米軍の再配置にともなう自衛隊の再編の一環です。

 

3 横田基地への集中と米日共同統合作戦調整センターの設置

 

このような軍拡と反基地運動の攻防の中で、横田での基地機能が強化されてきたわけです。横田での基地の歴史は1940年の陸軍による多摩飛行場建設からはじまります。この飛行場は立川の飛行第5連隊の付属基地とされましたが、戦後は米軍が接収しました。46年には厚木から第3爆撃飛行大隊が来て、基地を開設します。朝鮮戦争期には横田から第92・98爆撃隊、第35戦闘機連隊が出撃しました。60年には入間から第41航空師団、第3爆撃連隊が移駐し、キューバ危機には臨戦状況となりました。さらに64年には板付からF105が移駐しましたが、翌年には墜落事故を起こしました。このような基地強化の中で、基地包囲の集会も持たれました。68年にはF4が配備されましたが、71年に沖縄に移駐しました。69年には米空軍の輸送軍団が横田を使用するようになり、立川からC130が移駐しました。

60年代後半から70年代初めにかけて、米軍の再編がおこなわれ、首都圏米軍基地の横田基地への機能への集中がすすみました。74年には府中から在日米軍司令部、第5空軍司令部が移転しました。翌年には第345戦術空輸中隊が横田に移駐しました。所沢・立川の一部返還と横田への集中がすすんだわけです。この横田への集中は周辺地域でのいっそうの騒音被害をもたらしました。この中で76年に第1次横田基地騒音被害訴訟が提訴され、77年には第2次、82年には第3次訴訟と続きます。この訴訟は夜間差し止めと損害賠償を求めるものでしたが、損害賠償では勝訴しました。

83年には、米軍は横田で横須賀の空母ミッドウェー艦載機の夜間離発着訓練(NLP)をはじめました。さらに89年には横田で日米共同訓練がなされ、91年の湾岸戦争では横田から輸送機が派兵されました。

このなかで、94年には第1次横田飛行差し止め訴訟、96年には新横田基地公害訴訟が計6000人の原告で提訴されました。98年には東富士での104訓練の兵員輸送の基地としても使用されました。2001年から02年にかけて日本の負担で滑走路の改修工事がおこなわれました。01年には都の防災訓練ビッグレスキューで使用され、02年には対テロ訓練がなされました。

そして06年には横田の在日米軍の地下施設に米日共同統合作戦調整センターが置かれました。グローバル戦争下での米軍の再配置がすすむなかで、在日米軍司令部が置かれている横田に日米の共同統合作戦司令部がおかれたわけです。そこに府中から空自航空総隊司令部の移転がすすめられ、12年に移転が終了しました。この動きは米軍指揮への自衛隊の従属を示す重要な出来事です。宇宙の軍事化によるミサイル防衛を通じて、自衛隊は米軍の指揮と一体になったわけです。3・11の際には、「トモダチ」作戦の拠点とされました。今年になってオスプレイによる使用も報道されています。

 

4座間・相模原・厚木・横須賀の基地と反基地運動

 

座間での軍事基地の形成は、1937年に東京から陸軍士官学校が移転したことからはじまります。45年に米軍が接収し、第1騎平師団第4兵站廠がおかれ、50年には米陸軍第8軍がおかれ、キャンプ座間とされました。54年には国連軍後方司令部がおかれましたが、07年に横田に移転しました。57年には在日米陸軍司令部がおかれました。71年には朝霞から陸自第1施設団第102建設中隊が移駐し、共同使用基地となります。01年には陸自第4施設群本部が宇都宮から移駐しました。

米軍再配置により、07年には第1軍団の前方司令部がおかれ、在日米陸軍司令官が第1軍副司令官を兼任するようになりました。また、13年には陸自の中央即応集団司令部が朝霞から移駐しました。在日米陸軍の下で陸自の空挺団やヘリ、特殊作戦部隊、中央即応連隊などの部隊を持つ中央即応集団が動くという形になったわけです。この座間では、陸軍の日米統合がおこなわれたわけです。これに対して、市民による座間基地の撤去の動きが強まり、行政も基地返還を強く主張し、市民連絡協議会が結成されました。

相模原の基地の歴史は1938年に相模兵器製造所がおかれたことからはじまります。相模兵器製造所は40年に相模陸軍造兵廠となります。陸軍により土地が強制収用されました。45年には米軍が入り込み、49年には米陸軍横浜技術廠相模工廠がおかれました。これが陸軍総合補給廠となり、66年に陸軍相模補給本廠となります。71年には陸自が移駐し、共同使用となります。

72年にはベトナム反戦運動の高まりの中で、相模補給廠からベトナムに向かう戦車を横浜の村雨橋で阻止するという闘いが高揚します。阻止に向けてテント村もできました。90年の湾岸戦争では相模補給廠からペルシャ湾へとコンテナが運ばれました。2011年には相模原に米4軍の統合指揮作戦司令部の訓練センターである戦闘指揮訓練センターが設置されました。米軍再配置・4軍の統合の中で、補給廠での訓練も行われるようになったわけです。

厚木の基地の歴史は38年の海軍厚木航空隊の建設からはじまります。45年の敗戦により、米軍が接収しました。朝鮮戦争によって厚木基地の復旧工事がおこなわれ、米第7艦隊の主要な航空基地となりました。

1960年代には周辺民家の集団移転がおこなわれました。71年からは下総から海自の第4航空群が移駐し、座間や相模原と同様に日米の共同使用となりました。73年からは横須賀の空母艦載機の厚木使用が始まり、騒音が激しくなりました。またこの年に海自の航空集団司令部が厚木へと移駐しました。

このような騒音激化と日米の共同がすすむ73年に第1次厚木基地爆音訴訟が始まり、84年に第2次、97年に第3次と追加されました。厚木では74年に燃料タンク油漏れ事故が起き、住民が避難しました。また、77年には横浜緑区に厚木から横須賀に向かう米軍機が墜落し、住民が亡くなる事故も起きています。

81年には海自の対潜哨戒機P3Cが配備され、米海軍を防衛する役割を担うようになります。82年には厚木で夜間離発着訓練(NLP)がおこなわれ、激しい騒音をもたらします。さらに、86年にはFA18が飛来し、新たな騒音問題を起こします。

厚木は米海軍第5空母航空団の基地であり、この航空団は海外に展開している唯一の部隊です。この団は朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガン・イラク戦争に参戦しています。この航空団の岩国への移転が米軍再配置の中で言及されています。空母はこの第5航空団の軍用機を載せて出撃する船ですが、その基地が横須賀です。

横須賀の基地の歴史は1884年の横須賀鎮守府の設置からです。1876年の横浜に置かれた東海鎮守府が横須賀に移転してきました。1903年には横須賀海軍工廠がおかれ、軍需生産の拠点になりました。アジア太平洋戦争期には横須賀から南方へと多くの部隊が派兵されました。

45年には米軍に接収され、米軍用の住宅も建設されました。このなかで46年には長井地区で米軍住宅に反対する農民大会が開かれるなどの反対の動きも起きます。50年には旧軍港市転換法が施行されますが、横須賀は戦争の拠点になっていきます。63年には原子力潜水艦が寄港しますが、阻止集会がもたれました。73年には空母ミッドウェーの母港化反対集会がもたれました。非核3原則はあっても核は持ち込まれていたのですが、84年には核艦船入港差止訴訟が起こされました(87年に却下)。85年には米軍住宅建設をめぐって住民訴訟が起こされ、市長も設置反対の立場を示しました。88年には横須賀沖で潜水艦なだしおと民間船との衝突事故が起きます。この頃トマホーク艦船の入港も問題になりました。

91年の湾岸戦争、92年のPKO法制定によって自衛隊の海外派兵の動きが強まるなかで、横須賀では自衛官・市民ホットラインが開設されました。その後、ガイドライン安保とグローバルな戦争の展開の中で海外派兵がくりかえされますが、横須賀の市民グループは毎月の街頭デモや平和船団によって「憲法9条が自衛官の生命を守っている」と海外派兵反対を呼びかけていきました。

米軍の再配置の中で、2008年には原子力空母ジョージワシントンが配備されました。横須賀からは朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガン・イラク戦争と派兵が繰り返されました。横須賀には在日米軍の海軍司令部がおかれ、第7艦隊戦闘部隊、第15駆逐隊、第7艦隊潜水艦部隊、第7艦隊水陸両用部隊などがあります。また、横須賀には、海自の自衛艦隊司令部がおかれ、イージス艦をはじめ、護衛艦、補給艦、潜水艦などが配置されています。また、空自の武山にはPAC3が配備されました。

 

5グローバル戦争の特徴

 

このように首都圏の軍事基地の再編、部隊の再配置がすすめられてきたわけですが、それはグローバルな戦争によるものです。

アメリカでの占拠運動のなかで1%への富の集中が問題とされたように、グローバリゼーションは富裕層であるプルトノミーとそれ以外のプレカリアートへの二分化をすすめています。このグローバル化は世界各地で紛争や対立をもたらすようになりました。アメリカはそれをグローバルな戦争を実行することで抑えつけていこうとしています。米ソ冷戦以後のこのグローバル戦争の時代を第3期とします。

このグローバル戦争の特徴の第1は、宇宙の軍事化です。宇宙を平和利用ではなく、軍事での利用をすすめ、地球(グローブ)全体を支配するというわけです。第2の特徴はグローバルな支配による予防先制攻撃とミサイル防衛です。宇宙空間に衛星を置いて地上を把握し、その衛星を経由して攻撃をおこなうわけです。第3の特徴は、平時の戦時化です。平和な日常が進行しているようななかで実際には戦争がおこなわれています。「テロ」対策を口実に、全情報が管理化され、盗聴されていく、NSAによる検索システム「プリズム」はこの監視を象徴するものであるわけです。地球の裏側からプレデターなどのロボット兵器を使って攻撃がおこなわれていくという事態が進行しています。

このグローバル戦争にともない米軍の世界的な再配置がすすんでいます。宇宙を軍事化し、軍事の革命をすすめ、軍の統合性、機動性、即応性を高めるというわけです。自衛隊はミサイル防衛を通じて米軍の指揮の下に完全に入ったわけです。AWACSやイージス艦の情報も米軍が把握し、米軍の軍事行動の一部としてPAC3が展開するわけです。沖縄への自衛隊の新たな配備もこの一環であり、オスプレイの配備、沖縄での辺野古や高江の新基地建設もこの動きのなかですすんでいるわけです。

この再配置のなかでガイドライン安保は自衛隊の米軍の後方部隊化をすすめました。首都圏での横田基地での米日共同統合作戦調整センター(統合運用調整所)の設置、横田への空自航空総隊司令部や作戦情報部隊の移転と運用の開始(20123月)はこの動きを象徴するできごとです。運用を始めるとすぐには北のミサイル問題を口実にミサイル防衛行動がなされました。これを政府は「破壊措置命令」と呼びましたが、これは予防先制攻撃と一体のものです。

2013年の米韓軍事演習フォールイーグルとキーリゾルブは対北制圧に向けての訓練でしたが、これに連動する形で米日による離島奪還訓練が行われました。この動きのなかで、集団的自衛権の行使を認める、敵基地を攻撃する、自衛隊を海兵隊化するといった議論がだされ、憲法第9条も変えていくという動きが強められているわけです。

 

6 反戦反基地運動の課題

 

このようなグローバル戦争がすすんでいるわけですから、反戦・反基地の運動は重大な局面にあります。

安倍政権は改憲を前面に出していますが、その自民党の改憲案は立憲主義を否定し、「天皇を戴く国民主権」とする天皇元首化の憲法です。また、国防軍を作り、軍法会議のようなものも入れるというものです。グローバルな支配によるプルトノミーが利益を得、その他の人々の自由権や社会権などが抑圧されているわけですが、それを肯定するものでもあるわけです。このような憲法改悪を阻止することが第1の課題です。反戦・反基地の平和運動はこの反改憲運動の核心となるものです。

2に、これまでの反戦・反基地運動を継続し、強化することが課題です。これまで様々な形の反戦・反基地運動がありました。そこには民衆運動としての歴史があります。2008年には名古屋高裁で、空自のイラクでの米軍の空輸活動を憲法9条違反とする判決が出され、確定しました。日本でのイラク反戦の運動は自衛隊の後方支援活動を憲法違反としたわけですから、この判決の価値は大きなものです。「憲法9条が自衛官の生命を守っている」のです。

韓国や沖縄の反基地運動と手をつなぎながら、非軍事の北東アジアの平和を確立する運動や過去の戦争を批判し、戦争遺跡を保存し、平和を物語るものとする活動も大切です。戦争責任、植民地責任を問い続けることも必要です。首都圏での主要な拠点である横田、横須賀の基地での反基地運動、防衛省への行動などの継続・強化が求められます。

3に兵士人権論をふまえて、自衛官や米兵への呼びかけをすすめることです。兵士の出自は民衆であり、民衆に銃を向けるな、憲法の平和主義が兵士の生命を守るものであり、反戦平和運動の存在が、戦争を止め、兵士の生命を守るものである、この運動は兵士の味方であること、これらをきちんと示すべきです。

自衛隊は軍隊であり、軍事組織には隊内での人権抑圧があります。さらにグローバルな戦争のなかで新たな人権抑圧が強まっています。他方で人権の意識は社会的な蓄積を持ってきていますから、自衛官人権裁判が各地で起こされています。小牧でのクウェートに派遣され事故にあった自衛官の裁判からは、自衛官の命が軽くみなされ、怪我は隠され、使えなくなれば解雇されていることがわかります。

グローバル戦争にともなう海外派兵の時代であるからこそ、一人ひとりの自衛官の人権保障、人権相談、団結組織に向けての取り組みが求められます。

反原発運動も反戦反核運動としてとらえなおすべきです。平和運動としての歴史的な蓄積があり、核と人類は共存できない、原子力と民主主義は相いれない、国の言うことを信じていたら殺される、原発は差別の象徴、原発犯罪といった表現から学ぶことは多いと思います。原発を戦争と言い換えることもできるでしょう。国家は民衆の生命と権利を守ろうとしてはいません。原発再稼働で言われているように、命をとるのか儲けをとるのかが問われています。

 

おわりに

 

万世一系の天皇、靖国合祀から安全保障、非核3原則に至るまで、権力による虚偽が宣伝され、戦争動員がなされてきました。グローバル戦争のなかでロボット兵器による攻撃のように倫理の崩壊もすすんでいます。反戦運動はこのような虚偽の宣伝を暴き、倫理の破壊を許さず、民衆の正義を実現するものです。あきらめることなく反戦平和を呼びかけるべきです。すでに世紀の大ウソであることは明らかになっているわけです。

グローバル支配による社会権の破壊は、新たな社会権闘争を生んでいます。反戦反基地運動もこれまでの運動をふまえての新たな一歩が求められています。高まる排外主義の克服も課題です。

なぜ過去と現在の戦争を批判するのかといえば、戦争は個々の生命を破壊するものであるからです。生命を守ろうとするならば、平和的な関係がなければなりません。生命を守り、平和的な関係を作るにあたって、求められるものが歴史認識です。歴史的責任といってもいいでしょう。過去をどう批判し、現実を変え、良き未来をつくるためには歴史認識が必要です。その歴史認識において、日本では戦争責任、植民地責任、天皇制批判は欠かせないものです。歴史的責任を問うことと社会的な民主主義と生存権を実現することとは一体のものです。生命、平和、歴史認識、この3つがこの国の改憲策動と歴史歪曲を撃つ3つの矢ではないでしょうか。

植民地支配では、戦時の強制労働や性奴隷制といった過去の清算が課題ですが、特に強制性に関しての認識が問われます。この7月に韓国で、新日鉄住金、三菱重工業の強制労働被害者の裁判で被害者側勝訴の判決が出ました。これまで敗訴の連続でしたが、韓国での民衆運動の高まりを受けた2012年の韓国大法院判決により、今回の差し戻し審での勝訴となりました。闘い続けたことで、勝利に向けての光を得たのです。戦争被害者の賠償請求権の確立は戦争を止める大きな力です。この勝訴から強制労働の清算に向けての扉を開けていきたいと思います。その動きは排外主義と戦争に抗する力になると思います。

歴史認識とは、生命を守り、平和を創っていくために、どこに向かっていくのかを示す能力です。靖国神社は戦争を肯定し、戦争に加担したものたちを英霊として賛美するものです。しかし、一本のろうそくに英霊が合祀されるということ自体が、作り話であり、偽りです。騙されてはいけません。

2013728日、「安倍改憲と815」討論集会での発言に加筆 竹内)