中島飛行機半田製作所

 

名古屋市南方の知多半島の半田市には中島飛行機半田製作所があった。半田製作所は一九四二年に建設され、ここでは海軍の機体生産がおこなわれた。この半田工場では海軍機の天山、彩雲など一四〇〇機ほどが組み立てられ、労働者数は三万人に及んだという。

半田工場には一九四四年一二月、朝鮮半島北部の咸鏡南道の端川、北青、利原、定平、三水、新楽、長津などから一二〇〇人ほどの朝鮮人が連行された。連行者の氏名は企業側が半田市に提供した厚生年金の被保険者名簿から明らかになっている。連行された朝鮮人は半田工場の北方の新池寮と長根寮に収容された。収容された寮から工場まで隊列を組んで出勤したという。

また、中島飛行機半田工場の建設や引き込み線工事・滑走路建設工事は清水組が請け負ったが、ここにも多くの朝鮮人が動員されていた。滑走路は東西一・八キロ、南北二・五キロの長さでの建設が予定されたが、南北八〇〇メートルが建設され、敗戦となった。中島飛行機半田工場は隣の阿久比町や石川県小松市遊泉寺に疎開用の地下工場を建設したが、そこにも朝鮮人が動員された。

一九四五年七月二四日の米軍による空襲では、半田工場や北方にある労働者居住地へと二〇〇〇発以上の爆弾が投下された。死亡者は二七〇人以上であり、収容寮付近では連行朝鮮人四八人が死亡した。

半田に連行された朝鮮人に崔翼天さんがいた。崔さんは一九四四年一二月に咸鏡南道北青郡厚昌面から連行された。結婚したばかりのことである。崔さんは二一歳のものは日本に徴用されると聞いて近くの鉱山に逃げて働いていたが、実家に帰ったときに捕まってしまった。駅から貨車に乗せられ、外から施錠された。翼天さんたちは釜山から下関を経て、半田の乙川駅まで連行された。

半田に連行された朝鮮人は一〇の中隊に編成され、さらに小隊に分けられた。中隊長は日本人だったが、小隊長は日本語がわかる朝鮮人青年が任命された。朝鮮人は部品工場、調整工場、胴体・翼・機体組み立て工場などに送られて労働を強いられた。崔さんは長根寮に入れられ、天山の翼の組み立て作業の現場に送られた。朝鮮人は水色の作業服を着たが、海軍の整備兵が大和魂注入棒という棒を振り回して殴った。調整工場では三〇人の朝鮮人が空腹に抗議することもあったが、海軍兵によって制圧された。

空襲の際には横川池の松林に逃げ込んだが、そこに爆弾が投下され、枝にはちぎれた腕や足、腸が垂れさがった。小隊長の林泰駿は破片で背中をえぐられた。知人の金鳳龍は池の中で息絶え、金枝白は爆弾で右手首を失い、鼓膜が破れた。空襲後は跡片付けのような作業が続き、日本が戦争に負けたと聞いた。崔さんたちは防空カバーを外して、乾杯して、歌って喜んだ。会社に対して帰国を求め、九月一〇日ころ、翼天さんたちが先発隊として遺骨をもって帰国することになり、残りの一〇〇〇人の本隊は一〇月上旬に帰国した(『知多の戦争物語四〇話』一一〇、一八四頁)。

半田市の雁宿公園にある「平和記念碑」は東南海地震、半田空襲、労災などで死亡した人々を追悼するものである。この碑は一九九五年に建てられたものであり、碑文にはアジア諸国をはじめとする全ての戦争犠牲者を追悼し、再び戦争を起こさないという決意が記されている。碑には、植民地とされていた朝鮮北部から連行された朝鮮人の命が空襲によって失われたことが記され、朝鮮人の名前も刻まれている。

空襲の跡を示す遺跡には、半田市の赤レンガ倉庫がある。元はビール工場として使われていたが、中島飛行機が買収して利用した。この倉庫の北壁には一九四五年七月一五日の空襲による機銃弾の跡がある。中島飛行機の滑走路跡が海に向かうまっすぐな道の形で残っている。

半田市は童話作家新美南吉の故郷である。その記念館に南吉が知人に贈った『おじいさんのランプ』が展示されている。南吉は贈った相手に、宮澤賢治の詩の一節「まことのことばはうしなわれ 雲はちぎれてそらをとぶ」と記した。半田工場ができた一九四二年の記事である。南吉は一九三五年に記した「ひろったラッパ」で年寄りに「せんそうはもうたくさんです」と話させ、男に「げんきをだして、ふみあらされた はたけをたがやし、むぎのたねをまきましょう」と語らせている。南吉にとって叫ばれる戦争推進のスローガンは真実の言葉ではなかったのだろう。

歴史の修正主義は過去を合理化して、過去の清算を拒む。半田での被保険者名簿の公開や平和記念碑建設の動きは、そのような偽りの言葉を排して「まことのことば」をつかむ活動のひとつである。 

参考文献

朝鮮人強制連行調査団『朝鮮人強制連行調査の記録 中部東海編』柏書房一九九七年

『知多の戦争物語四〇話』半田空襲と戦争を記録する会二〇〇二年

(二〇一三年八月調査)

 

 三菱重工・大府飛行場工事

 

二〇一三年九月一四日、第五回大府飛行場中国人強制連行殉難者追悼式が愛知県東海市の玄猷寺で大府飛行場中国人強制連行被害者を支援する会の主催でもたれた。玄猷寺は連行中国人五人の遺骨が一時保管されていた場所である。仏式の詠歌と読経、焼香の後、追悼の会がもたれた。

主催者を代表して日中友好協会愛知県連合会会長が、連行され、労働を強いられて亡くなった中国人の怒り、苦しみ、哀しみを継承し、その記録を伝えていきたいと決意を述べた。

追悼の言葉を、大府飛行場の工事現場で土砂の下敷きになって亡くなった宋学海さんの弟、宋殿挙さんが述べた。宋さんは、兄が八路軍に入り日本軍が村に来ること事前に伝えるなど命を懸けて村人を守ったこと、日本に連行され、大府で土砂の下敷きになって亡くなったこと、兄が抗日烈士として認定されていることなどを話した。また、兄の苦しみを共にする日本の友人とともに、岩田地崎建設(旧地崎組)に事故の説明を求めたい、私がいなくなっても、甥や孫が後を引き継いでいくと語り、兄よ、安らかにお眠りくださいと追悼した。

続いて、強制連行問題を調査してきた劉宝辰さん(元・河北大学)が、強制連行の原因や労働の実態について話した。劉さんは連行企業の責任を、安全保護義務を果たさなかったこと、生存する条件を与えなかったこと、自由を制限したこと、死者や負傷者への補償がなかったこと、逆に連行企業が戦後、政府から補償金を得たことの五点にまとめた。そして、今も死者の家族に対しては何の説明もないままであり、岩田地崎建設は説明すべきとし、謝罪・補償・記念碑の建設による和解は、歴史的な意義があるものであり、日中友好をすすめ、企業の名誉をも高めることになるものとした。

最後に、支援する会の代表委員である南守夫さんが支援する会の活動報告をおこない、つぎのように話した。地崎組は中国人強制連行を提言した企業であり、戦犯にはされなかったが、訴追対象とされていた。大府では、中国人強制連行裁判が終わった二〇〇九年の時点から追悼と調査活動がすすめられてきた。二〇一一年、二〇一三年と中国での生存者への聞き取り調査をおこなった。中国から連行された地崎組の四九六人のうち、計三一人が死亡した。生存者五人から二〇一二年に謝罪・補償・記念碑の建設を求める「提訴書」がだされた。岩田地崎建設は二〇一二年一〇月、裁判により損害賠償の支払義務はない、今後は如何なる申し入れに対しても対応しないと回答してきた。このような状況の中で新たに被害者を支援する会を結成した。先日、九月一二日の札幌本社での交渉には遺族も参加したが、岩田地崎側は、要求内容を理解する、死者に哀悼の意を示す、今後、真摯に考えるという対応であった。追悼することをふまえて調査をすすめ、全面的な解決に向けて力を合わせていきたい。

追悼会の後、宋殿挙さんが寺の境内で紙銭を燃やした。残暑を吹き抜ける秋風に紙銭は瞬時に燃えあがり、灰となって渦巻き、見守る人々の肩に落ちた。

連行した政府と企業が遺族に対して、どこに連行し、どのようにして亡くなったのかを説明してはいない。戦後補償裁判では企業側との和解がなされたものもあったが、連行被害者の声を無視して止まないままのものが多かった。今後は、政府と連行企業が共同し、賠償基金をつくって全面的な解決をめざすべきである。

支援する会では『愛知・大府飛行場における中国人強制連行・強制労働 改定増補版』を作成している。朝鮮人の連行についての記載は少ないが、その他の資料を含め、以下、三菱重工・大府飛行場工事についてまとめておこう。

名古屋にある三菱重工業大江工場は航空機生産の拠点だった。戦争の拡大によって、この大江工場の南東、東海道線の西側に飛行場をもった機体組立工場が新たに建設されることになった。それが三菱重工の知多工場と知多飛行場であり、この知多飛行場は大府飛行場と呼ばれるようになった。この三菱知多工場では陸軍の要請で主に爆撃機が組み立てられ、陸軍の飛行場へと空輸された。

工場と飛行場の建設に向けて軍と三菱は大府町(現大府市)と上野町(現東海市)で用地を獲得し、一九四一年一〇月に起工式をおこなった。知多半島の丘陵を削り、谷を埋めて滑走路や誘導路、組立工場や整備工場などが建設されていった。大府駅からは組立工場へと鉄道線も引かれた。これらの建設労働力の中心は朝鮮人だった。工事にともない、姫島、吉田など各地に朝鮮人飯場ができた。飛行場南方、組み立て工場近くの吉田国民学校では、一九四三年度には児童数四〇九人のうち、朝鮮人児童が五四人になった。

中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」には大林組が三菱重工整地工事で一九四一年度に一〇〇人の連行を承認され、一九四二年六月までに二一四人を連行したとある(現在員数は八八人)。この整地工事は知多の工事とみられ、連行朝鮮人も動員されていたことになる。

一九四二年九月には協和会知多工事場分会が工事場の中央広場で殉職者慰霊祭をおこなったが、そこには全従業員三〇〇〇人が参列したという(「東亜新聞」一九四二年九月二六日)。この慰霊祭の主催が協和会であることから、朝鮮人の死者が出たことが明らかであり、参列者の多くが朝鮮人であったとみられる。

知多(大府)工場と飛行場の完成は一九四四年四月のことだった。この工場では主に陸軍の四式重爆撃機(飛龍)が製作され、敗戦までの知多工場での飛龍の生産機数は五八六機という。

「日本土木建築統制組合請負工事一覧 一九四四年八月現在」には、大林組が三菱重工の「チタ工事」を請け、四四年七月から一二月の完成にむけて道路工事や排水工事を担ったことが記されている。完成後も大林組が付随した工事がおこなっていたことがわかる。

三菱重工大江工場は一九四四年一二月の東南海地震と名古屋空襲によって大きな被害を受けて疎開・移転をすすめることになった。その移転先のひとつが大府であり、所長事務所や現場管理部門事務所、機体部品工場、陸軍航空本部分駐所などの移転工事がおこなわれることになった。一九四五年一月には、東海道本線共和駅の東側、横根山の丘陵に地下壕を掘って、半地下式の疎開部品工場が建設されはじめ、大府駅近くには管理部門が疎開した。これらの工事を担ったのも朝鮮人であり、横根地区に飯場ができた。

一九四四年一一月末、北海道のイトムカ鉱山と置戸鉱山の沈澱池工事現場から中国人四八〇人が大府へと連行されていくが、それはこのような疎開工事がはじまる直前のことだった。

 連行中国人は地崎組が一九四四年三月に中国から連行してきた人々であり、石門収容所から二九六人、済南収容所から二〇〇人の計四九六人が青島港を出発している。地崎組は新たに大府飛行場の滑走路の拡張と誘導路の新設工事を請け負って、大府へと中国人を転送したのだった。飛行場の拡張工事は一九四四年一二月からはじまったが、連行された中国人は滑走路北側にテントを張って居住し、労働を強いられた。

中国人は一九四五年六月末には北海道赤平の日本油化工場の建設工事現場に転送された。大府では中国人は五人が死亡し、遺骨は玄猷寺で保管されていた。戦後に遺骨は中国へと返還されたが、天津市の殉難烈士労工紀念館に保管され、遺族の手元に戻ってはいない。

 地崎組は北海道各地の現場に、政府から一九三九年から四一年にかけて一五〇〇人ほどの朝鮮人の連行の承認を受け、一九四二年六月までに一〇〇〇人ほどを連行している。その後も連行が続けられた。地崎組の現場には連行朝鮮人も存在し、各地に転送されていたのである(「移入朝鮮人労務者状況調」)。

 大府飛行場跡地を歩くと、東海市上野台には、滑走路跡を示すまっすぐな道がある。滑走路跡地の民家の庭には滑走路のコンクリートが残っているところもある。滑走路北側のみかん畑の近くには滑走路の側溝が残っている。整備工場跡地は富木島小学校になり、組立工場があった場所には豊田自動織機長草工場がある。疎開工場が建設された横根地区には、三菱の社宅があり、壕跡が残る。遺骨を保管していた玄猷寺では追悼法要が毎年開催されるようになった。

この三菱重工知多工場・飛行場の建設と大府への疎開工事は、政府(軍)と三菱によってすすめられたものであり、政府による承認の下で、大林組と地崎組が強制連行・強制労働をおこなった。政府と連行に関わった企業はその歴史的責任を早急にとるべきである。

 

参考文献

『愛知・大府飛行場における中国人強制連行・強制労働 改定増補版』愛知・大府飛行場中国人強制連行被害者を支援する会二〇一三年

『みかん畑の大きなテント』同会二〇一三年

『知多の戦争物語四〇話』半田空襲と戦争を記録する会二〇〇二年

中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」一九四二年

「日本土木建築統制組合請負工事一覧一九四四年八月現在」(仮題)建設産業図書館蔵、伊藤憲太郎資料内文書

(二〇一三年九月調査)