浜岡原発の過去・現在・未来  伊藤実講演会

 

浜松のみなさん、こんにちは、御前崎の浜岡原発を考える会の伊藤実です。旧浜岡町の佐倉に住んでいますが、浜岡原発から1キロほどのところです。

●佐倉への疎開

わたしは1941年、太平洋戦争が始まる半年ほど前ですが、浜松市で生まれました。河合楽器の門の近くですが、寺島町に住んでいました。ちょうど4歳の頃ですが、浜松が空襲を受けるようになったため、19456月に母の故郷の小笠郡佐倉村に疎開しました。数日後、浜松大空襲があり、母方の祖父が荷物を取りに行ったところ、家は丸焼けになっていたそうです。当時は大東町の大坂までバスで行き、そこからは歩いて佐倉まで行きました。

父は疎開後、佐倉で繊維工場をはじめました。幼いころは貧しく、浅根の浜の魚や果物を食べていました。佐倉の村立小学校、そして中学校に通うことになりました。小学校34年の頃、浜岡に疎開していた子どもの大部分は、ここでは親の仕事がないために、転居していきましたが、その後、同級生は72人ほどで変わりません。

戦争中は、陸軍の射爆場があり、西に向けて大砲を撃っていました。戦争がはじまると土地が接収され、軍事の演習地が増えました。戦後、疎開してきた人たちが射爆場を開拓しました。67反の農地でイモやラッキョウを作りました。浅根山という里山があり、雑木林ですが、開墾もされていました。新野川の水たまりではシジミがとれました。戦後は米軍が御前崎に駐留し、地元の高校に米兵がきた際に、ガムやチョコを貰った思い出もあります。

漁業といっても遠浅ですが、地引網がおこなわれていました。イワシやアジが押し寄せ、海の色が変わると、村人が浜に走り、手漕ぎの2艘の船がでていくのです。子どもの頃、大人について行き、綱を引っ張り、褒美にバケツ一杯の魚を貰いました。それが当時はたんぱく源でした。コメはなく、イモやカボチャを食べての暮らしでした。

新野川の流れは河川工事で西へと変わったのですが、新野川はもともと、今の浜岡1号機のあるところを流れていました。グーグルマップと米軍の地図を重ねると、かつては川だったことがわかります。東南海地震では、庭に水が吹きあげたと言われています。ここは地盤が弱い地域なのです。

●第5福竜丸事件・安保闘争

中学2年のころ、昭和の合併で佐倉、比木、朝比奈、新野、池新田の5町が合併して2万人ほどの浜岡町ができました。

中学の担任は新卒で若く、横浜国立大を出た方でした。英語や理科を教わったのですが、その先生から影響を受けました。中学1年のとき、第5福竜丸事件が起きました。31日に被爆し、焼津に帰ってきたのは320日ころでした。御前崎も遠洋漁業をしていましたから、大騒ぎになりました。核や放射能については怖いものでいやなものと思うようになりました。中学を卒業し、わたしは軽便鉄道を使って榛原高校に行こうと思っていたのですが、先生が掛川西高校に行くことをすすめました。二人が掛川に行きました。

高校を出て関西の大学に入ったのですが、ちょうど1960年の安保闘争のまっただなかでした。新入生歓迎式ではマルクス、レーニンなど左翼の話が出され、それに新入生の仲間が対応しているのです。びっくりしました。政治的な討論などしたことがなかったので、カルチャーショックを受けたのです。

デモに出たことはあります。アイゼンハワー大統領が来る前に大統領秘書官のハガチーが来るというので阻止行動が組まれました。京都からもいこうと言われ、汽車賃をもらい、出かけたことがあります。6月のことで、ハガチーは羽田で立ち往生し、ヘリで大使館に逃げ帰った時です。入学したときには安保で大騒ぎだったのです。都会の人に負けないようにと学習しましたが、その後はノンポリの学生生活でした。

 ●浜岡12号機建設の頃

1964年に大学を卒業すると、地元の会社である河合楽器に入りました。4年間サラリーマン生活を送り、1967年に結婚しました。1年は、関西にいたのですが、安月給で待遇も悪く、子どもも生まれたので、佐倉に帰ることにしました。

その頃、浜岡に原発が来るという話になったのです。原発はいや、反対という気持ちはありました。祖父は建設用地に何反かの山を持っていたのですが、売らないでほしいと思いました。もともと芦浜原発が中電の候補地ですが、漁民が反対し、なかなかできなかったのです。中電が共同で使用しようとした石川県の珠洲原発の計画も反対により、中止になりました。浜岡は遠浅で活断層もあり、不適格地な場所だったのですが、建設の話がすすみました。浜岡でも反対運動が起き、浜岡原発設置反対共闘会議ができました。魚屋のSさんや社会党の町会議員だった山本喜之助さんなどが中心です。佐倉村から反対運動に参加した人もいました。

19688月頃、佐倉に帰ったのですが、その時にはほぼ立地が決まっていました。重機が入り、山の切り崩しもすすんでいました。68年・69年のころ、わたしは父の仕事を継ぐために、浜松の神田町の織布会社に修業に出ていました。朝早く出て、夜遅く帰るという毎日で、原発に関わる余裕はありません。労働組合の人々が署名活動をおこない、近所の人々も署名に応じていました。桜井規順さんが自宅を訪れたこともありました。

原発の立地が決まり、建設がはじまったころ、わたしは30代でした。消防団の仕事もやっていましたが、原発について、自由にものが言えなくなってきました。原発への疑問を出すと、共産党だ、アカだと言われるのです。中電は建設に向けて立地課を作り、一軒一軒の家族構成や考え方を調べました。浜岡に監視社会がつくられていったのです。

そのなかで佐倉に、「住みよい浜岡を築く会」をつくりました。新聞折り込みでチラシを配布しましたが、圧力を受け、十分な活動はできませんでした。池新田や相良高校の教職員組合の分会の人たちが活動していましたが、中学の知り合いに聞くと、原発について話をするのはご法度とのことでした。先生が生徒に話すと父母から抗議が来ることもあったようです。70年代から80年代にかけては、学校教育で原発への異論をいうことを避けたのです。それに反して、安全のPRはどんどんなされました。御用学者を呼んで、安全である、自然放射能も存在する、中国・ソ連の核実験からの放射能もあるといった宣伝がおこなわれたのです。

●原発からの寄付金

わたしは自営業なので、PTAの役員、消防団、交通指導員など、地域の役員の仕事も引き受けてきたのですが、旅行での宴会に、中電はコンパニオン付きで、お酒を飲ませて接待するのです。旅行先では中電が先回りして、案内し、飲ませ、食わせるわけです。漁業補償や寄付金などへと莫大なお金が流れました。

佐倉対策協議会にもお金が渡されていますが、正確の金額は示されていません。巨額のお金が渡され、小さな土木工事などは、町に申請しなくても佐対協の金でやってしまうのです。中電からの寄付金の利息でまかなえたのです。元金は秘密です。佐倉の有力者は、言えば浜岡町に取られてしまうと言って、言わないのです。佐倉では射爆場が開拓農民に分配された際、共有地もできたのですが、それを中電に売りました。その利益もありました。

中電からの佐倉への寄付金は、村長などを務めた家柄である大地主が持ちより、基金としていました。そのうちの一人が5号機の反対運動にかかわり、お金についての相談を受けましたが、東京や大阪の信託銀行に預けていたのです。寄付金について税務署の調査を受けたくはないので、中電の本社に二人ひと組で直接、取りに行ったと言います。ボストンバックに現金を入れて、持って帰ってきたのです。これは立地工作のための裏金です。振り込みをすると足がつくために、手渡しでおこなわれたのです。

以前、越山会の本間幸一秘書が柏崎刈羽の立地で現金で接受したことを「中央公論」に書いていましたが、中電でもその構図は同じです。

当時の大地主人に渡されたお金がどこに行ったのは、今となっては世代が変わり、不明です。一部は佐対協の預金に入ったのでしょう。3号機建設の際には、スリーマイル事故があり、中電から佐対協に出された金の額が増えました。当時、反対は佐倉の地域だけでやる、外人部隊は入れるなと言われていました。反対の声をあげれば、その分だけ協力金を取ることができたというわけです。

佐対協の会長だった鴨川源吉さんは多くの資料を残しています。

佐対協では中電からの資金で独自の事業をおこないました。例えば、10億円の下水工事があると、9億を佐対協が負担する形で事業がおこなわれました。また、10億円で国債を買って利益をあげるということもなされています。浜岡町に自治振興基金としてプールされた中電からの寄付金は、御前崎町との合併に際し、各地区に配分されました。

漁業補償では、実際に示されたものよりも倍の額が出されていると言います。補償は主に近海業に出されるのですが、5号機の際には、一軒のシラス漁者に公称の倍額が渡されています。

町会議員の選挙では、いまでも原発は争点にするなといいます。安全の確認は求めるが、政策の論争はしないということなのです。

5号機建設と浜岡町原発問題を考える会の結成

5号機建設の話が出たのは、阪神の大震災が起こる前でした。大震災後、町内で建設に向けての話し合いがおこなわれました。阪神の大震災では、安全といわれていたものが壊れていました。地震と原発との関係も問われるようになりました。桜ヶ池での話し合いでは、増設に異議が出され、ほかの地区でも増設への疑問が数多く出たのです。佐倉全体が5号機増設には反対という状態でした。もともと中電は4号機までと話していましたし、場所もないのに5号機は無理だ、あんな沼地のような場所には建設できないと地元の人は感じたのです。増設計画では5号機の放水口が、4号機の冷却用の取水口と交差していました。

もともと遠浅の海岸であり、取水口は600メートルも先にあります。浜岡には港がないため、核物質は県道を11キロも走り、御前崎港に運ばれてきます。浜岡周辺には市街地が広がり、住民の数も多いのです。事故になれば、福島におかれたような汚染水対策用タンクの置場はないのです。

当時、佐対協の会長だった清水さんがすぐ近くに住んでいました。佐倉地区で増設反対の声が強まるなか、夜、会長が来て、反対の動きをつくっていくことを呼びかけたのです。そのような佐倉での反対の声が強まるなかで、浜岡町原発問題を考える会を設立しました。私の桜ケ池地区では回覧版に署名を差し込んで回覧しましたが、7割近くの人々が署名に応じました。そのような動きを受け、佐対協は浜岡町に増設不同意の意見書を出したのです。佐対協と町との間には、佐対協の同意がなければ原発の増設はできないという約束がありました。

当時、日本には52機の原発がありましたが、政府は安全審査のやり直しを求めていました。それもあり、町の推進の動きも下火になっていたのですが、9月末には答申が出され、全機が安全とみなされました。5号機推進の動きが強まりました。

新聞で、浜岡原発とめようネットの記事をみました。さっそく新聞社に連絡先を聞き、連絡しました。そうしたら、ネットの鈴木てつやさんをはじめ20人ほどが佐倉まで来られ、工場の2階で話をしました。翌週には静岡大学工学部の小村浩夫さんも来られ、大学の教師ではなく40キロ圏内の一人の住民として反対していると話されました。その関係で3月に慶応大学の藤田祐幸さんの講演会をもちました。マスコミにもFAXなどで連絡しました。畳の部屋での集会ですが、満席になりました。このように会を結成し、署名や講演会、立て看板の設置などをしたのです。

活動をすすめることで、首謀者は伊藤とみなされるようになったのですが、佐対協の清水さんにも圧力がかかりました。監視もされ、てつやさんの車が浜岡に来ると2台の車で追跡し、伊藤工業に入ったということが報告されるというありさまです。

しかし、96年の10月4日に浜岡町議会の全員協議会がもたれ、強行採決されました。佐倉の不同意は無視されました。県議会では白鳥良香さんが紹介議員となって増設反対の請願をしましたが、石川県知事は最後まで会おうとしませんでした。安保闘争が終わったように、5号機反対の運動は終わったのです。

しかし、反対運動によって、全国の人々との交流が始まり、考える会はニュースを出して、浜岡現地の状況を伝えるようになりました。生越忠さん、広瀬隆さん、平井憲夫さんらが浜岡で話をし、名古屋大の河田昌東さんがウクライナのコヴァレフスカヤさんを伴って来たこともありました。

会場を町が貸さないこともありました。暴力的な脅しもありました。脅かしの無言電話を毎日新聞の堀山記者といっしょに聞いたこともあります。多くの記者が5号機について取材し、増設に疑問を持ちました。読売新聞の記者が原発を批判する内容の記事を書いたのですが、半年ほどで異動させられとこともありました。

●浜岡での重大事故と運動への圧力

1990年代には浜岡原発で事故が多く発生しました。このころは、安全よりも経営効率が重視されたのです。定期点検の時期が短縮され、3号機の点検を27日であげると、中電は金一封を出しました。点検予定の残りの60日で試験運転ができ、その期間は無税扱いになるからです。5号機では、1年間の試験運転で利益をあげています。水が1リッター漏れたと報道があっても、現場では給水ポンプで吸い取りをおこなっています。漏れ出た量はもっと多いわけです。

このように反対の声をあげると、原発の問題に関する具体的な情報が入るようになりました。会ではニュースを作り、全国へと発信しました。

全国的には、1995年にはもんじゅのナトリウム漏れ事故、1999年のJCOの臨界事故などの重大事故が起きました。200111月には、浜岡では1号機のECCS配管での水素爆発事故が起きたのです。静岡大の小村浩夫さんをはじめ、社会党の北川れん子、大島玲子、田島陽子さんたちも調査に来ました。さらに1号機の圧力容器から水漏れが起きました。下部のスタッグチューブの溶接部から水が落ちてきたのです。NHKの「クローズアップ現代」も現場を取材しました。わたしたちも1号機の現場に入って調査をしました。

スタッグチューブの情報は下請け業者から入手したのですが、中電は内部の情報が流れると、だれがしゃべったのかと犯人捜しをするのです。公安調査庁や菊川署が訪れるようになりました。浜岡原発を考える静岡ネットワークが結成され、隣町の長野栄一さんが代表になりましたが、長野さんのところには、榛原署が情報収集に来ました。国策に反対する行為に、圧力をかけるのです。原発に反対する飲食店に対しては中電が圧力をかけ、営業を妨害するのです。そのため声を出せなくなっていきます。自分の子どもに、あの家の子と遊ぶなという人もいました。縁談に関わる問題も起きます。

このように反対運動をすることで、厳しさを味わいましたが、全国に仲間ができ、励まされました。東京からは、浜岡現地への支援運動が定期的に取り組まれました。

水素爆発事故の直後に東京で息子さんを原発労働で亡くされた島橋さんと一緒に浜岡の現状を話したことがあります。そこに河合弘之弁護士が参加され、裁判を起こしませんかと言われました。わたしは引き受けきれなかったのですが、浜ネットの白鳥良香さんや長野栄一さんが引き受け、2002年に運転差し止めの仮処分申請をおこなうことになりました。

311以後の浜岡

2010年には愛知教育大学付属中学校の生徒が現地調査に訪れ、愛知教育大学で90分話をする機会がありました。生徒たちは事前に中電の岡崎支店長の話も聞いています。両論を生徒が聞いて判断することがいいという先生の判断でした。翌年、311福島事故が起きました。生徒さんの一人が「伊藤さんの言うとおりになった」と親に話をしました。その話を聞いた母親は息子が蒲郡の幼稚園に行っていたのですが、保護者会で話す機会をつくってくれました。

今日の中日新聞に、浜松の高校で中日新聞の編集局次長が130人の生徒に向かって原発についての賛否両論を話したことが記されています。若い世代が関心をもってほしいです。

311福島事故後には、海外のメディアが訪問し、浜岡原発の現実をみました。わたしは筬川の土手を歩いて、5号機の裏側から砂丘の上にある原発を案内し、説明しています。ドイツの記者はその地政学的な危険性をふまえ、こんな危険な原発は見たことがないといいました。

先日、親戚の法事が旧御前崎町であったのですが、親戚7人のうち6人が中電関連の仕事についていました。今、浜岡12号機の廃炉作業がおこなわれ、それにともなう仕事はこれからもあるでしょう。原発では敷地内に防波壁の工事がすすめられていますが、廃炉作業の際にも必要なものです。原子力安全研究所ができましたが、これは廃炉の研究のためのものです。

20142月に、中電は浜岡4号機の安全審査申請を原子力規制庁に出しましたが、動かすことは難しいでしょう。浜岡が動くのならば、他の原発はすべて動かすことができるということになります。経済産業省内にも原発に批判的な改革派がいるようです。彼らは原発を6カ所は動かしたいと考えているようですが、そこには浜岡は入らないとみられます。中電も本音は事故が怖いはずです。中電の原発への依存度は10%程度ですから、止めようとすれば止められるはずです。あとは国策との関係が問題です。

スズキも牧之原での工場運営上、原発に反対しています。菊川や掛川での市民アンケートでは、多数の市民が原発再稼働反対の意思を示すようになりました。牧之原市や吉田町は再稼働に反対しています。御前崎市には自治体としての主体性はなく、金さえくれればいいという姿勢です。たとえば防波壁ができれば、固定資産税が入ると計算しているわけです。

子どもたちが多摩で生活しているため、東京によく行きます。八王子や秦野の人たちと交流する機会もありますが、原発に批判的な人が増えたと思います。2011年には東京の高円寺・杉並で浜岡を止めろというデモが、若い人や商店街を中心におきました。若い人に地元の意識が芽生えたのです。20126月には再稼働反対の20万人という国会デモが起きましたが、ちょうどその日、東京にいたので、デモに参加しました。

地域では反対運動が盛りあがらないようですが、原発は廃棄物を出し、その処理に何万年もかかります。自分の問題として考えることが大切です。原発推進の壁は壊れてきています。浜岡運転差止裁判でも高等裁判所は引き延ばして結論を先送りしていますが、勝利までもう一歩のところに来ています。

町内では、原発を止めれば地域が発展すると見る人も出てきました。ポスト原発の地域おこしを目指しての研究会もできました。町内にはサーフィンやシラス漁に関わる若い世代30人ほどのグループも生まれています。

浜岡町原発問題を考える会は御前崎市との合併の際に浜岡原発を考える会になりました。当時のメンバーの神戸さん、柳沢さん、藤原さんは亡くなりましたが、大沢さんや渡辺さんは健在です。いまわたしは73歳ですが、生きている間に、浜岡全機の廃炉を実現させたいと思います。

             (2015118日浜松での講演、文責人権平和・浜松)