12・23『敗戦70年「平成天皇制」を総括する』討論会報告
〈はじめに〉
去る12月23日(水)の所謂「天皇誕生日」に、東京の千駄ヶ谷区民会館にて反天皇制運動連絡会(反天連)恒例の反天集会が行われた。発言者はジャーナリストの山口正紀さん、立川自衛隊監視テント村の井上森さん、反天連の天野恵一さんの3人だったが、世代間の意識の違いが際立ち、大いに考えさせられた集会であった。
〈それぞれの観点から〉
山口さんは、山本太郎議員の「直訴」問題を皮切りに「天皇の政治利用」について論じながら、象徴天皇制そのものが「天皇の政治利用」システムであると喝破。天皇の元首化をはじめとする改憲策動や「戦争する神の国」づくりにとって邪魔な朝日「慰安婦」報道へのバッシングを行う安倍政権を批判しながら、一方、アキヒト・ミチコのリベラル幻想演出に加担するマスコミの姿勢をも厳しく断罪した。
井上さんは、昨秋の東京国体時に日野市を訪問した天皇夫妻に対して「もう来るな」と書いた小横断幕を掲げて抗議した天皇体験と、その後天皇の親衛隊たる公安から執拗なハラスメントを受けたため「公安は天皇のための尾行をやめろ!共同声明」運動を立ち上げてこれを撃退させた運動体験について語った。そうして独自に考案した「平成天皇制をめぐる4つのベクトル」(天皇制の制度肯定派と否定派、皇室の人間肯定派と否定派によって人々の意識を分けた4つの分類)について説明しながら、アキヒト天皇制への世論の傾斜に警告を発した。
天野さんは、東京裁判で天皇ヒロヒトの戦争責任がしっかりと裁かれなかったことによって無責任の〈体系〉としての戦後の象徴天皇制国家が生まれたことを指摘しながら、戦後70年を向かえる今改めて、東京裁判についてもう一度検討してみる必要があるのではないかと提起した。そうして、天皇の原爆投下責任(天皇が国体護持のために徒らに戦争終結を引き延ばし広島・長崎の原爆投下を招いた責任)を追及する立場から、1955年4月の下田隆三氏らの原爆裁判について資料を掲げながら説明した。(取りあげた資料は田中利幸ら共著『再編・東京裁判:何を裁き何を裁かなかったか』の「第七部 裁かれなかった犯罪ー原爆、戦略爆撃、アヘン」所載田中論文「原爆投下 東京裁判、下田裁判」と『戦争と国際法・原爆裁判』松井康次氏)
〈世代間の違いが際立った討論〉
3人の発言者の話は、それぞれの立ち位置を反映して面白かったが、討論はさらに印象深かった。天野さんがある座談会で、自分たちは戦中派の戦争体験と天皇体験への強い共感から天皇問題に入ったが若い人はある種のエエカッコシイで運動をやっているんじゃないかという感じがする、情動垂れ流しでやられると困る、その情動を世代を超えて共有できるように理論化してほしい、というようなことを言っていたのに対して、若い井上さんが次々と反論したからだ。動機に優劣をつける発想は間口をせまくする議論ではないか、90年代生まれも運動に加わっている状況下で戦中派との感覚の「共有」は不可能な時代に入っていることを前提にすべきではないか、理論化に重きをおく発想は大衆運動が目指してきたものなのか、エエカッコシイがそんなに悪いのか、運動に参加することが「エエカッコシイ」にすらならなくなって久しいのに…等々。天野さんは、井上さんを対象とした発言では勿論ないし、自分の動機を押し付けるつもりもない、ただ議論が出来るようにして欲しいと思っただけだと答え、以後応酬があった。
討論は必ずしも深まったとは言えないが、むしろ、「歴史体験」というものをめぐる世代間の相違が際立ったところに考えさせられるものがあった。
〈戦後70年を問う〉
実は、私はこの集会に「宿題」を携えて参加した。天皇の戦争責任に関連して「死んだ人間の責任を問うことにどのような意味があるのか?」ということを質問してほしいと、静岡の仲間に頼まれたからだ。反天皇制の集会において、天皇の戦争責任などというのは自明の前提であるが、約束なので勇気を振り絞って聞いてみた。天野さんは「死んでいようといまいと、問うべきものは問わねばならない」、山口さんは「責任を追及しなかった者の利益というものがあるはず。それを問うてみることは有益だ」、井上さんは「我が国では『死者を笞打つ』ことは嫌われる。しかし、我々が笞打つのではない。死者を利用しようとする者がいるから、対抗上我々が死者について語るまでだ」とそれぞれ答えてくれた。
私に質問を依頼した仲間は目下、戦争体験が圧倒的に風化しつつある現代の状況下で「戦後70年」をどう問うのか、考えている。ヒロヒトの責任問題のみならず「死んだ者の責任を問うことの意味」が、あの戦争の時代を問うことの意味が、ひとしなみに希薄になっている現代において、若者たちに何をどのようにして伝えようかが、課題である。井上さんの言うように戦後70年には、「死者を利用しようとする者たち」が身勝手なストーリーを作りながら死者を礼讚しようとするだろう。どのような方法が、かれらに対抗し得るものなのか、何を問題にしていくのか、有効な方法を模索していきたい。 (Y)