2015.3宇部 第8回強制動員真相究明全国研究集会

       「強制連行問題をどう終わらせるか」開催

●第8回強制動員真相究明全国研究集会

 2015321日、山口県宇部市で第8回強制動員真相究明全国研究集会「強制連行問題をどう終わらせるか」が開催された。集会は強制動員真相究明ネットと長生炭鉱の「水非常」を歴史に刻む会の共催でもたれ、全国から100人ほどが参加した。

 集会でははじめに、刻む会の小畑太作さんが、当時の長生炭鉱での強制連行、強制労働、安全管理規則違反、被害未補償、賃金未払い、事故後の不作為などの問題を示し、1991年に長生炭鉱の「水非常を歴史に刻む会」の結成と20132月の長生炭鉱追悼碑の完成までの経過を示した。

沖縄戦での遺骨発掘をすすめる具志堅隆松さんは、国や県の遺骨発掘への消極的な姿勢を批判し、発掘体験から日本軍の兵士には認識票が配布されていないものがあり、将校には氏名が刻まれ、兵士は番号のみであったことなどを示した。また、米軍の屋嘉収容所は日本軍捕虜の収容所であり、その死亡者名簿には朝鮮人名があるが、すべてが平和の礎に刻まれていないことを指摘した。

続いて、山口、九州、広島での強制連行調査の報告がなされた。

山口については鄭祐宗さんが、山口県の戦後行政が朝鮮支配に関わった官僚を重用し、山口県が安全保障と警備の防波堤とされてきた経過を紹介した。

資料を見ると、山口県の総務部長となり、後に山口県知事となった橋本正之は忠南での警務課長や総督府の鉱工局動員課に勤め、帰国している。戦時に朝鮮人を監視し、動員をすすめたものが、戦後、山口県で実権を握り、朝鮮人を監視し、その権利を制限し続けたのである。

九州の報告は広瀬貞三さんがおこなった。広瀬さんは、1943年末までの統計では九州での強制連行者数は全体の46%ほどとなり、炭鉱への連行が多かったとし、福岡や長崎での連行調査を中心に2000年代の九州各県での調査状況についてまとめた。そして、新たな史料・証言の発掘や県別の取り組みを横断・結合する視点や調査が必要であるとした。

広島の報告は内海隆男さんがおこなった。内海さんは1990年の広島の強制連行を調査する会の結成、出版、全国集会の開催、新聞記事収集などの経過について話した。記事調査の成果は、「大阪毎日新聞西部版」や「広島在留朝鮮人関係新聞記事データベース」になった。

続いて集会では強制連行の否定の動きについての批判と問題提起がなされ、議論となった

外村大さんは「強制連行はなかった論」を批判し、全般的には暴力的な動員であったが目に見える強制だけを問題にしてはならないこと、行政命令なしでおこなわれた労務動員が国家による無責任につながったこと、形式的には志願であってもひどい扱いを受けたことなどを指摘した。

渡辺美奈さんは「慰安婦」問題での政府による強制性否定の動きを批判した。渡辺さんは、河野談話で、本人の意思に反して集められたことを「強制性」と定義づけるのであるならば、強制性が存在したケースも数多くあったとされていること、国連人権規約委員会の所見では、意思に反して募集・移送・管理がなされたことが問題とされていることなどをあげ、現在の政府の詭弁を批判した。

奈良の高野眞幸さんは、天理市による柳本飛行場跡地の説明板の撤去問題について話した。高野さんは天理市がさまざまな歴史認識を理由に強制性の判断を保留しているとし、事実を棚上げにすることは人権・平和に反するものと批判した。

3人の問題提起の後、強制性をめぐって議論が交わされた。

集会後には交流会がもたれ、全国からのあいさつがなされ、最後は、肩を組んで、共に歌った。

 

●長生炭鉱追悼碑とフィールドワーク

翌日は、刻む会の内岡さんの案内で、宇部の長生炭鉱の追悼碑と炭鉱跡のフィールドワークがおこなわれた。

フィールドワークでは初めに、刻む会の追悼碑を見学し、遺族の証言を聞いた。その後、第2坑跡(旧新浦炭鉱)、新浦炭鉱事故碑、長生炭鉱の倉庫跡、朝鮮人収容寮跡、長生駅跡、捲揚機台座跡、長生炭鉱殉難者碑、山神跡、本坑跡を歩いた。最後に炭鉱の排気・排水口である2つのピーヤを遠望し、追悼の献花をおこなった。

長生炭鉱は朝鮮人の強制連行がおこなわれる前から朝鮮人が多い炭鉱であり、「朝鮮炭鉱」ともよばれていた。炭鉱の3区、4区、5区の採掘のほとんどが朝鮮人だったが、連行によってその比率はさらに高くなった。

水没事故は194223日に起きた。現時点の調査では、事故の死亡者は183人であり、朝鮮人は136人に及んだ。この朝鮮人死者のうち「募集」によって連行された朝鮮人の死者数は80人を超えた。その問題点が明らかにされたのは1970年代である。

跡地に1982年に建てられた「殉難者之碑」には、朝鮮人連行の史実や犠牲者名は刻まれなかった。殉難碑を作った旧炭鉱関係者は、朝鮮人は当時、日本人であり、炭鉱の仲間として仲良くし、差別はなかった、謝罪することはない、炭鉱殉難者の碑は地区の発展に寄与したことを顕彰するためのもの、全員を慰霊するための碑であり、殉難者の氏名は無くてもよいとする立場をとった。

それに対し、市民団体は植民地支配と強制連行を謝罪し、名前を記すべきと活動を始めた。事故後50年回忌の法要をめぐっての論争を経て、1991年3月、長生炭鉱の「水非常」を歴史に刻む会が結成された。刻む会は現地での全犠牲者の名を刻む追悼碑の建設、ピーヤの保存、証言・資料の収集などを目標に活動した。翌年、韓国では長生炭鉱事故被害者の遺族会が結成され、長生炭鉱跡地で追悼集会が開催されるようになった。それから、20年余を経た2013年に、追悼碑が完成したのだった。

追悼碑には刻む会による追悼文がある。そこには、再び他民族を踏みつけにするような暴虐な権力の出現を許さないために、力の限り尽くすことを誓い、ここに犠牲者の名を刻みますと記されている。参加者はこの追悼碑の前で追悼の時を持った。

追悼碑近くの公民館で、犠牲者の位牌を前に、事故で亡くなった全聖道さんの子の全錫虎さんが、事故の記憶、その後の生活、遺骨収集への思いを話した。全聖道さんは陜川出身であり、全錫虎さんは19321月に生まれた。事故のときは小学校5年だった。いまは大邱に住んでいる。全錫虎さんは1993年から2015年の追悼式まで一度も欠かさず参加している。全錫虎さんはつぎのように話した。

事故の日には、運動場からクジラが塩を吹くように海水が吹きあがるのを見た。事故後、補償もなく、住んでいた社宅を追い出された。友達の馬小屋で暮らし、母は酒の密造もして5人の子を育てた。解放後、帰国したが、言葉は話せず、生活苦のなかで兄弟は奉公に出された。新聞記事で遺族会の活動を知って参加した。父の遺骨を見つけだせないまま、母は96歳で亡くなった。遺骨がないということは親不孝者である。その罪悪感をもって生きてきた。ピーヤの前に立つと父の声が聞こえるようだ。しかし呼びかけても答えはない。本心で生きれば、福がくると信じて生きてきた。

遺族の証言を聞いたのち、跡地を歩いた。長生炭鉱の跡地の多くを当時の経営者の子孫がいまも所有しているという。そのような主張によって跡地が保存ができないことに問題がある。坑口は埋められてしまい、どこがわからない。

宇部の海岸沿いの炭鉱は海底を掘り進むものが多く、大きな事故も数多く起きている。長生炭鉱は事故後に新浦炭鉱を第2坑として開発したが、新浦炭鉱では1921年12月30日に水没事故を起きた。この事故では34人が亡くなっているが、碑を見ると、碑文の裏側の下部の最後に朴天基という朝鮮人の名が刻まれている。このころから朝鮮人が労働していたことがわかる。

この事故の6年前の1915年4月には東見初炭鉱で海水事故が起き、235人が亡くなるという事故が起きた。宇部の炭鉱は多くの労働者の命を吸い込んで開発がすすめられたのである。戦時下、宇部には2万人を超える朝鮮人が集まり、人口の1割が朝鮮人となった。

朝鮮人収容寮跡は、当時は板塀で囲まれ、4棟があったが、今では草地となっている。逃亡して捕えられた人々は見せしめにされ、殴打された。事故後、長生駅は撤去された。捲揚機台座はすでに破壊され、コンクリート片と折れ曲がった鉄筋が草むらに残っている。

1982年の長生炭鉱殉難者碑には「永遠に眠れ、安らかに眠れ、炭鉱の男たちよ」と刻まれ、そこに死者の名前はない。この碑は、植民地支配や連行を反省し、死者の名を刻んで追悼するものではない。

山神の跡には階段だけが残っている。本坑跡を歩いた後、海岸で追悼の献花をおこなった。遺族の全さんはピーヤの見える海に向かって、「アボジー」「アボジー」と呼びかけ、耳を澄ませた。その後、参加者がつぎつぎに海に向かって花を投げた。花は心をいやすように、波に揺れ、うちよせ、流れた。波にただよう花をみつめながら、参加者は追想の時を持った。

植民地支配と侵略戦争、そして強制連行・強制労働の事実を認めようとしない動きはいま、強まっている。侵略戦争、石炭増産、そのための強制労働によって、多くの人々が亡くなった。なかにはいまも海底に埋没したままの人々もいる。歴史の記述はそのような人々の思いを伝えるものでなければならない。

宇部の石炭記念館の前には荻原守衛作の坑夫像がおかれている。よい作品は見るものに表現への思いを持たせるものであるが、この坑夫像もそのひとつである。この像が、権力の暴虐を阻むまなざしをわかちあうものであってほしいと思った。