続く、巖さんの闘い

 

 327再審開始決定は巖さんの闘いで勝ち取られました。それは、冤罪被害者としての477カ月の残酷、苛酷な獄中での闘いであり、また、今なお続く死刑執行の恐怖との闘いでした。

 

 解放から1年を迎えようとしている巖さんは、解放直後の固い表情はほぐれ、階段は手すりを持たず力強く昇り降りできるようになりました。何よりも、柔らかな笑顔、時に冗談と思われる言葉も出て、31日の巖さん79歳の誕生日を祝う会では、みんなと一緒に手拍子が出るなど大きな変化があります。

ここまでの状況は、解放後の3回の入退院を繰り返しながら、信頼してきたお姉さんの存在があり、そのお姉さんの家で安心して暮らせる事の実感により、安心感が広がっていった事の結果であると思います。しかしお姉さんが感じているように、巖さんは「からだは解放されたが、こころは獄中のまま」であることは否定できませんし、何故巖さんがこのような人生を送らなければならなかったのか、怒りが増すばかりです。

 

巖さんの状況は、獄中でも言い続けられていた「世界中で一番強い者、一番すぐれた者、一番正しいと認められた者であり、歴史が終わった」という巖さんの世界は解放後も強固に存在しています。そして、こうした巖さんが抱える世界も含め、巖さんの闘う力を支えているのはボクシングの時代の事ではないでしょうか。入院中の519日のボクシングの日に、巖さんはWBC名誉チャンピオンベルトを授与されました。その日巖さんは病院の外出届に「後楽園に帰る」と書き、後楽園に到着した直後リングを見て「ここは守ってくれるから」と、青春の日々のエネルギーをかけた闘いを思い返しているようでした。

 

 それから間もなくの527日、故郷浜松へ帰還をしました。その後約1か月の入院を経て、629日の清水集会に出席の後、そのままお姉さんの家で暮らすこととなりました。巖さんはこの日の清水に出かけることに期するものがあったように思いました。それは入院中の散歩で休んでいる折に、「清水に行って自由になるプログラムがある」と聞いたことにあります。そして、集会後の外泊予定を一蹴し、実力で退院を勝ち取りました。

 

 退院後、ひで子さん家での生活を必死で守っていた夏の暑さの中、アイスクリームなどの甘い物を食べた結果なのか、828日深夜緊急入院をしました。入院後の検査で、動脈硬化、胆石が見つかりそれぞれ手術を受け、919日に無事退院が出来ました。

 巖さんにとって3度目の入院をしたものの、お姉さんの家に戻れたということが、安心感の広がりになったように思います。それから、散髪に出かけたり、駅前のデパートでの買い物が可能になり、そして、1011日のアムネスティの集会参加を皮切りに、遠くは松江等各地の集会へ出かけられるようになりました。

 

 巖さんはデッチ上げられたこと、裁判のことをけっして「消された、忘れた」事にしてはいないと思います。「こがね味噌事件はない」、「4人は殺されていない」とも言います。しかし、1122日に参加した集会で、初めて事件の解説の映像を見た後の巖さんはが、「任意性、未提出証拠物の問題だ」と感想を述べていたことで明らかだと思います。

 巖さんは無実、無罪を勝ち取るためあらん限りの力で闘い続けながらも、認められず、裏切り続けられて来ました。その結果、巖さんの闘う力は司法権力による得体のしれない黒く重い塊で押さえつけられ、それに対抗するため自分の世界を作り上げ、必死にいのちを守ろうと闘ってきたものと考えます。

 

 解放後1年が経過するというのに、巖さんの無罪判決の見通しは立っていません。巖さんは釈放されたことで、「儀式」が終わったとして、再びあの暗黒の獄中に連れ戻され、死刑執行の恐怖と向き合わされるという恐怖・不安と闘い続けています。

 私たちは巖さんの様子に一喜一憂することではなく、「再審完全無罪」を勝ち取り、巖さんとひで子さんに満願の笑みと心からの安堵を贈ることではないでしょうか。

                 (浜松 袴田巖さんを救う市民の会