2015.8.9「日本軍「慰安婦」関係資料21選」を読む会報告
きょうは、「日本軍「慰安婦」関係資料21選」(日本軍「慰安婦」問題行動全国行動作成)を読みながら、日本軍「慰安婦」問題について、考えてみたいと思います。慰安所や「慰安婦」の状態、「慰安婦」動員の実態など、軍隊「慰安婦」をめぐる問題の所在を、その時代に記された資料をみることで、把握していくことができると思います(以下慰安婦の「 」は略)。
陸軍省による「慰安所」の設置規定と各部隊による設置状況
この資料集から、陸軍省による「慰安所」の設置規定と各部隊による設置状況からみてみましょう。
最初にみる資料が「野戦酒保規定改正」についてのものです。これは、野戦酒保に、必要な場合は、慰安施設を作っていいとするものです。この資料は日中戦争がはじまって2カ月後の1937年9月のものです。
このような規定をふまえて各部隊で営外での規定が定められます。歩兵219連隊の諸規定綴の「営外施設規定」には「特殊慰安所」の項があります。
そこには、必要とする場合には軍人軍属専用の特殊慰安所を開設すること、その建物は経理部長が経費で持って実施し、管理部長によって受託経営者に無償で貸し、維持は受託経営者の負担にする旨が記されています。飲食品は野戦の酒保品を払い下げ、薬などは官物を交付するとも記されています。これは軍が建設した軍専用の慰安所のケースです。
1939年の独立山砲兵第3連隊(森川部隊)の特種慰安業務に関する規定では、慰安所開設の趣旨として、将兵殺伐の気風を緩和調節し、軍紀を振作させるためと記されています。軍が管理し、経営者に委託させるというやり方でしたが、出入、時間、衛生、巡察、外出、料金など、すべてを軍が指示していることがわかります。
これらの資料から、軍の管理下で慰安所が経営されたことがわかります。
「慰安婦」女性の徴募と政府・軍による国外移送
つぎに「慰安婦」女性の徴募と政府・軍による国外移送の実態についてみてみましょう。
1938年2月に和歌山県知事が内務省警保局に出した「時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件」という文書があります。
そこには、和歌山県で酌婦を前借金で拘束し、上海へと誘拐しようとした件が報告されています。文書からは、陸軍御用商人と軍人らで上海皇軍の風紀衛生のために、年内に3000人の女性を送るという計画をたて、すでに70人が送られたこと、その送出に長崎県外事課が便宜を与えたこと、さらに上海の日本領事館警察署が前線陸軍慰安所営業者に臨時酌婦営業を認めたことなどがわかります。
このような軍警民によって「支那」への「渡航婦女」が増加したわけです。それに対し、内務省警保局は38年2月21日付で、各庁府県長官に対し、娼婦などの北支・中支への渡航を、満21歳以上で病気がないものについては、当面黙認することにし、身分証明書を発給することを指示しています。
ここでは、自ら渡航するかのように記されていますが、実は営業者による前借金などによる集団での移送がなされ、軍の慰安所に送られたのです。文中には略取・誘拐にあたらないようにすることや婦女売買に関する国際条約に反しないようにという主旨の文もあります。刑法や国際条約を念頭に置きながらの黙認だったのです。
軍の兵務課は北支と中支の参謀長あてに、1938年3月に「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」は出しています。そこでは、募集にあたっては派遣軍に於いて統制し、任じる人物の選定に適切にし、実施にあたっては警察当局と連携を密にするよう指示しています。この文書は、募集が誘拐などの社会問題となり、軍の威信を傷つけることになったため、慰安婦移送の統制を強めて、確実な営業者を選定し、警察との連携を強化しようというものです。慰安婦移送や慰安所をやめようとしたものではありません。
1938年の警保局の文書に、陸軍が南支への400人の醜業目的の婦女の渡航を求めていることを記した文書(通牒案)があります。内地での募集を、大阪100、京都50、兵庫100、福岡100、山口50人の計400人と割り当て、各府県の警察部が業者を選定し、慰安婦を集めさせるというのです。業者を使っての軍と警察による動員がねらわれたのです。
慰安婦を集めるという文書は他にもあります。たとえば漢口の「天野部隊」は、軍慰安所の開設にあたり、50人を募集しています。南方総軍は「慰安土人」50人を台湾軍に求めています。それを受け、台湾軍は3人の業者を選定し、ボルネオに送ることを陸軍に示した文書もあります。その後、特種慰安婦50人を送りましたが、「稼業ニタへザル者等」が出たため、さらに20人の増加を求めるという文書もあります。
慰安所での女性たちへの強制
さて、このようにして送られた女性たちの慰安所での状態はどのようなものであったのでしょうか。軍は軍慰安所についての調査をおこなっています。欽寧派遣憲兵長による「軍慰安所ニ関スル件報告(通牒)」には、南寧に295人、欽州に66人の慰安婦が送られていたことがわかります。
南寧と欽州にあった慰安所の名前や売上高、病気の女性の数もこまかく記録されています。朝日、花月、突撃、野戦館、オリンピック、小鳩、竹の家、三楽亭、大和亭、末広亭などの名前の店に、10人前後の女性が連行され、一人一日20円前後の売り上げを強いられていたのです。兵一人30分1円の料金の例が多いことから、1日に10数人の相手を強いられていたと推定できます。また、この報告には、飲酒銘酊による暴力についても記述があります。
また、軍人による強かん・暴行事件が起きていたことが、陸軍軍人の犯罪表からわかります。慰安所での暴行事件なども記され、慰安所で抜刀板壁を破壊したなどの記載があります。これらは氷山の一角です。軍人の書いた手記などには、強かんしても何のとがめもなかったとする記述があります。
フィリピンのイロイロ兵站支部医務室による「検黴成績ニ関スル件」には、第1・第2慰安所の計27人の女性の氏名・年齢、病種が記されています。第1慰安所の15人中10人が10代です。6人が淋病や子宮の病気でした。
また、慰安所の利用規定に関する文書も残っています。そこには慰安所の監督指導は軍監政部の管掌とし、慰安所の利用は制服の軍人軍属に限るとしています。慰安婦の外出は厳重に取り締まりがなされ、散歩の区域が設定されていました。料金・時間は兵、下士官、将校で区別され、兵は第1慰安所で30分1円、亜細亜会館で30分1円50銭、将校は第1慰安所で1時間3円、亜細亜会館で1時間6円などと指定されていました。
これらの書類はイロイロ憲兵隊の文書綴にあります。慰安所は兵站業務であり、憲兵が監視していたのです。
このような状況を強いられた女性たちの立場から、歴史を理解し、表現すべきと思います。軍の担当者は女性を動員し、兵士の性を統制し、戦闘に出すことを計画していたのですが、そのような立場や、戦争の勝ち負けの視点での記述では、慰安婦の痛みや悲しみはみえてこないでしょう。
軍・官憲による「慰安婦」の強制連行
ではつぎに、軍・官憲による慰安婦の強制連行を示す文書についてみてみましょう。強制連行とは甘言や暴力によって人間を連行することです。銃剣で脅して連れさるだけでなく、だまして連れだすことも強制連行です。
東京裁判の判決書をみると、桂林で日本軍が工場での女工募集という名で醜業を強制したとあります。検察側が作成した桂林市民による控訴書類がこの判決のもとになったものです。その書類には、日本語訳ですが、獣の如き軍隊の淫楽に供したとあります。
米軍戦争情報局がミャンマーでの朝鮮人慰安婦20人を調査して作成した文書があります。この調書は、朝鮮半島からミャンマーへの女性たちの強制連行の実態をとらえたものです。
この文書によれば、1942年5月初め、日本人の代理業者が朝鮮に赴いた。それは、東南アジアでの慰安業務のために朝鮮人の募集であり、業務は特定されず、病院での慰問、手当、一般的に兵士を楽しませることなどであり、勧誘のうたい文句は、高収入、家族の借金返済の機会、軽労働、新天地での生活などだった。このような虚偽の宣伝に応じて海外勤務に応募し、2〜300円の前払いを受けた。なかには売春に関係した者もいたが、大半は無知・無学のものだった。約800人がこのような方法で募集され、1942年8月にラングーンに上陸し、8人から22人のグループに分かれ、陸軍部隊に分けられたのだった。
このように甘言でだまして海外に連行しているのです。これまでにみてきたように、軍が慰安所をつくる計画を立て、それに基づいて業者が選定され、朝鮮半島に行って、甘言を弄して女性を集め、前借金で逃れられないようにし、船に乗せてミャンマーまで連行し、各部隊に配分したのです。
外務省アジア局北東アジア課は、この文書を1991年12月に部分訳しています。当時の米軍による聞き取り資料は、強制連行を示す重要な文書です。この米軍文書からも朝鮮での強制連行を示す文書がなかったなどとは言えないのです。
強制連行を示す文書には他に、海軍によるボルネオでの強制売春をめぐる文書(東京裁判での証拠資料)、陸軍によるジャワ島でのオランダ人女性の慰安婦としての使用(バタビア臨時軍人裁判判決)などがあります。
陸軍によるジャワ島でのオランダ人女性の連行はジャワのスマラン市で起きたためにスマラン事件と呼ばれています。その時の被害女性ジャン・ラフ・オハーンさんは1990年代に沈黙を破って、証言しています。オランダによるバタビア裁判の資料も残されています。これらの裁判資料は占領地からの女性の強制連行を示す文書です。
以上、歴史資料をみながら、慰安所の建設、慰安婦の動員、慰安所での強制の日々について解説してきました。現在では使用されていない用語などが出てきて、難しい話であったかもしれませんが、資料から当時の状況を知ることができると思います。歴史資料とは、それにより当時を知ることができるものであり、歴史像を再構成することができるものです。その意味で、宝であると思います。読み込んでいくと。新しい発見があります。
「慰安婦」制度の違法性と法的責任
最後に「慰安婦」制度の違法性と法的責任についてみます。
当時の刑法では、未成年者の略取や誘拐は懲役刑です。営利猥褻のための略取・誘拐も、帝国外への略取・誘拐も懲役刑です。植民地朝鮮にも朝鮮刑事令があり、日本刑法が適用されました。
また、日本は、醜業をさせるための婦女売買禁止に関する国際条約や婦人及び児童の売買禁止に関する国際条約に加入していました。当時の条約では、醜業のために詐欺や暴力で強制的に勧誘・誘引・拐去してはならないとしていましたし、満21歳未満の女性では同意があっても売春をさせてはいけなかったのです。
このような重大な戦争犯罪が、無処罰のままで、現在に至ること、そしてその事実を認めようとしない人々が、政治権力を持ち、歴史を修正する動きをつよめていることに大きな問題があります。
この問題を語ると、「自虐」とか「反日」というレッテルをはりつけ、日本を悪く言うな、日本を貶めるなと語る人もいます。性奴隷ではない、慰安婦は売春婦にすぎないという人もいます。誤報をきっかけに、問題全てがなかったかのような宣伝をする人もいます。
真面目に資料を読み、そこから歴史の記述を行い、そのような出来事の再発を防ごうとする行為を、顔の見えないネット空間で罵倒するのです。そして、脅迫までおこなうのです。ネット上では、ウソの記事がコピーされ、語るべき資料が出されないのです。
そのような発言や行為が、かえって日本を貶め、日本のイメージを悪くするのではないでしょうか。過去に誠実に向き合う行為が信用をえるのではと思います。連行され、慰安所での生活を強いられた女性の側に立って歴史をみることが、なぜできないのでしょう。
慰安婦、慰安所があり、それを軍かつくり、経営者を指定して営業させ、それを軍か管理したことは、ここで見てきた資料で明らかです。そこでの生活を強いられた女性たちは性の奴隷です。その事実の上に立って、この問題の解決にむけて歩むべきです。
河野談話では、慰安所が軍の要請により設営されたこと、慰安所の管理、慰安婦の移送には旧日本軍が直接・間接に関与したこと、募集にあたっては軍の要請を受けた業者が甘言・強圧などで本人の意思に反して集められた事例が数多く、官憲が加担したこともあったことなどが記されています。また、歴史の真実を回避することなく歴史の教訓として直視することも記しています。
ここでみてきた文書からもこの談話での認識は正しいのです。
日本軍慰安婦問題の解決にむけて
慰安婦問題の解決を目指す活動をすすめてきたアジア連帯会議は、日本政府に問題解決のための提言をおこなっています。そこでは、日本政府に対し、
日本政府および軍が、軍の施設として「慰安所」を立案・設置し管理・統制したこと、女性たちが本人たちの意に反して、「慰安婦・性奴隷」にされ、「慰安所」等において強制的な状況の下におかれたこと、日本軍の性暴力に遭った植民地、占領地、日本の女性たちの被害には、それぞれに異なる態様があり、かつ被害が甚大であったこと、そして現在もその被害が続いているということ、当時の様々な国内法・国際法に違反する重大な人権侵害であったこと、これらの事実を認めて、責任をとることを求めています。
そのうえで、以下の被害回復措置を求めています。
翻すことのできない明確で公式な方法で謝罪すること、謝罪の証として被害者に賠償すること、真相究明をおこなうこと(日本政府保有資料の全面公開、 国内外でのさらなる資料調査、国内外の被害者および関係者へのヒヤリング)、再発防止措置をとること(義務教育課程の教科書への記述を含む学校教育・社会教育の実施、 追悼事業の実施、誤った歴史認識に基づく公人の発言の禁止、および同様の発言への明確で公式な反駁等)。
このような提言を政府は真摯に受け止めて、問題解決をすすめるべきと思います。とくに、政府が誤った歴史認識に基づく公人の発言をきちんとただし、反論することが、ヘイトスピーチやネット上での誤った表現を減らすことになると思います。
(竹内)