明治産業革命遺産と強制労働
はじめに
人間の歴史は、奴隷制度、人種差別、植民地主義、侵略戦争、戦時性暴力を克服するという歴史認識を獲得し、そのような人権侵害の再発を許さず、被害者の尊厳の回復にむけて歩むようになった。日本の戦争と植民地支配に起因する強制労働や性奴隷制の解決への取り組みもその一環である。
明治産業革命遺産の登録問題で明らかになったように、日本政府は戦時の朝鮮人への強制労働を認めようとしない。このような日本政府の対応は過去を合理化しようとする歴史修正主義であり、歴史の歪曲である。それは植民地主義とその下で起こされた人権侵害の克服をめざすという歴史の動きに反するものである。
以下、日本政府の歴史認識の問題点を示すとともに、朝鮮人・中国人・連合軍捕虜の強制連行・強制労働の実態について記していきたい。
1日本政府の強制労働認識の問題点
明治産業革命遺産の登録において、朝鮮人の強制労働を認めるのか否かが問題となった。この登録に際し日本政府は、過去に誠実に向きあい、戦時の強制連行・強制労働について、認識を明確にすることが求められた。また、日本政府が強制連行・強制労働の歴史をふまえて申請すべきこと、この遺産の時期区分や遺産の構成を見直すことなども問われたのである。
議論の末、2015年7月に明治産業革命遺産が世界遺産に登録されることになった。それにあたり、日本政府は“Japan is prepared to take measures that allow
an understanding that there were a large number of Koreans and others who were
brought against their will and forced to work under harsh conditions in the
1940s at some of the sites, and that, during World War II, the Government of
Japan also implemented its policy of requisition.”と発言した。
この文意は、朝鮮人やその他の人々が徴用政策により、強制連行・強制労働されたことを示すものである。その他の人々(others)とは中国人・連合軍捕虜のことになる。発言後、日本政府は“forced to work”については「働かされた」と訳し、「強制労働の意ではない」「戦時の朝鮮半島出身者の徴用は国際法上の強制労働にあたらない」とした。日本政府は、朝鮮半島出身者が徴用されて働いたが、強制労働ではなかったとしたのである。登録会議で、日本政府は韓国側が“forced labor”と表現することを止めさせ、“forced to work”ならば問題はないとしたのだった。
このように日本政府は戦時の朝鮮人やその他の人々への強制労働を認知しようとしない。
強制労働問題については、1990年代に入って問題解決を求める運動が高まるなかで、ILOが1999年3月に、日本政府と企業による朝鮮人・中国人などの強制労働について、1930年の強制労働に関するILO29号条約に違反するという判断を示した。
世界遺産登録後の会見で、日本政府はILO29号条約での強制労働にはあたらないとしたが、すでにILOは戦時の朝鮮人・中国人の強制連行による労働をILO29号条約に違反するとしているのである。
今回の事態は、戦後70年、日本政府がこの強制労働問題を解決してこなかったことから起きているのである。
2 朝鮮人・中国人・連合軍捕虜の強制連行・強制労働
では、どれくらいの朝鮮人・中国人・連合軍捕虜が強制連行・強制労働されたのだろうか。
戦時の総動員体制のなかで労務や軍務のために朝鮮人の強制動員がすすめられた。内務省警保局の内鮮警察の史料から1939年から43年末までの労務動員数が判明し(「労務動員関係朝鮮人移住状況調」1943年末現在)、1944年度の動員についても予定数がわかる(「昭和19年度新規移入朝鮮人労務者事業場別数調」)。これらの史料や1944年以後の実際の動員数から、動員数を約80万人とみることができる。軍人軍属の動員は37万人を超える(「朝鮮人戦没者遺骨問題に関する件」外務省アジア局第一課1956年)。合計すると労務や軍務で115万人を超える朝鮮人が日本などに強制動員された。朝鮮内での労務動員数はこの数倍になる。
もともと徴用とは、強制的に動員して、労働を強制することである。国家総動員法では、徴用に応じない者は1年以下の懲役または1000円以下の罰金とされた。徴用は罰則を伴う強制だった。徴用を適用しての朝鮮人の労務動員は1944年9月からであるが、すでに1939年の国民徴用令の公布後に、募集や官斡旋の形で労務動員がすすめられてきた。募集による動員であっても、動員された現場から逃走すると警察が指名手配したのであり、発見されると逮捕され、現場に連れ戻された。募集による動員は労務動員計画の下でなされたのであり、動員先での移動の自由はなく、労働が強制されたのである。
軍人軍属としては37万人以上が連行された。1962年に日本政府は24万2341人を動員し、2万2182人が死亡したとしているが(「朝鮮在籍旧陸海軍軍人軍属出身地別統計表」厚生省援護局1962年2月)、この数値は留守名簿などの名簿類によるものである。名簿がないものは除かれ、死亡者数では行方不明とされた者で除かれたものがある。実際の動員数は37万人以上となり、1962年に示された数値は実際の動員数よりも13万人ほど少ないものである。
1939年以後の日本による国内外への労務動員を韓国では強制動員、あるいは徴用と呼んでいる。徴用令を適用する前から、強制的な動員(徴用)の実態があったのであり、1944年には、強制性をいっそう強め、徴用令を適用しつつ、朝鮮から日本へと約29万人を労務動員したのである。
当時、朝鮮人は植民地支配によって「皇国臣民」とされ、日本人の氏名をつけられ、日本の戦争に動員された。日本政府が朝鮮人の民族性を否定し、日本人として動員したのであり、人種差別(民族差別)による動員であった。日本人と同等に扱ったから強制ではないとする言質は人種差別と植民地主義を隠す詭弁である。
中国人は日本へと約3万9000人が強制連行され、約6800人が死亡した。連行された中国人は135か所で労働を強制された。中国内の収容所で虐待され、連行途中でも数多くの人々が死亡した(外務省「華人労務者就労事情調査報告書」)。日本は中国人を捕虜として扱わず、「供出」や「募集」の形をとらせ、契約を偽装して、連行した。
占領地の「満州」にも数百万人が連行された。植民地台湾からも労務や軍務で強制動員がなされた。台湾からの軍人軍属としての動員は20万人を超えるものになり、死者・行方不明者は3万人を超えた。
東南アジア、太平洋各地での戦争により、日本が捕虜とした連合軍関係者は35万人にのぼった。そのうちヨーロッパ系は約15万人であり、日本国内に約3万6000人が連行され、労働を強制された。連行途中に攻撃を受け、海没した捕虜は1万人を超えた。日本に戦争中に開設された強制労働のための収容所は派遣所を含めると約130か所になった。敗戦時には約3万2000人が収容されていた。日本への連行後の死者は約3500人である。泰緬鉄道建設をはじめ、アジア各地で労働が強制され、日本軍の労役を強制されたインド兵もいた。それらの現場でも多くの人々が生命を失った。
産業革命による重工業化は、海外での資源の獲得と市場の拡大、侵略戦争と植民地支配につながった。日本による戦争は、朝鮮人・中国人・連合軍捕虜の日本への連行と強制労働をもたらしたのである。そのような戦争と労働の視点から産業革命をとらえることが重要である。
3 明治産業遺産と強制労働
今回の明治産業革命遺産を構成する日本製鉄八幡製鉄所、三菱重工業長崎造船所、三菱鉱業高島炭鉱(高島と端島に事業所)、三井鉱山三池炭鉱などは、戦時期の強制連行・強制労働の典型的な現場である。八幡製鉄所からみてみよう。
日本製鉄八幡製鉄所
八幡製鉄所は日本最大の鉄鋼会社だった。官営八幡製鉄所の操業は1901年であり、建設資金は日清戦争での清からの賠償金によった。原料となる多くの鉄鉱石が中国の大冶鉄鉱から輸入された。戦争の拡大による鉄鋼の需要増加と製鉄業の統合により、1934年には日本製鉄が設立され、日本製鉄八幡製鉄所になった。日中戦争がはじまると日本軍は中国の大冶鉄鉱を占領し、日本製鉄の所有とした。この日本製鉄へと1940年代、多くの朝鮮人が連行され、中国人・連合軍捕虜も連行された。八幡製鉄所は現在、新日鉄住金の傘下となっている。
朝鮮人は八幡製鉄所へと1942年6月までに394人(中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」)、1944年1月までに1471人が連行された(うち逃亡760人、福岡県「労務動員計画ニ拠ル移入労務者事業場別調査表」)。その後も連行が続いた。
厚生省勤労局の「朝鮮人労務者に関する調査」(福岡県分)の集計表からは、1942年に921人、43年に550人、44年に1968人、45年に381人の計3820人が連行されたことがわかる。この調査の八幡製鉄所の報告書には、2788人が終戦時に在留し、うち徴用者は2761人としている。敗戦後の日本製鉄の供託資料をみると八幡分では3042人の名簿がある(日本製鉄総務部勤労課「朝鮮人労務者関係」)。
関連の八幡製鉄所運搬請負業共済組合には1942年6月までに2785人が連行された(中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」)。その後、連行者はさらに増加したとみられ、運搬関係で2800人以上が連行されたとみることができる。
このような連行状況から、八幡製鉄所に連行された朝鮮人は3800人以上、八幡製鉄所運搬請負業共済組合に2800人以上の計6600人以上の連行があったということができる。しかし、八幡製鉄所の朝鮮人死亡者についての氏名判明者は3人だけであり、多くが不明である。
中国人は1944年9月に日本製鉄八幡港運に201人が連行され、20人が死亡した。
連合軍捕虜は八幡の俘虜収容所(1942年9月設置)に連行され、八幡製鉄所で労働を強いられた。敗戦時の収容者は1195人(米616、蘭211、英193、インド132、中国22ほか21)である。収容中、158人が死亡した。
日鉄釜石鉱山など
明治産業革命遺産には、明治初期の釜石の鉱山跡・高炉跡も入っているが、岩手県の釜石の鉄鉱山と製鉄所にも強制連行があった。
朝鮮人は1942年6月までに日鉄鉱業釜石鉱山に470人、日本製鉄釜石製鉄所に498人が連行された(中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」)。供託資料には釜石製鉄所690人の名簿がある(日本製鉄総務部勤労課「朝鮮人労務者関係」)。連行朝鮮人数は釜石鉱山と釜石製鉄所で計1500人ほどと推定できる。死亡者については釜石鉱山関連で18人、釜石製鉄所関連で39人が判明し、他に釜石関連の死者13人が判明している。
中国人は釜石鉱山に1944年11月に197人、45年2月に91人の計288人が連行された。このうち123人が死亡した。
連合軍捕虜は1943年11月におかれた函館俘虜収容所第3分所に収容され(のち東京俘虜収容所第7分所から仙台俘虜収容所第5分所)、釜石製鉄所で労働を強制された。敗戦時の収容数は351人(蘭168、英86、米78ほか19)であり、死亡は50人だった(うち米軍の艦砲射撃による死者34人)。
このように国家による独占企業であった日本製鉄には多くの朝鮮人・中国人・連合軍捕虜が連行され、労働を強いられた。日本はこのような動員をおこなったのであり、「強制労働はなかった」などと言う言葉は通用しない。強制的な動員をおこない、強制労働をさせた政府と企業の責任が問われているのである。
三菱重工長崎造船所
三菱重工業は造船と航空機の生産を担う日本最大の軍需企業であった。その造船の拠点が長崎の工場である。真珠湾攻撃では三菱長崎で製造された航空魚雷が使われ、長崎への原爆は三菱の工場群を狙って投下された。そのため、アメリカとの戦争は長崎で始まり、長崎で終わったといわれている。
三菱重工業長崎造船所への朝鮮人の強制連行数については、戦後、厚生省勤労局の「朝鮮人労務者に関する調査」の長崎県分の集計表に、1944年3474人、45年2501人の計5975人の動員数が記されている。名簿は収録されていないが、集計表から6000人近い連行があったことがわかる。別の名簿として、人数は少ないが、三菱長崎造船所・福田寮などの被爆朝鮮人名簿がある。
朝鮮人は三菱長崎造船所の関連工場の三菱長崎兵器製作所、三菱長崎製鋼、三菱長崎電機、長崎の地下工場建設工事にも連行されている。三菱長崎製鋼については、「朝鮮人労務者に関する調査」に143人の名簿がある。三菱長崎造船所への連行者数は約6000人であり、関連工場への連行も含めれば、さらに増加する。
三菱長崎造船所での朝鮮人の死亡判明数は推定も含めて63人、長崎兵器は4人である。他にも原爆死が多数あったとみられるが、不明である。
三菱長崎造船所には、連合軍捕虜も連行された。1943年4月に福岡俘虜収容所第14分所が開設され、長崎造船には1943年4月に300人、44年6月に212人の約500人が連行された。その後、他への転出があり、敗戦時には195人(蘭152、豪24、英19) が収容されていた。収容中の死亡は113人であり、このうち原爆死は8人である。
戦後、三菱長崎造船所に吸収された川南工業香焼造船所でも連合軍捕虜が連行され、1942年10月に1000人、42年12月に300人、44年9月に200人など、1500人以上が連行された。敗戦時の収容者数は497人であり(蘭324、英160、米5ほか8)、収容中の死亡は72人である。
1992年に長崎地方裁判所に提訴された金順吉裁判は、日本政府と三菱重工業による奴隷労働に対して損害賠償を求めるものだった。1997年の長崎地裁の判決は、国と三菱による違法な手段での連行と半ば軟禁状態での労働の強制を認定し、その責任を認定したが、旧三菱重工は解散しており、新会社には未払い賃金債務は継承されない、また、旧憲法下では国の権力作用による個人の被害への賠償責任はないとし、金さんの請求を棄却した。金さんは敗訴したが、強制連行・強制労働の事実は認定された。三菱重工名古屋航空機朝鮮女子勤労挺身隊訴訟の判決でも、強制連行・強制労働の事実は認定されている(名古屋高裁判決2005年)。
すでに確定した判決で、戦時の朝鮮人の強制労働は認定されているのである。日本政府は、明治産業革命遺産登録をめぐって、強制労働ではなかったとしているが、これらの判決での事実認定に従うべきである。
三菱高島炭鉱(高島・端島)
三菱鉱業は三菱重工業とともに三菱財閥の中心企業であり、各地に炭鉱や鉱山を持っていた。戦時に国内へと連行した朝鮮人の数は6万人ほどになる。
長崎には、三菱鉱業高島炭鉱があり、事業所が高島と端島(軍艦島)にあった。ともに海底を掘り進む炭鉱である。高島炭鉱では多くの労働者が生命を失った。三菱経営後の1885年には高島でコレラが流行し、500人以上が死亡した。1906年の高島炭鉱の蛎瀬坑の坑内ガス爆発事故では307人が死亡した。労災事故は絶えることなくつづき、三菱経営以後、敗戦までの労災や病気による死亡者は1000人を超えた。
高島炭鉱には1942年6月までに朝鮮人1110人が連行された(中央協和会「移入朝鮮人労務者状況調」)。また、石炭統制会の統計史料からは、1943年に600人、44年に1100人以上が動員されたことがわかる。「朝鮮人労務者に関する調査」の長崎県分には、高島炭鉱の戦後の解雇者1299人の名簿が残されている。この名簿からは1944年8月に14歳、15歳の少年が連行されてきたことがわかる。未払金は22万円を超えるものだった。
これらの史料から、高島炭鉱(高島・端島)への連行数は約4000人と推定することができる。
高島炭鉱での朝鮮人の死亡数は、端島分の48人分が高浜村「火葬認許証下附申請」書類からわかる。高島分については2人の氏名しか判明していないが、高島でも50人ほどの死亡があったとみられる。
1937年6月のことであるが、端島で酌婦にされた朝鮮人女性がクレゾールを服毒して自殺した(「火葬認許証下附申請」)。1919年生まれの18歳である。当時、酌婦は、客の酌をするだけでなく、売春を強制されることも多かった。朝鮮人女性が炭鉱の「慰安婦」として連行されていたとみられる。
中国人は1944年6月に端島に204人、7月に高島に205人が連行され、死亡数は高島15人、端島15人である。
三菱鉱業は現在、三菱マテリアルの名で活動している。
三井三池炭鉱
三井鉱山は三井財閥の中心企業であり、三菱鉱業と同様に各地に炭鉱や鉱山を持っていた。三井系の炭鉱にも多くの朝鮮人が連行された。
三井の三池炭鉱は日本最大の炭鉱だった。この三池炭鉱への朝鮮人強制連行については、厚生省勤労局の「朝鮮人労務者に関する調査」の福岡県分の集計表に、1940年に93人、41年に96人、42年に1834人、43年に2889人、44年に2466人、45年に1886人の計9264人の連行を示す数値が記されている。
全員分の名簿は残されてはいないが、三池炭鉱万田坑の1683人分の集団的連行を示す名簿がある。この名簿を集計すると1942年から45年にかけて20次の集団的連行がなされ、逃亡が762人、死亡が35人、送還・帰国が84人、解放後の解雇が706人であったことがわかる。
別に、GHQ・LS(法務局)の文書「List
of Employees at Mitui Mining Company at Omuta」には、三池炭鉱の朝鮮人約3000人分の名簿がある。
日本政府は徴用令適用を1944年としているが、労務動員計画により1939年から強制動員がおこなわれたのであり、その動員の実態を韓国側は「徴用」と呼んでいるわけである。
朝鮮人は、三井関連の電気化学工業大牟田工場、三池染料工業所などにも連行された。電気化学工業大牟田工場には1944年1月までに572人の連行があり(福岡県「労務動員計画ニ拠ル移入労務者事業場別調査表」)、三池染料工業所の朝鮮人名簿からは130人以上の連行があったことがわかる。
三井三池炭鉱への連行者数は9300人、三井の石炭コンビナート関連の工場への連行を入れれば、1万人を超える連行があったわけである。朝鮮人の死亡判明数は、三井三池炭鉱で50人、電気化学工業で4人、三池染料で8人である。
中国人の連行状況をみると、万田坑には1944年5月に412人、45年2月に595人、3月に593人、同月に307人の計1907人が連行され、このうち四山坑へと45年の2月から3月にかけて、694人が転送された。宮浦坑には1944年5月に231人、10月に343人の計574人が連行された。連行された中国人は計2481人であり、2500人近かったのである。死亡者は万田坑で294人、四山坑で158人、宮浦坑で41人である。
なお、2013年に宮浦に建設された中国人追悼碑では死亡数を計635人と記している。
2005年、三井三池炭鉱と三井田川炭鉱に連行された中国人が日本政府と三井鉱山に対して、謝罪と損害賠償を求めて裁判をおこした。中国人の原告劉千さんは1944年春、河北省から三池の宮浦坑に連行され、暴力的な管理の中で強制労働をさせられた。劉さんの右足は労務監督に斧で叩かれて骨折し、変形したまま結合した。裁判で示されたレントゲンフィルムは過酷な強制労働の歴史を証明するものだった。
連合軍捕虜は1943年8月に福岡俘虜収容所第17分所が開設され、三池炭鉱で強制労働させられた。敗戦時には1737人(米730、豪420、蘭332、英250ほか5) が収容されていた。収容中の死亡は138人であるが、このうち1人は営倉内で餓死し、1人は逃亡により、刺殺された。三池関連では44年9月に第25分所が開設され、電気化学工業大牟田で強制労働させた。敗戦時の収容人数は390人(英388、米2)、収容中の死亡は4人だった。
三井鉱山は現在、日本コークス工業の名で企業活動をおこなっている。
朝鮮人3万人以上、中国人3400人以上、連合軍捕虜4500人以上の連行
ここでみてきたように、明治産業革命遺産関連では、朝鮮人は、三井三池炭鉱に約9300人、三菱高島炭鉱(高島坑、端島坑)に約4000人、三菱長崎造船所に約6000人、日本製鉄八幡製鉄所に3800人以上、八幡製鉄所運搬請負業共済組合にも2800人以上が連行されたということができる。また、関連して、三池では三池染料、電気化学大牟田工場などに、三菱長崎造船では三菱長崎製鋼、三菱長崎兵器などの工場や地下工場建設現場への連行があった。釜石にも日鉄関連で1500人ほどが連行された。関連の現場を加えれば、連行朝鮮人数は3万人を超えることになる。
朝鮮人死亡者は判明分で、三井三池で50人、三池染料で8人、電気化学工業大牟田で4人、三菱高島(主に端島坑)で約50人、三菱長崎造船で約70人、釜石関連で約70人である。八幡分、高島炭鉱の高島坑等の死者の多くが、いまも不明のままであり、長崎では被爆死も多数あった。調査がすすめば、死亡者数は300人を超えるものになるだろう。
朝鮮人強制労働に関しては、多数の未払い金が放置され、動員された朝鮮人に手渡されることなく、今日に至っている。判明分であるが、三井三池製錬所で約6000円、三井三池染料で約8万円、電気化学工業大牟田で約8万円、日鉄八幡製鉄所で約30万円、三菱長崎造船で約86万円、三菱高島炭鉱で約22万円である。
中国人は、三井三池炭鉱に約2500人、三菱高島炭鉱(高島坑、端島坑)に約400人、八幡製鉄関連の八幡港運に約200人の計3100人が連行された。三井三池では500人ほどが亡くなった。この3か所の死亡者数は550人ほどである。釜石鉱山に連行された288人(うち死亡123人)を加えれば、連行数は3400人を超え、死者も670人ほどになる。
連合軍捕虜は、三井三池炭鉱に約1900人、電気化学工業大牟田に約400人、三菱長崎造船所に約500人、日鉄八幡製鉄に約1350人が連行され、死者は合わせて400人を超えた。釜石製鉄所に連行された約400人を加えれば、4500人以上が連行されたことになり、死者は450人を超える。
4 求められる強制労働の歴史認識とその継承
日本の産業革命は日清・日ロの戦争、第1次世界戦争などの戦争により、すすめられた。産業革命による重工業化(石炭業、鉄鋼業、造船業など)は、戦争による経済発展であり、朝鮮半島、遼東半島、台湾への侵略と占領、植民地支配をともなうものだった。重工業の維持と拡大は、さらなる戦争につながっていった。日本の産業革命は、アジアとの関係、戦争と植民地主義を抜いては語れない。
日本政府は産業革命をテーマに、明治期だけを対象に産業遺産として登録した。産業革命と並行して侵略と植民地支配がすすんだが、そのような歴史については見ようとせずに、産業化だけを宣伝し、観光資源にしようとしている。そのような歴史の宣伝の動きに侵略と植民地支配を受けた側が共感するだろうか。申請のように1850年代から1910年までの明治期で切り取ってしまっては、その後の歴史が見えなくなる。
製鉄・石炭・造船の産業での資本の形成は、劣悪な労働環境とともにあった。それらの現場では、数多くの労働者が生命を失っている。石炭や鉱石、生産物には多くの労働者の血と汗が結晶している。三池には受刑者の名もなき墓標がある。高島炭鉱にも労働者の無縁墓がある。死者名は不明のままである。明治の産業遺産はこれらの人々の存在をも語り伝えるものである。
戦争の拡大は朝鮮人・中国人・連合軍捕虜の強制労働を生んだ。これらの明治期につくられた遺跡には戦時の強制労働がおこなわれたときに稼働していたものもある。産業遺跡は戦争と強制労働を経て今日に至っているのである。三池や高島の炭鉱、八幡製鉄所や長崎造船所の工場は、強制労働の歴史、朝鮮や中国の民衆が受けた痛みや悲しみの歴史を語り伝えるものである。
日本の近代化・産業化をみるにあたり、労働者民衆やアジアの視点は欠くことができない。その視点を持たずに、ナショナルな視点だけで、近代化や産業化を美化し、痛みと反省のない物語をつくりあげてはならないだろう。
安倍政権は登録申請を文化庁ではなく、官邸主導ですすめた。安倍政権は日本会議の思想的影響を受けている。この日本会議は過去の戦争や韓国の支配を正当化している。この明治産業革命遺産という申請の枠組みに、歴史修正主義が反映されている。ナショナリズムをリードした吉田松陰から伊藤博文までの物語でなく、亡くなった無名の労働者や韓国や中国の民衆につながる視点で、産業遺跡を歴史遺産として保全し、継承していくべきである。今日の日本政府による強制労働の認識の否定は、侵略と植民地支配を否認する動きとつながっている。
戦後、これらの場所は、労働者の団結の拠点となり、悲惨な労働災害事故も起きた。産業資本形成の賛美だけでは歴史を多面的に見ることができない。産業遺跡を利用してナショナリズムを煽ってはならないのである。植民地主義や強制労働などの加害の歴史を語り伝えていくことが、普遍的な歴史認識につながる。三池や長崎には連行された朝鮮人・中国人の追悼碑がある。そのような戦後の民衆による強制労働犠牲者への追悼の活動も、産業遺産を語るときには語り伝えてほしい。
おわりに
1990年代に入り、韓国や中国の強制労働の被害者がその謝罪と賠償を求めて立ちあがった。三井と三菱はそのような強制労働をおこなった中心的な企業として訴えられた。日本製鉄(現在の新日鉄住金)も同様である。この強制労働問題に対して、日本政府は十分な真相調査をおこなうこともなく、賠償については解決済みとしてきた。
いまも韓国では強制労働の裁判が続いている。その被告は三菱重工業や新日鉄住金などである。韓国での裁判の判決では原告が勝訴し、企業に対して、個人の損害賠償請求権を認めるようになった。日本政府と三菱、三井、新日鉄住金などの企業は強制労働の事実を認め、産業遺跡に強制労働の史実を記し、語り伝えるべきである。そして、戦時の強制労働問題の解決にむけて、賠償基金を設立するなどの事業に取り組み、積極的に活動することが求められる。
2015年7月、三菱マテリアルは国内の事業所での連合軍捕虜の強制労働に関して、アメリカで謝罪した。企業では初めてという。三菱マテリアルは中国人の強制労働についても補償をおこない、和解する動きを示している。朝鮮人の強制労働についても事実を認め、謝罪と個人賠償をすすめるべきである。
三池炭鉱の労働争議を物語る「久保清君殉難乃碑」には、国内外の全ての働く仲間が死を悼み、その志を受け継ぎ、働くものの真の解放までどんなに辛くても闘い抜くという決意が記されている。その碑の横に「同志久保清に捧ぐ」という詩が刻まれている。その詩には「やがてくる日 歴史が正しく書かれる やがてくる日に 私たちは正しい道を進んだといわれよう 私たちは美しく生きたといわれよう」「日本のはたらく者が怒りにもえ たくさんの血が 三池に流されたといわれよう」とある。
この詩は明治産業遺産という歴史の合理化に抵抗する意思を示すものとみることもできる。意に反して連行され、劣悪な条件の下で労働を強いられた者たちの歴史が正しく書かれる日にむけて、その真相の調査とその尊厳の回復にむけての行動が求められる。
参考文献
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石炭統制会「労務状況速報」「雇入解雇及就業率調」「主要炭砿給源別現在員表」「給源別労務者月末現在数調」ほか(長澤秀編『戦時下朝鮮人中国人連合軍俘虜強制連行資料集』T所収)
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古庄正「連行朝鮮人未払い金供託報告書』(駒沢大学経済学論集第23巻第1号所収)
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POW研究会「研究報告」 http://www.powresearch.jp/jp/archive/index.html
福岡県「労務動員計画ニ拠ル移入労務者事業場別調査表」1944年 福岡県立図書館
GHQ・LS(法務局)文書「三井鉱山大牟田労働者名簿」(List of Employees at Mitui Mining Company at Omuta)国立国会図書館憲政資料室蔵
三井化学三池染料工業所「朝鮮人名簿」朝鮮人強制連行真相調査団蔵
長崎市「長崎朝鮮人被爆者一覧表」朝鮮人強制連行真相調査団蔵
「労務動員関係朝鮮人移住状況調」(1943年末現在)『種村氏警察参考資料』第110集所収、
「昭和一九年度新規移入朝鮮人労務者事業場別数調」『同資料』第98集所収、国立公文書館蔵
「朝鮮人戦没者遺骨問題に関する件」外務省アジア局第一課1956年6月7日
「終戦後朝鮮人海軍軍人軍属復員事務状況」法務省入国管理局総務課1953年 金英達収集文書
「朝鮮人人員表(地域別)分類表(陸軍)」1953年ころ 同収集文書
(2015年9月 竹内)
Forced labor and Meiji Industrial
Revolution heritage
Human society has obtained historical recognition to prohibit
human violations such as the slavery, racism, colonialism, wars of aggression, and
wartime sexual violence, and not allow to the recurrence. We have walked the
path toward the recovery of damage and dignity of those victims. Our efforts
towards the resolution of forced labor and sexual slavery due to the Japanese colonial
rule and war are also part of it.
The dispute over Meiji Industrial Revolution heritage sites revealed that, the
Japanese government does not admit the forced labor of the war to the Korean
people. Correspondence of the current Japanese government is not to recognize the
truth, but to justify the past. Thus it is distortion of history and historical
revisionism.
Below, it shows the problems of the historical recognition of the Japanese
government and clarifies the actual situation of forced entrainment and
forced labor of the Koreans, Chinese and Allied POWs.
1 Problems of recognition about forced labor of Japanese government
This time, in the UNESCO registration of Meiji Industrial Revolution heritage,
whether or not to recognize the Korean forced labor has become a hot topic. This
problem means that Japan’s government should be have a clear recognition of
forced entrainment and forced labor in wartime with good faith. And at registration
of heritage, Japan’s government should make to reassess the periodization and the
object of Meiji Industrial Revolution heritage, and to reflect the history of
forced entrainment and forced labor.
Meiji Industrial Revolution heritage has become a World Heritage Site in
July 2015. At that time, the Government of Japan said“Japan is prepared
to take measures that allow an understanding that there were a large number
of Koreans and others who were brought against their will and forced to
work under harsh conditions in the 1940s at some of the sites, and that,
during World War II, the Government of Japan also implemented its policy
of requisition.”
.
The sentence was intended to indicatethe forcedentrainmentand forced laborby
therecruitmentpolicytowardKoreansand otherpeople(Chinese-Allied POWs),
where of them, the Japanese government claimed that "forced to work"
do not mean " forced labor". The recruitmentofthe Korean people
inwartimedo not violate the international law
In this way, the Japanese governmentis nottrying torecognize theforced
laborof theKoreansand otherpeople(Chinese-Allied POWs).
In the growing movement of theforced laborproblemresolution requestsin
the 1990s, in March1999, the International Labor Organization declared
that the Japanese policy toward the Koreans and Chinese in wartime violates
the Forced Labor Convention,1930(No,29).
Today, although the ILO has clearly recognized the wartime forced labor,
the Japanese government claims that those workers were "forced to
work" rather than "forced labor" as Korean government insists
This situationhasoccurredfrom the fact that the Japanese governmenthas
notsolved theforced laborproblem for 70 years since the end of World WarU
.
2 Forced entrainment and forced labor of Koreans, Chinese and Allied
POWs
How many of the Korean, Chinese and Allied force prisoners were under the
situation of forced entrainment and forced labor to Japan?
Koreans
Koreans were forcibly entrained for labor or military service. Historical
records of the Ministry of the Interior made it clear that the number of
mobilized people from 1939 to 1943. We can also see the planned number
in fiscal 1944. 800,000 labors were determined from the records. About
370,000 people mobilized as soldiers and military employees. The total
mobilized number was more than 1,150,000. The number of labors remained
in Korea is several times larger.
Requisition means to forcibly mobilize and to force labor. The National
Mobilization Law, enabled one-year imprisonment or 1000 yen or less fine
on those who do not follow the law. Requisition was forced with a penalty.
Although application of the requisition to the Koreans was from 1944, labor
recruitment of Koreans began after the publication of National Recruitment
Ordinance of 1939 in the form of offering and mediation. They were if they
flee from mobilized site by offering, they were placed on the police wanted
list. When they are discovered, they were taken back to the site. No freedom
of movement, the labor was forced.
About 370,000
people were mobilized to work for military. Japanese government mobilized
242,341 people, and 22,182 people of them died (report of 1962), this number is
limited to those who are limited. The number that has been published is 100,000
smaller than the actual mobilization.
In South
Korea the labor recruitment by the Japanese since is called forced
mobilization, or commandeered labor recruitment. Before the application of the Recruitment
Ordinance, requisition existed since 1944, applying the Recruitment Ordinance
in order to strengthen the coercive force , Japan mobilized 290,000 people from
Korea .
At that time, by colonial rule Koreans had been forced to be "Empire
Subjects", and given Japanese names, and they were recruited to the
war. Their ethnicity was denied, and they were mobilized as Japanese. This
is racism. The view that it was not forced labor, but they were only forced
to work because they were treated equally condition as Japanese is a sophistry
to hide the racism and colonialism.
Chinese
About 39,000 Chinese people were forcibly entrained, and about 6800 of
them were died. Entrained Chinese were forced to labor at 135 locations.
Being abused in camps in China, a number of people died during entrainment.
Japan did not treat the Chinese people as war prisoners, but taking the
form of Agreement labor and recruitment, disguised a contract and entrained
them.
Several millions of people were forcibly entrained to "Manchuria"
in the occupied territories. Forced mobilization for labor and military
service from colonial Taiwan were also made. The mobilization of military
and civilian personnel from Taiwan ended up with more than 200,000 people,
dead or missing persons count more than 30,000 people.
Allied prisoners of war
Allied
prisoners of war amounted to about 350,000 people, of which Euro were about 150,000.
The Japanese sent about 36,000 people to Japan for forced labor. More than 10,000
people attacked and sunk into the ocean on their way. Camps for forced labor established
about 130 places including dispatch offices. About 32,000 people were
imprisoned at the end of war. The dead after entrainment to Japan were about
3,500. Including the Taimen Railway construction, labor was forced in Asia. Also
there were Indian soldiers who were forcibly labor for the Japanese army. In those
fields, many people lost their life.
Heavy
industrialization since the industrial revolution had led to the expansion of
the acquisition of market resources in foreign countries, colonial rule, and
war of aggression. Japan’s War brought the forced entrainment and forced labor
of Korean, Chinese and Allied POWs. It is important to capture the industrial
revolution from the point of view of such labor.
3 forced labor and Meiji industrial heritage
Places of
this time of the Meiji Industrial Revolution heritage, such as Yahata Works,
Mitsubishi Nagasaki shipyard, Mitsubishi Takashima coal mine (Takashima-Hashima),
and Mitsui Miike coal mine are the sites that indicates the forced labor of
wartime in particular.
We are
going to review from Yahata Works.
Nippon Steel Yahata Works
Yahata Works was the largest steel company in Japan. State-run Yahata ironworks
operation started in 1901, as it is funded by the Sino-Japanese War reparations
from China. It was a construction with money robbed from China, and many
of iron ore were imported from the Daya Mine in China. The integration
of the steel industry for increased demand and the war expansion founded
the Nippon Steel in 1934. Yahata Works was owned by the Nippon Steel. During
the China-Japan war, Japanese troops began to occupy Daya Mine of China,
and it was owned by Nippon Steel. In the 1940s, Nippon steel entrained
a lot of Koreans.Koreans, Chinese and Allied POWs were taken away to Yahata
Works.
Yahata
Works is currently owned by Nippon Steel and Sumitomo Metals.
394 of Koreans
were entrained to Yahata Steel by June 1942 (Central Kyowakai "import
Korean laborer situation tone"), and 1471 people were entrained by January
1944, of which 760 of them fled (Fukuoka Prefecture, "Surveys Table of laborer
populate and workplace of labor mobilization plan"). The number had
increased.
Yahata
Steel entrained 921 people in 1942, 550 people in 1943, 1968 people in 1944 and
381 people in 1945. In total, 3820 people were entrained ("Survey on
Korean laborer" the summary table of Fukuoka prefecture, the Ministry of
Health and Welfare by the labor office). At the end of the war, 2788people stayed,
of which 2761people were requisitioned, based on the survey report of Yahata Works("Survey
on Korean laborer"). Looking at the deposit records of Nippon Steel in
Yahata, there is a roster of 3042 people (Nippon Steel, Labor Department,
"Korean laborer relation").
About
3800 people were entrained to the Yahata Works.
2785
people were entrained to the Yahata Works transportation contractors Mutual Aid
Association by June 1942 (Central Kyowakai "import Korean laborer
situation tone”). Then, the number seems to increase. We can estimate that more
than 2800 people were entrained in the transportation department of Yahata.
Under
such entrainment situation, in Yahata, 3800 or more Koreans have been taken to
steelworks, 2800 or more people to Yahata Works transportation contractors
Mutual Aid Association, and in total more than 6600 people had entrained.
However, only three names of the Korean deaths in Yahata Works are known. Rest
of them is unknown.
201 of the Chinese were entrained to Nittetu Yahata Harbor Transportation
in September 1944, and 20 of them died.
Allied POWs had been taken to POW camps of Yahata made in September 1942.
The total number of inmates at the end of the war was 1195 (US 616, Netherlands211、Britain193,
India 132, China 22 other 21). 158 people died in the camps.
Nippon Steel Kamaishi,etc.
The World
Heritage Site also contains Kamaishi mine and blast furnace remains of early
Meiji in Iwate prefecture. This iron mine and ironworks in Kamaishi, however,
also experienced forced labor in wartime.
470 Koreans
were entrained to Nittetsu Mining Kamaishi mine by June 1942 and 498 people were
sent to Nippon Steel Kamaishi as well (Central Kyowakai "import Korean
laborer situation tone"). Record of 690 people were confirmed on the roster
of Kamaishi ironworks (Nippon Steel Affairs Department, "Korean laborer
relation"). In total the number of entrained Koreans has estimated to be about
1500 in Kamaishi mine and Kamaishi ironworks, of which 18 people in Kamaishi
mine, and found 39 people in Kamaishi ironworks died, 13deaths were found in other
Kamaishi related fields.
197 and 91 Chinese people were entrained to Kamaishi mine in November 1944
and February 45 respectiveiy. The total entrained number is 288 people.
Of these, 123 people died (Ministry of Foreign Affairs "Chinese laborer
working circumstances Survey Report").
Allied POWs Hakodate camp was placed in November 1943 (later Tokyo POW
camp to Sendai POW camp), and POWs were forced to labor in Kamaishi Ironworks.
At the end of the war, 351 people (Netherlands168, Britain86, US78 other19)
were in the camp, number of deaths were 50 people (of which 34death were
US naval bombardment).
This Nippon
Steel was a state owned monopoly capital. A lot of Korean, Chinese and Allied
POWs were taken away and forced to labor.
Since Japan led such mobilization, words such as "forced labor did
not exist" make no sense. The responsibility of the government and
the companies are inevitable.
Mitsubishi Heavy Industries Nagasaki Shipyard
Mitsubishi
Heavy Industries was the largest munitions company responsible for shipbuilding
and aircraft production. The shipbuilding factory was in Nagasaki. The aircraft
torpedoes used in the Pearl Harbor attack were manufactured in Nagasaki and the
atomic bomb dropped on Nagasaki aimed at the factories of Mitsubishi. Therefore,
it is said that the War started from Nagasaki and ended at Nagasaki.
Recording the Korean forced entrainment to the Mitsubishi Heavy Industries
Nagasaki Shipyard, 3474 people were entrained in 1944 and 2501 people were
entrained in 1945. The total number is 5975 (the "Survey
on Korean laborer" Nagasaki Prefecture by the Ministry of Health and
Welfare Labor Bureau). Although there is no more in this report, we found
that there were entrained nearly 6,000.
Although it is a small number, there is a named list of Korean, such as
Fukuda dormitory of Nagasaki Shipyard.
Korean had
been entrained to Mitsubishi Nagasaki weapon Works, Mitsubishi Nagasaki
steelmaking, Mitsubishi Nagasaki Electric and the underground factory
construction of Mitsubishi related factories. For Mitsubishi Nagasaki
steelmaking, there is a roster of 143 people in "Survey on Korean
laborer".
If the number
of associated factory is included, the number of entrained people to the
Mitsubishi Nagasaki Shipyard is about 6000 people. It will increase.
The Koreans death, in the Mitsubishi Nagasaki Shipyard Works is 63, 4 in
the Nagasaki weapon. Furthermore, it seems that there were many Atomic
bomb deaths, but the number is unknown.
To the Mitsubishi Nagasaki Shipyard Works, the Allied prisoners of war
were also taken away. Fukuoka POW camp 14th branch office was opened in
April 1943. 300 people were taken away to Nagasaki in April 1943 and 212
people were taken away June 1944. The total is about 500. Some were moved
out to other places. 195 people (Netherlands152, Australia24, Britain19)
were housed at the end of the war. 113 people died (including atomic bomb
death of 8).
More than1500 people Allied POWs, 1000 in October 1942, 300 in December
1942, 200 in September 1944, were taken away to the Kawanami industrial
Koyagi shipyard, which was absorbed into Mitsubishi Nagasaki Shipyard after
the war. At the time of defeat, 497 people were imprisoned (Netherlands324,
Britain 160, US 5, other 8). 72 people had died.
In 1992, Kim Sungil trial was filed in the Nagasaki District Court,
he was claiming compensation for slave labor from the Japanese government
and Mitsubishi Heavy Industries. The Nagasaki District Court decision in
1997, certified the entrainment with illegal means and the forced labor
under house arrest by the government and Mitsubishi. However, although
the court also certified its responsibilities, Kim’s demand was rejected
because the old Mitsubishi Heavy Industries had been dissolved, and there
is no liability for the individual damage caused by the government under
the old Constitution.
Kim lost the case, but the existence of forced entrainment and forced labor
has been certified. The fact of the forced entrainment and forced labor
was also certified in the case of Mitsubishi Heavy Industries Nagoya, (Nagoya
High Court ruling in 2005).
Accordingly, wartime forced labor of the Koreans was certified legally.
As for Meiji Industrial Revolution heritage, the Japanese government it
was not“forced labor”. It should face the findings of the fact.
Mitsubishi Takashima coal mine (Takashima and Hashima)
With Mitsubishi Heavy Industries, Mitsubishi Mining is a major company
of the Mitsubishi Zaibatsu had mines in various places. In the wartime,
about 60,000 of Koreans were entrained.
The Mitsubishi Mining Takashima coal mine was in Nagasaki and the Mining
sites were in Takashima and Hashima (Gnkanjima). Both were coal mines under
the seabed. In Takashima many workers had lost their lives. In 1885, after
Mitsubishi started its business, more than 500 people were died of cholera.
In Kakise shaft of Takashima coal mine, gas explosion happened in 1906;
307 people died. Accidents had happened continuously under the Mitsubishi
management deaths of industrial and total number of victims exceeded 1000
people.
1110 of
the Koreans were entrained to the Takashima coal mine by June 1942 (Central
Kyowakai "import Korean laborer situation tone"). And the statistical
record from Coal Control Board indicates that 600 people had mobilized in 1943,
and more than 1100 people had mobilized in 1944.
1299
people are on the postwar dismissal roster of Takashima coal mine ("Survey
on Korean laborer" Nagasaki Prefecture by the Ministry of Health and
Welfare Labor Bureau). We can see that boys of 14 and 15 years old, had been taken
away from the list. Unpaid wages were known to be more than 220,000 yen.
From
these historical records, the entrainment number in Takashima coal mine
(Takashima and Hashima) was estimated to be about 4,000.
48 victims of Hashima are known from the documents of Takahama village
"Burial cremation permit certificate ".
Only two
names of Takashima are known. But it seems that about 50 people had died there.
Korean women had been taken away as "comfort women" to the coal
mine as well. In June 1937, Hashima, a Korean waitress (Shakufu) committed
suicide by taking poisonous cresol. She was 18 years old; born in 1919
(Burial cremation permit certificate). Shakufu was not only a cupbearer,
but also often forced prostitution.
In June 1944, 204 Chinese were forcibly entrained to Hashima and 205 Chinese
were sent to Takashima in July 1944. The number of deaths is 15 in Takashima
and 15 in Hashima.
Mitsubishi
Mining, currently, has been active in the name of Mitsubishi Materials.
Mitsui Miike coal mine
Mitsui
Mining was a center company of the Mitsui Zaibatsu, as well as Mitsubishi
Mining, the company had mines in various places. Many Koreans had been taken
away as well.
Miike
coal mine of Mitsui was the largest coal mine in Japan. 93 people were entrained
in 1940, 96 were in1941, 1834 people in 1942, 2889 people in 1943, 2466 people
in 1944 and 1886 people in1945. The entrainment total is 9264 people ("Survey
on Korean laborer" the summary table of Fukuoka Prefecture, the Ministry
of Health and Welfare).
Not all named
are available, but there is a roster of 1683 workers of Manda mine in Miike. And
it indicated that 20 times of collective entrainment were made from 1942 to 1945.
762 people escaped, 35 people died, 84 people deported or returned home, and 706
people were discharged after war.
In South Korea, those recruitments are called the Requisition or Forced
mobilization. This representation shows the actual situation of mobilization.
The Japanese government claims that the Recruitment Ordinance was applied
in1944, but forced mobilization had been carried out since 1939 by the
Labor Mobilization plan of Japan.
In
addition, the records List of Employees at Mitui Mining Company at Omuta of GHQ
・ LS, contains a roster of about 3,000 Koreans of Miike coal mine.
Koreans were
taken to the Mitui related business such as Electrochemical industry Omuta
factory and Miike dye Industries. To Electrochemical industry Omuta, 572 people
had been taken by January 1944 (" Surveys Table of laborer populate and workplace
of labor mobilization plan" Fukuoka Prefecture). To Miike dye, more than
130 people were entrained (Korean roster of Miike dye).
The
number of people who were entrained to Mitsui Miike coal mine is 9300 people. Combing
the number of entrainment to Miike coal industrial complex factory, more than
10,000 people were taken. 50 Koreans in the Miike coal mine, 4 in Electrochemical,
8 in Miike dye had died.
As for the
Chinese entrainment situation, 412 people were entrained in May 1944, 595
people in February 1945, 593 and 307 people in March, 1945 to the Manda mines 1907
in total, of which 694 people were transferred to the Yotsuyama mine in
February to March 1945.
To
Miyaura mine, 231 people entrained in May 1944, 343 people were entrained in
October1944, 574 in total. All in all entrained Chinese were 2481 people, nearly
2,500. 294 people died in Manda, 158 people died in Yotsuyama and 41 people died
in Miyaura.
The
Chinese memorial was constructed in 2013 at Miyaura, written the deaths total
of 635.
In 2005,
Chinese Survivors who were taken to Mitsui Miike and Mitsui Tagawa coal mine, started
a law suit demanding apology and compensation. The plaintiff RiuChien was taken
to Miyaura in Miike coal mine from Hebei Province, in the spring of 1944, he
was forced to labor in a violent circumstance. RiuChien’s right foot was hit by
the labor supervisor with an ax, and deformedly bound. The X-ray that was shown
in the trial was proved the history of the harsh forced labor.
Allied POWs Fukuoka camp 17th branch opened in August 1943. The prisoners
had been forced to labor in the Miike coal mine. At the end of the war,
1737 people were captured (US730, Australia420, Netherlands332, Britain250,
other5). 138 people died, of which one starved to death in a guardhouse,
one fled and stabbed to death.
Miike 25th branch opened in September 1944, the prisoners were forced to
labor in Electrochemical industry Omuta. 390 people were there in at the
time of defeat (UK 388, US 2). Four people died.
Mitsui Mining changed its name to Nippon Coke
& Engineering today.
Entrainment of Koreans more than 30,000 people, Chinese more than 3400 people,
more than 4,500 Allied POWs
As we
have seen, in the Meiji Industrial Revolution heritage sites, about 9300 Koreans
were entrained to Mitsui Miike coal mine, about 4000 to Mitsubishi Takashima
coal mine (Takashima and Hashima), about 6,000 to Mitsubishi Nagasaki Shipyard
Works, 3800 or more to Nippon Steel Yahata, more than 2800 people to Yahata
Works transportation contractors Mutual Aid Association. In addition, forced entrainment
was also seen in Miike dye, Electrochemical Omuta Works, Mitsubishi Nagasaki
weapons, Nagasaki steelmaking, and underground factory construction site of Mitsubishi
Nagasaki shipbuilding. About 1,500 had been entrained to Nippon Steel Kamaishi.
Overall, the number of entrained Korean people will be more than 30,000 people,
if we include the related business.
Of Korean, identified are, 50 people in the Mitsui Miike mine, 8 people
in Miike dye, 4 people in Electrochemical Omuta, about 50 people in Mitsubishi
Takashima mine(Hashima), about 70 people in the Mitsubishi Nagasaki shipbuilding,
and the about 70 in Kamaishi related business. Many of the death of Yahata
and Takashima mine, remains unknown. Many of them also died of Atomic bomb.
With the advanced investigation, we will know the number of Koreans deaths,
which is expected to be more than 300 people.
Korean
forced labor, also left a large number of unpaid wages. At least, about 6000
yen at Mitsui Miike smelter, about 80,000 yen at Mitsui Miike dye, about 80,000
yen in Electrochemical Omuta, about 300,000 yen in Yahata steel, about 860,000yen
in the Mitsubishi Nagasaki Shipyard, and about 220,000 yen in Mitsubishi
Takashima coal mine has been not paid.
About 2,500 Chinese, were sent to Mitsui Miike coal mine, and 400 to Mitsubishi
Takashima coal mine (Takashima and Hashima), about 200 people to Yahata
Harbor Transportation, totally 3100 people were entrained. about 500 people
died at Mitsui Miike. About 550 people died these three places. Furthermore,
Kamaishi mine had taken 288 people of whom, 123 people were died. Entrained
number exceed , 3400 people in total.
As for Allied
prisoners of war, about 1900 people to the Miike Coal Mine, about 400 people to
the Electrochemical Omuta, about 500 people to the Mitsubishi Nagasaki
shipbuilding and about 1350 people to Nippon Steel Yahata were entrained. The
deaths exceeded 400 people. If we add 400 people who had been taken to Kamaishi
ironworks, more than 4,500 had been forced labor. The deaths exceed 450 people.
4 Historical recognition of forced labor and its inheritance is required
The Industrial
revolution of Japan has been advanced with the war of Sino, Russia and the
World War. The Heavy industrialization (coal industry, steel industry,
shipbuilding industry) is an economic growth from the wars, and triggered the invasion
and occupation of Taiwan, Liaodong Peninsula, Korean Peninsula, and the colonial
rule. The maintenance and expansion of heavy industry expanded the war further.
The Japanese Industrial Revolution is strongly related to its colonialism and
war of Asia.
The subject
that the Japanese government proposed was limited to the Industrial Revolution,
in the Meiji period. Although international revolution developed in parallel
with invasion and colonialism, the government romanticizes the
industrialization and tries to make tourism resources, not facing the history. Who
would agree such movement if one has experienced their colonial rule? In such
point of view, one is not able to inherit proper history. If you see only a
narrow slice of history, the Meiji era from the 1850s to 1910, as the proposal,
the subsequent history will not be visible.
In the field of coal mining, steel and shipbuilding, a number of workers
lost their lives. Those coals and ores are the result of their sacrifices.
In order to understand the modernization and industrialization of Japan,
perspectives of workers and Asian society are essential. Without these
viewpoints, only nationalistic perspective, which beautifies the modernization
and industrialization, will make up a story lacks remorse and pain.
It was the Prime Minister’s office,not the Agency for Cultural Affairs,
that handled the registration procedure. The Abe administration has been
influenced by the ideology of NipponKaigi (Japan conference). NipponKaigi
has justified the past wars and the domination of Korea. In the framework
of the application of Meiji Industrial Revolution heritage, the idea of
historical revisionism is reflected. Not the story of nationalist leader
from Shoin Yoshida to Hirobumi Ito, but the story of workers, the Korean
and Chinese people, and the victims should be inherited.
The
development of capitals in the steel, coal and shipbuilding industries has been
along with bad working environment, and the expansion of war begat the forced
labor of Koreans, Chinese and Allied POWs. After the war, these places
represented the unity of workers, miserable work-related accidents also
occurred. Only to prize the formation of industry does not mean to inherit the
history. Needless to say, these industrial ruins should not be used to whip up nationalism.
In the
1990s, survivors of South Korea and China stood up to demand compensation and
apology. Mitsui and Mitsubishi accused as the major companies which had led
such forced labor. Nippon Steel & Sumitomo Metals (Nippon Steel) is same too.
However, the Japanese government did not carry out enough investigations and kept
claiming that it already resolved the issue.
The
dispute continues in South Korea, and the defendant is Mitsubishi Heavy
Industries, or Nippon Steel & Sumitomo Metal. The Korean judiciary admitted
the individual rights of compensation.
There are
also graves of unknown prisoners in Miike. There are tombs of unknown workers
in Takashima coal mine. Dead name remains unknown. Likewise in coal and steel
production, a lot of people in the field of shipbuilding died. The Meiji
industrial heritage is what to tell of the presence of these people.
The ruins
that were made in Meiji era, some of also there were running when the forced
labor were carried out. Industrial ruins saw forced labor and war. Miike and
Takashima coal mine, factory of Yahata and Nagasaki shipbuilding are something
to talk about history of working and forced labor. We should talk pain and
sorrow that the Koreans and Chinese experienced.
In Miike
and Nagasaki, there are memorial of the Korean and Chinese. Those activities of
mourning by local people should be talk.
Telling the
history of the slave trade, colonization and forced labor, will lead to
universal historical recognition.
70 years
after the war, denial of forced labor has led to movement to distort the story
of colonial rule and aggression. Government, Mitsubishi, Mitsui, Nippon Steel&
Sumitomo Metals should admit the fact of forced labor and talk the historical
fact of the industrial ruins. Then, towards the solution of wartime forced
labor issues, they should actively involve to affairs such as establishment of compensation
fund.
In July 2015, Mitsubishi Materials Corp apologized to forced labor of Allied
POWs in the United States. It was the first case of those companies. Apology,
to the Koreans and Chinese and individual compensation is expected.
On the monument of Kubo Kiyoshi (killed in 1960 by a terrorist group) ,the
resolution to inherit his aspiration in written. It is the decision to
achieve the true liberation of the workers. Next to the monument, "Dedicated
to comrades Kubo Kiyosi" is standing.
This poem
contains the meaning of resistance against the rationalization of the history
of the Meiji industrial heritage.
On the coming day that history is written correctly on the
coming days
They will say that we went to the right way
They will
say that we lived beautifully
Although our shoulders are twisted in labor fingers are gnarled in
poor
They will
say that our the eyes were straight and beautiful
They will
say that our eyes stared straight of the beautiful future
They will
say Japanese workers were in strong anger and a lot of blood was shed in Miike