朝鮮人強制連行の調査 ―植民地責任の現在
はじめに
「朝鮮人強制連行の調査−植民地責任の現在」という題で、強制連行数、強制労働の状態、強制連行裁判の経過、今後の課題について話します。
最近の歴史認識をめぐる動きを示すものとして、きょうの新聞(2015年8月7日)に、安倍首相が私的諮問機関としておいた「21世紀構想懇談会」の報告書が掲載されています。ここでは、侵略と植民地支配については認めていますが、侵略を満州事変以後としていること、本文の最初の方に台湾の植民地支配の記載はあっても、朝鮮の記載がないこと、日露戦争を植民地の人を勇気づけたと評価し、朝鮮の植民地化についてはふれていないこと、後半で、韓国の植民地統治が1930年代後半から過酷化したと記していますが、その統治の内容は記していないこと、韓国政府が歴史認識問題のゴールポストを動かしたとし、韓国での植民地支配に対する清算が不十分であることの認識がないなどの問題があります。
一般論として、帝国主義や植民地支配について言及しても、それが日本自身の問題であるという認識が乏しく、自己批判のないまま、他者に対して、和解を求めています。国策として日本がアジア解放のために戦ったとする主張は正確ではないとしていますが、それは米英に対して歴史認識を示すものであり、アジアに対する日本の戦争と植民地支配への反省を示すものではないとみます。
このような報告書ですが、安倍首相は侵略や植民地支配自体を認めたくないわけですから、私的諮問機関がこのような安倍の認識には反する報告書を出したわけです。
さて問題は戦時の強制労働です。明治産業革命遺産問題での日本政府の発言にみられるように、政府はいまも朝鮮半島での強制労働を認めようとしていません。
1.朝鮮人強制連行 労務動員数
日本はアジア太平洋各地へと戦争を拡大しましたが、不足する労働力を植民地、占領地を含む各地からの戦時動員によって充足させようとしました。朝鮮人の強制連行・強制労働はその一環であり、日本への戦時労務動員だけで80万人ほどになりました。連合軍俘虜や中国人も動員しました。アジア各地で現地の住民も動員されています。
戦時の日本への朝鮮人の労務動員は1939年からおこなわれました。国民徴用令を当初は適用しませんでしたが、実態としては徴用による動員です。
労務動員は、はじめは「募集」、1942年に入ると「官斡旋」、1944年9月からは「徴用」によってなされました。募集といっても、企業は行政に人員募集の計画を出して政府の承認を受け、朝鮮総督府の了解のもとで募集し、連行するというものです。逃走すると警察に手配書が出され、発見されれば逮捕されたのです。さらに朝鮮総督府による斡旋を強める形で動員をすすめますが、1944年になって30万人を超える動員計画が立てられるなかで、徴用を適用し、強制力をいっそう強めた動員をおこなったというわけです。
韓国ではこのような労務動員を「徴用」、「強制動員」と呼んでいますが、それは実態を示す表現であり、妥当です。日本政府による、徴用は1944年からであり、徴用による動員数は少ないとする表現の方に問題があります。
豊島陞メモ
豊島陞という朝鮮総督府鉱工局の勤労動員課長だった人が、日韓会談がすすむ1961年に外務省に提出したメモが残されています。このメモから1942年から45年までの、各月の日本への動員数、年度ごとの朝鮮の道からの動員数などがわかります。
このメモでは、1942年度に11万9721人、1943年度に12万8296人、1944年度に28万5682人、1945年度に1万622人を動員したとしています。月ごとの動員数もわかり、各月1万人前後が動員されていますが、44年に入って徴用を適用することで、ひと月で3万人を超える動員がなされるなど、3〜4か月で10万人を超える動員がなされたことがわかります。
このメモから1942年度の動員状況をみれば、1943年6月に至るまで動員がなされたことが記されています。これは割当による動員が翌年6月まで、執拗になされたことを示すものです。43年6月の動員は、42年度分の残数と43年度分の新たな割当による動員を加える形でおこなわれたのです。
「労務動員関係朝鮮人移住状況調」
このように連行された朝鮮人が、各都道府県にどれくらい送られたのかを示す統計表があります。それが『種村氏警察参考資料第110集』にある「労務動員関係朝鮮人移住状況調」(1943年末現在)です。種村一男という内務省の理事官の手元に残されていた史料が冊子にまとめられているのですが、この表は内鮮警察関係資料のなかにありました。この表から1939年から1943年末までに49万人を超える人々が日本に連行されたことを知ることができます。この表からは、この時点で北海道に12万人、福岡に15万人、長崎に3万人を超える人々が連行されていたことなども知ることができます。
また、1944年度の各県への29万人の動員予定を示す「昭和19年度新規移入朝鮮人労務者事業場別数調」という表もありました。さきほどあげた豊島メモからは1944年・45年の動員数が30万人近かったことがわかります。この種村資料の1939年から43年末までの動員実績約50万人に、この30万人を合わせれば、動員数は約80万人となります。
この種村資料には縁故募集者も含まれていますが、労務動員の一環として縁故募集がおこなわれ、かれらも監視の対象とされていたのです。
このように、1939年から45年までの間の日本への労務動員数を約80万人とすることができるのです。
2 朝鮮人強制連行・軍人軍属での動員 消された氏名不明の13万人
軍人軍属数
つぎに軍務への朝鮮人の動員状況についてみてみましょう。日本は朝鮮半島から軍人や軍属として朝鮮人を動員しました。この動員も朝鮮人の強制連行・強制労働としてみています。
厚生省「朝鮮在籍旧陸海軍軍人軍属出身地別統計表」
この動員数について、日韓会談がすすめられるなか、厚生省援護課は1962年2月に「朝鮮在籍旧陸海軍軍人軍属出身地別統計表」、「朝鮮在籍旧陸軍軍人軍属の所属部隊所在地域別統計表」などを示し、陸軍14万3373人、海軍9万8968人の計24万2341人の数値を出しています。
しかしこの統計には、約13万人が欠落しています。実際の動員数は少なくとも、陸軍で25万7000人、海軍で12万人であり、計37万人を超えます。どのようにして約13万人(陸軍約11万4000人、海軍約2万人)が削除されたのかを、以下でみます。
陸軍「朝鮮人人員表(地域別)分類表」
朝鮮人の軍人軍属の動員状況を示す史料には別に、陸軍については「朝鮮人人員表(地域別)分類表」、海軍については、「終戦後朝鮮人海軍軍人軍属復員事務状況」があります。海軍分の史料は、引揚援護庁復員局の資料をもとに入国管理局総務課が1953年5月28日に作成したものであり、陸軍分も同時期に同様に作成されたものとみられます。
陸軍分の「朝鮮人人員表(地域別)分類表」をみると、動員数を25万7404人(軍人18万6980人、軍属7万424人)としています。表には名簿内と名簿外という分類があり、名簿内が14万4601人、名簿外は11万2803人です。動員先の内訳は、内地約6万1000人、朝鮮約9万人、満州約5万7000人、中国2万1000人、南方1万4000人ほかとなります。
厚生省資料の数値では、陸軍分の動員数を14万3373人(軍人9万4978人、軍属4万8395人)とし、地域的には、内地約1万8000人、朝鮮約6万6000人、満州約1万5000人、中国約2万1000人、南方約1万4000人ほかとしています。
この2つの統計を比較すると、内地、朝鮮、満州での動員数に大きな差があること、その差11万人余りは名簿外の数によるものであること、名簿内の数はほぼ一致することなどがわかります。
「附表兵団別鮮台人調査表」での部隊原簿と留守名簿の数
満州地域での集計の状態についてみてみましょう。
満州への動員状況をみれば、「朝鮮人人員表(地域別)分類表」では、軍人は名簿内7299人、名簿外4万943人、軍属は名簿内6234人、名簿外2515人であり、合計で名簿内1万3533人、名簿外4万3458人の計5万6991人です。
この合計数での名簿内外の意味は、部隊関係の資料からは計5万6991人分の動員状況がわかるが、留守名簿などの名簿では1万3533人が確認できる。しかし、部隊資料にある残りの4万3458人は名簿がないため、氏名を確認できないということです。
復員業務を担っていた留守業務部の資料『昭和23.10統計に関する綴』に「附表兵団別鮮台人調査表」(1949年4月20日)という表があります(防衛省防衛研究所蔵)。この表には、満州に展開していた第3方面軍や第4軍の朝鮮人数が集約されていますが、部隊原簿と留守名簿の2つに分けて記されています。
表からは、第4軍の独立混成第80旅団では、部隊原簿では1130人、留守名簿では3人、第3方面軍直轄の独立混成第134旅団では、部隊原簿では325人、留守名簿では0人です。このように部隊資料から1000人を超える朝鮮人兵の動員を知ることができても、留守名簿などの名簿史料がない、あるいは記載人数が少ないという状況があったのです。
『編成定員開戦時総人員鮮台沖等の検討』満州全般63000強
防衛省防衛研究所図書館で満州・終戦時の日ソ戦関係の史料を探したところ、『編成定員開戦時総人員鮮台沖等の検討』という史料がありました。この史料は戦後の留守業務部による関東軍直轄部隊などに関する集計ですが、部隊原簿などの部隊資料と留守名簿・仮名簿・復七名簿などの名簿からの集計値に、大きな差がでていることがわかります。この史料には、関東軍第1・第2勤務隊では部隊原簿も留守名簿もないこと、鉄道第20連隊では部隊原簿には1434人とあるが、留守名簿はないことなどを記したメモもありました。また、「満州全般鮮人63000強」とも記されていました。担当者は集計しながら、満州に動員された朝鮮人が6万を超えるとみていたのです。
このような集計史料から、「朝鮮人人員表(地域別)分類表」の満州約5万7000人が、部隊原簿と留守名簿による確認数であることがわかります。部隊原簿や留守名簿にも記されていない朝鮮人を入れれば、軍への朝鮮人動員数は6万3000人を超えるという推定もあったのです。
内地についてみれば、「朝鮮人人員表(地域別)分類表」では約6万1000人ですが、厚生省援護課「朝鮮在籍旧陸軍軍人軍属の所属部隊所在地域別統計表」では約1万8000人とされています。
この内地での動員数については、戦後の調査「本土配備部隊行動概況表」から、判明分ですが、北海道・北方の第5方面軍関連で7000人以上、関東の第12方面軍・東部軍関連で約1万7000人、九州地域の第16方面軍・西部軍関連で1万9000人の朝鮮人が動員されていたことがわかります。この数字から、内地の軍に動員された朝鮮人が6万人以上存在したことは確実です。しかし、厚生省援護局は1962年に留守名簿などからの確認分の数値を示したのです。
このようにして11万人以上の陸軍朝鮮人軍人軍属の存在は消されたのです。その生死の状況についても、戦後の留守業務部の調査では不明とされています。日本政府の作成した朝鮮人の死者名簿に入れられていない者も多いことになります。
「もと朝鮮籍の旧海軍軍人軍属員数表」での氏名不詳者数
海軍の「終戦後朝鮮人海軍軍人軍属復員事務状況」では軍人軍属を10万6782人としています。この表の原注には、死没者中には終戦前に公報されたものは含まれないとしています。その欠落分を加えると、海軍への動員総数は11万2322人となります。朝鮮人の海軍軍人軍属数は11万人を超えることになります。
1962年に出された厚生省援護課「朝鮮在籍旧陸海軍軍人軍属出身地別統計表」では海軍の数を9万8968人としています。この表と同時期の史料に「もと朝鮮籍の旧海軍軍人軍属員数表」(1962年1月16日)があります。この史料では、呉復員局の1958年4月1日調を根拠とし、海軍の朝鮮人軍人軍属数を11万3712人とし、氏名不詳を1万4744人としています。この11万3712人から氏名不詳者数を引いた数が、厚生省の「朝鮮在籍旧陸海軍軍人軍属出身地別統計表」の海軍軍人軍属数9万8968人と一致します。
この比較から、厚生省は海軍についても、氏名不明者を除いた数値を公表したと判断できます。
厚生省の集計は、主に陸軍は留守名簿などの名簿、海軍は復員個票からの集計によるものです。公表数値には、氏名不明の約13万人(陸軍約11万4000人、海軍約2万人)が欠落しています。判明分ですが、動員数は陸軍で約25万7000人、海軍で約12万人となり、37万人を超えるのです。陸軍の部隊原簿や海軍の個票に含まれていない動員者もいたとみられますから、朝鮮人軍人軍属数を40万人とする数は、誇張ではありません。
このように、日本などへの労務動員で約80万人、軍務による動員で37万人以上となり、その合計では117万人以上となります。ここではふれていませんが、朝鮮内での労務動員数はこの数倍になります。
このような動員が植民地化での皇国臣民化政策と総動員体制のなかでおこなわれたのです。このような日本による戦時の植民地下での動員に対し、強制性の歴史認識を持つことが大切なのです。強制連行とは甘言と暴力によるものです。物理的な力を加えることなく、内面を操作し、動員していく体制がつくられていたことを理解することも大切です。
3.朝鮮人強制労働 連行・抵抗・記憶
ではつぎに、強制連行・強制労働の具体的な事例として、三井鉱山の三池炭鉱についてみてみましょう。
三井三池炭鉱については、戦後に厚生省勤労局が調査した「朝鮮人労務者に関する調査」の福岡県分の統計に年度ごとの連行状況を示すメモがあり、三井三池の万田坑については朝鮮人の名簿が残されています。
三井鉱山は三菱鉱業とともに多くの朝鮮人を動員しました。その動員数はそれぞれ6万人ほどになるとみられます。三井の三池炭鉱は日本で最大規模の炭鉱でしたが、三井は福岡では他に三井田川、三井山野といった大きな炭鉱を持っていました。
三井三池炭鉱へは1942年に入ると連行者数が増加し、42年には1834人、43年には2889人、44年には2466人、45年には1886人が連行され、連行総数は9264人となります。麻生や貝島といった筑豊の地元資本にも1万人規模の連行がありました。
三井三池の万田坑については名簿から年月日ごとの集団的な連行状況を示す表を作成できます。
集団的な動員により、100人規模で、忠清道の牙山、忠州、保寧、広州、大徳、黄海道の黄州、京畿道の驪州、水原、龍仁、平沢、江原道の蔚珍、慶尚道の宜寧、晋陽、全羅道の海南などから、次々に連行されたことがわかるのです。また、逃走率も高く、1683人中、762人が逃亡するなど、半数近くが姿を消しています。
三井三池への連行者の証言からは、甘言などにより、100規模で連行されたこと、暴力的な管理によって殴打され、事故も多発したことがわかります。
連行された人々による抵抗もおきています。
1943年には、事務所襲撃事件や作業環境の変更要求行動などが記録されています。このようにさまざまな抵抗があったのです。
死者については50人ほどが明らかになっています。死因は、落盤、炭壁崩壊、骨盤骨折、脊椎骨折、空襲死などです。創氏名のままであり、本名が不明の人も多いのです。
このような死者を追悼する碑が甘木公園の「徴用犠牲者追悼碑」です。この碑は解放50年にあたる95年3月に建てられています。碑には、朝鮮半島から徴用され過酷な労働によって不帰となった人々を追悼する旨が日本語と韓国語で記され、横に馬渡の朝鮮人収容所に残されていた落書きを刻んだ碑もあります。
この三池炭鉱は明治産業革命遺産として世界遺産になりました。この登録は官邸主導によるものであり、明治の産業化・近代化を賛美する内容です。戦時の強制労働問題にはふれず、過去を合理化するものです。日本政府は朝鮮人を徴用により働かせたことはあるが、国際条約での強制労働にはあたらないといっています。
戦後、三池では三池争議があり、そこで久保清さんが殺されました。彼を追悼する碑には、歴史が正しく書かれる やがてくる日に 私たちは正しい道を進んだといわれようとあります。しかし現実には、このような思いに反するような行為が続いています。
4.朝鮮人強制連行 裁判の切り拓いた地平
さて次に、強制連行をめぐる裁判について話します。これまでの裁判での争点を、三菱重工長崎造船所と三菱名古屋航空機の事例からみてみましょう。
金順吉裁判(三菱重工業長崎造船所)
金順吉さんは釜山の海雲台の出身です。金さんは、水田を8000坪ほど所有する農家の長男であり、旧制中学を卒業し、生薬の統制組合の書記の仕事していました。44年12月末に徴用令を示され、45年1月に徴用されています。金さんは三菱長崎造船の裏手にある平戸小屋寮に連行され、造船工作部輔工係の水上遊撃班員とされ、鉄材を木船に積み、各船台に舟艇で引いて運ぶという仕事をさせられました。
2月末には1・2月分の給与明細を受けましたが、その内訳は、賃金87円27銭、加給金7円99銭、精勤手当4円35銭、家族手当15円、皆勤賞与1円71銭であり、そこから、国民貯蓄71円28銭、退職積立金3円85銭、健康保険1円5銭、立替金1円、下宿寮費8円80銭、国体会費34円などが引かれ、現金は渡されませんでした。3月には、半島応徴工赴任手当21円50銭、日当1円50銭を支給されましたが、支給金の全額23円は国民貯蓄とされ、手渡されなかったのです。4月以後、6月に中元賞与20円(預金6円・税金3円60円)、7月に国民貯蓄20円の払い下げを受けた以外は、賃金を受け取っていません。
金順吉さんは8月9日、太田尾付近でトンネル工作用鉄材の運搬作業中に被爆しました。金さんは生きて帰ろうと決意し、8月12日に同胞数人と長崎を脱出し、8月19日に釜山の岸壁に到着しています。
金さんは、1992年に長崎地裁に提訴しました。長崎地裁判決は1997年12月にだされ、国と三菱による違法な手段での連行と半ば軟禁状態での労働の強制を認定しましたが、請求は棄却しました。裁判所は、三菱と国による不法行為と責任は認定したのですが、別会社論と国家無答責論を採用して、未払い金の支払いと賠償の責任を免じたのです。
金順吉さんは控訴しましたが、98年2月に肺がんのために釜山で亡くなりました。遺族が裁判を継承しましたが、99年10月、福岡高裁は一審判決を支持して、控訴を棄却。遺族は最高裁に上告しましたが、最高裁は2003年3月に上告を棄却しました。
裁判所は、強制労働とその責任は認定しましたが、別会社や国家無答責などを持ちだし、棄却したのです。戦後補償裁判では、政府は最終的に65年の日韓請求権協定で解決済みを主張するようになりました。
三菱重工業名古屋航空機・朝鮮人女子勤労挺身隊訴訟
三菱名古屋の元朝鮮人女子勤労挺身隊員は1999年3月に名古屋地裁に提訴しました。2005年2月、地裁は日韓請求権協定を理由に原告の請求を棄却しました。07年、名古屋高裁は控訴を棄却し、08年には最高裁が上告を棄却、高裁判決が確定しました。
名古屋高裁判決では、請求は棄却したものの三菱の不法行為の責任を認め、それが未解決であるとしました。また、少女たちを欺罔や脅迫で挺身隊に志願させたことを強制連行とし、そこでの労働を、志願の経緯、年齢に比しての労働の過酷さ、貧しい食事、外出や手紙の制限、給料の未払いなどから、強制労働と認定しました。戦後、元隊員が軍「慰安婦」と混同される被害を受けたことも認めたのです。さらにこの労働が、強制労働に関する条約に違反するものであるとし、国家無答責論や別会社論を退け、三菱には旧会社と継続性があり、不法行為責任を負う余地があるとしたのです。この判決を受け、支援団体は三菱本社前での金曜行動をおこない、解決を求め続けました。
反人道的不法行為と植民地支配と直結する不法行為に対する損害賠償請求権
韓国では2012年5月24日、韓国大法院が三菱広島、日鉄の韓国での判決の差し戻しを決定しました。
その決定では、日本の国家権力が関与した反人道的不法行為や植民地支配と直結する不法行為に対する損害賠償請求権は請求権協定の適用対象には含まれなかった、個人の賠償請求権は消滅していない、その被害に対する責任は日本政府と企業にあるというのです。
この決定を受け、同年10月三菱名古屋の被害者は韓国光州で提訴しました。2013年11月に地方法院で原告が勝訴、2015年6月には光州の高等法院でも勝訴しました。
地方法院の判決から原告勝訴の内容をみてみましょう。
三菱の不法行為については、強制労働を日本が32年に批准した強制労働条約に反するものとし、強制連行・強制労働は日本政府による朝鮮半島に対する不法な植民地支配と侵略戦争に参加させるものであり、反人道的不法行為にあたるとしました。さらに東南海地震では救護措置がとられず、安全配慮義務を放棄するという不法行為があったとし、賠償責任を認めました。
日本の判決の既判力については、日本判決には、植民地支配を合法的とし、日本帝国主義の国家総動員法、国民徴用令、女子勤労挺身隊令を原告らに適用することを有効と評価した部分が含まれている。それは、侵略戦争遂行のための日帝強制占領期の強制動員を不法とみる大韓民国憲法の核心的価値と正面から衝突するものであり、中日戦争と太平洋戦争を国際法から容認できない侵略戦争であったとする国際社会の価値認識にも反するものであり、判決の効力は認められないとしました。
三菱の別会社論に対しては、日本での戦後処理のための特別な国内法を理由に旧三菱の韓国国民への債務を免じることは、韓国の公序良俗に照らして容認できない。旧三菱重工業と被告の三菱重工業はその実質において同一性を保持しているから、原告らは旧三菱に対する請求権を被告に対して行使できるとしました。
三菱の消滅時効の主張については、信義誠実の原則に反するものであり、権利濫用であって認められないとしました。
請求権協定による請求権の消滅論に対しては、請求権協定では、韓日両政府は植民地支配の性格に対して合意に至らず、このような状況で、日本の国家権力が関与した反人道的不法行為や植民地支配に直結する不法行為に対する損害賠償請求権が、請求権協定の適用対象に含まれたとみるのは難しい。請求権協定で個人請求権が消滅しなかったのはもちろんのこと、韓国の外交保護権も放棄されなかったとみるのが相当としました。
賠償額の算定にあたっては、13・14歳の女性であり、強制労働条約に反すること、その期間が1年5か月に及んだこと、進学や賃金で欺罔し、家族に危害を加えると脅し、強制連行したこと、家族と離別し、保護を受ける機会を奪い、教育や職業選択の機会を剥奪し、強制労働させたこと、賃金の支給もなく、食事も粗末で、手紙を制限し、検閲したこと、地震で亡くなる者や工場で指を切断した者もいたこと、戦後は「慰安婦」と混同され、正常な結婚生活が営めなかったこと、戦後、世界各国が戦争による強制労働被害者への賠償のために努力してきたのに日本は責任を否定したことなどをあげています。
このような判決は、人間の尊厳は不可侵であり、侵された尊厳については回復する、戦争被害者の賠償請求権を認めるという国際的な流れのなかに位置するものです。日本政府のいうような、請求権協定で解決済みの主張が、通用する時代ではなくなっているのです。
今年に入り、三菱マテリアル(旧三菱鉱業)が連合軍捕虜にアメリカで直接謝罪し、中国人強制労働者に対しては和解の動きをすすめているのは、このような流れを企業自身が受け止めているからです。朝鮮人の強制労働に対しても、国と企業による謝罪と賠償が求められるのです。
おわりに
この朝鮮人強制労働問題については、強制性についての歴史認識と連行の責任、政府による歴史調査と歴史史料の公開、強制労働被害者救済のための立法、植民地責任を問う市民の側からの調査などが課題であると考えています。
1905年保護条約と1910年併合条約による植民地支配が、日本による朝鮮での植民地戦争の結果であり、その支配の不法性を認識することが求められます。また、植民地支配が詐欺と暴力によるものであり、戦時の皇国臣民化政策による植民地民衆の奴隷化と労務・軍務での動員の強制性について理解し、認識すべきと考えます。植民地支配の強制性と動員・連行の強制性への歴史認識が大切ですし、その認識によって、国家責任と企業責任が明確になります。
また、日本政府がこの問題に関する史料を公開し、その歴史の調査をおこない、報告書を出すことが求められます。歴史を歪曲しようとする動きを否定できる史料は日本政府内に保管されています。労務・軍務関係名簿、厚生年金や供託の名簿などは公開すべきものです。
さらに、政府が主導し、連行企業が参加する強制労働賠償基金を日本で設立することが求められます。それをもって韓国での被害者救済にむけての財団と共同すべきです。企業は、その歴史的な責任を果たすことで、社会的な信頼をえることができます。
強制連行の全体像を明らかにするための、市民の側からの研究・調査も求められます。連行数・連行先の把握、朝鮮内外での動員状況の解明、東アジア・東南アジアでの民衆動員の実態把握、企業・行政資料の発掘、労務連行者名簿の調査、軍人軍属関係名簿の分析・整理、抵抗の歴史の発掘、死亡者・遺骨の調査・返還、証言の歴史資料としての整理、強制労働関係史料の収集と出版なども課題です。
この問題解決に向けて現地での活動をすすめることは、強制労働の現場を国際的な友好と平和の場とする活動です。それは、過去の清算の活動を地域で担い、歴史認識を高め、記憶を継承し、歴史を自らのものとし、地域から国際的な連帯をつくりあげていくことです。各地に残る朝鮮人遺骨の調査と返還にむけての行動をすすめることは、戦争責任、植民地責任をとることにもつながります。
安倍政権は、侵略戦争と植民地支配の認識を否定する動きを強めています。戦時の強制労働を認めようとしません。明治の産業化・近代化を賛美し、観光資源化することをすすめていますが、そこにあった受刑者や朝鮮人などの強制労働から多くの労働災害に至る労働者の歴史を記憶、継承しようとはしません。また、自国のナショナリズムを煽るような教科書の採択もすすめられています。しかしこのような動きは、共感性・社会性・国際性を欠くものです。
21世紀構想懇談会の報告では、韓国政府が歴史認識問題のゴールポストを動かしたと記述していますが、そうではありません。日本政府は、植民地支配を合法とし、強制労働を否認してきたわけですから、日本の側がゴールポストを隠してきたのです。いま、ゴールポストがみえてきたとすべきです。植民地主義を克服するという立場から、事実を認めて、謝罪し賠償することで、和解がはじまります。
植民地責任を自覚し、民衆運動として過去の清算をすすめること、命を大切にし、そのために平和的な関係をつくり、歴史認識を深めて、人間の方向性を探すという営みが、求められていると思います。
この間、『戦時朝鮮人強制労働調査資料集』1・2で、動員先一覧表、死亡者表、動員名簿、未払い金について明らかにし、『調査・朝鮮人強制労働』@〜Cで、石炭、鉱山、財閥、発電工事、軍事基地工事、軍需工場、港湾などでの強制労働に実態についてまとめました。読んでいただければ幸いです。
(2015年8月7日京都での講演に加筆 竹内)