「いまから、ここから」人権平和・浜松の経過        

人権平和・浜松ができた経過などを書きます。

1988年の秋、わたしが30代はじめの頃ですが、天皇が病気だからと運動会などを自粛する動きがありました。その際、天皇の戦争責任について問われ、その責任を認めた長崎市長が1991年になって銃撃されるという事件が起きました。さらに、天皇は国民を思う平和主義者であったと宣伝されました。

わたしはこのような天皇制の賛美と歴史の偽造はまちがいだと思いました。天皇代替りの際のできごとは、民主主義と戦争責任の問題、人間の方向性を問うものでした。天皇制を考える会・浜松ができ、天皇制について考えました。

そうこうしているうちに、航空自衛隊浜松基地にAWACS(エーワックス・空中警戒管制機)が配備されるとのことから、1994年に反対運動がはじまりました。このAWACS配備はグローバルな戦争にむけてのものでした。その後、イラク戦争により浜松基地からも派兵がなされ、「ミサイル防衛」のPAC3(パックスリー)も配備されました。

また、2003年には静岡で国民体育大会があり、天皇が浜松に来たのですが、まるで国王を守るような警備がなされました。「天皇皇后陛下万歳」の提灯行列や浜松基地の自衛官の「と列」もおこなわれました。2004年には、浜名湖花博で昭和天皇自然館がつくられ、ヒロヒトは自然を愛した平和主義者と宣伝されました。

天皇制の存在が歴史を偽造し、人権を侵すものであること実感しました。このなかで、2004年に人権平和・浜松ができました。人権という語が平和の語の先にあるのは、人間の尊厳の確立が平和の前提であるという思いからです。

2011年の福島原発震災は、天皇代替わり以上に、この国の問題点を示すものでした。過去の戦争責任と非民主を克服できない翼賛体質が、原発事故への無責任、放射能被曝の隠蔽、安全宣伝による帰還の推進となっています。さらに2015年の安保法(戦争法)では、ニュースピークが弄され、まともな議論はされず、平和主義、立憲主義、民主主義が無視され、委員会では強行採決がなされました。わたしは50代の後半になりましたが、まちがっているという思いは強まるばかりです。

反戦争法の運動をふまえ、人権と平和にむけての表現は、いまから、ここからだと思います。人権とは王権が壊れることによって一人ひとりが光り輝くことです。その人権の光は弱いものであっても、その光を合わせれば、戦争も原発も王制もなくなっていくものと思います。そのような思いでこの9月、「いまから、ここから」という歌を作りました。                 (竹)