8・15平和のつどい・浜松
2016年8月15日、浜松・憲法9条の会の主催で、平和のつどい・浜松がもたれ、350人が参加した。集会では木村章太さん(首都大学)が「安保法制に歯止めを」の題で講演した。
木村さんはつぎのように話した。
憲法9条を国際法の原則からみれば、国連憲章第2条4項で武力不行使原則が記され、例外措置として、集団安全保障措置と集団的自衛権行使がある。第9条の武力の不行使は国際的なものであるが、政府は第9条にはその例外があるとし、憲法13条の国民の生命等の保護義務を使って、集団的自衛権の行使を法制化しようとした。しかし、日本国憲法に他国の防衛を認める条文はなく、集団的自衛権の行使や国連軍参加は憲法違反である。
憲法の原則からみれば、憲法65条・75条には内閣の権限として行政権・外交権が示されているが、9条があるため、集団的自衛権・国連軍の参加にかかわる軍事権は含まれない。憲法は軍事権の権限を政府に付託していない。内閣に集団的自衛権行使の権限はない。
安保法制では@在外邦人の保護に輸送から警護と救出が加わる、A平時での米軍等との協力で外国軍の武器等防護ができる(米軍協力の拡大)、BPKOでの自己保存から任務遂行型の住民警護・駆け付け警護ができるようになる、C外国軍の後方支援では重要影響事態や国際平和対処事態なら特措法なしで後方支援ができるようになり、それが現に戦闘がなされていない地域で、弾薬提供や戦闘行為への給油が解禁された、D防衛出動の要件として武力攻撃事態に加えて、存立危機事態での防衛出動がなされるようになった。
@からBが武器の使用の拡大であり、Cが外国の武力行使への間接的支援であり、Dが集団的自衛権行使にあたる。日本はイラク戦争の反省ができず、外務省の報告は4ページだけである。
安保法制には、自衛隊法95条の2による武器等の防護が武力行使につながるおそれ、在外邦人救出・住民警護・駆け付け警護での自江隊員の安全保持、現に戦闘がおこなわれていない地域での後方支援の安全性、弾薬提供、戦闘機給油による武力行使との一体化、事前承認・活動監視・事後検証の仕組みの不十分性、存立危機事態による集団的自衛権行使の違憲性など、多くの問題点がある。
改憲勢力は3分の2を占めたが、世論は国防軍創設、集団的自衛権行使、9条改正には反対が多い。個別低自衛権を明記すれば、集団的自衛権が違憲となり、集団的自衛権や国防軍を記した改憲は厳しい状況である。
木村さんは以上のように話した。「戦争法」というとらえ方には批判的であったが、集団的自衛権行使が違憲であるという視点は明確だった。
集会後、浜松駅前の空襲で生き残ったプラタナスの木の前で平和集会をもち、市内をコールして歩いた。
市民の木前での集会では、弁護士9条の会、2・11集会実行委、牧師、憲法を守る会、原発反対金曜アクション、遠州連帯ユニオン、西部地区労連、ママの会のメンバーなどが戦争法反対を訴え、金曜アクションバンドのメンバーがチャントや反戦、天皇制批判、沖縄などの歌を歌った。デモでは戦争させない、9条壊すな、だれの子どもの殺させない、市民は団結・野党は共闘、政治を変えよう、社会を変えようなどと呼びかけて歩いた。
集会やデモに参加して感じたことは、戦争法制の問題点を再度とらえ直すこととともに、靖国批判、戦争責任、現天皇制の問題点、現在のアジアとの関係のあり方などを、戦争法反対の運動の中で深めていくことである。第9条だけを示して、よい憲法であると宣伝することが、1から8条までの天皇条項への問題点を示しえないことであってはならない。戦争責任への視点を弱めてはならない。7月から8月にかけての天皇の在位中の王位継承発言に接しながら、現代の「玉音放送」への批判の必要性を強く感じる。制限されていても王権はその存在自体が市民の尊厳を侵すものである。報道での「陛下」も隷従を増幅させる。「主権者教育」をいいながら、「陛下」を垂れ流す政府・マスコミはその責任をとるべきだ。