浜松陸軍爆撃隊のアジア爆撃と米軍浜松空襲

 

きょうは浜松への空襲と浜松の陸軍部隊による中国をはじめアジア各地での爆撃について話します。

浜松が一九四五年に米軍によって激しい空襲を受けたことはよく知られています。ところで、浜松の陸軍航空隊によるアジア各地への爆撃についてはどうでしょうか。浜松での空襲被害については語られても、浜松の部隊によるアジアへの加害についての追及は弱いのではと思います。

浜松・磐田への空襲と死亡者の名簿を最近作成しましたが、作成するにあたり、その前にアジアへの加害の歴史を調べ、明らかにしたいと思いました。加害の歴史をふまえて、地域の被害の歴史を示したいと考えたからです。

 

○浜松への米軍空襲

アジアでの空襲の歴史を見る前に、浜松への空襲について、米国戦略爆撃調査団の映像と写真からみてみます。米国戦略爆撃調査団が戦後、爆撃の状態を記録した映像があります。浜松駅周辺が映されていますが、線路や松菱、田町の静岡銀行の建物がわかります。周辺は米軍の空襲によって焼け野原になっています。米国戦略爆撃調査団の作戦記録には浜松の空爆用写真や空爆後の焼失状況を記録した図面なども残されています。

また、戦後の日本側の資料から、空襲による死亡者の状況も判明します。戦争の被害は数でみるのではなく、一人ひとりの人間の命とその痛みについて考えることが大切と思いました。どこでだれが亡くなったのかを明らかにする必要があると考え、死亡者名簿を作成しました。米軍にとって豊橋から掛川までが浜松地区とされています。名簿には西は湖西から東は掛川までを入れましたが、三〇〇〇人を超える氏名が明らかになりました。

なぜ浜松は中小都市としては最大規模の空襲にあったのでしょうか。それは浜松が日本楽器(ヤマハ)のプロペラ生産をはじめとする軍需工場の拠点であり、また、陸軍爆撃部隊の拠点であったからです。

浜松の空襲用地図をみると、米軍は第一の目標に日本楽器の工場をあげています。ほかに国鉄の工機部工場、中島飛行機、鈴木式織機、浅野重工業などの軍需工場があり、中小の工場も航空機部品などの軍需生産を担っていました。

陸軍の航空部隊の拠点でもあり、飛行第七連隊、陸軍浜松飛行学校をはじめ、飛行場や爆撃場があり、戦争とともに、基地が拡張され、末期には航空毒ガス戦用に三方原教導飛行団も設立されました。新居には海軍の海兵団、竜洋には天竜飛行場などもありました。フィリピン戦、沖縄戦では浜松から特別攻撃隊も編成されています。このような軍事基地に対し、米軍が攻撃を加えたのです。

 

○浜松からアジアへの派兵

浜松には、いまの静岡大学工学部のところに一九〇七年に陸軍歩兵第六七連隊が置かれましたが、一九二〇年代の軍の近代化のなかで廃止され、一九二六年に陸軍飛行第七連隊が配置されました。この部隊は爆撃部隊であり、立川で編成され、浜松に移動しました。歩兵連隊の跡地には高射砲部隊が新たに置かれ、横の和地山は練兵場でした。

浜松の飛行第七連隊から満洲侵略・日中戦争・アジア太平洋戦争と派兵がくりかえされることになりました。浜松は爆撃の拠点になったのです。

浜松を起点とし、中国に派兵され、さらにアジア各地の派兵された部隊の歴史をみてみます。

一九三一年の満洲事変の際には、浜松から飛行第七大隊第三中隊が派兵され、満洲各地で抗日部隊への空爆をおこない、華北への爆撃にも動員されました。この部隊は強化されて、飛行第十二連隊になり、満洲の公主嶺を拠点にします。

一九三七年に日中戦争がはじまるとすぐに飛行第六大隊、第五大隊、独立飛行第三中隊などが編成され、中国に派兵されました。飛行第六大隊は、一九三八年に飛行六〇戦隊となりますが、中国各地を爆撃しました。この飛行第六〇戦隊とともに飛行十二戦隊や飛行第九八戦隊は共同して中国奥地の重慶を爆撃しました。第五大隊は飛行第三一戦隊となります。

一九三九年三月七日の西安への爆撃についてみてみれば、爆撃は飛行第十二戦隊と飛行第九八戦隊がおこなっています。中国側の記事によれば、市街地が爆撃され、馬坊門・東西大街・蓮湖公園・糖坊街・北城根などが被害をうけ、死傷者は六〇〇人余りといいます。

一九四一年夏の飛行第六〇戦隊の攻撃経過をみると、重慶をはじめ、保寧・延安・天水・武功・宝鶏・西安・咸陽・渭南・潼関などを爆撃しています。これらの爆撃の下には多くの中国民衆がいたわけですから、死傷者もおおかったとみられます。

一九四一年一二月にアジア太平洋へと戦争が拡大されますが、陸軍のマレー攻撃に陸軍の爆撃隊も動員されています。

飛行第一二戦隊は広東を拠点に中国で爆撃をおこなっていましたが、広東からプノンペンに移動し、ペナン・シンガポール・ビルマを爆撃しました。多くが市街地への爆撃です。さらに雲南の保山、さらにインドのチッタゴンやインパールなどを爆撃しました。このインド爆撃は陸軍最初のものでした。

飛行第六〇戦隊は一九四一年一一月に浜松を出発し、新田原・嘉義・海口を経てプノンペンに移動しました。開戦によりマレーのアロルスター、ペナン、ビルマのラングーン、シンガポールなどを爆撃しました。さらにフィリピン戦に投入されました。

マレー、シンガポール攻撃には他の戦隊も動員されていますが、爆撃部隊は浜松と関係が深いものが多かったのです。

日本軍は開戦から半年ほどで東南アジア各地を占領したのですが、その後は米軍の反攻にあいました。陸軍の爆撃隊はニューギニアやフィリピン方面に送られ、多くの人員と爆撃機を失っています。

フィリピン戦では浜松の陸軍飛行師団から特別攻撃隊が編成されました。浜松で編成された飛行第六二戦隊は特別攻撃用の部隊とされました。重爆部隊まで特別攻撃を担わされたのです。沖縄戦には義烈隊という重爆撃機に空挺部隊員を乗せた特別攻撃もおこなわれたのですが、その出撃も浜松に出自を持つ爆撃部隊が担いました。さらに魚雷を敵の軍艦に跳飛させてあてる訓練が浜名湖でおこなわれ、実戦に投入されました。

 

浜松での航空毒ガス戦研究

浜松の陸軍飛行学校では毒ガス弾の開発とともに毒ガスの攻撃方法が研究されました。

陸軍による航空機を使っての毒ガス戦に関する資料も発見されています。浜松陸軍飛行学校が三方原や満洲で毒ガス攻撃の研究を担った史料もあります。

千葉に下志津陸軍飛行学校があり、ここでは毒ガス攻撃を受けた際の除染を研究していました。関係者の高橋少佐の史料に下志津飛行学校の文書があったのですが、その文書史料から、一九三六年・三七年の研究状況が分かりました。さらにそこには三方原でおこなわれた毒ガス弾を用いた演習の報告書も含まれていました。そこには毒ガス弾を投下した時の写真や毒ガスを除染している時の写真、毒ガス攻撃実験用の地図などもありました。

浜松陸軍飛行学校の毒ガス研究班は一九四四年になると、三方原教導飛行団の名で独立します。いまの三方原の自衛隊官舎があるところに部隊が置かれました。この部隊は本土決戦には米軍への毒ガス攻撃を想定していました。実際には毒ガス攻撃はおこなわれなかったのですが、イペリットやルイサイトというびらん性の「きい剤」を使っての攻撃研究をおこなっていたのです。

敗戦により、陸軍は毒ガスを浜名湖に投棄したのですが、毒ガス管が浮かび上がり、それにふれた住民が死亡するという事故も起きています。毒ガスは米軍の指示もあり、遠州灘沖に再投棄されたといいます。

このように浜松は爆撃部隊の拠点とされ、満洲事変、日中戦争、太平洋戦争がある旅に浜松から派兵されて行ったのです。また派兵されていた部隊は現地で強化され、そこから新たな爆撃部隊が編成されていったのです。さらに、航空毒ガス戦の研究がなされました。そして、フィリピン戦、沖縄戦では浜松から特別攻撃隊も編成されたのです。

 

反空爆・反戦のために

さて、空からの爆撃を止めていこうとする動きについてみてみましょう。第一次世界戦争後の一九二三年の「空戦に関する規則」(ハーグ)では、軍事目標以外の禁止をしました。一九三二年に国連は一般市民への空襲を禁止する決議を採択しています。けれども、第二次世界戦争は空爆によって多数の一般市民が殺害されました。

ドイツの爆撃では一九三七年のゲルニカ爆撃が有名です。そのゲルニカにある平和博物館には「平和への一八の道具」をつぎのように提示しています。堅実な対話、人権の尊重、未来をみつめる、他者への正直、他の党派の立場でみる、異なる意見に耳を傾ける、共通点の探求、両党派を提携させるための仲裁、発明・創造、私たち自身の誤りの認知、積極的な思考、別の現実の調査・発見、積極的な形の姿勢での取り組み、法律や規則の見直し、人と問題を一体化しない、不正と闘う、弾力的な態度の形成。

これらは戦争を止めるために積極的な問題提起であると思います。空爆を受けた地から反戦平和の視点を積極的に提示しているわけです。このような姿勢に空爆の拠点であり、かつ空襲を受けた場所である、この浜松も学ぶべきと思います。

航空自衛隊浜松基地の資料館の入り口近くに、「陸軍爆撃隊発祥の地」という碑があります。そこには中国をはじめとするアジア各地への空爆の歴史が肯定的に刻まれています。浜松の空襲で焼け残ったプラタナスは市民の木とされています。けれども、その木の説明には戦争の原因、反省、不再戦の決意は記されていません。浜松復興記念館の展示も不十分です。浜松からの加害の歴史をふまえて歴史を認識すること、そのうえで人間の尊厳の視点から、浜松空襲を批判していきたいものです。

 現在では、プレデターなどのロボット兵器による空爆がおこなわれ、それによるイラクやアフガンでの攻撃の操作がアメリカの軍事基地でおこなわれています。そのように空爆の攻撃形態は変化していますが、空から攻撃がおこなわれ、人間が殺されていることに変わりはありません。そのような空爆の廃絶に向けて人びとは力を合わせるときです。

(二〇一一年六月、浜松大空襲を考える市民集会での講演)