1・8袴田巌さんを囲む新年会

 

201718日、袴田巌さんを囲む新年会がもたれた。東京拘置所から釈放されてこの3月で3年めになる。50年近い拘禁のなかで硬直していた巌さんの表情は、日常生活のなかでほぐれ、笑顔も出るようになり、対話もすすむようになった。今回の新年会でそれをいっそう感じた。

静岡地裁が袴田巌さんの再審開始と刑の執行・拘置の停止を決定したのは、2014327日のことだった。この再審決定を勝ちとるために、袴田弁護団は「最終意見書」をまとめて、2013122日に地裁に提出していた。

その意見書では、犯人のものとされる5点の衣類に付着した血液のDNA鑑定結果、とくに巌さんのものとされた白半袖シャツの血痕のDNA鑑定の結果が弁護側・検察側とも巌さんのものと一致しないということが重視された。また、5点の衣類のみそ漬け実験結果から、6か月間味噌のなかにあれば、血液が黒くなることがわかり、証拠とされた衣類の血液が赤みを残すものであることから、捏造の可能性を指摘した。さらに自白に信用性が乏しいことなども強調したのである。

最終意見書を提出した直後の128日、浜松市浜北区中瀬で開催された浜松の救う会の集会では、弁護団の村松弁護士がこの最終意見書の概要を解説した。参加者は、「巌さんをふるさとに、一刻も早い再審開始を!」と思いをわかちあった。2014113日には静岡市内で全国集会がもたれ、地検への要請行動もとりくまれた。

このような動きなかで327日の10時を迎えた。当日は静岡地裁前に、浜松の救う会を含め、全国から支援者が集まった。この日、静岡地裁は再審決定を決定した。それだけではなく、刑の執行停止、拘置の中止をも決定したのだった。その報告が拡声器を通じて集まった人々に流された。拘置の中止、つまり、釈放されるというのである。地裁は、これ以上の拘置は耐え難いほど正義に反するとし、衣類が後日、捏造された疑いがあるとまで、踏み込んだのだった。

当日、ひで子さんと支援者は東京に出発した。午後、東京拘置所から釈放され、車に乗り込む巌さんの姿が、ニュース映像として全国に流れた。「巌さんをふるさとに、一刻も早い再審開始を!」の願いがかなった瞬間だった。釈放はじつに48年ぶりだった。しかし、地検は即時抗告した。

巌さんは東京の病院で2か月ほど療養した。5月19日にはWBCの名誉チャンピオンベルトを授与された。そこで巌さんはしっかりとファイティングポーズをとった。この負けないという思いが、死刑の恐怖をはねのけてきたことを示していた。本当に打たれ強かったのだ。

5月27日、袴田巌さんは浜松に帰ってきた。浜松の救う会は新幹線の駅の出口で、「おかえりなさい、巌さん」のメッセージを掲げ、出迎えた。巌さんは右手にピースマークを掲げて応じた。すぐに、集会がもたれて、そこで無罪判決と即時抗告の棄却を訴えた。その後の記者会見で巌さんは発言したが、拘禁による意味不明の発言がめだった。巌さんの自らを全能の神に見立てて、生き抜き、その仮想を現実のものを幻視したままの状態になっていた。浜松への帰郷は病院の転院の形であったが、6月29日には清水の集会に参加した。その後は、ひで子さんの自宅での共同生活がはじまった。

巌さんは、自宅のなかを拘置所の部屋を歩くように、背中をまるめ、足を引くように歩き続けた。映画「袴田巌」の撮影も始まった。TV局の取材も入った。少し経つと、巌さんは外出し、散歩するようなった。拘禁されて50年が経ち、1960年代初めの風景から21世紀へと、風景は一変している。全能の神・袴田巌を自称して、神のポーズなのか手に〇を描くようなしぐさをときにした。けれども、周囲の再審実現への思いと人間愛が、巌さんの表情を次第にほぐしていった。

自宅を自らの拠点と定めるようになると、集会などには参加しなくなった。釈放されて1年後、2015年3月1日に開催された浜松集会には顔を出さなかった。けれどもその日、自宅で誕生会を持つと、歌に合わせて手拍子もした。「ハレルヤ」といえば、「晴れていない」と言い返すような感性もみられた。

その頃「好きな言葉は」と聞くと、「真理」とも答えた。それが印象に残った。まさに再審・無罪は「真理」の実現である。3月末には、東京に行き、袴田シートでボクシングの観戦もした。5月2日、自宅で、拘置所から束になって送られてきた巌さんあての手紙・葉書の整理をした。世界各地から手紙や葉書が送られていたが、それらは巌さんには渡されていなかったのである。スペインのアムネスティの葉書がたくさんあったが、その絵は、男が闇夜を星空に向かって梯子を登っていくというものだった。

巌さんは自宅から散歩には出るから、時に集会にも出て、挨拶することもある。9月27日にもたれた浜松集会には、途中に登場し、無罪がある、頑張る、まあよろしく、などと発言した。自宅には、赤堀政夫さん、石川一雄さんなど冤罪体験者が訪問し、対話した。加藤登紀子さんとの出会いもあった。12月には映画「袴田巌 夢の間の世の中」(金聖雄監督)が完成した。2016年2月には浜松でその試写会がもたれ、3月、浜松のシネマイーラで公開された。3月には救う会で巌さんの誕生会をもった。

2017年1月8日はそれから約1年後のことである。昨年12月の忘年会に続いて、新年会を持つことになった。対話をすすめ、人間関係を深め、回復をねがっての企画である。救う会では将棋の友、歌の友などを募っている。1月9日の新年会での巌さんの言葉はときに外れるが、しっかりしていた。言葉に含まれている独自の思いをふまえて聞けば、十分に理解できるものだった。その言葉を組み合わせると以下のようになる。

 

勝たなきゃいけない 甘く考えていない

歩くと若くなる 足腰がつよくなる

勝つということ 勝負師であるから

世の中が清潔になればいい 自由が大切

やってないやつを 死刑にしちゃいけない

ほしいことは 世界が平和であること

事件はない やっていないのだから

清水の「太陽」で 七色の歌を歌う

 

巌さんは、50年ほどの拘禁と死刑の抑圧のなかで、全能の神として自己をとらえて自らを疎外し、狭い部屋を歩き続けることで、生を維持してきた。そのような人の心のくびきの根は深い。しかし、人間関係とそこからの人間愛の力は、そのくびきをぬくことができるだろう。検察の抗告により再審決定は止まってはいるが、「巌さんをふるさとに、一刻も早い再審開始を!」の思いは通じた。それは2013年末の時点では、実現できるかどうか、確信できなかったことだ。だから、「神を捨て、神になった男」が、人となり、仲間と生き、「真実の花を咲かせる」こともできる。それができると信じたい。