第10回強制動員真相究明全国研究集会(松本市)開催

 

2017年3月25日から26日にかけて、第10回強制動員真相究明全国研究集会が長野県松本市で開催され、90人ほどが参加した。25日は、あがたの森文化会館(旧制松本高校の講堂)で研究集会がもたれ、26日には三菱重工業名古屋航空機の里山辺地下工場跡をフィールドワークした。

 

あがたの森文化会館で第10回強制動員真相究明全国研究集会

25日の集会の基調講演では、強制連行と朝鮮植民地支配、長野県での農耕勤務隊調査、朝鮮人女性の労務動員などの報告がなされた。第2部は「強制連行をどう伝えるのか」の題でもたれ、奈良県天理飛行場、松本市による外国人労働調査報告書、滋賀県の大学での取り組み、高校での報告などがなされた。第3部は「明治産業革命遺産問題と強制労働」のテーマでもたれ、釜石、八幡の調査が報告され、紙上報告には長崎、三池、産業革命遺産全般があった。

基調報告で水野直樹さんは「強制動員問題と植民地支配」で、皇民化での同化と差異化について話し、植民地朝鮮では朝鮮人の本籍地が固定されたこと、朝鮮人学校における皇国臣民の誓詞の法令上の根拠なしの導入、戦時態勢がすすむなかで朝鮮・台湾が内務省管理局によって支配されるようになったことなどを示した。

原英章さんは「長野県へ来た農耕勤務隊」の題で、長野県に動員された第5農耕隊の調査を話し、全10中隊が伊那市、駒ケ根市、中川村などに動員されていたこと、死亡者や逃亡者の存在、逮捕者へのリンチの実態などを示した。長野県内での現地調査による学校関係資料の精査によって、農耕勤務隊の動員状況が判明した。

鄭惠瓊さんは「アジア太平洋戦争期朝鮮人女性労務動員現況」で、韓国の真相糾明委員会が認定した1076件の動員状況を分析し、女性動員が南洋群島では農場が多く、日本では工場や炭鉱などの炊事、韓国内では工場が多かったとした。

第2部では、大学教員の庵逧由香さんが「いま改めて朝鮮人強制動員問題を伝えていくために」の題で、現代の学生は、身近に存在する戦争体験がなくなり、社会での共有が希薄になっている。けれども、K-Popの影響などにより、日朝近代史の受講者が増加するなど、関心は高まっている。これまでの研究の蓄積の共有が必要になっていると提起した。

続いて、奈良の高野眞幸さんと川瀬俊治さんが、奈良県天理柳本飛行場での調査報告と天理市による碑文撤去の問題点を指摘した。天理については、高野さんは2016年に「戦争と奈良県」を出版している。奈良の発掘する会は、韓国の端山市民と交流し、韓国から市民を招いて決議文をあげるなど、説明板の再設置に向けて活動している。

小松芳郎さんは「松本市の調査報告」で、1990年代の「松本市における戦時下軍需工場の外国人実態報告調査報告書」の作成の経過を話した。本書は現在まで、第3刷が発行されている。松本市はその後も、図書館や文書館に平和資料コーナー、伝えたい戦争の話の発行、記念碑の建立などの活動で平和に関する活動をすすめている。

滋賀の河かおるさんは「強制連行を伝える大学での取り組み」の題で、滋賀県での強制労働の現場の概況を話し、滋賀県での強制労働や戦争遺跡の一覧図を紹介した。また、実習授業での現場への大学生のフィールドワークなどについて紹介し、干拓の現場にも朝鮮人が動員され、地元では朝鮮人の動員が記憶されているが、記されているのは連合軍俘虜のことだけという問題点を指摘した。

竹内は、植民地支配と強制労働の教材化のなかで感じたことを、価値観の形成、さまざまな価値観の提示と民主主義の視点、用語の理解と表現力、批判的思考力、被害者の側に立って考える共感力、植民地主義の克服の視点、知識が人格を持つことの大切さ、「たのしく、ゆかいに」は、理想の追求と仲間の存在にあること、歴史認識による歪曲の克服、地域の民権の水脈に学ぶといった視点を示した。

 第3部では、外村大さんが明治産業革命遺産と強制労働に関し、近代化を民衆の動きをからとらえることの大切さ、1910年までで時代を区切ることの無理、外交的配慮ではなく強制労働をおこなったこと自体の問題をみること、巧妙な強制性があること、徴用で送り込めない現場に、徴用を適用しない形で朝鮮人を動員したことの問題などを指摘した。

 続いて山本直好さんが「釜石と歴史の継承」、中田光信さんが「八幡製鉄所における強制連行・強制労働について」で日本製鉄の現場での強制労働の実態について紹介した。

 山本さんは、釜石市への艦砲戦災犠牲者の再調査要請により、犠牲者特定委員会が開催されるようになり、資料を提供したとし、1944年の落盤事故での朝鮮人死者について言及した。釜石市には、近代産業の幕開けを釜石の陽とすれば、戦争の悲惨さを釜石の陰とする認識がある。

 中田さんは、八幡製鉄所での、朝鮮人、中国人、連合軍俘虜の強制動員の実態について報告し、製鉄所で4000人ほど、八幡の港湾関係でも同様の動員があったことを示した。また、連行された朝鮮人や連合軍俘虜の証言を紹介した。

 集会後、交流集会がもたれた。地元のバンド、ぽこ・あ・ぽこが演奏し、全国各地の参加者が発言した。交流集会では最後に、沖縄の参加者が来年の沖縄での全国集会の開催についての思いを語った。

 

三菱重工業里山辺地下工場跡のフィールドワーク

26日は雪、そのなか、三菱重工業名古屋航空機の里山辺地下工場跡のフィールドワークがもたれた。名古屋への空襲の激化により、1945年、三菱重工名古屋航空機の疎開が松本市とその周辺地域にすすめられたが、さらに、里山辺に地下工場、中山に半地下工場建設がすすめられた。この里山辺・中山の地下工場・半地下工場建設を熊谷組が請負い、そこに数千人の朝鮮人が連行され、中山には、相模発電工事や富士飛行場工事の現場に連行されていた中国人も転送されてきた。

里山辺の地下工場跡の一部は、戦後、信州大学が宇宙線研究のために利用していた。いまでは使用されていないが、松本の調査団の案内により、その施設の入口から内部に入ることができる。内部は崩落がすすみ、足元には鋭角の岩石が飛散している。今にも崩れそうな箇所もある。空中の岩の粉が懐中電灯に照らされ、きらりと光る。

内部にすすんでいくと、カンテラの煤で記された出張所、熊谷組、天主などの文字を確認できる。トロッコ用の枕木のくぼみ、測量用の木柱の跡、坑口からの距離をはかる90,130などの文字、岩に打ち込まれたままのくさびなども残っていた。山の側面のトロッコ用の軌道跡をみることもできる。

中山には半地下工場が建設された。半地下工場の基礎のコンクリートの一部が残されている。その近くには、連行中国人の収容所があった。

70年ほど前に掘られた壕や半地下工場跡地は、強制動員の時代の強制労働の状況を語り続ける遺跡である。松本市は戦争遺跡の記念碑を設置しているが、里山辺には平和宣言都市25周年にあたる2011年、陸軍飛行場跡地には2012年、中山には2013年に設置した。

 

被害証言は平和への指針

『明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業』(世界遺産推薦書ダイジェスト版・日本国政府内閣官房、監修・文 加藤康子)には、「テクノロジーは日本の魂」、「蘭書を片手に西洋科学に挑んだ侍(さむらい)たちは、半世紀の時を経て、近代国家の屋台骨を構築した」、「産業化により、地政学上における日本の地位を、世界の舞台に確保」などと記されている。このように「さむらい」の成功物語として明治が賛美されている。

本集会での長崎からの紙上報告にあるように、明治産業革命遺産の時期を1910年としたために、端島で登録されたのは護岸部分と内部の竪坑跡などである。1910年までのもので残っているものは石垣の護岸であり、そこもコンクリートで覆われている。

端島で世界遺産とされたのは端島全体ではなく、コンクリートに覆われた護岸の石垣なのである。長崎県と長崎市があてにしていた端島の保存工事のための政府資金は出ないことになったという。

推進する日本政府は、明治維新と産業革命を賛美し、戦争、植民地支配、労働については考察せず、その後の戦争による支配地の拡大や資源の収奪についての批判的視点もない。さらに日本政府は、徴用はあったが、強制労働ではないとする。期間を1910年までとし、その後の歴史をみようとしないやり方が、端島の自壊をすすめる。戦争と強制労働を語り伝える視点を持つことにより、端島の保存も可能になるのである。

松本市立博物館付属施設の松本市歴史の里には、民権の影響を受け、1901年に社会民主党結成に加わった木下尚江の生家が残され、「木下尚江は終わらない」という冊子が出されている。そこに木下が平民新聞に1904年に記した「敬愛なる朝鮮」の一部が掲載されている。そこで木下は、朝鮮人の持つ力に大きな希望を持つと記すとともに、いつか朝鮮半島の一角から平和をもたらす予言者の声を聞くことになるかもしれない、国が亡ぶ屈辱をなめた人でなければ、侵略の罪悪を責めることはできないと記している。

戦争被害の証言や過去清算の声を、木下がいう平和をもたらす予言者の声、平和への指針としてとらえなおしたい。(t)