たくあんの謎      地引 浩

 

 

今年は おいしいたくあんができた

ぼりぼり噛んで ついご飯を食べすぎる

干した大根と糠と塩、そして少しの昆布と鷹の爪

昔から ばあちゃんたちが継いできた漬け方でね

大根の甘味と糠のほのかな黄色と

ばりばりと噛めば 鼻に抜けるなつかしい香り

ぼくは その味も香りも大好きなのさ

 

六十年ほど前

母の実家はたくあん屋だった

四角に掘ってコンクリで固めたいくつものタンクに

たくさんの大根が漬けられていて

蔵中にたくあんの匂いがしていた

小学生のころ 学校が休みになると

ぼくは ばあちゃんちに泊まって

おじさんが運転するトラックの助手席に乗っかって

たくあんの配達についていった

お得意様のあちらこちらの八百屋に樽ごとおろしていくのだ

たくあんが樽から出して売られいた時代だった

その頃 織物屋さんがたくさんあって

少し大きな織物屋さんにも配達に寄った

やはり 空の樽とたくあんの樽を交換してくるのだ

こんなにたくさんのたくあんをだれが食べるのだろう

たくあんがすきなのかなあ

それは ぼくの小さな謎だった

 

大阪の商家が盛んだったころ

奉公人の毎日の食事は 

朝は暖かいご飯と漬物 汁がつくのはいい方

昼は冷たいご飯と漬物とおかず一品 

夜も冷たいご飯と漬物だった 

そのかわり ご飯はいくらでもお代わりしてよかったそうだ

一日と十五日や特別の日にはおかずが余分について

奉公人は それが楽しみだったと

数年前 米朝さんの落語のまくらで知った

ぼくの子どものころの謎があっけなく解けたのだ

あの樽のたくさんのたくあんは

織物屋さんで働く女工さんたちのご飯のおかずだったのだろう

戦争に敗けて十年も経っても

織物屋さんの女工さんたちは昔の丁稚さんのように

たくあんをおかずにして食事をして働いていたのだ

朝は暖かい味噌汁が付いていただろうか

いわしの焼いたのとか野菜の煮つけも食べれたのだろうか

小学校を終えて奉公に出て織屋で働いた ぼくの母も

たくあんをぼりぼりしながらご飯を食べていたのだろうか

ついつい考えてしまう

 

からっ風が肌を刺すようになると

ぼくは畑の大根を抜き きれいに洗って

四本ずつ束にして四・五十本 横に渡した竿に干す

水分が飛んでぐにゃりと曲がるようになったら漬け時だ

樽に一層ずつ隙間なく並べ 塩と糠を振る

重石を充分利かせて一カ月 食べごろになる

昔ながらのやり方だ

樽から出して洗い 薄い輪切りにして

口に放り込んでばりばり噛む

なつかしい香りが 鼻に抜ける

そうすると

丁稚さんたちや女工さんたちが目の前にいる

小さな少女だった母も目の前にいる

たくあんの謎は ぼくの秘密のタイムトンネルだったのだ

 

(2017.2.27)

春のチヂミ2     地引 浩

 

 

黄色

春の畑は黄色に染まる

黄色は菜っ葉ごとに少しずつ違うよ

いろんな黄色に囲まれてすごく幸せ

 

今日は

しろなと大かぶのくきたちなをいっぱい摘んだ

くきたちな? そう 八百屋さんにはないからね

ほら 春になると

いろんな菜っ葉が花を咲かせようと茎を伸ばすでしょ

その花がつぼみのうちにポキッと摘んでくるの

それが くきたちな

 

今日は

ともだちのカフェでみんなの春のコンサート

みんなに春のチヂミ食べてもらうんだ

小麦粉とかたくり粉を水で溶いて 

くきたちなをさっとくぐらせ

油をひいたフライパンでさっと焼く

うらがえして もう一度

春がぎゅっとつまった

春だけのぜいたく

 

いろいろな民族のいろいろな楽器のしらべ

いろいろなところから来た いろいろな菜っ葉

朝鮮から教わった食べ方のチヂミ

いろいろが混じってしあわせ

 

「ふつうの国」にならなくていい

「戦争しない国」のままでいい

 

(2017.3.8)

この日       地引 浩

 

 

この日

テレビも ラジオも インターネットでも

番組を中断し 戦争が始まったと告げた

アメリカの戦争にわが国も参加したのだ と

エッ 憲法は? 第九条は?

そんなことは どうでもいい

とにかく 始まったのだ と

 

その日

テレビも ラジオも インターネットでも

非常事態宣言が ただちに出されたと告げた

首相官邸に全権が委任されたのだ と

エッ 憲法は? 第九条は?

そんなことは 言ってられない

とにかく 戦争なのだ と

 

あの日

わたしも あなたも そしてみんなも

何をして 何をしようとしたのか

街に出て叫んだか 戦争はだめだ と

エッ 逮捕だ? 殺される?

そんなことを 考えていたら

何も始まらなかったはずだ

 

 

いま ふりかえる

ほんとうの民主主義が始まった日を

いま 想い出す

人々の勇気と決断を 想い出す

 

(2017.5.3)


進軍ラッパの響く街   地引 浩

 

 

忘れていいことがある

忘れてはいけないことがある

伝え続けなければいけないことがある

若者にとって軍隊ラッパは人殺しになるための合図だったことを

皇軍に追われたアジアの人々が聞いた進軍ラッパのことを

 

二月の節分が過ぎたころから 

この町のあちらこちらから進軍ラッパが聞こえてくる

五月のまつりの支度が始まったのだ

 

パッパヵパッパ パッパヵパッパ

パッパッパッパ ・ ・ パ

パッパヵ・ ・  ・ ・ ・

・  ・ ・ パ ・ ・ パー

 

忘れていいことがある

忘れてはいけないことがある

伝え続けなければいけないことがある

消燈ラッパ聞きながら優しい若者が暗い便所で自死したことを

葬送行進曲のラッパで送られた死んだ兵士たちのことを

 

四月に入りまつりが近づくと

この町のあちらこちらから進軍ラッパが響きだす

五月のまつりがすでに始まっている

 

パッパヵパッパ パッパヵパッパ

パッパッパッパ パッパッパ

パッパヵパッパ パッパッパ

パッパヵパッパ パッパッパー

 

忘れていいことがある

忘れてはいけないことがある

伝え続けなければいけないことがある

たくさんの若者が島や密林で病気や食べ物がなくて死んだことを

軍国日本の侵略でアジアの三千万もの人々が死んだことを

 

五月になればまつり全開で

この町のあちらこちらから進軍ラッパ鳴り響く

おとなも子どもも浮かれだすとき

 

パッパヵパッパ パッパヵパッパ

パッパッパッパ パッパッパ

パッパヵパッパ パッパッパ

パッパヵパッパ パッパッパー

 

 

わたしは この街のまつりが嫌いだ

 

(2017.5.5)

忌念日        地引 浩

 

 

二〇一三年十二月六日  ・・・・・・・

二〇一五年九月十九日  ・・・・・

二〇一七年六」月十五日 ・・・・・・

 

これから わたしたちは

いくつの忌念日に沈んでいくことだろうか

 

そして

 

このくらやみから抜け出すために

どれだけの記念日を築かなければならないだろう

 

(2017.6.19)


ハイタッチのキミ    地引 浩

 

 

駅前のプラタナスの木の下に立つ

「NO! 共謀罪」のバナーを掲げて

プラタナスの木の下に立つ

 

二人ならば穏やかに立てるのに

一人だと視線がさまよい 顔がこわばる

そう あれは一人で人々の流れに向って立っていたとき

キミの小さな手が

ヒミツの合図のように振られているのに気づいたのは

はじめはボクへのメッセージとは思わなかった

小さな顔のくりくりしたキミの眼が

メガネの奥でボクに微笑んでいた

ボクも手を振った 手を振った

ありがとう 一人でも 一人じゃない

ありがとう

 

夕方六時半ごろ 毎日

キミは駅のデパート口から出て

重そうな大きなザックを背に

広場を横切っていく

おそらく学校からの帰り道

「NO! 共謀罪」のバナーのボクたちに

かわいい合図を送って通り過ぎていく

ボクも ボクたちも おかえしの合図を送る

 

いつのまにか

プラタナスの木の下に立つのが楽しくなって

キミが通るのを心待ちにしているボクがいた

キミのかわいい小さな手が

ボクの顔に笑顔を ボクの心に勇気をくれた

 

いつも少し離れて手を振る君が

今日はボクたちに近づいてきて

恥ずかしそうに手を上げて

ハイタッチ

キミはボクとハイタッチした

メガネの奥の眼が光っていた

 

ボクはプラタナスの木の下に立つとき

いつもキミを探す

キミは小学生の女の子

ボクの下の孫と同じくらいの 女の子

ボクは 一人でプラタナスの木の下に立っていても

もう 視線が惑うこともない

 

(2017.8.15)

晩秋に      地引 浩

 

 

まだ大地に霜は降りていない

朝の訪れは日に日に遅くなってきた

今日は 穏やかな陽射しのもとで

紋白蝶が二羽 畑に舞っていた

今 キミは何を想っているのだろう

「そのときは・・・・」と語ったキミが

今が そのときではないか

もうすぐ冷たい風が吹き荒れ

生きものたちは土や葉陰に

春までのすみかを探すだろう

 

まだ昼のぬくもりが残っている

夜のとばりが足早に迫ってくる

空は 厚く雲が覆い出し

カラスたちが啼きながら帰っていく

今 キミはなぜ迷っているのだろう

「そのときは・・・・」と語ったキミが

何も失うものなどないのに

まもなく冷たい雨が頬をたたき

ボクたちは非国民の誹りにも

頭を上げて立ち続けるだろう

 

春まで

(2017.11.19)

灰色の作業着    地引 浩

 

 

母の灰色の作業着姿に

ボクは忘れられない想いがある

 

小学校の高学年になったころ

母はそれまでの内職仕事をやめて

近くの町工場で働きだした

毎朝 母は灰色の作業着を着て工場に通った

毎日洗っていた母の作業着には

黒くなった機械油のシミが残っていた

通学路でその母の作業服姿を見かけるのが

ボクはただただ恥ずかしかった

 

父は電気工で

戦争から帰って国鉄の工場で働いていた

給料は安く ボーナスも地代で消えたから

二人の息子たちのため

母は外で働くことを選んだのだ

小学校を出てからずっと働きづめだった母には

内職だろうと工場務めだろうと

働くことには変わりがなかったのだろう

そんな母の作業着姿を見るのが

ボクは恥ずかしく 嫌だった

なんでそうなのか その頃は考えもしなかった

 

五年通ったキャンバスに

その春 ボクは退学届けを出し

「労働者」になることに決めた

父や母には内緒だった

もう そこにはいるべきではないと思ったからだ

 

ボクは臨海埋立地の電線工場の臨時工になった

母が着ていた灰色の作業着をボクも着て働いた

電車に乗り バスに乗り工場に通った

1週間ごと昼夜二交代の勤務は楽ではなかった

朝の出勤はともかく 

暗くなった空の下を工場に向かうのは正直辛かった

それでも あの頃の母と同じ

灰色の作業着の労働者の一人であることが

ボクは嬉しかった

 

その後

ボクの作業着は紺色だったり

お仕着せのブレザーだったり ウエイター服だったり

詰襟の白シャツだったりしたけれど

ボクは 自分の作業着姿を恥じることはなかった

ひとに指図する役になることなく

人生の大半を終えたことを

ボクは誇りに思っている

 

母の作業着姿を 今も想いだす

それを恥じた自分を 今も恥じる

 

(2017・12・12)