強制動員・北炭の給与明細書
2017年4月11日、産経新聞は「歴史戦・第17部 新たな嘘」で、韓国・落星台経済研究所の李宇衍「戦時期日本に労務動員された朝鮮人鉱夫(石炭、金属)の賃金と民族間の格差」、九州大学の三輪宗弘の発言などを利用して、「韓国で染みついた「奴隷」イメージ、背景に複雑な賃金計算法、『意図的な民族差別』事実と異なる、韓国人研究者が結論」とする記事を出した。
その記事には、朝鮮人の給与明細書の写真が掲載されている。その給与明細書の写真をよくみると茂山秉烈のものが多い。
ここではこの給与明細書について記すことで、強制動員された朝鮮人の状況について考えたい。
北炭空知炭鉱神威坑に動員された尹秉烈(茂山秉烈)
写真の給与明細書は北海道炭砿汽船(北炭)のものであり、茂山秉烈の本名は尹秉烈である。尹秉烈の資料や証言は『写真でみる強制動員の話 日本北海道編』(韓国・強制動員被害真相糾明委員会2009年)、『散らばったあの日の記憶』(韓国・強制動員被害調査支援委員会2012年)などに収録されている。
尹秉烈の証言によれば、尹は1924年に忠清道洪城郡金馬面で生まれた。1942年1月、北海道の炭鉱の募集広告をみて、1日に3円の賃金とあり、どうせ徴用されるなら今のうちに行こうと、村の4人と募集に応じた。尹は北炭の空知炭鉱神威坑に送られ、鳩ヶ丘の第1協和寮に入れられた。北炭空知炭鉱への採用は身分証では1942年2月27日になっている。尹は採炭労働を強いられ、2年後の帰国は延長され、1944年4月25日には、現場で徴用を適用された。北海道庁長官による徴用告知書が残されている(その書類では尹の生年は1925年2月)。帰国できたのは1945年末のことだった。
尹によれば、賃金は1日3円ということだったが、実際には80銭から90銭ほどであり、食事代や貯金を引かれると、賃金はほとんどなかった。作業服の代金も引かれた。一緒の部屋の2人が事故で亡くなったという。
尹は、同僚と撮った写真、給与明細書などの炭鉱の資料、使用していた物品などを人生の証と考え、トランクに保管してきた。それらの資料は、強制動員被害調査がすすむなかで強制動員被害真相糾明委員会に寄贈され、韓国釜山の日帝強制動員記念館に移管され、展示されるに至った。
尹秉烈(茂山秉烈)の給与明細書
産経新聞の記事では、賃金での民族差別はなかったという文脈でこの給与明細書が使われている。しかし、この明細書の内容については言及されていない。
その内容をみてみよう。日付が不鮮明なものが多いが、これらの明細書は1945年ころのものであろう。1945年3月分の給与明細書をみると、就業日数は5日、稼賃金が16円60銭、補給金が15円付けられ、賃金の計は31円60銭となる。ここから、厚生年金12円、寄宿舎賄料20円77銭をはじめ、健康保険料、産業報国会費、町民税、団体生命保険料、忠霊塔寄付金、空襲共済基金など計37円2銭が引かれている。支払額の欄には赤字で5円42銭と記されている。赤字は炭鉱への借金を意味している。
他の明細書にも、稼働が少ない、あるいは稼働がないため、赤字で31円49銭、21円34銭と記された明細書がある。
比較的収入の多かった月の給与明細表をみてみよう。ある月では、賃金は稼賃金137円17銭、休日歩増78銭、出稼手当18円の計155円95銭となり、ここから、年金保険料12円、勤労所得税15円75銭、寄宿舎賄料20円10銭、組合貯金11円10銭、貯金19円、さらに産報会費、町民税、団体保険料、簡易保険料、忠霊塔寄付金、氏子組合費など、計83円85銭が引かれたため、支払額は72円ほどになっている。
他の月の明細表からも、稼働日数が多ければ、賃金合計は140円を超えることになるが、引かれる額も80円を超えたことがわかる。各月の支払い額は64円86銭、53円、49円56銭、62円98銭、61円62銭などである。
賄料は毎月必ず20円ほどが毎月引かれ、稼ぎがあれば、2種類の貯金で毎月30円近くが引かれ、所得税や各種保険などを合わせれば、計70円から80円が引かれていた。弁償金、物品代などが引かれている月もある。一日戦死貯金の名で、1日戦死したことされ、5円90銭の貯金を引かれたときもある。
ところで、産経新聞に掲載された給与明細書の写真は、支給金額が記されている最下部がカットされているため、読者はこのような形で引かれた支給額を知ることができない。
尹秉烈(茂山秉烈)の決戦増産手当給与通知書
1943年と44年の決戦増産手当給与通知書も数枚、残されている。
1943年4期分の決戦増産手当給与通知書をみれば、手当計は、定着手当27円40銭、出勤手当56円60銭、出炭手当34円10銭の計118円10銭、ここから規約貯金60円、所得税17円70銭が引かれ。現金支払い額は40円40銭となった。
1944年1期分では、手当の計が111円40銭であり、ここから規約貯金56円、鉱夫預金23円、所得税16円65銭が引かれ、現金支給額は15円75銭であった。44年2期分は手当合計が114円60銭であり、そこから貯金・預金が81円、さらに所得税が引かれ、支払額は16円50銭となった。
このように手当給与では、規約貯金や坑夫預金により8割近くが引かれたときもあったのである。
各地の炭鉱に連行された朝鮮人の証言には、逃亡防止のために貯金が強制され、渡された賃金わずかだったというものが多い。茂山秉烈(尹秉烈)の給与明細書や決戦増産手当給与通知書は、炭鉱資本によるそのような管理の実態を裏付けるものである。
解放後、北炭夕張炭鉱では約18万円の朝鮮人未払い預貯金が残っていたが、それらはこのような強制的な差し引きによって生まれたわけである。解放後では、北炭夕張炭鉱の朝鮮人未払金の約52万円、北炭幌内炭鉱の約33万円、北炭空知炭鉱の約4万円が判明している(GHQ・SCAP資料、『北海道と朝鮮人労働者』1999年所収)。これらの未払金はGHQを経て、その後、大蔵省から東京法務局に移管された。
残された資料からは、給与明細書からは6割以上、決戦増産手当給与通知書からは8割以上が差し引かれ、支給額とされたことがわかるが、差し引かれた支給額はそのまま本人に渡されたのだろうか。
炭鉱では現金支給を10円程度とし、残りを貯金や送金にあてている例がみられる。その通帳は労務が管理した。逃走防止に利用された。北炭空知でも同様であったとみられる。だから尹は、食事代や貯金を引かれると、賃金はほとんどなかったと語るのである。
歴史を操り、愚弄する行為とは
李宇衍はこの論文の註で、炭鉱の事例として「半島労務者勤労状況に関する調査報告」に、給料は寮長を通じて支払われたが、1人一月10円以上を渡さず、残額を貯金や送金させたという記事が複数あることを記している。この記事は李が否定しようとしている「賃金は支給されないか,極めて少額にすぎなかった」という主張に近いものである。李が利用した賃金統計から、李が言うように、強制貯蓄等を控除しても賃金の4割以上が残り、送金や生活に使用したと一般化するには無理がある。論文を読んでいくと、炭鉱への朝鮮人動員数は30万人を超えるものであったこと、年度がすすむにつれ契約期間の2年を超えて労働を強制された者が多いこと、現員徴用もなされたことなどへの理解がみられない。さまざまな争議や逃亡が起きた理由も示されない。
強制連行を否定する者たちは、都合のいい記事を見つけては、賃金は良かった、差別はなかったと主張する。統計上の賃金額を示し、民族差別はなかったと主張しても、さまざまな形で動員され、意思に反して現場に留め置かれ、労働を強制されたこと自体を否定することはできない。李宇衍が依拠した「半島人労務者に関する調査報告」日本鉱山協会1939年や「半島労務者勤労状況に関する調査報告」労働科学研究所1943年などには、強制動員された人びとの労苦や思いは記されていない。
歴史の記述では、文書資料に記されていない実態を明らかにすることが大切である。差別や虐待の記事が、企業などの文書に示されることは少ない。しかし、実際にはそれらがおこなわれたのである。動員が意思に反するものであり、そこで労働が強制されたことを、動員された人びとの証言をふまえ、文書史料を加えて描くべきだろう。
産経新聞「歴史戦・第17部 新たな嘘」が掲載した茂山秉烈(尹秉烈)の給与明細書は、強制動員期に朝鮮人が「募集」の甘言に応じて移入(連行)され、現場で徴用され、そこで3年を超えての労働を強制された歴史と、その現場で強制貯金がなされ、ときにはマイナスの給与が示されたという歴史を示すものである。
尹秉烈がトランクに入れて保管してきた史料類は、強制動員の歴史資料であり、民族差別がなかったことを示すものではない。自らの給与明細書が強制動員を嘘とする記事に利用されたことを、尹秉烈が知れば、再び人生を愚弄されたと感じるだろう。
産経新聞はこの記事のおわりで、三輪宗弘が李宇衍の論文を評価し、韓国は学会でさえイデオロギーに支配されがちとし、「歴史を操る行為は、まさに当時を生きた人を愚弄する行為だ」と語ったとする。
その言葉は、強制連行・強制労働を否定する行為にこそ向けられるものだ。強制動員の体験を語り、その資料を強制動員の歴史館に提供することになった尹秉烈たちの歴史を、操り、愚弄してはならない。 (文中敬称略)