アジア太平洋戦争と浜松の陸軍爆撃隊
 

  はじめに 

浜松や静岡は19456月に米軍による大空襲をうけました。空襲には目標があり、軍部隊や軍需工場の拠点がねらわれます。浜松には陸軍爆撃隊、中島飛行機、ヤマハの工場、静岡には陸軍歩兵34連隊、三菱と住友の工場などがありました。米軍の攻撃は侵略戦争を担ってきた地域に対してなされ、それが戦争末期には、燃焼弾による無差別な住民虐殺の形をとりました。

この米軍による空襲による被害状況が、原爆を含め、充分に把握されているのかといえば、未知の事がらが多くあります。米軍の米国戦略爆撃調査団資料などの資料には、未調査のものが数多く、空襲死者の名前の全容は未解明のままです。

このような地域での空襲被害だけでなく、浜松の陸軍爆撃隊がどのようにアジア各地を空襲したのか、戦争加害について調べることが大切と考え、調べてきました。以下、アジア太平洋戦争と浜松の陸軍爆撃隊というテーマで戦争加害の状況についてみていきます。また、現在の浜松基地をめぐる動きについてもみます。

 

1 9・18満洲侵略、満洲爆撃

 

浜松に陸軍の爆撃部隊である飛行第7連隊が置かれたのは、1926年のことです。飛行第7連隊は重爆撃と軽爆撃を任務としました。陸軍の飛行隊の歴史は1911年の陸軍所沢飛行場の設置からはじまります。それから約15年後、飛行第7連隊が立川で編成され、浜松に移駐しました。軍の近代化により、海の支配から空の支配へと移行する時代のことです。当時の日本の陸軍は、飛行機からの爆弾使用とともに、ガスの空中撒布、「焼夷弾」(燃焼弾)の使用、細菌弾の使用についても想定していました。

1931918日の柳条湖事件を契機に、満洲への侵略が始まると、平壌に置かれていた飛行第6連隊からは独立飛行第8中隊、第9中隊、第10中隊などが編成され、満洲に派兵されました。錦州爆撃をおこなったのは、この平壌で編成された部隊です。

浜松の飛行第7連隊からは、193111月に飛行第7大隊第3中隊(軽爆撃)が編成され、派兵されました。さら12月には浜松の部隊である飛行第6大隊第1中隊(重爆撃)が満洲に動員されました。飛行第7大隊第3中隊は、のちに浜松からの部隊で増強し、飛行第12大隊となります。さらに飛行第12連隊(重爆撃)となり、アジア各地を爆撃していくことになります。

 

この飛行第12大隊の『満洲事変記念写真帖』を古書店で入手しました。この写真帳には、浜松の部隊が満洲各地で抗日軍や集落・都市を爆撃する状況が、年月日、爆撃方向、爆弾数とともに記されていました。満洲に派兵され、その後の熱河作戦を含め、どのように抗日軍を攻撃し、集落や都市を爆撃したのかがわかりました。

熱河作戦では長城を越え、1933418日には、北京近くの密雲市街を爆撃しています。写真帳によれば、密雲への爆撃は高度2000メートルから市街地に15s爆弾54発を連続投下するというものであり、無差別攻撃です。

平壌の飛行第6連隊で編成された独立飛行第8中隊の中隊付将校であり、飛行第6連隊の第1中隊長であった高橋大尉の史料(高橋史料)も古書店で収集しました。この資料には193111月のチチハル攻略戦、その後のハルビン方面での抗日軍攻撃、1932年から33年にかけての満洲と朝鮮国境(東辺道)での抗日軍攻撃などの「戦闘詳報」、爆撃用地図、部隊編成資料などが含まれていました。飛行第6連隊から派兵された部隊の満洲各地での攻撃の状況が判明しました。

 

2 7・7中国全面侵略と中国爆撃

 

193777日の盧溝橋事件により、浜松の爆撃隊でも7月には派兵部隊が編成され、飛行第5大隊、飛行第6大隊、独立飛行第3中隊などの形で派兵されました。爆撃隊では、台湾の飛行第14連隊からも独立飛行第15中隊が派兵されました。この台湾の部隊も、1936年末に浜松の飛行第7連隊から要員が送られ、編成されたものです。のち、台湾からの独立飛行第15中隊と浜松からの独立飛行第3中隊は合体し、飛行第98戦隊になります。

満洲に派兵されていた飛行第12連隊(重爆)や飛行第12連隊から分離した飛行第16連隊(軽爆)も、戦争がはじまると中国に侵攻し、爆撃しました。

1938年には飛行部隊を移動しやすくするため、空の部隊と陸の整備部隊を分離させ、飛行第12連隊の飛行隊は飛行第12戦隊となります。盧溝橋事件以後、中国に派兵された浜松を出自とする爆撃隊は、それぞれ飛行第60戦隊(重爆)、飛行第31戦隊(軽爆)、飛行第98戦隊(重爆)となりました。これらの戦隊は中国各地で爆撃を繰り返しました。

防衛省の防衛図書館には『飛行第12戦隊中国要地爆撃写真集』など、爆撃部隊の写真集があります。飛行第60戦隊や飛行第31戦隊などは部隊史があります。中国側資料の『侵華日軍暴行総録』『日軍侵華暴行実録』や文史資料などには、爆撃被害についても記されています。それらを照合すると、爆撃の加害と被害の実態がわかります。

ここでは、第60戦隊の動きをみておきましょう。浜松の飛行第7連隊で重爆隊の飛行第6大隊が編成されたのは、1937711日のことでした。派兵の正式な命令は715日に出され、飛行第6大隊は、7月19日、錦州へと派兵され、7月27日には天津飛行場に到着し、翌日には南苑飛行場や兵舎、7月30日には天津の南開大学を爆撃しました。

以後、中国各地を爆撃していきます。1938年8月、飛行第6大隊は飛行第60戦隊と第96飛行場大隊に再編されました。戦隊は武漢侵攻作戦に投入され、徳安、英山、信陽、南昌、麻城、咸寧など、市街地を含む爆撃をおこないました。武漢占領後は武漢以南の南昌、荊州、衡陽、衡山などを爆撃しました。重慶、蘭州、西安なども爆撃しています。

19391月には重慶の市街地を爆撃し、さらに洛陽・潼関・平涼、蘭州、西安なども爆撃していきました。奥地への侵攻作戦計画によって、飛行第60戦隊は36機編成へと強化され、さらに重慶、西安、渭南、延安、南鄭、蒲城、洛陽、宝鶏、平涼、成都などを爆撃しました。

1941年1月、第60戦隊の編成は27機へと縮小されましたが、4月から5月にかけて雲南の昆明、蒙自、箇旧などを爆撃し、8月から9月はじめにかけて、保寧、延安、西安、咸陽、潼関、自流井、重慶などを爆撃しました。

 重慶爆撃は海軍機によるものが多いのですが、陸軍機によってもおこなわれています。その爆撃は浜松を出自とする飛行第12戦隊、飛行第60戦隊、飛行第98戦隊によるものがほとんどです。

飛行第60戦隊が関わった重慶爆撃は28回を確認できます。1940年8月19日、20日の空襲では、飛行60戦隊は海軍機と共同して重慶市街を爆撃しました。819日に飛行第60戦隊は250s爆弾90発・カ四弾(燃焼弾)53発を投下しました。中国では「819大爆撃」と呼ばれています。

その被害状況を中国側文献からみてみましょう。陸海軍機の爆撃で、市街の大梁子・中華路・林森路・花街子・厚慈街・和平路など70余箇所と江北の廖家台が被爆し、火災が発生しました。市街の「新民報」、川東師範学校、国民党軍事委員会、中央組織部、外国大使館など多くの施設が損害をうけました。死者は181人、負傷者は132人、家を失った人は2000人にのぼりました。

 ここでみてきたように、浜松から派兵された爆撃隊は、中国各地を爆撃し、被害を与えたのです。当時、浜松の写真館が陸軍の検閲を受けて葉書大の写真集を出しています。そのなかには山西省の沁県、南昌などへの爆撃写真もあります。無差別爆撃の状態を示すものです。新聞社の写真集を見ても、重慶などの爆撃が誇らしげに示されています。映像での報道ニュースも残されています。日本陸軍による中国爆撃はよく知られた事実でした。加害の痛みが示せないほど、国家は人々を支配していたのです。

 

3 12・8東南アジア侵略、

シンガポール・ビルマ爆撃

 

 1941128日、日本軍はマレーと真珠湾への攻撃をおこないました。陸軍がマレー方面のイギリス軍、海軍が真珠湾などのアメリカ軍を攻撃しました。

南方での戦争に向けて、日本軍は派兵の準備をすすめています。194111月、飛行第60戦隊が浜松の基地を出発しました。第60戦隊は、新田原・嘉義・海口を経て、プノンペンにすすみました。マレーへの攻撃命令は12月6日に受けています。第60戦隊ははじめにアロルスターを、その後、ペナンやラングーンを爆撃し、1942年1月中旬から2月初旬にかけてシンガポールを爆撃しました。3月にはフィリピン戦に投入され、コレヒドールなどを爆撃しました。5月に米軍が降伏すると、クラークフィールドから浜松に向かい、さらに中国、ニューギニアなどに派兵されました。

マレー、シンガポール方面へと、重爆撃部隊では、飛行第60戦隊だけでなく、飛行第12戦隊、飛行第98戦隊なども第7飛行団に属し、マレー攻撃に動員されました。重爆撃では飛行第62戦隊も動員され、軽爆撃部隊では飛行第31戦隊や第90戦隊などが動員されています。

飛行第62戦隊は1939年に浜松で編成された部隊です。帯広を拠点としましたが、この第62戦隊も194111月末、浜松からマレー方面に向かいました。浜松はマレー、シンガポール攻撃への出撃の拠点だったのです。

シンガポールのイギリス軍が降伏する頃の日本陸軍の爆撃の状況をみてみましょう。

2月11日、第7飛行団の爆撃隊は埠頭、船舶を攻撃しました。出動機数はのべ115機、投下爆弾量は78トンでした。2月12日、重爆隊は10次にわたってブランカマチ、チャンギ、パシルバンジャンなどの砲台・要塞を爆撃し、約70トンの爆弾を投下しました。213日、飛行第60戦隊、第12戦隊などは、シンガポール市近くのエンパイヤドック北西、総督官邸、市南西付近の砲兵陣地、埠頭などを爆撃し、60トンの爆弾を投下しました。2月14日、重爆隊はシンガポール西方の重砲陣地、埠頭付近を爆撃しました。2月15日、重爆隊はブランカマチ要塞を爆撃し、10次にわたり、のべ108機、85トンの爆弾を投下しました。同日夜、シンガポールのイギリス軍が降伏しました。

2月上旬からの出撃機数はのべ1018機、投下総爆弾量は773トンに及びました。このような爆撃によって多くの市民や兵士が生命を失いました。マレー、シンガポールの華人については殉難者名簿があり、そこから爆撃による死亡者名簿を作成することができます。

重爆撃隊は、シンガポール攻略後、ビルマ、インド方面へと爆撃をおこなっていきました。戦争末期には、飛行第62戦隊は特別攻撃部隊に指定されました。浜松の基地からは、フィリピン戦では特別攻撃隊である富嶽隊が出発しました。沖縄戦では特別攻撃隊である空挺部隊の義烈隊が飛び立ちましたが、輸送は重爆撃機が使われました。

戦争末期、飛行第98戦隊は台湾沖、沖縄戦に投入され、多くの死者を出しました。

飛行第98戦隊の隊員で生き残った兵士のひとりに尹根燮がいます。尹根燮は少年飛行兵第15期生として朝鮮から動員されました。東京陸軍航空学校、所沢整備学校を経て、194411月、飛行第98戦隊に配属され、沖縄戦では雷撃に投入されました。

尹根燮はつぎのように記しています。「数千数万の若者たちの命が、天皇や日本帝国のために、無用のもののように投げだされるのをみるのは哀れであり、しかも単にかれらが戦争屋の道具であるという理由で」、「純真な同僚が、特攻隊に加わり、微笑を浮べ、手を振りながら死んで行った」、「戦争は、結果的に弱小国への侵略を偽装したものであった」、「この戦争は、多くの真理をわれわれに教えてくれた」、「不正な国家にたいして、断固として戦わなければならない」(『あの雲の彼方に 飛行第98戦隊誌』)。

尹は、兵士が単に戦争屋の道具とされ、みずからもその犠牲者の一人であったとし、大東亜共栄圏の建設という旗幟が、結果的に弱小国への侵略の偽装だったと記しています。

 

4 航空化学戦拠点としての浜松

 

浜松に飛行第7連隊がおかれると、その練習部が1933年に浜松陸軍飛行学校となりました。この浜松陸軍飛行学校では航空化学戦(毒ガス戦)の研究がおこなわれました。下志津陸軍飛行学校の化学戦関係史料(高橋史料)を古書店で入手したのですが、その史料は、1936年の化学戦の研究報告、1937年の研究計画案と研究報告記事の史料でした。

1937年の演習の報告記事になかに、「毒瓦斯弾投下ニ対スル飛行場防護研究記事」という下志津陸軍飛行学校が浜松の三方原で化学戦の演習をおこなった史料が含まれていました。びらん性の毒ガス(イペリット)を投下し、その効力を確認し、ガスを洗浄するという演習です。当時、毒ガスの攻撃は浜松陸軍飛行学校が担い、その防御は下志津陸軍飛行学校が担っていました。写真や爆撃予定地図なども添付されていました。

毒ガス弾の開発状況については、毒ガス関係の資料から、浜松でも研究されていたことがわかっていたのですが、実際に毒ガスを投下して演習した史料が出てきたわけです。アジア歴史資料センターには、浜松陸軍飛行学校による満洲地域の1938年ハイラル、1940年白城子などでの演習記録があります。

これらの史料に、中国側の日本軍による空からの毒ガス空襲の記録を加えると、日本軍による航空毒ガス戦、毒ガス弾開発、研究、演習、実戦使用の実態がわかるわけです。

1940723日付の参謀総長載仁による支那派遣軍司令官への指示をみると、特種弾の使用を認め、雨下はしないが、使用の事実を秘匿し、痕跡を残さないようにと指示しています(「大陸指699号」)。

19419月から10月の湖北省での宜昌戦では、日本軍機がイペリット弾を大量に使用しました。とくに1010日の宜昌空爆は36機による大規模なものであり、このイペリット攻撃によって中国側の死者は400人をこえました(「日本軍使用毒気証明書」、「新華日報」19411011日付など)。宜昌戦でのイペリット使用については、アメリカ人記者ジャックベルデンの報告もあります。

1941年には150kg投下雨下弾、12kg弾なども製造されました。落下傘で落として上空で雨下させる、小型のガス弾を大量に投下できる、そのような大量破壊兵器を製造したのです。関東軍の731部隊が、中国で1940年、41年とペストノミによる空襲をおこなっていた時期、このような新型の毒ガス兵器が製造され、実戦でイペリット弾も使用されていたのです。

1944年には、航空毒ガス戦の攻撃用部隊として三方原教導飛行団が設立されました。三方原に集積された毒ガスは、敗戦により、浜名湖などに密かに処分されましたが、浮上して、住民が被毒するという事故も起きています。

古書店で陸軍第3師団経理部・岩田技師の「飛行第7連隊飛行機工場増築其他工事設計書」などの史料を入手しました。その史料から浜松の飛行第7連隊と浜松陸軍飛行学校の配置状況や基地拡張工事の具体的な状況を知ることができました。特種弾の浜松の基地内の貯蔵場所も確定できました。

 

5 グローバル戦争と浜松

 

ここでみてきたのは、1926年から1945年までの約20年間の浜松を起点とする、中国などのアジア爆撃の歴史です。基地の歴史は1945年で終わってはいません。その後の70年の歴史があります。その歴史は、1945年から89年までの冷戦の終結とその後のグローバルな戦争の展開に区分することができます。

浜松の基地は一時、米軍横田基地の分基地とされましたが、1952年に保安隊の航空学校が置かれ、1954年には航空自衛隊の操縦、整備、通信などの学校が置かれました。当時は米軍からF86Fを導入し、飛行しているのですが、墜落事故が数多く起きています。1960年代には術科教育本部、教導高射隊などが置かれました。1982年には曲技飛行をしていたブルーインパルスが墜落するという事故が起きました。1989年には南北の基地が統合され、航空教育司令部が置かれました。基本的には航空自衛隊の教育部門を担う機能をもっていました。

さて、1990年代から、米軍がグローバルな戦争に対応する世界戦略を立て、軍備を強化し、日本の軍事力をそのグローバルな展開に従属させ、共同軍としていく動きが強まりました。湾岸戦争はグローバルな戦争の始まりでした。

グローバルな戦争の特徴は、宇宙の軍事化、予防先制攻撃とミサイル防衛、平時の戦時化、ロボット兵器の使用などです。日米の軍事協力が強まり、切れ目のない戦争協力がすすめられます。

浜松基地へと、教育部門に加えて、19981999年と空飛ぶ司令塔といわれるAWACS(エーワックス・空中警戒指揮機)が4機配備されました。1999年にはそれに対応して、警戒航空隊本部が三沢から移転しました。それはグローバルな戦争に対応しての軍拡でした。AWACSの情報は米軍も共有します。AWACSの警戒指揮が戦争の起点になるという指摘もあります。

1999年には空自の広報館が浜松基地内にでき、ブルーインパルスの曲技飛行も再開されました。2001年の9.11事件以後、米軍はアフガニスタン、イラクで戦争をはじめました。空自もクウェートからイラクへの輸送支援のために派兵されました。2004年から、浜松基地の隊員も、100人以上が送り出されました。

2008年には米軍のミサイル防衛に関わり、PAC3ミサイルが浜松基地に配備されました。教育用とのことでしたが、2009年には東北に展開するなど、実戦使用され、後に沖縄へと転用されました。2012年、横田に日米共同統合運用調整所おかれましたが、これは日米の共同作戦体制の強化を示すものです。

このような動きが、政治面での、2014年の集団的自衛権の閣議決定での容認、2015年の新ガイドライン改訂、戦争法制定、2017年の共謀罪強行採決、憲法改悪の策動となっているわけです。スノーデンの証言では、すでに日本に「Xキースコア」が渡されています。政府は市民の個人情報の収集をすすめ、監視を強化しています。

20175月には、空自美保基地からの教育飛行隊の浜松基地への移転が通告されました。この移転の背景には米軍の岩国基地の強化があります。岩国では基地機能の強化がすすみ、普天間からは空中給油機が配備され、2017年にはF35ステルス戦闘機が配備され、今年度中に厚木のFA18なども移駐する予定です。

岩国には130機ほどが配備されることになり、極東最大の米軍航空基地になります。それにあわせて日本はオスプレイやF35FA18にも給油できる新型空中給油機を空自の美保基地に2020年に配備する予定です。美保基地は米子空港としても使われ、手狭であり、美保の飛行教育隊を浜松に配備するというわけです。

このように米軍のグローバルな再配置と日本の軍事的支援拡大の動きがすすんでいます。各地を再び、戦争の拠点とする動きがすすんでいます。

 

おわりに

 

ここでは浜松の陸軍爆撃隊のアジア爆撃の歴史と現在の浜松基地の動向についてみてきました。

浜松基地内に陸軍爆撃隊発祥之地の碑があります。そこには陸軍の爆撃隊の歴史が肯定的に記されています。そこには戦後の支配的な歴史認識が示されています。当時、爆撃がおこなわれていることは公表されていました。南京陥落を提灯行列で祝ったように、爆撃を批判的にとらえる力は弱かったのです。

戦後もそのような歴史をきちんと批判できずに、今に至っています。アジアの戦争被害者の側にたち、批判的に考察する力が弱かったのです。被害と加害、そして抵抗の歴史を正しく記録し、継承することが求められます。

あらたな戦争の時代に生きています。命を守るには、平和的な関係が欠かせません。平和的な関係を形成するには、歴史を見る力、歴史認識が必要です。いまいちど、加害の歴史をとらえなおし、人間の尊厳を起点にアジアの非軍事の平和を構想するときです。

※ここで記した日本陸軍の爆撃と航空毒ガス戦については、『日本陸軍のアジア空襲』(社会評論社2016年)に記しました。お読みください。 

2017617日、浜松大空襲と平和憲法を心に刻む集会での講演記録に加筆)