12・14重慶大爆撃訴訟・東京高裁不当判決、抗議行動
●東京高裁、控訴を棄却
2017年12月14日、東京高等裁判所で重慶大爆撃訴訟の控訴審判決が出された。原告や支援者は判決前に高裁前で集会をもち、正義の回復と公正な判決を求めた。中国からの原告・支援の30人をはじめ、傍聴には100人を超える人びとがかけつけた。傍聴席は満席となり、裁判長が控訴を棄却した。それに対し、法廷内で不当判決弾劾!不当判決を許さないぞ!の声があがった。判決後、原告と支援者はデモと集会で抗議の意思を示した。
重慶爆撃とは、日中戦争期の1938年から43年にかけて、日本の陸海軍が抗戦の首都となった重慶(及び周辺地域)におこなった戦略爆撃である。浜松の陸軍航空基地から派兵された飛行戦隊もこの爆撃に加わっている。
この重慶爆撃での中国人被害者の声を受けとめ、日中共同での調査がすすみ、中国人被害者は2006年3月、東京地方裁判所に謝罪と賠償を求めて提訴した。原告には重慶だけでなく成都、楽山、自貢、松潘などの空爆被害者も加わった。原告数は追加提訴を含め、188人となったが、訴訟途中で亡くなった人も多い。
地裁での弁論では12人の原告が被害状況を証言した。これに対し、日本政府は事実関係の認否をせず、請求権は失われたと反論した。2015年2月、東京地裁は重慶への空襲の事実や空戦規則案の国際慣習法化は認定しながらも、重慶爆撃が国際法に反するという判断を回避し、原告の請求を棄却した。これに対して原告は控訴したが、東京高裁は2回で弁論を中止した。原告側は裁判長を忌避したが、認められなかった。
今回の高裁判決は、地裁判決での空戦規則案の国際慣習法化の認定をも削除し、原告の請求を棄却するというものだった。棄却の主な理由は、国際法に被害者個人の直接の損害賠償権はない、民法で国は損害賠償責任を負わない、国家無答責である、憲法には戦争被害への賠償義務はない、被害救済措置は内閣の裁量であるなどだった。
それは、無差別爆撃の反人道性を認知せず、戦争被害者個人への賠償を拒むものだった。
判決後の霞が関デモには100人ほどが集まった。中国からの参加者は、判決に抗議して賠償を求めるコールを、コブシをあげて中国語で力強くおこなった。日本語による控訴棄却糾弾!重慶被害者に賠償せよ!侵略の歴史を忘れない!などのコールも響いた。
その後の集会では、弁護士による判決の解説、前田哲男講演・11年間の重慶大爆撃被害者の闘いの意義、中国の原告・支援者の証言などがおこなわれた。
前田哲男さんは講演で重慶大爆撃裁判についてつぎのようにまとめた。
東京裁判では重慶爆撃は訴因から除外され、中国での内戦と文革のなかで重慶爆撃の研究には空白があった。また、日本人は中国への空爆という加害の事実に向き合ってこなかった。しかし、重慶市議会は1992年に重慶爆撃の民間賠償請求を提案し、2004年には重慶大爆撃被害者民間対日賠償請求原告団が結成され、訴訟に至った。11年間の訴訟で、原告が主張した無差別爆撃の事実については裁判所も認定した。いまも無差別爆撃はドローンによるものも含めて、新たな形ですすんでいる。今日を新たな出発点とし、歴史の真実が回復されるまで、さらに闘っていこう。
このような総括的な提起の後に、中国からの参加者が提訴と判決への思いを語った。
●重慶爆撃被害者の声
原告団長の栗遠奎さんは84歳、1940年8月19日の重慶爆撃で家や家財をすべて失い、1941年6月5日の爆撃では防空壕で二人の姉を失い、父は重傷を負い、自らも意識を失った。栗さんは、被害者のために正義を取り戻したい。今後も続けて闘いたい、戦争に反対しようと訴えた。
原告の陳桂芳さんは85歳、1939年8月4日、重慶の江北区で爆撃を受け、父母を失った。自らも頭、鼻、右腕に重傷を負い、孤児となった。頭の傷により、体調を崩し、不眠となった。陳さんは、これまで使った薬の量は体より重いほどだ。戦争は人間を壊す。戦争のない世界を求めて団結し、協力しようと呼びかけた。
原告の簡全碧さんは79歳、1939年5月4日の重慶爆撃で家と財を失い、1940年8月19日の爆撃では、父方の祖母が家の下敷きになって亡くなった。抱かれていた簡さんも右下腹部に大怪我をした。簡さんは、今回の判決はいやなものだが、勝つ日は来ると語った。
葉玉蘭さんは原告の李遠図さん(故人)の娘であり、訴訟を継いでいる。1940年7月31日の爆撃で、父の祖母は重傷を負って亡くなった。自宅の味噌工場は破壊され、全財産を失った。葉さんは、判決には不満であり、最後まで闘いたいと決意を示した。
侯岩琳さんは原告の危昭平さん(故人)の娘である。1940年7月5日の爆撃で重慶市?江の自宅に爆弾が直撃し、祖父と伯母が亡くなり、祖母も重傷を負った。原告になった母は控訴審判決前に亡くなった。侯さんは、祖父や母の無念を晴らすために来た。日本の友人と知り合い、事実を明らかにし、認識を広げてきた。爆撃を消し去ることはできないと訴えた。
成都の楊小清さんは原告の安緒清さん(故人)の娘である。1939年6月の成都爆撃で伯母が亡くなり、祖母は重傷を負った。母は足に破片を受け、杖の生活を強いられた。空爆で全てを失った。楊さんは、判決には不服であり、歴史を否定することはできない。日本の友人の支援に感謝すると話した。
楽山の原告を支援する楊追奔さんは、楽山への1939年8月19日の爆撃は日本軍機36機によるものであり、街の3分の2が破壊され、1万人以上が死傷したと話した。楽山からは55人が原告となり、提訴後10年で30人ほどが亡くなった。楽山は軍事力のない街だったが爆撃され、火災は3日間続いた。川の船へと機銃掃射もおこなわれた。死体が川を流れた。すべてが破壊され、人びとは貧困になった。8・19広場を作り、祈念碑を建てた。ヤンさんは、集まった皆さんの姿から明るい未来がみえると、感謝の意を示した。
重慶裁判の中国側主任弁護士の林剛さんは、重慶爆撃が日本帝国主義による人類史上、野蛮な行為であり、人道に反するものいう認識を示した。また、両国の民間人個人の共同の闘いが大切であり、それが未来を拓くものとし、訴訟を通じて新たな戦争を止めよう、最後まで闘おうと呼びかけた。
成都爆撃の原告の親族の馬蘭さんは、1941年7月21日の爆撃で家族を6人失った。母の祖父は教会にいて難をのがれたが、心理的な打撃もあり、1年ほどで亡くなった。母は87歳になるが、体には破片がはいったままであり、杖をついての人生を送った。馬さんは、母の代わりに来日した。生きている限り闘いたいと思いを述べた。
このように中国からの参加者がそれぞれの思いを述べた。集会での発言は、人びとの日本軍による爆撃の記憶を示すものであり、この地に集うことになった人びとのなかにある思いの一端を示すものだった。
集会では最後に、中国側の呼びかけで、両国語でインターナショナルを歌った。それは、国境を越えて人民が連帯し、これからも闘い続けるという意思表示であった。
日本軍は中国各地を爆撃した。爆撃だけでなく、地上戦では無人区を設定し、多くの民衆を殺害した。細菌戦・毒ガス戦も実行した。鉱山などで強制労働がなされ、「慰安婦」とされて動員された人びともいた。日本による戦争は、現場では、首を切られ、皮を剥がれ、焼き殺されるなど、多くの生命を奪うことになったのである。そのようにして奪われ、傷ついた、一つひとつの被害者の命の地平から、戦争をとらえ直す視点が必要だ。
真相を究明し、その責任を追及することが求められる。都合よく塗り替えられた歴史の物語が「歴史戦」の名で流されているが、そのような偽りをはねのけたい。爆撃の事実と尊厳回復を訴える中国からの参加者のまなざしと声に学んだ一日だった。(竹)