第11回強制動員真相究明全国研究集会・沖縄
● 沖縄での第11回強制動員真相究明全国研究集会
2018年3月17日、沖縄大学で第11回強制動員真相究明全国研究集会が開催され、150人が参加した。
集会での報告は、石原昌家「天皇制を守る戦闘だった沖縄戦」、塚ア昌之「朝鮮人軍人・軍属の動員の実態とその被害」、沖本富貴子「沖縄戦で軍人軍属に動員された朝鮮の若者」、具志堅隆松「沖縄戦遺骨収集ボランティア・ガマフヤー」、高里鈴代「なぜ沖縄にこれほどの「慰安所」ができたのか」、渡辺泰子「朝鮮料理店・産業「慰安所」と朝鮮の女性たち」、竹内「明治日本の産業革命遺産 三池・高島など九州の炭鉱への朝鮮人動員数」である。
石原さんは、沖縄戦が軍官民共生共死の一体化をねらう戦争動員であり、防諜の下、軍とともに死ぬように住民が洗脳・強制されたという認識が重要であるとした。また、米軍の降伏文書を私有するものをスパイとみなし、銃殺と記された久米島の鹿山隊の文書をあげ、当時の軍の方針と姿勢、住民への監視と動員の状況を示した。
塚アさんは、朝鮮人志願兵・徴兵の実態を示し、動員数は37万人以上であるとした。また、行方不明が死者として扱われないなど、被害が過少に示されている実態を示し、死亡者数は公表の2万2000人よりも多いとした。そして、死者の未通知、南方での戦死・飢死、軍での奴隷的扱いなどの例を示し、日本政府が史料の公開をすすめ、動員状況を明らかにすること、動員被害者の痛みを知ることが大切と話した。
沖本さんは、沖縄戦での朝鮮人軍人軍属の動員について、朝鮮人学徒兵の言葉を紹介しつつ、朝鮮人が数多く在籍した特設水上勤務隊、防衛築城隊、野戦航空修理廠、海軍設営隊などの動員状態について説明した。特に特設水上勤務隊についての動員と沖縄戦への投入結果を分析し、102・104中隊の壊滅状況を示した。そして、死亡・行方不明の詳細な調査、靖国合祀の取り消し、供託金の返還、平和の礎への追加刻銘などの課題を示した。
具志堅さんは、骨をみつけて国家に渡すだけでいいのか、火葬し収納しさえすればいいのかと問いかけた。また、遺骨は、戦没者墓苑ではなく、DNA鑑定をおこなって遺族の元に返すことが大切である、戦争は国家による犯罪であり、人を殺すこと、自分で自分を殺すことはまちがいであると訴えた。さらに、サイパンや沖縄で家族を亡くした例などをあげ、追悼は国ではなく、地域や家族がするものと話した。
高里さんは、沖縄の145か所に慰安所ができた理由を、軍による性の統制があり、慰安所が軍の後方施設とされ、転戦してきた部隊が中国で慰安所をもっていたことなどをあげた。また、沖縄への11万の部隊の移動に伴い、軍が慰安所を開設させ、監視したこと、慰安所が民家を接収するなど設置されたこと、慰安婦と住民との交流証言などを示した。そして、新たな暴力を許さず、歴史の真実を知り、記憶することを呼びかけた。
渡辺さんは、産業慰安所・朝鮮料理店について夕張、函館、いわき、松代、天理、高島、飯塚などでフィールドワークをおこない、高麗博物館で展示を開催した経過を報告した。動員された本人の証言はないものの、周囲住民にはみたという証言が多数あり、委託経営による炭鉱用の慰安婦が存在したことは事実である。高麗博物館での展示は好評であったが、今後も調査を続けるとした。
竹内は、明治産業革命遺産をめぐる歴史の歪曲の動きを指摘し、ガイドブックの作成と映像の制作について報告した。また、石炭統制会「支部管内炭鉱現況調査表」での「集団移入」の現在数・移入数・解雇数などの記載から1942年4月から45年1月までの約20か月分の、九州・山口の59の炭鉱と3つの統制組合での月ごと、炭鉱ごとの集団移入数が判明するとした。そして、明治産業革命遺産関連で三池、高島、二瀬の炭鉱での動員状況を示した。
討論では、日本政府による法的解決済み論の批判、中島飛行機武蔵工場とその周辺での朝鮮女性、壱岐・対馬の遺骨問題の解決、沖縄での遺骨収集とDNA鑑定、日韓両政府の遺骨返還への姿勢の問題、朝鮮戦争の死者のDNA安定同位体の調査の現状、震災犠牲者へのDNA鑑定の実施の状況、沖縄での慰安婦問題での関心状況と追悼の現状、チビチリガマの破壊事件とその修復状況、天皇制護持のための沖縄戦と松代大本営建設との関係、戦争の記憶についての意見や質問が出された。
集会後の交流会がもたれ、全国からの参加者の挨拶、沖縄の海勢頭豊さん、知花昌一さんの歌、沖縄の実行委の「いまこそ起ちあがれ」、韓国からの参加者の「アチミスル」の歌などが歌われ、盛会だった。
http://ksyc.jp/sinsou-net/20180317oknawa-siryou.pdf
●沖縄戦と朝鮮人動員のフィールドワーク
翌日の3月18日には沖縄本島南部での沖縄戦での朝鮮人の動員の実態を追究するフィールドワークがもたれた。
フィールドワークでは最初に、旧喜屋武村の山城(やまぐすく)地区を歩いた。ここは朝鮮人が動員された部隊のひとつ、特設水上勤務第102・104中隊が壊滅した地点である。
山城の構築壕口まで行き、具志堅隆松さんが、軍用スコップ、ナタ、髭剃り、箸入れ、兵のボタン、砲弾の破片など当時の遺品を示し、遺骨を収集した経過を話した。この付近では親子を含む遺骨が収集されている。
第62師団輜重隊の山城付近戦闘経過要図には、「水勤102中隊」の文字が記され、6月20日に山城の全陣地が占領され、21・22日と米軍が軽油投下と火炎放射により山城高地一帯を焼き尽くし、守兵の大部分が焼死したと記されている。
第32軍残務司令部の記録では、102中隊が6月19日に最後の弾薬輸送をおこない、20日、山城の陣地に帰るが、洞窟が戦車の攻撃を受け、20・21日で中隊は壊滅したとする。
102中隊の留守名簿では死者は106人、うち山城で死者65人と処理しているが、死亡認定は一部のまま今に至る。
続いて山城の東方の旧摩文仁村米須(こめす)地区に移動した。
米須のアガリンガマでは、住民が日本軍とともに全滅した。女性1人が生き残った。日本軍は住民の脱出を許さずに戦闘したのである。その跡には、追悼碑があり、そこで当時の状況を聞いた。
アガリンガマ、ウムニーガマ、カミントウ壕の3つのガマで米須住民の288人が亡くなった。米須は激戦地であり、住民の半数が死亡した。294世帯のうち半数以上が死亡した世帯は128世帯、一家全滅は62世帯という。
米須では、大城弘明さんの案内で、一家全滅となり、今では空き地となった場所を数カ所、見学した。3月末の沖縄は20度を超え、うりずんとよばれる初夏、無住の土地にもキンレンカやアカバナが咲いていた。
米須には魂魄の塔がある。死亡した人びとは、放置されたままであったが、戦後に収集された。1946年、当初500体の遺骨が集められ、塔が建てられた。その後、南部から3万人余の遺骨が収められた。そこには、朝鮮人軍人軍属などの遺骨も含まれていたとみられる。遺骨の多くは1979年に摩文仁の沖縄戦没者墓苑に移されたという。
米須の南は小渡(ウドゥ、いまは大度という)の浜である。海岸には浸食されてできたガマやサンゴ礁に囲まれた浅瀬であるイノーがある。礁池であり、青色の澄んだ海水に小魚やサンゴ、藻が生息する。青色や黒白の熱帯魚が泳ぎ、人影に向かって集まってくる。陽光が海に色彩を与える。ここから旧日本軍の司令部壕があった摩文仁はすぐ近くだ。
沖縄南部の喜屋武岬、荒崎海岸、摩文仁は日本軍と住民が追いつめられた場所であり、死者も多い。この摩文仁の丘に、沖縄戦の追悼碑である平和の礎があるが、近くに、韓国人の慰霊塔がある。この碑は1975年に建立され、韓国人1万人余が動員され、死を強いられたことが記されている。碑は墳墓の形をとり、韓国各道から運ばれた石で覆われている。沖縄の朝鮮人関係の追悼碑はほかに嘉数の青丘の塔、読谷の恨の碑などがある。
フィールドワークでは最後に平和の礎を訪れた。平和の礎は波状に広がっているが、その左方に朝鮮人の名が刻まれた一角がある。2017年末現在、朝鮮人の死亡者は462人分が刻まれている。2017年になり、朝鮮人名はあらたに15人が刻まれた。遺族と市民団体の要請により、沖縄県は朝鮮人について、死亡証明がなくても死亡を確認できる資料があれば、刻銘するようになった。しかし、まだ462人でしかない。平和の礎の朝鮮人用の壁面で刻銘された場所は一部である。刻銘を待つ面が広く残る。
日本政府は戦後、朝鮮人動員者に関して、きちんとした死亡認定をおこなわず、死亡推定・不明のまま放置してきた。102中隊だけで700人ほどの朝鮮人が配属されていた。102・104中隊は壊滅したのであり、生存者はほんのわずかとみられる。この2つの中隊の死者だけで1000人を超えるだろう。今からでも遅くはない。死亡認定作業を韓国政府とともにすすめるべきだ。
朝鮮人動員者の多くが生死の別が認定されないまま放置され、刻銘されることもできない。それは植民地主義の継続を示している。沖縄戦を植民地支配、皇民化、戦争動員の視点でとらえ直し、失われた死者の名を探し、刻銘する。遺骨があれば、遺族の元に返還する。死者の名を明らかにし、その尊厳を基礎に、その名を刻むことは、植民地主義の克服の第1歩である。
フィールドワークは、沖縄戦を、創氏名とされ、その生死の確認さえ放置され、刻銘さえできない朝鮮人動員者、その遺族の視点でみることを呼びかけるものだった。
●集会参加者の声(集会・フィールドワーク後のインタビュー)
朝鮮人強制動員に焦点を合わせて企画され、集会、フィールドワークともよかった。
沖縄で5団体が後援し、全国からと沖縄からの半々で150人の参加者があった
沖縄に動員された朝鮮人を中心に、具体的に分析がなされていた。
沖縄で作ったパネルが充実していた。
沖縄南部、山城での水上勤務隊の全滅状況を歩いて考えることができた。
軍民共生共死の戦争の結果の朝鮮人の死者の名は、いまも記されていない。
遺骨は遺族に返すべきという点が明確に出されたことが良かった。
沖縄戦での沖縄の加害の面が示された。それをふまえ、東アジアの連帯を考えたい
沖縄での植民地支配、皇民化、強制動員の視点で、沖縄をとらえ直すという提起があった。
沖縄戦とは、朝鮮人動員とは、遺骨はどうするか、など、考えた。
韓国からの参加者の意見をもう少し聞きたかった。
南部で一家全滅によって無住の箇所が点在している姿をしることができた。
沖縄戦の実態を、現場を歩いて知ることができた。
国家は遺骨や魂を靖国に奪うことはできない。
6.23の32軍司令官の自死の背景には、バックナー中将の死亡と松代大本営の完成予定とが関係しているとみられる。
交流会の際、沖縄でペポンギさんを支えた在日の声を聞けて良かった。
沖縄の強制動員について冊子を作りたい。
※詳細については、研究集会の資料集を参照してほしい。また、集会での参考資料に
沖本富貴子「沖縄戦に動員された朝鮮人に関する一考察 −特設水上勤務隊を中心に−」(沖縄大学地域研究所『地域研究第20号』2017年12月)がある。
● 久米島を歩く
フィールドワークの後、1日をとり、久米島を歩いた。
沖縄戦にあたり米軍は慶良間を制圧し、慶良間と久米島の間を通り、沖縄本島に上陸した。久米島では直接の戦闘はなかった。久米島には海軍の電波探信隊が配置されていたが、この部隊が住民の虐殺事件をおこした。沖縄戦のなか、日本の海軍部隊が米軍と関係したとみなしたものや朝鮮人の一家をスパイとして処刑したのである。
飛行場の近く、北原地区では浜に上陸した米軍偵察部隊が情報を得ようと住民を拉致した。日本軍は拉致され、帰還した住民を家族ごとスパイとして虐殺した。有線電話保守係が日本軍の陣地で殺された。これらの事件は6・23後に起きた。また、沖縄戦で米軍の捕虜となり、艦砲射撃を止めるよう求め、久米島で投降を呼びかけた青年の一家も虐殺された。8・15後のことである。さらに沖縄女性と久米島で生活していた朝鮮人具仲會ら一家が、0歳児も含め、皆殺しにされた。
久米島の鳥島地区の農地のなかに墓地があり、その一角にこれらの虐殺事件の追悼碑「痛恨の碑」が建ある。痛恨の碑の文字の上に「天皇の軍隊に虐殺された久米島の住民・久米島在朝鮮人」と刻まれ、下部には、安里正二郎氏、北原区長小橋川共晃氏、警防団長糸数盛保氏、宮城栄明氏一家3名、比嘉亀氏一家4名、仲村渠明勇氏一家4人、谷川昇(具仲會)一家7名と犠牲者が刻まれている。
陸軍は久米島をはじめ沖縄の島々に陸軍中野学校や同二俣分校で訓練した残置諜報員を派遣し、ゲリラ戦を準備した。久米島には学校の訓導や青年学校の指導員として、二人が派遣された。かれらは、その素性を隠し、偽名で生活し、現地で女性と結婚し、住民の監視と戦時の遊撃隊動員をねらった。この残置諜報員についての調査も求められる。
久米島の上江州(うえず)、大岳小学校の近くには、久米島町による追悼碑があり、1931年から45年にかけての久米島出身者の戦争死者の氏名が刻まれている。その数は1100人にも及ぶ。直接戦場にならなくても、沖縄本島など各地の戦場に軍人や軍属として動員される、あるいは他の島に移民するなかで死を強いられた人びとが数多かったことがわかる。
沖縄戦とは天皇の政府を防衛するためのものであったが、言い換えれば、それは沖縄の大地と民衆を捨て去るものであり、民衆が生命を奪われることだった。植民地支配と皇民化政策による戦争への強制動員は、民衆の多数の死をもたらした。集団死や住民虐殺も起きた。久米島での住民虐殺はそのひとつである。
久米島の北部の山に宇江城の城跡が残っている。15世紀の石積のグスク(城)である。ここからは慶良間、粟国が遠望できる。久米島の宇江城は支配の拠点であり、交易の監視の場でもある。米軍統治期はこの城に入る道が封鎖された、城に行けなかったという。
北部には石灰岩と凝灰角礫岩が浸食され、ミーフガー(女岩)と呼ばれる岩や艦船のような形状となった岩がある。ミーフガーは浸食されて穴があいている。その形状が子宝信仰を生んでいる場所であるが、近くの砂浜をみると、サンゴが凝固した岩の下には溶岩があり、多数の岩が溶け込んでいる。ここの砂は白色と黒色の砂が混じったものである。この島が火山活動で形成され、その上にサンゴ礁ができ、それが隆起して大地となり、その上に人間の生活が営まれてきたことがわかる。
人びとはその命を育む海と太陽を大切にし、ニライカナイを信仰してきた。サンゴは満月の夜に産卵し、命を伝える。そのサンゴの上に生きる人びとも月日のなかで命を育む。戦争はそのような命を破壊する。人殺しを正当化する言葉が流されるが、それに抗う人びともいる。
今、日本政府は、与那国、石垣、宮古など沖縄の島々に新たにミサイル基地を含む軍事基地の強化をすすめている。沖縄本島の辺野古ではアメリカの軍事基地建設が強行されている。沖縄の空はアメリカの管制下にあり、そのすきまを日本の民間機が利用している。海も同様だ。沖縄での軍による植民地主義は形を変えて継続し、旧植民地支配での戦時動員の問題は放置され、未解決のままである。
反基地建設の現地での運動とともに、この継続する植民地主義を変革する歴史認識の形成が求められる。 (竹)