2018・5 「日帝強占期朝鮮人強制動員犠牲者の遺骨問題」集会開催
●5・18 日帝強制動員被害者支援財団の遺骨問題集会
2018年5月18日、ソウルのプレスセンターで、日帝強制動員被害者支援財団による学術大会「日帝強占期朝鮮人強制動員犠牲者の遺骨問題」がもたれ、150人ほどが参加した。
この集会は、日帝強制動員被害者支援財団が強制動員委員関係の遺骨についての政府・国民の関心を高めるために企画され、遺骨問題の実態を把握し、真相究明の基礎とするためにもたれた。日帝強制動員被害者支援財団は韓国政府の行政安全部の下にある財団である。集会では、今後の韓日両政府による遺骨の共同調査と遺骨返還にむけて、韓国政府の責任が喚起された。
集会での報告は、南相九「日帝強制動員朝鮮人の遺骨問題の歴史的経緯」、竹内康人「日本内強制動員犠牲者の実態と遺骨問題」、金旻栄「九州地域の朝鮮人強制動員犠牲者の現状と遺骨実態」、韓恵仁「北海道椅地域の朝鮮人強制動員実態と遺骨奉還問題」の順になされた。また、韓国政府行政安全部の韓仲九(過去時関連業務支援団の対日抗争期強制動員被害調査研究科課長)「政府の強制動員遺骨奉還の進行状況」の報告があった。その後、報告に対する金広烈、崔永鎬、呉日煥、金慶南の各氏による指定討論がなされた。
●強制動員の状況と遺骨
南相九報告は、アジア太平洋各地の朝鮮人遺骨の状況、朝鮮人軍人軍属遺骨の返還の概要、日本による遺骨収集推進法での日本人限定などを示した。日本が、北への遺骨返還により、訴訟が起きれば敗訴が確実とみたため、1970年代の韓国政府への遺骨返還が止まったことも指摘した。
また、遺族が、政府が使命感を持ち、心を込めて、解決への方策を立てていない、無念の死を遂げた人びとを見つけて国へ返すという意思がないことは植民地の陰から脱していないこと訴えたことを示した。そして、韓国政府には遺族の意思を最大限尊重しての遺骨返還に取り組む責務があることを指摘し、その行動が韓日両国の友好的関係をつくるとした。
竹内報告は、労務・軍務での強制動員数、死亡者数、軍人軍属遺骨返還の経過、遺骨と供託金の分離、北海道から沖縄にかけての朝鮮人遺骨の発見状況、遺骨返還への市民の運動の動きなどを示し、今後の課題をあげた。
課題としては、日韓両政府による遺骨返還への協議の再開、死亡者調査、遺族への返還を基本とし、無縁遺骨についても返還をすすめること、韓国での強制動員委員会調査資料の公開、真相糾明の報告書類の日本語訳の推進、日本政府と企業による強制労働の認知とその歴史的責任の自覚、その資料の公開、事実を明らかにしての正確な返還などをあげた。
●北海道と九州の強制動員と遺骨
金旻栄報告は、九州での強制動員の実態を明治鉱業の西杵炭砿と平山炭鉱を例にあげ、佐賀県の炭鉱事故と死亡状況を寺院調査資料から示した。また、戦後の遺骨返還の動きを示し、日韓両政府の対立のなか、韓国強制動員委員会が労務動員被害者と認定した遺骨が軍人軍属遺骨の返還に準じて返還されるようにするという動きが中断され、強制動員委員会が機能麻痺を強いられた状況を示した。
さらに、今後の課題として、韓国政府の責任の自覚、民間との役割分担と協力、遺骨問題対策の確立などあげ、情報と記録の提供、遺族への公式の通知、見舞金・弔慰金の支給、追悼事業の実施、強制動員現場の記録・保存が必要とした。そして今後の対応策として、強制動員問題の専門部署の復活、日本での実地調査の復活・拡大、対日協議での調査・遺骨収集・奉還の手続きの制度化、遺骨情報の公開・情報の提供、市民団体との共同体制の構築、被害情報の集約・管理・一般公開などを提起した。
韓恵仁報告は、北海道での死亡状況と遺骨問題について、労働者災害扶助法、労働者災害扶助責任保険法、国民徴用扶助規則などを示し、北海道炭礦汽船と住友鴻之舞鉱山での状況を例に、死亡者への対応を分析した。また、労務動員されても事業場によって法適用が異なっていたこと、徴用扶助の適用を受けなかった動員者が存在すること、遺骨が遺族に返されなかったケースがあること、動員において行政が関与したにもかかわらず、行政が責任を負わない形で処理されたケースなどを示した。そして、遺骨1体1体に対する真相糾明とその責任を問うことが求められているとした。
●問われる韓国政府の意思不足
これらの報告を受け、指定討論がなされた。討論では、韓国政府の日帝強占下の犠牲者への事後処理が消極的であることが指摘され、韓国政府内に外交通商部・行政部・保健福祉部などの壁を越えた専門的担当組織をつくるべきという意見が出された。
また、現在寺院に保管されている遺骨すら韓国の返還できていないのは、日本政府の責任と言うより、韓国政府の意思不足の結果であり、韓国政府の早急な対応が求められる問題であると政府の対応を厳しく批判する意見も出た。。
会場の遺族からは、遺骨問題が進展しないことに対して、憤りの声があがった。
●遺骨問題集会に参加して
朝鮮人遺骨問題は冷戦下、継続してきた植民地主義を象徴するものである。日韓両政府は過去の清算をめざし、専門担当組織をつくって協議をすすめるべきときである。日本政府は歴史歪曲に加担することなく、歴史的な責任の自覚が求められる。強制労働の否認などの歴史の歪曲に抗して、市民運動があきらめることなく活動をすすめること、それが歴史的責任の自覚につながり、未来をきりひらく。
日本では2018年に入り、遺骨奉還宗教者市民連絡会が結成された。埼玉の金乗寺で保管されてきた対馬・壱岐の遺骨が、壱岐の天徳寺に移管されることになるが、それらは日本政府が管理する遺骨であり、その返還を新たな遺骨返還の嚆矢とすることができる。日本政府にはこの遺骨について返還の意思があり、韓国側からの要請が求められる。
強制動員問題には、真相究明、被害の尊厳回復・裁判闘争、追悼・遺骨収集の3つの領域がある。生きている被害者から解決すべきという意見もあるが、遺骨は後回しにするという判断をすべきではない。どれが入口でも出口でもなく、できるところから始め、並行的に解決していけばいい。真相が究明できない無縁の遺骨もある。有縁の者が無縁の遺骨について大切にすることに、その社会の価値がある。どこかで折り合いを付け、植民地支配の下で無縁を強いられた遺骨について故郷に戻すことができるような制度をつくるべきだろう。
当面、韓国の支援財団の活動を強めつつ、韓国政府内に遺骨問題解決のための担当組織を作ることが求められる。韓国内で収集された強制動員関係資料の公開、被害者口述・被害調査報告書などの日本語訳の発行、それらは日本での強制動員否定などの歴史歪曲を撃つ力になるだろう。
以下、竹内報告文
朝鮮人強制動員の実態と遺骨の現在 2018・5・18
はじめに
韓国での過去清算の動きがすすむなか、2004年11月、韓国で日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会が設立された。同年12月、鹿児島での日韓首脳会談で盧武鉉大統領が日本政府に徴用者等の遺骨の返還について要請した。
その後、日本政府は調査をすすめたが、政府間でおこなわれた返還は2008年から10年にかけての東京の祐天寺の軍人軍属の遺骨だけである。遺骨の返還要請から10年以上が経過したが、この間、民間による遺骨の返還の例はあるものの、日本政府による徴用者等の遺骨の返還はおこなわれていない。遺骨は残されたままであり、韓国で遺骨返還の活動を担ってきた強制動員被害調査委員会の活動は2015年末で終了させられた。
日本に残る朝鮮人の遺骨は、日本による植民地支配と強制動員、いまも継続する植民地主義を象徴するものである。その返還は、この植民地支配の歴史と継続する植民地主義を克服し、平和と友好するための作業である。その作業が中断している。
ここでは、遺骨問題の解決にむけて、「朝鮮人の強制動員の実態と遺骨の現在」の題で、日本への強制動員数とそこでの死亡者数、日本に残る朝鮮人遺骨の現状、その返還にむけての課題について記したい。
では、日本による朝鮮の植民地支配下での強制動員の実態からみていこう。
1 朝鮮人の強制動員の実態
@ 労務・軍務での朝鮮人動員数
日本への労務動員数80万人
日本への労務や軍務での朝鮮人の動員数についてみてみよう。
朝鮮人の労務動員は1939年から45年にかけてなされたが、日本への労務動員数は約80万人とみることができる。この数値は、内務省の内鮮警察の統計史料(『種村氏警察参考資料』所収)と元朝鮮総督府鉱工局勤労動員課長豊島陞のメモなどによる。
内鮮警察の統計史料には、日本の各都道府県への動員数を示す朝鮮人移住状況調、事業場数調などがある。1943年末現在の「労務動員関係朝鮮人移住状況調」(『同参考資料』第110集)からは、1939年から43年末にかけて、49万2955人が日本に動員されたことがわかる。この数値は、縁故募集を含む、割当募集・官斡旋・徴用適用による労務動員の数である。「昭和19年度新規移入朝鮮人労務者事業場別数調」(『同参考資料第98集』)からは、1944年度の朝鮮人の動員予定数が29万人であったことがわかる。
朝鮮総督府鉱工局の元勤労動員課長豊島陞のメモは、戦後、政府に提供されたものであるが、そこには1942年度11万9721人、43年度12万8296人、44年度28万5682人、45年度1万622人の動員数が記されている。豊島メモには、1942年以降の月ごとの動員数や朝鮮各道からの産業別の動員状況なども記されている。このメモから、1944年から45年度にかけての動員数を約30万人とすることができる。
この2つの資料から1939年から45年までの朝鮮人の日本への労務動員数を約80万人とみることができるわけである。
なお、九州・山口での年月ごと、炭鉱ごとの動員状況については、石炭統制会福岡支部の統計史料「支部管内炭礦現況調査表」からわかる。この史料には「集団移入」の項があり、1942年から45年1月までの約20か月分の月ごと、炭鉱ごとの動員数や現在数が判明する。
軍人軍属動員数37万人
つぎに、軍人軍属など軍務による日本をはじめアジア各地への動員状況をみてみよう。
外務省は「朝鮮人戦没者遺骨問題に関する件」(1956年)で、朝鮮人の軍人軍属数を、陸軍約25万7000人、海軍約12万人の計約37万7000人とした。この数字の根拠は、陸軍の留守業務資料と海軍の復員資料によるものである。
日韓会談がすすむなか、厚生省援護局は1962年に、「朝鮮在籍旧陸海軍軍人軍属出身地別統計表」を示し、24万2341人とした。
朝鮮人軍人軍属数が37万人から24万人に減少している。陸軍の復員を担当した留守業務関係の資料をみると、動員者の集計の段階で、名簿があるものと名簿のないものを別個に集約していることがわかる。陸軍留守名簿や海軍軍人軍属個表など残された名簿から集計できた者の数が24万人ほどであり、名簿は失われているが、部隊史料などで存在が確認できるものが10数万人いるわけである。
厚生省は1962年の統計で、陸軍・海軍の名簿がないものを省いて示したのである。
A 死亡者数
では、このような動員による死亡者はどれくらいであったのだろうか。労務動員の死亡者からみてみよう。
筆者は強制連行期(1939〜45年)の日本とその周辺での死者数を労務・軍務合わせて、1万人ほどの名簿を作成した(『戦時朝鮮人強制労働調査資料集 連行先一覧・全国地図・死亡者名簿』)。死亡状況からみて、強制連行期の労務動員での死者は1万5000人を超えるものになるだろう。
1945年の原爆など空襲による死者については不明なものが多い。韓国原爆被害者協会では、被爆した朝鮮人は広島で5万人、長崎で2万人の計7万人とし、被爆死は広島で3万人、長崎で1万人の計4万人、被爆者のうち2万3000人が朝鮮半島に帰国し、7000人が日本に残ったと推定している。被爆死は4万人ほどとみられる。
軍務の動員では、1962年に厚生省援護局は「朝鮮在籍旧陸海軍軍人軍属出身地別統計表」で死亡者を2万2182人
とした。これは名簿が残っているものの集約数である。
この統計には、復員と死亡の欄しかない。行方不明のものがあったにもかかわらず、その真相調査は打ち切られ、統計が作成された。満洲などでの死者のうち氏名の不明のもの、あるいは行方不明とされているもので、死者から除かれた者もある。この死者数2万2182人は判明分であり、これ以上の死者が存在したとみられる。
日本での労務動員での死者1万5000人、軍務動員での死者2万2000人に、日本での原爆など空襲での死者4万人を加えれば、戦時動員期の朝鮮人犠牲者は8万人近くになる。
2 朝鮮人遺骨の状況
全国各地に朝鮮人の無縁遺骨がある。それらの遺骨は、植民地支配による戦時の労務や軍務への強制的な動員のなかで死亡したもの、戦後に死亡して無縁となった人々のものである。戦後、民間遺骨については、民団によって約2200体が韓国内に返還されているが、放置されたままの遺骨も数多い。
遺骨問題は、全国規模での遺骨調査、遺骨の返還、政府と企業自身による真相糾明と遺族調査、賠償と再発防止のための基金の設立、強制労働の現場を国際友好の拠点とすることが求められる。
アジア太平洋戦争での日本人の死亡者は310万人であり(含む朝鮮・台湾)、このうち軍人・軍属・準軍属230万人、「外地」で死亡した民間人は30万人、戦災死者が50万人である。海外での死亡者は240万人であるが、116万人の遺骨が収集されていない。海外戦没者の遺骨の収集は1953年から始まり、第1次で1万1358体、第2次で8万2679体、第3次で9万3628体が収集された。
そこに朝鮮人の遺骨も含まれていたはずであるが、その説明はなかった。日本政府として、日本軍に組み込まれた朝鮮人軍人軍属を対象とした遺骨の収集をおこなわなかった。
@ 軍人軍属の遺骨返還
1950年代の外務省の史料から朝鮮人遺骨の状況をみてみよう。
「朝鮮人戦没者遺骨問題に関する件」(外務省アジア局第一課1956年6月7日)には、朝鮮人軍人軍属の動員数、死亡者数、未払い金額、遺骨の返還状況などが記されている。
すでにみたように、ここでは朝鮮人軍人軍属の数を約37万7000人とし、推定を含め、死亡者数を陸海軍の合計で2万2345人(陸軍9119人、海軍・暫定値1万3226人)としている。
遺骨と霊璽の返還については、陸軍分では終戦前に渡したものがあるが、実数が不明であるため、未渡し分を9119人とし、そのうち実骨を1548人とする。海軍分では終戦前に鎮海で2000人、内地で400人を渡し、終戦後は1948年の2月と5月に約8000人分を渡したとする。未渡しは2800人分であり、そのうち実骨は約800人分としている。
このとき、外務省は放置された遺骨を渡す手段を考え、韓国内で南北の戦没者名簿を公開し、遺族の申し出を受けて、韓国政府機関の協力のもとで遺骨公示と遺族証明をすることが「無難」と考えていた。
この史料には、未払い金についても記されている。そこには、戦没者の埋葬料、引取費、未払い給与などは政令22号によって供託され、その金額は、陸軍は3300万円、海軍は6000万円の計9300万円となる。1947年の未復員者給与法では埋葬料310円・引取費270円の計580円が支出され、これは朝鮮人にも適用されるが、現行法の1953年の未帰還者留守家族等援護法では、葬祭料3000円、引取費2700円の計5700円が、日本人以外は不適用となる。しかし、これでは韓国側の同意を得ることはできない。また、すでに復員した者の未払い給与分もある。よって給与関係は、遺骨の引き渡しとは切り離し、請求権問題で一括して交渉することが「得策」などと記されている。
この戦没者の供託金(未払い金)の内訳については、「朝鮮戦没者遺骨問題に関する説明資料」(アジア局第一課・1956年9月20日)に詳しく記されている。
それによれば、供託金の戦没者分は陸軍7154人分、780万8329円、海軍1万1216人分、3856万6038円であり、合計すると1万8370人分の4637万4367円となる。さらに供託金には復員者7万1218人分の1194万1748円があり、総計は9131万6115円である。この史料には、遺骨引き取り料や葬祭費、遺族扶助料に関する身分別の支払い規定などが示され、恩給は適用なしと記されている。
未返還の遺骨の実態については、厚生省引揚局から外務省アジア局未帰還調査部への通知文(援発第661号・1955年)にも記されている。
それによれば、氏名が判明している遺骨は2651体とされ、南北別に分類され、陸軍では1456体(南1089体、北352体)、海軍では870体(南741体、北121体)である。保管場所は、陸軍が福岡県民生部世話係や未帰還調査部、海軍は呉施設部などと記されている。
これらの史料から、外務省が1956年段階で、朝鮮人軍人軍属の動員数を37万人以上とし、死者は判明分で2万2000人を超え、未払い金の供託金は9000万円を超えると把握していたことがわかる。
遺骨・霊璽の未返還数は、1956年の時点で、陸軍については終戦前に返還した数がわからないため、未返還を9119人とみなし(実骨は1548)、海軍を2800人(実骨は800)としていた。ここには、満洲などに動員されて死亡したが、名簿が失われている者は含まれない。未返還の遺骨のうち、氏名判明分の遺骨(遺品)は1958年から71年まで厚生省引揚援護局霊安室で保管され、1971年になり、2326体が祐天寺へと移管されたのである。
遺骨の返還と未払い金の支払いは本来ともにあるべきであるが、外務省による遺骨と未払い金を分離するという方針はその後も貫かれ、未払い金の支払いは請求権交渉のなかに組み込まれた。その後の「経済協力」という政治決着のなかで、日本政府が直接、被害者や遺族に未払い金や補償金を渡すことはなかった。死亡が通知されないままのものも多く、遺骨も放置されてきたのである。祐天寺の朝鮮北部出身の遺骨は返還の糸口がないままである。
A 遺骨をめぐる2004年から07年までの動き
遺骨をめぐる2004年から2007年までの動きをみておこう。
2004年11月、「日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会」が発足し、2005年2月からは被害申請が始まり、その申請は20万件を超えた。そのうち労務動員関係の申請は約14万6000人、うち死亡・行方不明は約2万3000人であった。この動きのなか、2005年7月、日本で強制動員真相究明ネットワークが結成された。
最初にみたように2004年12月の日韓首脳会談の場で、韓国側は日本に対して遺骨の返還について要請した。それにより日本政府の調査が始まった。遺骨調査は厚労省職業安定局の人道調査室が担当したが、予算も人員も不十分だった。2005年5月、日本政府は連行関連企業108社に調査票を送った。
日韓の政府間での審議官級での遺骨問題の協議が始まり、5月末には「朝鮮半島出身旧軍人・軍属及び旧民間徴用者等の遺骨問題に関する日韓協議」がもたれた。そこで、人道主義・現実主義・未来志向の3原則を確認し、民間徴用者と軍人軍属の遺骨の返還に取り組むことになった。各地の寺院や埋火葬関係書類がある自治体への調査も合意された。同年9月末までに、5社1団体から147体分の遺骨情報があり、自治体からは712人分の遺骨情報が集まった。この自治体分のうち氏名など身元特定につながる情報があったのは184人分であった。これらの情報は9月末の審議官級の遺骨問題日韓協議で伝達された。
同年11月末の日韓の審議官級遺骨問題日韓協議では、遺族が確認された祐天寺138人分の遺骨を返還することや日韓共同での遺骨調査などが合意された。韓国側は厚生年金名簿や供託名簿の提供を求め、麻生鉱業の関係資料も求めた。2006年5月末までに確認された「民間徴用」関係遺骨情報は1668体になり、仏教界の調査のうち、曹洞宗は2007年5月までに42か寺、遺骨35体、過去帳510件を集約した。
2007年11月の第5回遺骨問題日韓協議では1720体分の遺骨情報(自治体1511、企業147、宗教団体62体)が報告され、韓国人遺族のフィリピン、パラオ、サイパンの巡礼の実施についても合意された。
このような動きのなかで、2006年7月から、「韓国・朝鮮の遺族とともに・遺骨問題の解決へ」全国実行委員会による証言集会が全国28か所で開催された。日本政府は朝鮮(北)からの遺族関係者の入国を拒否するという対応をとった。
2006年8月、証言集会をおこなった全国実行委員会と遺族は共同で、日本政府に、労務動員での政府の責任を自覚し、誠意をもって遺骨返還に取り組むこと、死亡情報を集めて遺族に通知すること、北からの入国拒否や日韓合同実地調査の中止がおきないように人道主義に復帰すること、遺骨返還での政府によるお詫びと遺族の渡航や葬祭への誠意ある負担などを要請した。
2007年、市民運動によって岐阜県の神岡鉱山で現地調査と名古屋での集会がもたれた。その際、神岡の寺院にあった遺骨1体が遺族に返還された。
政府間での朝鮮人遺骨の返還は、日本側が、植民地支配の責任を自覚し、死亡の真相糾明をおこない、歴史的な責任をとっておこなわれるべきものであるが、人道主義・現実主義・未来志向の名によって、それが無視されてはならない。
B 北海道・東北の遺骨
つぎに、北海道から沖縄の順に朝鮮人遺骨についてみてみよう。
北海道
本願寺札幌別院の遺骨
2001年、浄土真宗の調査委員会によって札幌別院にある朝鮮人の遺骨の存在が明らかにされた。この遺骨の発見を契機に、2003年2月、強制連行強制労働犠牲者を考える北海道フォーラムが結成され、真相究明・遺族調査・遺骨返還の活動がはじまった。
遺骨の多くは、地崎組・鉄道工業・川口組・菅原組などの土建企業が、軍事基地建設や発電工事、三菱美唄や北炭空知などの炭鉱で労働させ、そこで死亡した朝鮮人のものであった。イトムカ鉱山での中国人の遺骨も含まれていた。名簿によれば100余人の遺骨が集められていることになるが、失われた骨も多く、遺骨は合葬されていた。
韓国の真相糾明委員会などの調査により、菅原組による千島の軍事基地建設で死亡した金益中、三菱美唄内で鉄道工業による労働で死亡した具然浮ネど、27人分の遺族が判明した。
この遺骨の発見・調査により、以前からその所在が指摘されてきた、室蘭・日本製鉄輪西製鉄所、三菱美唄炭鉱、浅茅野飛行場建設、根室飛行場建設、北炭赤間炭鉱、茅沼炭鉱などでの遺骨調査がすすんだ。
三菱美唄炭鉱には戦時下での事故により坑道内に埋まったままの遺体がある。
浅茅野飛行場・日鉄輪西製鉄所
浅茅野飛行場については、2005年、強制連行強制労働犠牲者を考える北海道フォーラムによる試掘が行われ、2006年、「東アジアの平和な未来のための共同ワークショップ」が12体分の遺骨を発掘した。2010年までの発掘で30体を超える遺骨を発見した。朝鮮人死亡者名簿も作成された。
室蘭の光昭寺には、日本製鉄に動員され、艦砲射撃で死亡した鄭英得、李廷基、具然錫の3人の遺骨が残されていた。
すでに1963年11月、具然錫の父親の具聖祖は日本政府に対して死亡確認書と遺骨引渡方法手続きについての回答を求め、陳情文書を送っていたが、日本政府は遺骨を返還せず、補償金を支払おうとしなかった(『太平洋戦争終結による旧日本国籍人の保護引揚関係』所収外務省文書)。
2005年、鄭と李の遺族が室蘭を訪れた。遺族は遺骨に対面し、そのとき、初めて本名が記された。訪問時に遺族は、謝罪は行動で示されるべき、遺骨は遺物ではなく人間の生の痕跡であり、尊厳がある、強制的に連行し、殺しておいて60年も放置することが正常かと抗議し、真相が究明されない限り遺骨は受け取れないとした。
2008年2月、この室蘭3人と北炭赤間炭鉱の趙龍文の遺骨は、北海道フォーラムや室蘭、赤平の市民団体によって遺族に返還され、望郷の丘に納骨・埋葬された。
2015年、札幌別院、浅茅野飛行場、美唄炭鉱、雨竜ダム工事などの遺骨115体が市民団体によって韓国に返還された。遺骨はソウル市立墓地の納骨堂に安置された。
北海道では、札幌の忠霊塔(軍人関連)、札幌別院(未返還分)、根室の大徳寺(根室飛行場関連)、赤平の秀岳寺(赤平炭鉱関連)、東神楽町の聞名寺(東川遊水池関連)、風連共同墓地(雨竜ダム工事)、猿払の信證寺(浅茅野飛行場)、泊村の法輪寺(茅沼炭鉱関連)、釧路の弘宣寺(雄別炭鉱関連合葬)などで遺骨の情報がある。これらの遺骨の遺族への返還が課題である。
C 東北・関東の遺骨
福島・常磐炭田関係
福島県での常磐地区の炭鉱関係で、300人ほどの死亡者名簿が作成されている。2005年の調査で、常磐の炭鉱付近の3つの寺院に3体の遺骨があることがわかった。
また、猪苗代の発電工事関係で寺院に10体の遺骨が残されていること、遺骨については不明だが、相馬塩業への空襲で20人ほどの朝鮮人が死亡したことなどもわかった。
秋田
秋田県では北秋田郡森吉町の福寿寺に、鹿島組が請け負った電源工事現場での死者の遺骨(「安田石枯」)が発見された。小坂鉱山では、寺の沢の共同墓地に埋葬されたといわれている。その場所は不明である。花岡鉱山では、七ツ館坑での水没事故で11人が埋まったままである。発盛鉱山跡では無縁墓地が発見されたが、なかには朝鮮人のものもあるとみられる。
栃木・茨城
栃木県の足尾鉱山の近くにある蓮慶寺では遺骨(梁山出身「新井聖守」)が発見された。
茨城県では茨城県朝鮮人納骨堂には、連行期の朝鮮人遺骨52体が納められている。このうち49体が日立鉱山関係の遺骨であり、鉱山近くの本山寺にあったものである。
『殉職産業人名簿』と照合したところ、一人の連絡先が判明した。
埼玉・金乗院
埼玉県所沢の金乗院には壱岐や対馬で収集された朝鮮人の遺骨131体がある。これらは1945年、帰国の途中で遭難した人々のものである。遺骨は日本政府により金乗院に移された。
遺骨は1976年に広島の市民団体が収集した壱岐86体(清石浜80体・竜神崎6体)、1984年に政府が民間の要請により収集した対馬分45体(品木島32体・池畠13体)である。壱岐で収集された広島分は、三菱重工広島工場への連行者が枕崎台風により遭難したものが含まれているとされてきた。しかし、広島の徴用工が出発したのは9月であり、壱岐の遺骨は10月11日の阿久根台風による遭難者のものであり、別のものとみられる。
壱岐の遺骨については芦辺町役場作成の「大韓民国人遭難状況説明資料」が残され、168人の死亡を確認できる。対馬分について、その詳細は不明である。
壱岐の天徳寺は発見当時から供養を続けてきたが、2017年、政府に対し、韓国あるいは壱岐に送還するよう要請した。
2018年に入り、厚労省は金乗院の遺骨を壱岐へと移管する意向を示した。
東京・祐天寺
政府は1971年に送還できていない遺骨を祐天寺に移管した。BC級戦犯、特攻関係、浮島丸関係の遺骨も集められた。全てが遺骨ではなく、位牌も多い。2005年時点で、祐天寺には朝鮮人1136体分の位牌・遺骨が残されていた。
2004年12月、タラワで死亡した金龍均の遺族の委任を受けた朝鮮人強制連行真相調査団が厚労省の身上書類を調べ、遺骨の欄に「無」と記され、遺族の承諾がないまま靖国神社へと合祀されていたことがわかった。祐天寺で骨箱を調べると、遺骨として収められていたものは、ダンボール片のようなものだった。
2006年末までに祐天寺遺骨の240人分の身元が判明したが、沖縄戦で死亡したとされる金相鳳は生存し、浮島丸では朴ジャンソが戦後も生存していたことが確認された。ほかには、朴チェボン、シンドンウ、ファンホスク、金チョンリムほか他一人の計七人の戦後の生存が確認された。韓国側の調査により、当時の厚生省による死亡登録のずさんさが明らかになった。
2008年1月遺族が判明した祐天寺の遺骨101体が韓国へと返還された。同年11月には59体が返還された。返還の際、韓国の強制動員委員会、遺族が参列した。政府は遺族に30万ウォンの弔慰金を渡した。60年余り、遺骨を放置してきたことへの歴史的な責任をとる言質はなく、返還遺骨のリストも非公開のままだった。それは死亡状況を明らかにするなど、真相を究明しての返還ではなかった。
2009年7月には44体が返還された。2010年5月には祐天寺の遺族不明の遺骨を含む219体が返還された。返還は計423体であるが、浮島丸275体分(南)、北部朝鮮出身の軍人軍属425体(浮島丸5、BC級4を含む)は、残されたままである。
浮島丸遺族会は、日本政府の公式謝罪、遺族を招いての慰霊祭、遺骨安置の経緯説明、一人あたり10万円の供養料を求め、それなしでの遺骨の引渡は拒否する意向を示した。
東村山・国平寺
東村山市の国平寺には金百植の遺骨(2000年死去)があったが、2004年になって遺族に引き取られた。金は1944年に陸軍に徴兵されたが、その生活で精神を破壊されずっと入院を強いられた。遺族によれば、日本政府からは60年間、何の連絡もなかったという。住職の努力が遺族を探し当てた。
国平寺の遺骨の一部は、2017年8月と2018年2月、韓国の「日帝強制徴用犠牲者遺骸奉還国民追慕委員会」によって奉還された。国平寺の遺骨名簿(約100体)を見ると、連行期の死者には、1941年に秩父で死亡した慶北尚州出身の林武徳のものがあるが、国平寺の遺骨名簿のほとんどが戦後の死者である。統一後の帰還を求める遺骨とされ、4割が本籍不明である。遺骨全てを強制徴用犠牲者とすることはできない。
東京では、「戦後30年−東京都慰霊堂に眠る戦災死者」(東京都公園緑地課・1974年3月)の記事に、朝鮮人とみられる50人ほどの名が確認され、慰霊堂内の遺骨も調査された。東京大空襲での朝鮮人死者は1万人というが、その実態は不明である。東京大空襲・朝鮮人罹災を記録する会ができ、調査を始めた。
神奈川
神奈川では2005年に無縁遺骨41体が望郷の丘に送られた。そのうち36体は川崎市が緑ヶ丘霊園で25年ほど保管してきたものだった。川崎市による埋火葬認許証などの調査から国籍が特定され、返還となった。安置保管されていた遺骨には、氏名や本籍の情報があるという。真相調査がおこなわれれば、遺族のもとに返還されるものもあるだろう。
長野
長野では松代大本営工事に動員され、死亡した「中野次郎」の遺骨が2005年に望郷の丘に移葬された。遺骨は西松組関係者が地下壕に近い恵明寺に預けたものだった。この遺骨は、本名も本籍も不明であり、松代朝鮮人犠牲者追悼碑を守る会が追悼の法要をおこなってきたものである。
D 東海・関西の遺骨
清水・朝鮮人無縁納骨堂
静岡県の清水の火葬場には朝鮮人無縁納骨堂がある。この堂は朝鮮人団体の要請により、1993年に清水市が予算を組み、旧納骨堂を改装して、建てたものである。この堂には90余の朝鮮人とみられる遺骨が納められていた。
清水には鈴与などの港湾業、日軽金などの軍需工場、航空隊や高射砲などの軍事基地があり、朝鮮人が多数動員されていた。清水で労働し、戦後、無縁となったものも多かった。
朝鮮人団体が共同して追悼会を開いてきたが、これらの遺骨は2010年3月、民団など関係者によって韓国の望郷の丘へと移された。
愛知・東山霊安殿の無縁遺骨仏
名古屋市の東山霊安殿には、移転前までは4600体ほどの無縁仏が保管されていたが、そこには朝鮮人120人分があることが1991年に判明していた。1991年以降に保管された朝鮮人遺骨は115人である。東山霊安殿の移転の際の1999年、2700体ほどの遺骨が整理され、その際、朝鮮人遺骨77体分も粉砕・合葬された。
この事実は2005年にわかった。民団や総連など朝鮮人団体が調査を始め、朝鮮半島出身者遺骨調査会が結成された。東山霊安殿の朝鮮人名簿235人分を韓国の国家記録院の連行者名簿と照合したところ、34人が一致し、遺族調査によって9人の連絡先が判明した。合葬された遺骨は現在、石川県の總持寺に安置されている。2007年にはこの總持寺の供養塔前で追悼行事がおこなわれた。
2006年、粉砕されていない遺骨の遺族が東山霊安殿で遺骨と対面した。しかし、遺骨が全骨ではないため、遺族は遺骨を持ち帰らなかった。
愛知県の中島飛行機半田工場では空襲により多くの朝鮮人が死亡した。徴用工は朝鮮北部からの連行者だった。その遺骨の調査が求められる。
岐阜
岐阜では、神岡鉱山の発電工事現場で死亡した金文奉の遺族が見つかり、2007年の「韓国・朝鮮の遺族とともに・遺骨問題の解決へ」集会で、遺族が遺骨を受け取った。神岡鉱山関係の死亡者調査によって、死亡者調査の手がかりとなる戸籍受付帳の存在があきらかになった。
神岡鉱山関係では、鉱山近くの光円寺・円城寺・洞雲寺などで26体の遺骨が発見された。高山の本教寺では、戦後のものが多いが、46体の遺骨が発見され、近隣の寺にも遺骨があることがわかった。
八百津町の兼山ダム工事関連では、和知地区の寺院に埋葬許可証が残されていた。遺骨は共同墓地に埋葬されたとみられる。許可証には朝鮮の本籍や間組飯場内という記載があり、子どものものが多いが、連行期の死者である。
三重
2005年、熊野市の紀州鉱山近くの本竜寺で、安陵晟、吉光進ら4体の遺骨が確認された。2010年、市民団体による紀州鉱山の朝鮮人追悼碑が完成した。
民団三重はこれまで三重県内各地で76体の遺骨を発見した。それらは望郷の丘に送られた。
大阪
大阪・天王寺の統国寺には無縁遺骨80体が安置されている。岡山県の寺院に200体が集められ、一部は遺族や関係者が引取り、残ったものを統国寺が引き取ったという。統国寺にある「金丸泰玉」の遺骨が、岡山県の三井玉野造船所に連行された朝鮮人のものであることが、玉野市での埋火葬認許証の情報公開で明らかになった。出身は咸鏡南道であり、死亡日は解放後の11月のことだった。
大阪では泉南郡岬町にある正教寺と興善寺で遺骨が発見された。遺骨は川崎重工業の工場移転の際、建設工事に動員された朝鮮人関連のものとみられる。興善寺の遺骨、林泰根の死亡年は1951年と戦後であるが、連絡先は不明である。遺族との音信は途絶えたままとみられる。
大阪空襲の際には多くの朝鮮人が死亡した。遺骨は大阪市服部霊園、崇禅寺、善教寺、願力寺などに埋葬されたという。東淀川区・崇禅寺の戦争犠牲者慰霊塔と過去帳の調査では、110人ほどの朝鮮人名が確認されている。大阪空襲での朝鮮人死亡者の名簿を作成する必要がある
兵庫
兵庫では神戸市の東福寺には1945年6月の神戸空襲の際に、50人ほどの朝鮮人と見られる遺骨が三つの石炭箱に詰め込まれて持ち込まれたという。川崎重工業や川崎製鉄へと連行された朝鮮人との関連が指摘されている。
相生市の善光寺では、1990年に60人余の朝鮮人の無縁遺骨が発見された。相生には播磨造船所があり、その関連で朝鮮人が多数集住するようになった。遺骨には強制連行期のものもある。1995年、相生市の東部墓園に相生平和記念碑と納骨堂が建設された。
広島
広島では、庄原市高野町の高暮ダム建設での朝鮮人の遺骨が1980年代後半に6箇所で発見され、西善寺に収められた。1995年に高暮ダム朝鮮人犠牲者追悼碑が建てられた。
広島県の北部では、高暮ダム関係だけでなく、芸備線、三江線などの鉄道工事関係での朝鮮人の遺骨が発掘されている。
高知
高知の四万十町にある津賀ダム工事現場の無名墓には3人の朝鮮人が埋葬されているという。2009年、津賀ダム平和記念碑が建てられた。
山口・長生炭鉱
山口県宇部市の長生炭鉱では1942年2月3日未明の水没事故で180人ほどが死亡し、そのうち130数人が朝鮮人であった。現在も死者は海底に埋まったままである。当時、西光寺では位牌をつくって葬儀をおこなった。
2005年、現地の長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会、強制連行真相調査団、総連、民団が共催して韓国から真相糾明委員会と遺族を招請してのフォーラムが開催された。遺族会は海底に眠ったままの遺骨の収集と返還を求めた。
2007年には65周年の追悼式が行われ、韓国から生存者2人が参加した。朝鮮人追悼碑の建設に向けての運動が始まり、2013年2月に犠牲者の名前を刻んだ追悼碑が完成した。長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会は、追悼とともに、水没したままの遺骨の収集をめざして活動をすすめている。
岩国の寺院では9体の遺骨が発見されている。
E 九州・沖縄の遺骨
筑豊・無窮花堂の遺骨
在日筑豊コリア強制連行犠牲者納骨式追悼碑建立委員会によって、筑豊の寺院に残っている遺骨が収集され、2000年末に、無窮花堂という納骨堂が建設された。飯塚市は土地を国際交流広場として提供した。2002年には無窮花堂の周囲に歴史回廊を設置した。2004年、同委員会は無窮花堂友好親善の会となった。
無窮花堂へと飯塚市周辺の観音寺・教天寺・善照寺・大徳寺などの寺院から100余りの遺骨が収集された。この収集と遺骨調査活動のなかで三菱鯰田炭鉱での死者の遺族がみつかった。厚生省勤労局調査福岡県分の鯰田炭鉱の名簿の死者名と遺骨箱の氏名が合致したのである。
建設委員会メンバーの訪韓と遺族調査によって、2001年に文圭炳、03年に金長成、17年に金千萬の遺族が、飯塚を訪れ、遺骨を受け取った。
無窮花堂には2017年現在、118体が集められている。
無窮花の会のメンバーは強制連行の真相究明をすすめ、周辺市町村に対して埋火葬認許関係書類や戸籍受付関係書類の情報公開を求めた。その結果、2000件近い朝鮮人関係行政資料を公開させた。
2005年には、田川市の無縁仏納骨堂で3体が確認された。田川市の法光寺には10数体が預けられている。民団福岡県本部は1982年以降、500体以上の遺骨を韓国に移した。
北九州の在日大韓基督教小倉教会の永生園には、周辺の炭鉱などから集められた朝鮮人の遺骨と信徒と遺骨が安置されている。永生園は筑豊炭鉱犠牲者の納骨堂としてつくられたものである。
北九州市には小田山墓地がある。そこは戦後の帰国の際に遭難して漂着した80体ほどの遺体が埋められた場所である。追悼碑があり、毎年、ここで追悼式がもたれている。2005年には冊子『小田山墓地・朝鮮人遭難の碑』が発行された。
長崎・旧誠孝院遺骨
日本政府は1949年に団体等規制令によって在日本朝鮮人聯盟を解散させた。その際、解放直後に長崎の朝鮮人聯盟が収集して保管していた154体の遺骨を接収した。遺骨は1952年から長崎の誠孝院で保管されてきたが、1973年に長崎の民団によって韓国の木浦の納骨堂に移された。その後、1985年に望郷の丘に移された。
そのなかに、長崎の伊王島炭鉱に連行されて死亡した魚寅建の遺骨があった。遺族の申請によって韓国の真相糾明委員会が調査すすめ、2005年になって遺族が遺骨と対面した。
誠孝院保管遺骨名簿と長崎に残る他の事業場との死亡者名簿とを照合すると、遺骨には三菱重工長崎造船、伊王島炭鉱、三菱崎戸炭鉱、大島炭鉱、佐世保市外工事場のものがあることがわかる。他の名簿から連絡先が判明するものもあり、それらの遺骨の遺族への返還は今後の課題である。
鹿児島県の鹿屋市営緑山墓地の外国人納骨堂には、朝鮮人の遺骨80体ほどが納骨されていた。その後、韓国に返還されたものもあり、残っているのは20体である。これらの遺骨は鹿屋での飛行場建設関連のものとみられる。
沖縄
沖縄戦には朝鮮人が軍人軍属として動員された。全滅に近い部隊もあり、行方不明のまま現在に至る者や遺骨が返還されなかった者が多い。動員の実態も十分に明らかにされていない。
沖縄県が建立した沖縄戦の追悼碑・平和の礎に刻銘された朝鮮人名は、2017年、7年ぶりに15人が追加されて462人になった。遺族が日本政府に問い合わせると、「復員または死亡記録なし」という回答が多い。
2017年、本部町で沖縄戦に動員された朝鮮人の遺骨が埋葬されたことが明らかになった。1945年1月22日、日本軍に徴用された彦山丸が攻撃され、14人が死亡したが、そのうち3人は朝鮮人だった。朝鮮人の死亡者名簿との照合によって、遺族の連絡先が判明したものもある。今後、遺骨の発掘がすすめられる予定である。
日本政府は2015年5月に今後発見された遺骨に関してはDNAを抽出し、データベースを作り、遺族からもDNAをとる方針を出した。沖縄では、沖縄戦及び海外戦没者のDNA鑑定集団申請がすすめられた。2018年3月現在、沖縄では300人がDNA鑑定を申請している。厚労省はこのような申請の動きのなかで、大腿骨など手足からの鑑定も行うと表明するようになった。
朝鮮人の遺骨への対応も求められる。韓国の太平洋戦争被害者補償推進協議会は日本政府に対し、韓国人の戦没者遺骨に関してもDNA調査をおこなうよう要請を繰り返してきた。
ここであげた以外にも、全国各地に遺骨が残されている。
F 遺骨返還にむけての市民の動き
遺骨の所在が判明しても、その返還がすすまないという状況のなか、曹洞宗は2015年、朝鮮出身者無縁遺骨返還・集約に係わる検討委員会を作り、2017年から、無縁遺骨を故郷に返還するために遺骨の集約を始めた。
曹洞宗では人権擁護推進本部が中心になって朝鮮人遺骨の調査活動をすすめてきた。それにより、曹洞宗の152の寺院から死亡者情報が寄せられた。骨箱や骨壺に入り、個体性を保っている遺骨は100体以上ある。そのうち80体ほどは本籍などの身元情報があり、韓国内で遺族が判明している遺骨が3体、埋葬体では2体がある。他は無縁の遺骨である。
曹洞宗では、返還にむけて情報を集め、政府にも報告してきた。しかし、遺骨返還の動きがみられず、10年が経過した。日本政府には民間遺骨の返還意思が欠如し、韓国政府では実務を担った委員会が解散し、遺骨情報を韓国の遺族に伝える手がなくなった。
曹洞宗は、このままでは遺骨や身元情報が散逸する恐れもあると考え、遺骨を大切にしてきた寺院のためにも、遺骨を集約して、安置をすすめることにした。
2017年10月、曹洞宗は岐阜の神岡鉱山周辺の5つの寺院から遺骨31体を集約した。集約あたり、読経し、供養の儀式をおこなった。参加者は、その行為がわが子を安住の地に送り出すような温かい気持ちにさせるものであり、車両で移送する際には、寺院関係者が手を振って送り出したと記している(曹洞宗人権フォーラム記事)。
曹洞宗は、遅滞なしでの早期の返還を求めている。
2018年1月には、これまで遺骨の発掘や返還に関わってきた日本の市民が、遺骨奉還宗教者市民連絡会を発足させた。日韓政府間では、軍人軍属の遺骨一部のみが返還されたが、それ以外の遺骨の返還が実現していない。この連絡会は、遺骨返還の膠着した状態を打開するために、市民の側からの国境を越えた運動を呼びかけている。
厚生労働省人道調査室によれば、2017年4月時点で、遺骨の所在情報は2799体分あり、実地調査は237回、遺骨1018体分が実施された。
3 課題
以下、課題をあげてみよう。
日韓両政府は、2005年以降の調査で発見され、集約された遺骨の返還にむけて、再度、協議をすすめる。この遺骨の返還を平和友好の事業とする。
日韓両政府が共同して、死亡者調査をすすめ、遺族を探す。遺骨の返還は遺族への返還を基本とする。発見された遺骨については、その歴史をできる限り説明できるように調査する。
韓国政府は2004年以降の強制動員被害真相糾明の活動でえた資料を公開する。強制動員被害真相糾明の委員会に代わる政府機関を新たに設立する、あるいは財団に遺骨問題の解決をすすめる機能をもたせ、予算を付ける。一部は日本語に翻訳され刊行された真相糾明の調査結果の日本語版発行を再開し、日韓両国での事実の共有をすすめる。
朝鮮政府とも遺骨の返還にむけての協議をすすめる。
日本政府と関係企業は、戦時の強制動員・強制労働について認知する。その動員は国家総動員のもとでの政府による労務動員であり、その結果に対して、政府と企業には責任がある。
政府は自治体・企業・市民団体と連携し、動員数・動員場所・死亡者名・遺骨返還の経過などを明示する。そのための調査委員会を設立し、予算をつける。強制動員に関する厚生年金名簿、供託金名簿、事故報告書、戸籍受付帳、埋火葬資料など全史料の公開をすすめる。
日本政府と関係企業は、植民地支配と侵略に対する歴史的責任を明らかにし、主体的に遺骨調査とその返還に取り組む。遺骨返還にあたっては、日本政府と関係企業が、遺族に事実を伝達し、その歴史を明らかにし、哀悼と謝罪の意を示す。また、葬祭・移送に関する費用を負担する。
強制動員・強制労働を否定する歴史修正主義、歴史歪曲の動きを批判し、その事実を歴史教科書などで次世代に伝える。
無縁遺骨すべてを強制動員被害者のものとすることはできない。遺骨返還は正確なものでなければならない。
最後に2009年に起きた偽りの遺骨返還についてみておく。
2009年8月25日、「太平洋戦争犠牲者奉還委員会」(以下、「奉還委」と略記)をなのる団体によって、「遺骨奉還」がおこなわれ、戦時の死者110人分の「遺骨」が韓国・梁山市の千仏寺に運ばれた。翌日「慰霊祭」がもたれ、それは報道された。韓国の強制動員被害真相糾明委員会は、その行為の自制を求め、遺骨にはすでに返還されたものもあり、信用できないと指摘し、この「遺骨名簿」が竹内編の死亡者名簿(『戦時朝鮮人強制労働調査資料集』所収)の引き写しであるとした。
真相糾明委員会が指摘したように、この「遺骨奉還」と「慰霊」は偽りであり、人々を欺くものである。持ち込まれた遺骨は別物である。「奉還委」は竹内編の死亡者名簿の恣意的な改変をおこない、死亡者名簿を遺骨名簿へと改ざんした。
このような偽りの遺骨返還をおこなってはならない。
おわりに
政治は、利権の追求ではなく、慈愛を基礎とする人民の幸福実現のためにある。人びとの灯の集合は、そのような政治の実現を求めての行動だった。国政を私物化し、立憲政治を無視する者は、凋落する。行政や立法に関与できる地位にある者は、人間の尊厳回復にむけ、無縁遺骨の声を受けとめ、その早期の帰還にむけて行動すべきである。
無縁遺骨は、植民地支配とそのなかでの棄民と強制動員の歴史、その後も続いた植民地主義と分断の歴史を象徴するものである。そのような無縁を強いられた基層人民の遺骨の歴史に思いを馳せ、その遺骨の声なき声を受けとめよう。それが、いま、有縁の地での生を享受できる者の、人間としての方向である。
棄民・動員の結果、無縁となった遺骨を大切に供養してきた人びと、強制動員の歴史をふまえ、東北アジアの友好・平和を追求してきた人びとがいる。無縁遺骨の返還はそのような人間の良心と平和への意思をつなげていく。強制動員の歴史の現場は平和友好の場となりえるものである。
今回の討論会を、韓日の政府と市民社会が、遺骨の返還にむけての活動を強める契機としていこう。