2018531 壱岐・天徳寺での朝鮮人遺骨追悼行事

 

2018531日、壱岐の天徳寺で「大韓民国人芦辺港遭難者御遺骨安座法要式典」がもたれ、韓国からの参加者を含め、50人ほどが天徳寺に集まった。

 解放後、朝鮮半島への帰国途中に遭難した人びとがいた。1970年代から80年代にかけて、壱岐で45体、対馬で86体の計131体が発掘された。今回の追悼行事はこれらの遺骨が天徳寺に移管されたことによる。

 壱岐の遺骨は1976年に広島の市民団体によって清石浜と竜神崎で発掘され、対馬の遺骨は1983年・84年に厚生省によって品木島と池畠で収集された。当初、壱岐の遺骨は三菱重工業広島工場への連行朝鮮人の遺骨とみられ、発掘されたが、遭難時期や遭難者の状態から、それは誤りとされた。対馬の遺骨については、日本に連行された朝鮮人も含まれている可能性がある。対馬の遺骨は1993年に、壱岐の遺骨は2003年に埼玉県の金乗院に移管された。遺骨は金乗寺にあるものの、壱岐の天徳寺では追悼行事をおこない、韓国の僧侶も参加するようになった。韓国の水谷寺でも追悼行事がもたれるようになった。

 2004年に日韓で朝鮮人遺骨の返還に向けての協議が始まり、1000体を超える遺骨の存在が確認されたが、政府間で返還された遺骨は東京・祐天寺の軍人軍属関係の遺骨だけだった。返還がすすまない状況のなか、天徳寺の住職は故郷への返還を願い、朝鮮に近い天徳寺への遺骨の移送を厚労省に訴え、金乗寺の住職も同意した。


清石浜の追悼碑                 碑文 

20081月には遺骨奉還宗教者市民連絡会が結成され、天徳寺への移送と早期の祖国への返還を要請した。同年3月、厚労省は天徳寺への移送を決めた。厚労省は5月末、遺骨を移動し、博多からはフェリーで壱岐へと運び、追悼行事に参加したのだった。

 遺骨は天徳寺の追悼会場に運ばれ、遺骨を前に追悼行事がもたれた。そこで、厚労省は日韓両政府の合意があれば、返還する旨を述べた。曹洞宗の宗務は移管へのお礼とともに遺骨の戦後を終わらせるための返還を呼びかけた。壱岐市長も参加し、国籍を超えた人類愛、人道的支援を語った。壱岐の僧侶が、安座法要として「壱岐歎仏」がおこなった。韓国の仏国寺前住職は一刻も早い帰還を訴え、4人の韓国僧が般若信経を読経した。最後に、天徳寺の西谷住職がいまは亡き人々の力に支えられて遺骨の移送があることをふまえ、遺骨の祖国への返還と友好の絆の形成を呼びかけた。


移管された遺骨                  壱岐歎仏 

 追悼行事の後、遺骨奉還宗教者市民連絡会の会議が天徳寺でもたれ、天徳寺への遺骨移管を総括し、課題を整理した。そして、遺骨は戦争と植民地支配が生んだ悲劇の証であるとし、日韓両政府の誠意をもっての返還の取り組みを求め、国境を超えた市民・宗教者の協力の構築と東アジアの和解・平和にむけての決意を示す声明を採択した。

 壱岐歎仏は、数人の僧侶によるものであり、鉢、太鼓、木魚、鐘などを叩いては読経し、念じる。そのルーツは中国の黄檗宗という。その声とリズムは、遺骨に魂を与え、その声を呼び起こし、それをいま生きる者たちが受けとめ、この後の行動への核心とするかのようだった。遺骨の生を想起するように、太鼓や鐘を叩き、その鼓動とともに遺骨の歴史に思いを馳せて、魂の平安を祈る。無念にさまよう存在に対して信念と利他を示すような鎮魂の読経だった。

 壱岐には一支国博物館が整備され、環濠集落である原の辻遺跡が整備されている。原の辻は吉野ケ里・登呂と並ぶ弥生の遺跡である。弥生と称される文化は九州から始まるが、朝鮮からの渡来の文化である。壱岐はその渡来の架け橋だった。人びとは玄界灘を越え、対馬・壱岐を経由して、博多に着いた。そこから山を越えた拠点が吉野ケ里である。高麗期の渡来仏が一支国博物館に展示されていた。壱岐の金蔵寺蔵の小さな金色の仏像だが、絶品だ。朝鮮通信使も壱岐を経由した。壱岐の北方の勝本浦には通信使迎接所跡があり、礎石が残っている。勝本城跡は秀吉の朝鮮侵略の際の兵站基地だった。

 
 原の辻遺跡の上空を舞う鷹      渡来の歴史を示す解説板

小型船に乗って玄界灘をわたり、故郷朝鮮に帰る人びとにとっても、壱岐は故郷への道標だった。途中で消息を絶った人びとも数多い。194510月の壱岐での遭難者の数は168人とされるが、遺骨は45体である。壱岐の地に埋もれたままの遺体もあるとみられる。

壱岐は交流の架け橋であり、無念の記憶の場でもある。そのような壱岐の地からの遺骨の返還と平和の絆の形成の呼びかけに、耳を傾け、できることをしたい。     (竹)