陸軍航空部隊による中国爆撃

 

はじめに

 

こんにちは、竹内です。静岡県浜松市に住んでいます。わたしは1957年に浜松市で生まれました。戦後10年ほど経ったころです。戦争と空襲の話は幼いころから聞くことがあり、関心を持つようになりました。地域の歴史を学ぶなかで、浜松の陸軍の爆撃隊がアジアで何をしたのかをテーマに調べてきました。ここではその概略を話したいと思います。

 

浜松空襲の調査

戦時中、浜松には陸軍の爆撃部隊があり、それに関連して中小の軍需工場が航空関係部品などの軍需生産を担いました。そのため、米軍による空襲の対象となり、何回もの空襲を受けました。

東京や大阪、名古屋など大都市への燃焼弾、いわゆる「焼夷弾」を使っての空襲に続き、同様の空襲が中小都市へとおこなわれました。最初は1945617日から18日にかけてのことですが、目標は浜松、大牟田、鹿児島、四日市です。大牟田には三井三池炭鉱があり、それをもとにした石炭化学コンビナートは軍需生産の拠点でした。このときの空襲は、浜松では618浜松大空襲と呼ばれています。それ以前から浜松には、B29による軍需工場への空襲や艦載機による陸軍航空基地への空襲が繰り返されてきました。618大空襲後には遠州灘からの艦砲射撃もおこなわれました。

当時の米軍側の空襲関係資料を見ると、米軍は独自に爆撃区域を設定しています。浜松エリアは、愛知県の豊橋のあたりから、静岡の掛川あたりとなります。この浜松エリアへの空襲が1944年末から45年にかけて繰り返されましたが、のべ60回ほどになります。

わたしは地域の歴史を調べてきましたので、浜松の空襲の歴史についてまとめ、死亡者の状況を明らかにしたいと考え、2007年に「浜松・磐田空襲の歴史と死亡者名簿」という冊子を作りました。この地域で亡くなった人は3500人ほどですが、どこで誰が亡くなったかを明らかにすることが大切と考え、その名前を、すべてではありませんが、明らかにしました。

亡くなった人の名前からその生命の歴史、その無念を思うことができます。どこで、どのように命が奪われたのか、それを明らかにし、記録に残したいと思いました。地域における戦争の記憶はその死者の名前を大切にすることから始まると思います。

 

陸軍爆撃隊の調査

もうひとつ、浜松の空襲の歴史を書く前に、浜松の陸軍爆撃隊がアジアで何をおこなったのか、それを明らかにしたいと思いました。陸軍の爆撃隊の資料を探しはじめたのは1990年代後半からです。

2002年ですが、1931年、満洲への侵略戦争が始まった時に浜松の爆撃隊が満洲地域でどのように爆撃したのかを記録した写真集、飛行第十二大隊「満洲事変記念写真帖」を古書店から入手しました。その写真集から、浜松から出撃した爆撃隊による満洲での爆撃状況を記し、「静岡県近代史研究」という雑誌に掲載しました。

それに続き、陸軍の部隊史や防衛省の史料を分析して、中国から東南アジアへと戦争が拡大するなかで、浜松を起点とする爆撃隊が中国や東南アジアでどのように爆撃したのかをまとめました。浜松から出撃した部隊は、派兵先で爆撃部隊を強化させ、新たに部隊を編成しました。それらの部隊は、東南アジアへの侵略戦争では、シンガポール・マレー攻撃を担い、その後、フィリピン、ビルマ、インドネシア、インドなどを爆撃します。アジア各地で爆撃を繰り返していったのです。

また、高橋史料を2010年に古書店から入手しました。この人は、陸軍航空の関係者で朝鮮の平壌にあった飛行第6連隊に配属され、そこから満洲に派兵され、その後、千葉県の陸軍下志津飛行学校に所属しました。平壌の飛行第6連隊は満洲事変の際に派兵され、地上部隊を支援して、偵察や爆撃をおこないましたが、そのときの写真帖や戦闘詳報を得ることができました。満洲事変の際の錦州爆撃は平壌から派兵された部隊がおこなったものです。浜松の飛行部隊は錦州攻撃には直接関わらなかったのですが、各地で抗日部隊を攻撃し、ときには集落を爆撃することもありました。飛行第6連隊の史料から、満洲での飛行部隊の作戦の経過をまとめることができました。

高橋史料には下志津陸軍飛行学校の演習報告書もありました。航空毒ガス戦には攻撃と防護の研究があるのですが、下志津では防護の研究をしていました。毒ガスの攻撃の研究は浜松陸軍飛行学校が担当していたのです。浜松の三方原で、浜松陸軍飛行学校が毒ガス攻撃訓練をし、下志津が防護するという演習記録を手に入れることができました。

この史料を含め、この間出されている史料集や研究書から、浜松での毒ガス攻撃の研究、下志津での防護の研究、満洲での毒ガス演習、中国大陸での毒ガスの実戦使用の状況などをまとめました。

地域の戦争死者の名前、空襲の状態を調べるとともに、陸軍の爆撃隊がアジアでどのようなことをしたのかを並行して調べてきました。それがこの20年ほどの空襲に関するわたしの研究の経過です。陸軍の爆撃隊については、これまで書いたものを2016年に『日本陸軍のアジア空襲 爆撃・毒ガス・ペスト』の形でまとめたところです。

少し長くなりましたが、以上が「はじめに」です。

 

1 陸軍爆撃隊の歴史 浜松の爆撃部隊を中心に

 

陸軍航空部隊の設立と派兵

 では、陸軍の爆撃部隊の歴史についてみます。最初にどのようにして航空部隊が形作られたのか、その概略を話します。

空からの攻撃が実戦で行われたのは、第一次世界戦争からです。当時の飛行機の写真を見ますと、大丈夫かと不安を感じさせる二枚羽根の機体ですが、陸軍は1911年に埼玉県の所沢に飛行場を作りました。これが出発点です。所沢に飛行場を作り、第一次世界戦争では中国の山東半島に派兵し、航空機を使いました。軍事施設だけでなく、中国人街を爆撃しています。

第一次世界戦争は総力戦であり、植民地からも民衆を動員し、新兵器としては毒ガス、戦車、航空機、潜水艦、新型の大砲や機関銃が使われます。そのような新兵器による大量破壊、大量殺戮が行われ、塹壕戦など、戦場で数多くの人々が命を失うという戦争でした。

飛行機の登場は、海の支配から空の支配の時代の到来を告げるものでした。海の支配をめざし、巨大戦艦を製造する考え方が支配的でしたが、空の支配が戦争の帰趨を決めるようになります。新兵器の登場は1920年代の軍の近代化をすすめます。日本も航空部隊の強化をねらい、空からの爆撃や毒ガス兵器、細菌兵器の研究もすすめました。

このような動きのなかで、飛行第7連隊が立川で編成され、1926年に浜松へと移駐しました。浜松にあった歩兵部隊は廃止され、軽爆と重爆の飛行隊が配置されたのです。

満洲侵略がはじまるころ、1930年段階での陸軍の航空部隊の編成状況をみると、各務原に飛行第1連隊、第2連隊が置かれ、八日市に第3連隊があり、大刀洗に第4連隊があり、立川に第5連隊がありました。平壌に第6連隊が、浜松には第7連隊、そして屏東(台湾)に第8連隊がありました。植民地の台湾や朝鮮にも飛行部隊を置いたのです。

台湾の飛行第8連隊は、1930年の霧社事件の時にタイヤル族を毒ガスで弾圧しました。植民地人への毒ガスの使用は問題ないとして使ったのです。1931年の満洲侵略により、平壌の飛行第6連隊は満洲に派兵され、浜松の第7連隊も軽爆隊と重爆隊を派兵しました。

1935年に入っての陸軍爆撃隊の編成状況をみると、浜松にあった第7連隊の軽爆、重爆の中隊は増強され、平壌の第6連隊にも軽爆中隊が置かれます。そして台湾の第8連隊に軽爆中隊が置かれ、チチハルの第10連隊にも浜松の部隊を加えて爆撃隊が置かれます。公主嶺を拠点とする浜松出自の爆撃隊は第12連隊になります。台湾の嘉義には爆撃隊の第14連隊が置かれ、満洲の牡丹江には第16連隊が置かれました。

増強された爆撃隊は中国への全面侵略がはじまると中国各地に派兵され、爆撃を繰り返しました。194112月にマレー半島など、東南アジアへの侵略が始まると、陸軍の爆撃隊も動員され、シンガポール、ビルマやインド方面への爆撃をおこなうことになります。

 

浜松の陸軍航空基地の拡張と毒ガス戦

浜松に飛行部隊が置かれると、基地の拡張がすすみます。1933年には浜松陸軍飛行学校が設立されました。高射砲の部隊や整備教育の部隊も近くに置かれました。地域での陸軍航空部隊や航空機の存在は、戦争態勢のなかで中小の工場の軍需工場化をすすめ、航空機部品が製造されるようになります。大きな工場である日本楽器(ヤマハ)では軍用のプロペラを生産しました。当時のアメリカ軍の浜松攻撃の目標地図をみますと、ヤマハの工場が爆撃目標の中心になっています。中島飛行機のエンジン工場も浜松に建設されました。

1920年代後半から30年代にかけての陸軍軍人の発言には、航空機から爆撃、毒ガス、細菌兵器の三種の攻撃ができるとするものがあります。陸軍では、航空機による攻撃形態として爆弾、毒ガス、細菌が教育されていたようです。

そのうちの毒ガスですが、1920年代の後半、浜松の飛行第7連隊が実際にガス爆弾を投下する訓練をしています。1930年代には毒ガス弾攻撃の研究を浜松飛行学校が分担するようになります。愛知県の伊良湖、滋賀県の饗庭野、浜松の三方原、天竜川河川敷などで毒ガス弾の開発、投下や雨下の演習をしています。浜松が毒ガス攻撃の研究、下志津が防護の研究をするようになるのですが、最終的には浜松に防護と攻撃が統合され、戦争末期には本土決戦用に、浜松で毒ガス戦用の独立部隊である三方原教導飛行団ができます。部隊名からは化学戦部隊であることがわからないようにしています。

下志津陸軍飛行学校の「毒瓦斯弾投下ニ対スル飛行場防護研究記事」は、毒ガス攻撃研究が浜松でおこなわれていたことを示す史料です。毒ガス投下や毒ガス処理の写真とともに毒ガス投下訓練用地図も入っていました。その訓練の内容は、「きい」(イペリット)弾や「あをしろ」(ホスゲンと発煙)弾投下、ガス弾と普通爆弾をまぜての投下でした。どうやって投下すると破壊的に相手を殺傷できるのか、攻撃後のガス処理をどうやるのかという訓練でした。

中国側の資料を見ますと、日本軍の飛行機により毒ガス攻撃が行われたという記事が出てきます。アメリカ軍が不発弾を回収して、それが毒ガス弾であったとする記録も残っています。毒ガス弾を投下したことは、隠せない事実なのですが、戦後は隠されてきました。

細菌戦部隊である関東軍731部隊はハルビンを中心に活動し、毒ガスによる人体実験もしていますが、毒ガス戦用の本隊である関東軍化学部はチチハルにおかれ、516部隊と秘匿名で呼ばれていました。この516部隊と協力しながら、浜松の陸軍飛行学校は満洲で毒ガス弾の投下や雨下の演習をおこなっています。毒ガス弾を効果的にいかに使うのかという研究をしていたのです。中国側の資料に記されているように、陸軍の航空部隊は中国大陸で実際に毒ガスを投下しています。また、中国側資料には、毒ガスが雨下されたという記事や証言があります。

このように毒ガスの研究や演習、実戦での使用がおこなわれてきました。戦後は毒ガスを使ったことを隠蔽してきました。敗戦により、毒ガス缶が存在することも隠そうとしました。隠され埋められたガス缶は、歳月を経るなかで壊れ、外に漏れ出ています。2003年、茨城県の神栖で、毒ガスに起因する健康被害が明らかになったように、さまざまな被害をもたらしました。浜松でも戦後、浜名湖に投棄した毒ガス缶が浮かびあがり、それに触れて死者が出ています。

 

陸軍爆撃機による「特攻」

 1937年以降に採用された97式、その後に採用された100式、4式など重爆撃機の機体は大きなものですし、搭乗者も数人必要です。そのような機体が特攻作戦にも使われました。

「義烈」という沖縄戦での空挺隊による特攻で使われた飛行機は97式重爆撃機12機です。浜松を飛び立ち、熊本の健軍から沖縄に向かいますが、4機が不調で戻り、7機が撃墜されました。沖縄の読谷飛行場への着陸は1機とみられます。戦死が99人という無謀な作戦でした。

浜松で編成された部隊に飛行第62戦隊がありました。編成後、帯広に行き、アジア・太平洋戦争が始まると、マレー攻撃にも動員されました。この第62戦隊は、部隊そのものが特攻部隊に指定されます。当時の部隊長はそれを断りますが、更迭されてしまいます。

NHKの戦争証言アーカイブスに「重爆撃機 攻撃ハ特攻トス 陸軍飛行第62戦隊」(2009年)があり、生き残った方々の証言が収録されています。NHKのウェブサイトで見ることができます。陸軍重爆撃機の特攻隊員として多くの人々が命を失いました。

この飛行第62戦隊の特攻隊員の中には朝鮮人の隊員もいました。出撃前に特攻機が燃やされる事件が起き、通信士の朝鮮人隊員が犯人とされ、処刑されてしまいます。林えいだい『実録証言 大刀洗さくら弾機事件 朝鮮人特攻隊員処刑の闇』は、その無実を訴える作品です。さくら弾機とは、4式重爆撃機に2900sの対艦用爆弾を搭載し、防御用火器を取り除き、片道のみの燃料を搭載した特攻用の爆撃機です。機体は大きくて重く、艦船に突入できる性能はないものでした。

浜松の陸軍飛行学校は、戦争末期には浜松教導飛行団という形に部隊を編成替えされ、教育部隊から実戦部隊に転換されました。浜松からは陸軍の最初の特攻隊である富嶽隊が編成され、フィリピン戦に投入されています。この攻撃機は4式重爆撃機に800s爆弾2個を搭載し、ト号機と呼ばれました。旋回機関銃は取り外し、代わりに黒い棒を差して偽装したといいます。このような特攻機の装備は、死ぬことを名誉とし、生きることを否定する当時のありようを象徴するものです。

米軍が爆撃用に撮った写真から、戦争末期の浜松での軍事基地の配置状況がわかります。飛行第7連隊があり、そこから陸軍飛行学校が生まれました。陸軍の整備兵を養成する第7航空教育隊ができます。高射砲部隊も置かれました。北の方には三方原教導飛行団ができます。軍事基地が強化されていったわけです。近年、飛行場の配置図を入手できたので、飛行第7連隊と飛行学校の配置状況の概略を示せるようになりました。弾薬庫の実態も当時の図面から示せるようになりました。弾薬庫、乾燥火薬庫、填薬弾薬庫、さらに毒ガスを入れる特殊弾格納庫もあったのです。

 

以上、浜松の陸軍部隊の爆撃隊の概略を話しましたが、その理解には時間がかかりました。わたしは何も知らなかったのです。1990年代末のことですが、航空自衛隊浜松基地へと空飛ぶ司令塔と呼ばれる空中警戒管制機(AWACS・エ―ワックス)が配備されることになり、それへの反対運動がありました。「周辺事態」の名での日米共同作戦づくりがすすんでいたころです。私より先の世代が、「浜松は渡洋爆撃の拠点であった」と言っていました。

そこで、浜松からの渡洋爆撃が本当にあったのか調べてみると、海軍機は長崎の大村基地から南京へと渡洋爆撃をしていますが、陸軍の浜松の部隊などは、中国に派兵され、その飛行基地で武装を強化し、飛び立って爆撃しています。厳密な意味での渡洋爆撃はしていません。爆撃の詳細についても無知でした。調べるほど、アジア各地での爆撃状況がわかり、問題意識が高まったというわけです。

 

2 陸軍爆撃隊のアジア爆撃

 ではつぎに中国をはじめ、アジア各地での陸軍爆撃隊の動きについてみてみます。

 

浜松から派兵された爆撃隊

爆撃隊が自らの活動を正当化するかたちで描いた戦隊史や戦争記事を読み直し、どの戦隊が何をしたのか、どのような爆撃をし、どのような被害を与えたのか、そこにどのような問題があるのかをとらえ直していくことが必要だと思います。

中国などでの爆撃については、飛行第12戦隊、第60戦隊、第98戦隊、第14戦隊、第31戦隊などの動きから、空爆の実態を知ることができます。

飛行第12戦隊は、満州事変の時に浜松から派兵された部隊が現地で飛行第12大隊になり、さらに飛行第12連隊、そして飛行第12戦隊へと名前が変わりました。飛行第60戦隊は、中国への全面侵略戦争が始まると、浜松から派兵された部隊が名前を変えたものです。飛行第98戦隊は、日中戦争に際し、浜松から派兵された部隊と台湾の嘉義の爆撃隊から派兵された部隊が合体して生まれました。これらは重爆撃隊であり、飛行第12戦隊、第60戦隊、第98戦隊は合同して、重慶爆撃をおこないました。

飛行第14戦隊は、アジア・太平洋戦争の時には、台湾の嘉義からフィリピン、ビルマなどに派兵された重爆撃隊です。この嘉義の爆撃隊は浜松から派遣された部隊で編成された部隊でした。飛行第31戦隊は日中戦争の時に浜松から派兵された軽爆撃の飛行第5大隊が元になって編成された部隊です。最終的には戦闘機隊になり、フィリピン戦に投入されました。

つぎに、浜松から派兵された部隊を基礎とする飛行戦隊、第12戦隊と第60戦隊の動きから、中国を含め、アジア各地でどのように爆撃をしたのかを追ってみます。

 

 飛行第12戦隊の動き

 20175月に「戦争のはじまり 重慶爆撃は何を招いたのか」(NNNドキュメント)で重慶爆撃のドキュメンタリーが放映されました。無差別爆撃の始まりはいつなのかを追及し、重慶爆撃を東京大空襲の起点ととらえていました。

このように起点を重慶爆撃とするだけでいいのでしょうか。起点としては、満洲侵略での爆撃を見落としてはならないと思います。満州侵略では平壌から飛行第6連隊、浜松から飛行第7大隊第3中隊が派遣され、各地で爆撃をおこないました。飛行隊は、193111月、抗日部隊や装甲列車などをつぎつぎに爆撃し、ハルビン方面から黒龍江方面にすすみ、さらに錦州付近を攻撃する、このように動きました。

飛行第7大隊第3中隊は飛行第12大隊となり、のちに第12連隊となります。飛行第12大隊は1933年には熱河作戦に投入され、418日、北京近くの密雲の市街地を爆撃しました。この攻撃の写真の説明をみますと、15キログラム爆弾54発をつぎつぎに投下しています。こういった市街地への50発近い爆弾の投下は、投下された側からすれば無差別爆撃です。

飛行第12大隊が残した写真を一枚一枚見ていくと、航空機からの爆弾の投下が多くの人々の命を奪ったことを知ることができます。陣地攻撃だけでなく市街地や集落への爆撃がおこなわれたのです。満洲事変から熱河作戦にかけてさまざまな爆撃が行われました。

重慶爆撃だけでなく、このような歴史を見ておかなければいけないと思います。第1次世界戦争時の青島攻撃の時、陸軍と海軍機による爆撃があり、それを起点と言うこともできますが、規模からみて、満洲での爆撃を忘れてはならないと思います。

1937年に日中戦争が始まると、飛行第12連隊は公主嶺から錦州にすすみ、独断で天津方面まで飛行し、爆撃をしました。一時期、公主嶺に戻りますが、公主嶺から承徳に動員され、市街地の爆撃を繰り返します。飛行第12連隊は飛行第12戦隊へと編成替えされ、空の爆撃隊と陸上の整備部隊が分離されます。その方が移動しやすいというわけです。1938年には西安飛行場や山西省の山岳地点を攻撃するなど、各地を爆撃します。常徳や漢江、あるいは運城を拠点にします。運城からは重慶爆撃を繰り返しました。蘭州爆撃、西安爆撃もおこないました。飛行第12戦隊はノモンハン戦争にも投入されました。

12戦隊の爆撃写真が残されています。たとえば、洛陽を爆撃したものがあります。都市への爆撃は民衆の生命だけでなく、大切な文化施設をも破壊するものでした。

この飛行第12戦隊の動きをみますと、194112月には中国方面からプノンペンにすすみました。移動中にかなり機数を失いますが、プノンペンに移動して、ペナン島やラングーン、そしてシンガポールの爆撃を断続的に繰り返していくわけです。たくさんの爆弾を投下しました。飛行第60戦隊、第98戦隊もともにマレー攻撃に動員されました。

12戦隊がシンガポールやビルマを爆撃した際の写真が残されています。ビルマ爆撃の写真をみると、多くが市街地です。当時はイギリス領でしたが、インド方面も爆撃します。第12戦隊の19423月から5月にかけてのビルマなどへの爆弾の投下数は5000発ほどです。

12戦隊は雲南省の保山への爆撃もおこなっています。保山はビルマ方面から中国の奥地を経て重慶につながる支援ルートの拠点でした。イギリス領インドの方面のチッタゴン、インパールなども爆撃し、さらに雲南省の昆明への爆撃もおこないました。さらに、インドネシア方面、モロタイ島やレイテ攻撃などに動員され、敗戦を迎えます。

このようなかたちで飛行第12戦隊はアジア各地を爆撃しました。浜松の陸軍爆撃隊、飛行第7連隊からは、さまざまな部隊が編成され、各地に派兵され、爆撃をおこないました。爆弾を浴びせられた人々が、どのような状態になったのかを想像すべきでしょう。中国側の文献からは、どのような爆撃があったのかを記載するものがあり、死亡者の名前が収録されているのもあります。ビルマの被害状況は未知ですが、多くのビルマ民衆が爆撃で命を失ったと思います。

 

飛行第60戦隊の動き

もうひとつ、飛行第60戦隊について話します。

 飛行第60戦隊も浜松から出撃した部隊です。1937年の日中全面戦争により、7月11日に飛行第7連隊から飛行第6大隊が編成されました。719日に錦州に派兵され、天津や張家口、大同、保定など、陸軍の陸上部隊の侵攻を空から支援しました。飛行部隊独自の使用についても検討され、重慶爆撃にみられるように、戦略的爆撃にも使用されました。蘭州、西安、重慶だけではなく、各地を爆撃します。特に蘭州は当時、ソ連からの支援の拠点となっていましたから、爆撃を集中しました。

陸軍による重慶爆撃では、飛行第60戦隊が中心部隊となります。重慶近郊の自流井への爆撃もおこないました。陸海軍機による重慶爆撃について、西南師範大学や重慶档案館など中国側史料から一覧表を作り、陸軍機の爆撃による被害状況についてまとめました。陸軍機による重慶爆撃は、大きく分けると1938年の終わりから39年初めの攻撃、19406月の攻撃、それから19418月の攻撃、最後は1944年の梁山の飛行場爆撃があり、4期の攻撃がなされたということができます。近年、戦後70年を経る中で、中国側史料も多数発行されるようになりました。

重慶爆撃の当時の日本側のNHKニュース映像には、陸軍の爆撃隊の姿が映っています。重慶でアメリカ人が撮影した映像「苦干」にも、上空に爆撃機の機影が映っています。ニュース映像と同様の機体であり、陸軍機とみられます。NHKのニュースの映像を見ると、海鷲や陸鷹の名で海軍・陸軍機が活躍している様が宣伝されています。ニュース映像では、小川部隊と表現されますが、実際の戦隊名は示されません。これは浜松で編成され、中国をはじめ各地を爆撃した飛行第60戦隊のことです。映像では活躍が宣伝されていますが、本当のことは示されません。

重慶爆撃による被害者の証言は、重慶爆撃裁判によって数多く示されました。浜松でも被害者の証言集会がもたれましたが、戦後70年の間、爆撃による傷は消えることなく、被害者に痛みを与え続けるものでした。もう終わったでは済まされないことです。

60戦隊は194111月、浜松からプノンペンに向かいます。そして、128日、マレー地域への侵略が始まると、ぺナン、ジョージタウン、ラングーン、シンガポールなどを爆撃しました。

 陸軍機によるシンガポールの爆撃の状況を知るために表を作成し、攻撃の実態を調べてみました。主な爆撃部隊は、飛行第12戦隊、第60戦隊、第98戦隊、第62戦隊など、浜松を出自とする部隊です。194227日から15日の間だけでも600トン近い爆弾を投下しています。数千の爆弾が投下されたわけです。シンガポール爆撃についても、改めて捉え直さなければならないと思います。

 

未見資料、防衛研究所史料など

防衛省防衛研究所の史料目録が、今では防衛省のウェブサイトに掲載され、防衛省防衛研究所の史料室では、館内閲覧用パソコンで史料が閲覧できるようになりました。今から20年くらい前は、検索のカードをめくって調べていましたが、便利になりました。防衛省史料の一部は、アジア歴史資料センターのウェブサイトに掲載されています。

この史料目録から陸軍航空(陸空)関係の史料をみていくと、未見のものがたくさんあります。

飛行第12戦隊については、「陸空 写真」の項にある、第12戦隊の写真集などは閲覧していますが、ほかにも見ていない史料があります。戦闘記録、重慶爆撃の写真や史料などが入っている他の史料があるのかもしれません。飛行第60戦隊の戦史には重慶の爆撃写真が収録されています。「陸空 支那方面181」に飛行第60戦隊関係資料(1939年〜1940年)があります。このような史料のなかに、戦史の記述にあたり利用された写真も入っているかもしれません。「陸空 写真」の第60戦隊の写真類は閲覧しました。未見の史料の調査が必要です。

「陸空 中央航空衛生」の項目を見ていきますと、池田苗夫の名があります。この人は731部隊関係者です。史料22に彼の「流行性出血熱の本態に関する実験的研究」があります。もう一人、関心のある人物に増田美保という人がいます。彼は731部隊関係者で、中国で航空機によるペストノミの撒布攻撃を実行した人です。史料に増田の「衛生材料の空中補給」という研究論文があります。また、「軍医団雑誌目次一覧表」(191843年)があります。この雑誌は見たことがないのですが、731関係の論文も入っているのでは思います。調べたいと思います。

ところで、防衛省のウェブサイトでの公開史料には問題があります。例えば、飛行第60戦隊のシンガポール方面の爆撃についての史料は、アジア歴史資料センターでも公開しているのでが、一枚分は黒塗りです。黒塗りの部分については、防衛省に行って、その史料を請求するか、あるいは防衛省にある閲覧用パソコンで開いてみると、その史料が出てくることがあります。

アジア歴史資料センターで公開している防衛省の日ソ戦関係の史料では、史料目録をみると史料番号がわかるのですが、ウェブサイトで公開している史料では、史料番号が消されています。史料番号を消し、本当は5件ほどある史料を1件の史料のように示しているものもあります。防衛省はウェブサイトでの史料公開にあたり、個人情報を口実に史料の隠蔽をしていると思います。

アジア歴史資料センターのウェブサイトの公開では、史料件名の史料番号が消されているものがあること、本当の件名がわからないような形で、数件の史料がひとかたまりの史料のように紹介されているものがあるのです。防衛省での史料閲覧の手順を理解していると、実物と出会えますが、アジア歴史資料センターのウェブサイトを見ているだけでは、史料に接することができないケースがあるわけです。また、井本日誌や衛生学校の資料など、都合の悪い資料は隠しつづけてします。

中国側の史料についても未見のものが数多くあります。

中国各地で文史資料が発行されています。これもなかなか読めなかったのですが、村山内閣が1995年に東京に日中歴史研究センターを置き、そこに文史資料も集められました。この研究センターがあった時に、古い新華日報や文史資料などを閲覧できました。蘭州爆撃について記述する際には、知人が入手した蘭州の文史資料を利用しました。

このセンターは2005年に閉鎖され、書籍はその後、京都の国際日本文化研究センターに移管されました。2011年に「日中文庫目録」が作成されています。

日本軍の爆撃については中国側の戦争記録に記載されています。日本での中国書籍の入手もウェブサイトでできるようになりましが、入手不能という回答が来ることもあります。

以上、未見の資料というテーマで話しました。

 

毒ガス兵器・一式2s投下弾など

毒ガス戦関係でも、わからないことが多くあります。

「浜松陸軍飛行学校諸計画綴」という資料のなかに「飛行団一ヶ月使用化兵用量、弾薬、器材ニ関スル一案」という資料がありました。偕行文庫でみたのですが、1941年か42年に浜松の陸軍飛行学校が立てた案です。これは、一つの襲撃飛行団や重爆飛行団でどれくらいの「あか」、「ちゃ」、「きい」などの毒ガスとガス用兵器を所有するかという案です。

この案には、重爆飛行団のところに、2個戦隊、4日分で、一式2kg弾、3万と記されています。想像するに、50sの「きい」の爆弾は効果的ではないと考え、より小型化したクラスター型の2s弾を開発し、榴弾のように破裂させて、使おうとしたのではないかと思います。

一式50s投下雨化弾という記載もあります。おそらくパラシュートのようなもので落とし、地上近くで爆発させて雨化する兵器とみられます。実際にそのような訓練をしたという証言があります。一式というのは1941年に兵器として確認されたものです。新型の化学兵器を開発していたのでしょう。一式2s弾、一式50s投下雨化弾の図面は、未見ですが、どこにあるのでしょうか。

使用想定の総毒量は「きい」剤(イペリット)で1000トンを超えています。「きい」を主要な攻撃剤と想定していたとみられます。

もうひとつ、航空機による細菌戦の件です。731部隊細菌戦資料センターがウェブサイトで出している資料に、金子順一の論文「PXノ効果略算法」があります。この論文の表「既往作戦効果概見表」は、ペストノミ(ペストに汚染されたノミ)を使って、一次感染、二次感染でどれだけ人間を殺すことができたのかという調査です。金子順一の論文にはほかに、航空機から投下筒を使い、いかに効果的に細菌を撒くかという研究もあります。戦争でペストノミをいかに使うのかを研究し、航空機で撒き、一次感染や二次感染で13000人近い人間を殺したことを確認したとみられます。ペストによる殺害を実行しても、何の呵責も持たなかったようです。

戦争の歴史の史料を読み直し、戦争犯罪や戦争責任を自覚し、さきの世代が戦場に動員されるかたちでしか自分を示すことができなかったこと、それを強いられた歴史をみつめ、そのような帝国臣民の歴史をとらえ直し、そのような歴史を繰り返さないようにすることが大切だと思います。

 

浜松基地の碑「陸軍爆撃隊発祥之地」

航空自衛隊浜松基地の中に、「陸軍爆撃隊発祥之地」という碑があります。この碑は1960年代に旧陸軍爆撃隊関係者が作りました。碑には、ノモンハン及び大陸戦線では、奥地に侵攻し、戦略爆撃を敢行した。シンガポールの要塞を攻め、ビルマ、インドへの侵攻など、縦横無尽の戦いをした。ガナルカナル方面にも行き、モロタイ島やレイテ島の戦場に参加したなどと記されています。

この碑文には、戦略爆撃が肯定的に記されています。空爆を行ったことに対する反省や、それが戦争犯罪であるといった認識がないまま、現在に至っています。

2010年に北海道の旧陸軍浅茅野飛行場建設工事で亡くなった朝鮮人の遺骨発掘に参加しました。墓地の発掘では、ひとつの穴から3体の遺骨が重なるように出てきました。亡くなった朝鮮人を穴のなかに重なるように埋めていたという証言がありましたが、それを裏付ける遺骨でした。

発掘担当の方が遺骨の向きなどを計測しながら、凄惨な埋め方であると語りました。一人ひとりの命の重さを無視し、ゴミを捨てるように、重ねられていました。連行され、労働を強制されていた朝鮮人のものとみられますが、遺骨の名前は明らかになっていません。これは戦争末期の陸軍基地建設工事現場での出来事ですが、植民地支配の清算は不十分なまま、今に至っています。

さて、世界をみれば、各地に死者を追悼するさまざまな碑があります。

たとえば、ドイツのベルリンの街には、殺された人々の名前を刻んだ碑が路上に埋め込まれています。「躓きの石」といいます。碑を見れば、たとえば、テレジンシュタットへ連れて行かれて、アウシュヴィッツで死んだなどと刻まれています。スペインのバスク、ビルバオの碑は指紋の形をしています。横にはスペイン人民戦線の犠牲者の名前を刻んだ碑があります。バスクの民族主義政党、労働組合の活動者、スペイン共産党員、アナキストの労働組合員、共和主義者の名前などが記されています。

第2次世界戦争で何千万人もの人びとが命を失いましたが、さまざまな形でそれを追悼し、名前を刻んでいます。死者をさまざまな形で示し、再びこのような戦争を起こさないという決意を示しているわけです。過去を反省することなく正当化するありようを変え、過去の清算をすすめたいと思います。

 

3 グローバル戦争と軍拡

 戦後の浜松基地の歴史 

 ここで戦後の浜松基地の歴史を、冷戦後の動きを中心にみていきます。

1954年に航空自衛隊浜松基地ができますが、飛行教育や整備教育などを中心とする基地でした。1982年にはブルーインパルスが基地祭で墜落しました。冷戦後、アメリカの世界戦略が変わるなかで、グローバルな戦争に時代になり、そのなかで日米共同作戦態勢が強化され、軍拡がすすみました。

浜松基地では1998年・99年に空中警戒管制機(AWACS)計4機が配備されました。警戒航空隊が置かれ、実戦基地となりました。空自の広報館もできました。21世紀にはいり、イラク戦争では浜松基地を含め、日本各地からイラクに自衛隊が派兵されました。

さらにミサイル防衛(MD)では、浜松基地にも2008年にPAC3が配備されました。最近、韓国でTHAAD(サード)ミサイルが配備され、反対の動きが起きています。ミサイル防衛は、予防先制攻撃と一体のものです。ミサイル防衛は予防先制攻撃を行うためのものなのです。それをふまえれば、朝鮮や中国、ロシアにとっては、ミサイル防衛システムの完備は、予防先制攻撃準備の宣言であるわけですから、THAAD配備を批判するわけです。2015年、米軍横田基地に日米共同統合運用調整所が置かれたように、軍事の一体化がすすんでいます。これは非常に大きな問題です。日本はアメリカの軍拡と一体化すべきではありません。

 

 グローバル戦争と現代の軍拡

では、グローバル戦争とは一体何なのか。予防先制攻撃はミサイル防衛と一体化し、平時と戦時のシームレス、継ぎ目のない状況をつくります。さらにロボット兵器、民間の傭兵も使われるようになりました。宇宙の支配が核心です。かつては海の支配でした。そして、その後は空の支配でした。宇宙を支配しながら、平時と戦時の線引きもなく、シームレスに戦争がおこなわれているわけです。

日米共同作戦態勢が強化される中で、軍事的な指針として、新ガイドラインが2015年に再改訂され、それにみあう形で秘密保護法と日本版NSC(国家安全保障会議)ができ、集団的自衛権行使を閣議で認め、安保法制をつくり、さらに市民の日常を監視する共謀罪をつくるわけです。そういうなか、浜松基地への美保基地の教育部隊の移転問題があります。

沖縄での新基地建設、陸上自衛隊の与那国や宮古や石垣への配備、さらに佐世保に自衛隊が水陸機動団を配備する。山口県の米軍岩国基地にはすで空中給油機が普天間基地から移転しています。2017年に入って、米軍は岩国にF35を配備しました。神奈川の厚木から艦載機F18等も移転します。岩国を計130機の一大航空拠点とし、極東最大の航空基地にしようとしています。

このような軍拡により、日本は空自の美保基地に新型空中給油機の配備を計画しています。この給油機は米軍機、オスプレイにも給油できます。岩国基地の米軍をサポートするものです。空中給油機を配備すると軍民共用の美保基地は手狭になり、教育部隊を浜松に送るというわけです。

グローバル戦争では、ロボット兵器の導入もすすんでいます。たとえば、無人機プレデターを使い、アメリカの基地から衛星経由で操作し、午前はアフガン、午後はイラクでと攻撃しています。この空からの攻撃は、場合によっては無差別攻撃になりますが、その行動は正当化されています。倫理の崩壊状況がすすんでいると思います。

また、日常的な市民への監視がすすみ、スノーデンが語っているように、アメリカはすでに、諜報プログラムの「エックス・キースコア」を日本側(防衛省情報本部)に渡しています。「エックス・キースコア」を使うということは、国家が人間の私生活、あらゆる電子情報を日常的に監視するということです。そのような状況になっているわけです。

現在のグローバルな戦争の状況とどう対抗していくのか。ロボット兵器を禁止できるような、空からの空爆を禁止できるような国際的な条約をどのようにつくれるのか。日常的なプライバシーの監視をどう制限するのか、そのような国際的環境をどうつくれるのか。それが今、問われているのだろうと思います。

生物兵器や化学兵器、対人地雷やクラスター爆弾に対する一定の規制を人類はつくりあげてきました。核兵器禁止の動きもすすんでいます。しかし、ロボット兵器や日常的な電子情報監視のシステムの制限には至っていません。グローバルな戦争の中で、それを規制するために叡智を合わせる、そのような時代に入っていると考えています。

 

おわりに

 

戦争によって奪われた一人ひとりの命の大切さをもう一度、捉え直し、それを再び起こさないとともに、遺骨があるのなら遺族に返す作業が必要であると思います。一人ひとりの命を大切にする視点でも一度、歴史をとらえ直していく必要があると思います。

戦争犯罪を追及する、戦争を違法化する。戦争遺跡を私たちの視点で読み込んでいく。空襲で亡くなった人々の名前を記録して後世に残す。そこで問われるのは、私たちの側の想像力であり、今現在の戦争に抵抗する平和への営みであると思います。それを育てること、それが今後の課題と思います。

戦後の歴史をみれば、空襲被害に対しては「受忍」を強制し、靖国の思想は存続してきました。天皇制も存続され、天皇制を支配の核にして、歴史の偽造が続いてきました。言い換えれば、死者の無念の思いを国家が奪い続ける、それが続いていると思います。天皇制を問わないことを含めて、無責任な体制が戦後、継続されてきました。

いま、浜松の空襲死者に対して、市民の関心が高いわけではありません。アジアの空襲被害の死者に対してはどうでしょうか。その死者の名前がきちんと示され、心に刻まれているでしょうか。アジアの戦争被害者のみならず、日本人自身の戦争被害の回復もできていない状況ではないでしょうか。

東京や大阪では空襲被害救済の訴えがありました。しかし、2017年に入って政府が出した案は、足を失ったりした酷いケースに限り50万円を支払うものといいます。戦後70年の苦しみ、それが50万円、これが今の日本の姿です。

人間にとって一番大切なもの、それは命だと思います。命を守るために何が必要かというと、人間と人間との平和的な関係がなければなりません。その人間と人間との平和的な関係を維持するためには、きちんと歴史に学んで、間違ったことをしないという、社会的認識の共有が必要だと思います。それを歴史認識、歴史的責任ということができるでしょう。

いのち、人間の尊厳を大切にすることは、沖縄ことばでは、「命どぅ宝」ですし、平和的な関係というのは、仲良くする、出会えば兄弟、「いちゃりばちょーでー」です。相手の痛みを分かつは「ちむぐりさ」です。命を大切にする、仲良くする、痛みを分かちあうという視点、歴史を被害者の立場からみるという視点で歴史を描いていく必要があると思います。

日本の民衆に対する空爆被害を、被害として正確に認め、その痛みを国家として補償する。他方、アジアの人々に対して、空襲で一人ひとりの命を奪い、街を破壊したこと、それを自覚し、謝罪し、補償する。空から人間の命を破壊するという空襲に対して、もう一度、この100年間の歴史を捉え直し、反空襲の思想と運動をつくっていく。そのような作業が必要なのではないかと思います。

以上で、私の話は終わりです。話す機会をくださり、ありがとうございました。

 

 (竹内、2017年7月の東京での講演記録に加筆・修正、再構成。質疑回答の一部は本文に挿入)