松代大本営工事への朝鮮人強制動員・帰国
     長野県警察部文書「帰鮮関係編纂」「内鮮調査報告書類編冊」から

 

 「帰鮮関係編纂」「内鮮調査報告書類編冊」は、記載事項から長野県警察部の文書であり、19459月に作成されたものである。そこには長野県の労働現場からの朝鮮人の帰国計画が記されている。松代大本営の工事現場から帰国を希望する朝鮮人の名簿も収録されている。

ここでは、この史料にある松代大本営工事に動員された朝鮮人の名簿を分析し、集団動員の状態について考える。また、長野県での朝鮮人の強制動員現場とそこからの朝鮮人の集団帰国の状況についてみていく。

 

1 松代大本営工事に動員された朝鮮人の名簿

@ 松代大本営工事

 はじめに松代大本営工事の概要をみておこう。松代大本営工事は、本土決戦用に東京の大本営を長野市の南の松代へと疎開させるものであり、日本軍の東部軍経理部によって工事がすすめられた。工事は松代倉庫工事の名でおこなわれ、松代を中心にイ号からリ号までの9つの地区と仮皇居、賢所、海軍壕を加えた計12か所で工事がすすめられた。

工事の中心は、松代の象山に掘削されたイ号の政府の壕と舞鶴山のロ号の大本営の壕であった。また、皆神山のハ号には食料庫など、須坂には送信施設などの工事もおこなわれた。これらの工事を西松組が請け負い、多数の地下壕が掘削された。第2期工事の天皇の御座所の建築は鹿島組が請け負った。

 

A 松代大本営工事への朝鮮人動員

 松代大本営の地下壕の掘削工事は194411月から始まるが、労働力として多数の朝鮮人が動員された。現地ではその数を6000人とみている。その動員の状況についてはすでに、原山茂夫「松代大本営工事 その全貌と本質を共に究めるために」や青木孝寿『松代大本営 歴史の証言』で分析されている。それらを参考に動員状況をまとめてみよう。

工事にあたり、西松組が請け負っていた岩手県の宮守などの発電工事現場から朝鮮人が松代に転送された。その数は約500人とみられる。このなかには朝鮮半島から連行され、転送された者もいた。朝鮮人は東北だけでなく、群馬、新潟など各地から集められた。19452月には愛知県小牧の軍工事現場から300人が転送された。家族持ちの朝鮮人も西松組の配下である班の下に入れられた。

このように日本各地から松代に動員された朝鮮人は2000人を超えたとみられる。

さらに194411月には、東部軍経理部による徴用で、朝鮮半島から2000人が富山経由で連行され、西松組に配属された。その後も数派の集団移入・連行があり、証言によれば、19452月、6月ころ、慶南昌寧郡からの連行があったことがわかる。

朝鮮半島からの集団移入・強制動員者も2000人以上いたとみられる。

2期工事の鹿島組については、1945年の春に、神奈川県の川崎や長野県の木曽発電工事現場から朝鮮人200人ほどが動員されたことがわかっている。

 

B 動員朝鮮人の管理状況

このように動員された朝鮮人はどのように管理されたのだろうか。この間の調査からまとめておこう。

 西松組の配下は班と呼ばれた。判明している班名には、イ地区の阿久根、中山、松浦、河野、面田、塩沢、坂上、長尾、森脇、梅田など、ロ地区の池尾、ハ地区の大久保、沢谷、久保などがある。

これらの班の下で、組が壕の掘削を請け負ったが、そこに朝鮮人が配置された。末端の飯場は4050人ほどで、単身者と家族持ちで構成されていた。たとえば、イ地区の中山班には新井組があり、7号壕を請け負った。崔小岩(催本)はそこで労働した。イ地区の阿久根班の下で、卞鳳煥(松下)は飯場を持ち、100人ほどで18号壕を請け負った。卞鳳煥は群馬県沼田の鉱山で飯場を持っていたが、30人くらいを連れて移動し、さらに群馬、秋田、福島からも同胞を呼びよせた。

 

C 松代・動員朝鮮人名簿の概要

これまでの調査で松代大本営工事に動員された朝鮮人については10数人の名前が明らかになっている。

その名前をあげれば、西松組の機械担当に金錫智(三原)、イ地区の労務係に趙仁済、イ地区の組頭に卞鳳煥(松下)、鄭時金(松原)、宋麟永(清水経晴)、労働者に崔小岩(催本)、鄭巌秀、ロ地区の親方に趙徳秀(杉本徳夫)、金大首(国沢)、労働者に姜永漢(山田)、朴道三、金快述、金昌箕がいた。鹿島組の親方に李(金原一郎)、労働者に李性国、李浩根、李性欽などがいた。

長野県警察部の史料にある松代大本営関係者の名簿によって、さらに多くの朝鮮人名とその出身地が判明した。名簿の人数は、西松組松代出張所の1861人、西松組須坂出張所の524人、鹿島組松代出張所の78人の計2463人である。この名簿には、15歳以下の者が3割ほどあり、成人女性も含まれている。重複もある。そのため、名簿の約半数の1200人ほどが現場の労働者とみられる。

西松組松代出張所の名簿には、最初に集約された帰国予定者名簿と第2回のものがある。最初の名簿は、集約状況から、単身者名簿1、単身者名簿2、家族持ち名簿1、家族持ち名簿24種に分類できる。第2回の帰国予定名簿は、作成された名簿に2つの班の名簿が追加されていることから、第2回名簿、追加班名簿の2種に分けることができる。

このように名簿を分類し、分析した。

 

D 西松組松代・動員朝鮮人名簿、単身者

単身者名簿1の特徴は、西松組の「移入朝鮮人労務者名簿」の用箋に記されていることである。この用箋には移入の年度別、期別、員数、移入回数、所属隊名を記す欄があり、企業者と工事件名には、運輸省・東部軍マ(一〇・四)工事と記されている。この用紙には本籍・氏名の欄の下に、指定された地域からの集団動員を示す「井邑隊」などの記載がある。

この用紙に記されている朝鮮人は、西松組が強制動員期に朝鮮半島から集団移入した人びととみることができる。

単身者名簿1に記されている集団移入が実行された地域を示す隊名・人員数は、慶南昌寧39、密陽13、醴泉7、南海9、咸安8、統営7、山清3、慶北軍威26、全北井邑6、金堤11、全南海南3、務安5、忠南論山29、京畿連川1などの計170人である。

連川の項には1940年2月に斡旋されたことが記されている。松代工事前に動員され、西松組の現場に残っていた動員者とみられる。名簿の記載状況から、連川以外は松代工事のための集団連行者とみていいだろう。

この名簿から、松代大本営工事に強制動員された朝鮮人の出身地が明らかになるのである。

単身者名簿2は、朝鮮人405人の名簿である。この名簿には西松組から朝鮮人の帰国の引率を依頼された金錫智(三原)の名前が最後の方に記され、松代に移動してきたイ地区の崔小岩(催本)、ロ地区の姜永漢(山田)などの名前もある。

姜永漢(山田)は趙徳秀(杉本徳夫)の杉本飯場にいたが、そこに昌寧郡からの連行者10人が配属されたという。山田永漢の名の近くには昌寧郡出身者の名がある。

このような記載から、単身者名簿2は、松代へと他の現場から移動してきた朝鮮人と集団移入者が混在したものとみられる。竹田班や大、水、阿と略された班の朝鮮人も含まれている。大は大久保、阿は阿久根の略とみられる。

単身者名簿2から、出身郡で10人以上あるものをあげれば、慶南咸安、昌寧、陝川、密陽、慶北慶州、全北金堤など、5人以上の郡は、慶南宜寧、居昌、蔚山、山清、晋陽、慶北金泉、大邱、迎日、達城、安東、尚州、禮泉、義城、高霊、忠南牙山、公州、忠北槐山、全北沃溝、全南務安、長城、和順などがある。

単身者名簿1であげた郡と重なるものもあるが、これらの郡の出身者は集団移入者の可能性が高い。なお、この単身者1と2の名簿には重複がある。

2つの単身者名簿から35ほどの郡を集団的な動員地と推定できる。強制動員は一つの地域から50人、100人の単位でおこなわれたが、松代へと動員された人びとの出身地を知ることができるわけである。(図1)

 

E 西松組松代・動員朝鮮人名簿、家族持ち

 家族持ち名簿1の朝鮮人数は802人、家族持ち名簿2の数は276人である。これらの名簿には単身者も含まれている

名簿1には、西松組の配下を示す班名が記されている。班名は、松浦、坂根、杉山、伊藤、池尾、斉藤、梅田、長尾、面田、松本、大久保、久保、直営などである。ここでの直営とは西松組の直轄集団を示すものであろう。

 この家族持ち名簿から、出身郡で5家族以上のものをあげれば、慶南固城、咸陽、晋陽、居昌、密陽、咸安、宜寧、陝川、釜山、蔚山、慶北禮泉、高霊、慶州、忠南大徳などがある。固城、咸陽、禮泉は10家族を超える数である。

 西松組の第2回の名簿は178人、追加班名簿には35人分の記載がある。第2回名簿には家族持ちとともに集団移入されたとみられる単身者の朝鮮人の名前もある。イ地区の親方であり、これまでに名前が明らかになっている鄭時金(松原)の記載もある。第2回名簿では慶北達城出身の家族が多い。追加班名簿は竹田班と晴山班のものである。

 家族持ちでは、班ごとに出身郡が集中するものもあり、西松組直営では禮泉、松浦班と坂根班では固城、大久保班では咸陽、久保班では金堤、竹田班では昌原の出身者が多い。

 西松組直営の禮泉郡竜宮面出身、家族持ちの武岡信雄は、西松組の帰国引率者8人のひとりとなった。武岡は西松組直営飯場の頭であったとみられる。

 

F 西松組須坂名簿・鹿島組松代名簿の分析

 西松組は松代工事関連の須坂の鎌田山や臥竜山の通信施設などの工事も請け負った。そこに移入されていた524人分の朝鮮人名簿もこの史料に含まれている。この名簿は単身者と家族持ちのものであり、13歳以上が358人、それ以下が166人である。

 単身者では、慶南居昌、昌寧、陝川、慶北大邱、禮泉、安東、軍威、忠南論山のものが多い。家族では、昌寧、禮泉、迎日、軍威、尚州、済州島などの出身者が多い。

 西松組関係家族持ち労働者の出身郡については図2にまとめた。

 鹿島組の松代作業所名簿は78人分である。鹿島組は松代の皇族疎開先工事を請け負った。この名簿は家族持ちと単身者で構成されているが、家族・単身者ともに清州出身者が多い。金原一郎の名があるが、これまでの調査では、金原は親方で、150人ほどで川崎から松代に移動したという。同郷の金原を頼って渡日した李性国の創氏名とみられる山本性国の名もある。

 

このようにこれらの名簿から、西松組や鹿島組の配下の単身者の名前や家族持ち労働者の家族の名前、出身地の状況などが明らかになり、動員状況を推定できるわけである。

 

図1 西松組・単身者                


図2 西松組・家族持ち

 

2 長野県での朝鮮人の強制動員現場と朝鮮人の集団帰国

 

@ 長野県から朝鮮人8000人の帰国

 日本の敗戦により、朝鮮人の帰国が始まった。日本政府は朝鮮人の帰国状況を調査し、長野県警察部もその動きを収集した。

警察の集約によれば、19459月での事業場ごとの帰国予定数はつぎのようになる。

 西松組松代工事2032人、西松組松代工事須坂作業所524人、鹿島組松代工事79人、北信土木建築167人、中野単板会社16人、高水土建・金山飯場43人、志賀鉱山作業場104人、石田組須坂出張所152人、大倉土木若宮作業場54人、大倉土木塩ア作業場20人、大倉土木西条作業場43人、熊谷組日発水力平岡発電工事317人、熊谷組松本作業所1230人、松本土建工業72人、飛島組波多作業場219人、大林組松本作業所134人、鴻池組松本作業場62人、丸大組塩尻23人、松本建築工業西条作業場137人、熊谷組岩村田作業場226人、日本鋼管鉱業諏訪鉱業所186人、飛島組・長野採鉱長野鉄山101人、黒姫山国有林製炭事業場23人、三恵製作所27人、昭和電工大町工場84人、同土建相模組48人、同土建贄田組71人、同土建金森組61人、同土建下川組49人、鹿島組日発水力御嶽発電工事227人、間組日発水力三岳発電工事場15人、福島町土木建築業100人、大倉土木上松作業場184人、丸大組東部軍浦里工事12人、西松組東部軍浦里工事546人、戸田組東部軍浦里工事113人、清水組大萱軍需廠工事場400人などである。ここには子どもも含まれている。

合計すると8000人近い数となる。帰国を求める朝鮮人が多数いたことがわかる。

ここで多数を占める西松組松代工事の朝鮮人が帰国したのは、厚生省勤労局調査(長野県分)によれば、194511月に入ってのことである。

 

A 警察史料の集団移入事業場

この長野県警察部史料のなかの「朝鮮人(集団)帰鮮輸送計画史料」、「集団移入朝鮮人ノ第一回帰鮮輸送ニ関スル件」には、官斡旋によるものと記されている事業場がある。

それは、清水組大萱軍需廠工事場、大倉土木上松作業場、間組日発三岳発電工事場、鹿島組日発三岳発電工事場、福島町土木建築業(成田組)、熊谷組日発平岡発電工事場、日本鋼管鉱業諏訪鉱山、浦里村東部軍工事(戸田組・西松組・丸大組)などである。

また、丸大組塩尻、西松組松代工事にも他の記載から、集団連行された朝鮮人がいたことがわかる。

さらに、警察管内別の集計「半島人輸送資料」では、集団と一般とに分けて集計されている。集団は集団移入の略である。この史料からも集団移入された朝鮮人の存在がわかる。

それによれば、和田管内に199人、松本に773人、松代に252人、福島に316、長野に150人、諏訪に187人、篠ノ井に74人、塩尻に30人、大町に84人、上田に69人、岩村田に28人であり、合計すると2160人ほどになる。

この松本や和田の集計には、子どもも入っている。それは、動員された後に家族を呼び寄せた朝鮮人を示すものとみることができる。

このように、この史料からは、この時点で、警察が把握していた集団動員数が判明する。

この史料の警察管内での集団移入・強制動員の現場については、史料の記載に加えて、厚生省勤労局や中央協和会の資料、現地調査の報告などから、以下が判明する。

和田は熊谷組の平岡発電工事関連、松本は熊谷組の三菱重工里山辺地下工場、松代は西松組の松代大本営工事、福島は鹿島組と間組の日発三岳発電工事、および大倉土木の日発上松発電工事、長野は石田組、諏訪は諏訪鉱山、篠ノ井は大倉土木の若宮と塩崎の作業場、塩尻は丸大組の陸軍需品廠集積所、大町は昭和電工工場、上田は西松組、戸田組、丸大組の三菱重工浦里地下工場、岩村田は熊谷組の地下工場。

このように、19458月末での長野県の主な集団移入の現場がわかるのである。

ここにでてくる強制動員先については、図3で、動員先を赤線で囲み、新たに判明した動員先を赤字で記した。強制動員先は他にも存在する。

図3
 

 以上、「帰鮮関係編纂」「内鮮調査報告書類編冊」から、松代大本営工事への朝鮮人集団動員の状況、朝鮮人の集団帰国希望の状況、長野県での朝鮮人の集団移入(強制動員)の現場についてみた。

朝鮮人名簿の分析でみたように、松代の西松組の家族持ち労働者では、慶南咸安、昌寧、密陽、咸陽、固城、慶北醴泉などの出身者が多い。地域別の名簿を作成し、その名簿をもとに、現地調査がすすめばと思う。(T)