12・11南京1937 浜松証言の会 

 2018年12月11日、浜松市内で 南京1937証言の会がもたれ、45人が参加した。
 証言の会では、はじめに近代史研究者の小池善之さんが郷土兵士の南京からの軍事郵便の現物史料を紹介した。軍事郵便には、揚子江は死体の山でドロドロし、死臭が漂っていたなどの記述がある。
 続いて、南京大虐殺事件の生存者常志強さんの娘である常小梅さんが証言した。常さんは、日本軍によって父の家族が、次々に殺された状況を話し、南京での大虐殺の一端を具体的に示した。そして、歴史を教訓とし、友好をすすめることを訴えた。
 南京師範大学・南京大虐殺研究センターの張連紅さんは「戦争中の国際社会南京大虐殺に対する反応」のと題で報告した。張さんは日本軍占領の6週間での日本軍の虐殺の状況が記者、牧師、外交官らによって、どのように海外で紹介されたのかを示し、その情報がアメリカなどでの反日感情を起こしたことを明らかにした。
 証言の後、重慶爆撃弁護団、浜松市憲法を守る会、侵略上映委員会、浜松総がかり行動などから連帯のアピールを受けた。
 
以下、証言内容

2018年12月11日 南京1937年証言の会・浜松 集会資料

 

私の父は南京大虐殺幸存者の常志強  常小梅

 

私は南京大虐殺幸存者常志強の娘常小梅で、1960年に生まれました。父、常志強は1928年2月4日に生まれ、現在91歳です。

 

一. 寵児から孤児へ

 

私の父は子供の頃曽祖母、祖母、父母、姉と弟4人の家族10人で暮らしていました。私の祖父は南京の夫子廟で小さな雑貨店を営んでいました。お店の経営は順調で、家族全員、彼が養っていました。祖父は字を書くのが達者で、絵を描くのも上手だったので、よく知人のために対聯を書いたり、肖像画を描いたりしていました。私の祖母は善良で、聡明で、仕事もでき、家の中を整然と切り盛りしていました。

父は長男なので、小さな頃から祖父に連れられ、私塾に通っていました。父の理解力は優れていたので、私塾の先生は祖父に近代的な学校で勉強させる事を勧め、父は現在の南京夫子廟小学校に通うことになりました。

その頃祖父はよく父を肩の上に乗せ、色々なおやつを父に食べさせながら、夫子廟で雑技を鑑賞しており、父にとってそれは子供の頃の一番の楽しい思い出です。父は聡明で聞き分けが良かったので、家族からの深い愛情を受け、家族の中の寵児と言える存在でした。

1937年8月15日、日本の戦闘機が始めて南京上空に大挙襲来し、南京の住民に対し、無差別爆撃を加えました。戦争の惨禍は、国内外に名高い古都である南京に降り注ぎました。

その後、南京城の住民は避難を迫られ、次々と南京から逃げて行きましたが、父の一家には2人の高齢で纏足の父の祖母と曽祖母がいたので、南京をなかなか離れることができませんでした。

父が言うには: "日本人が私達を砲撃する時、住民は口々に逃げなければと言っていたが、日本軍の飛行機が頭上で轟き、常に機関銃の銃撃を浴びせた。住民は驚愕し、頭を抱えて走ったが、どこにも逃げる所はなかった。"

1937年の冬が来た頃、南京市はすでに一刻の猶予もない状態になっていました。政府機関や工場などは次々と西へ移り、商店は閉まり、学校は休校になり、人びとの頭には、避難することしかなかったのです。

日本軍は南京に対し、三方向から狂気じみた攻撃を行いました。父の祖母は息子に: "私達年寄りは体が弱く、動けないので、逃げることができない。私達は天命を待つしかないが、あなたは子供たちを連れて早く逃げなさい"と言いました。このような切羽詰まった状況下、私の祖父と祖母は涙を流しながら、2人の老人を置き、6人の子供を連れて、難民区へ逃げようとしました。父の話では、当時一家は城の南部に住んでいて、難民区に行くには内側の橋を渡らなければならなかったが、その日、国民党軍が橋を守っており、そこを通るのを禁止していました。

妻と子供たちを連れた祖父は、仕方なく他の住民たちと一緒に、橋のそばにあった"王府園"と呼ばれる狭い路地に逃げ込みました。そこからそう遠くないT字路の行き止まりの先にある、三間からなる大きな瓦葺きの家に着いたのですが、その家の年配の主人が避難している人たちに: "もう日も暮れたので、皆さんここで一晩過ごし、明日の朝一緒に逃げましょう"と言ってくれました。その年は特に寒く、滴る水がすぐに氷になる程でしたが、父の家族と多くの難民たちは、寒く差し迫った状況下、苦しみに耐えながら次の日を待ちました。

1937年12月12日 (旧暦11月10日)、その日の午後、南京城を守る中国軍はもうすでに日本軍に抵抗する力はなく、撤退を迫られていましたが、それを多くの住民は知りませんでした。父一家が一晩過ごしていた王府園から2、3キロの所で、日本軍はすでに南京城の南にある中華門の城壁をよじ登っていました。

12月13日早朝、南京は陥落しました。中華門を何日も攻撃していた日本侵略軍の第六師団は大挙として押し寄せ、中華門付近に住んでいた人たちは、南京陥落後、最初の犠牲者になりました。

1937年12月13日の明け方 (旧暦11月11日)、日本軍の大砲が南京城に対し、猛烈な攻撃を始めました。父常志強が、かつて私にこう言っていたのを覚えています:

"朝、日本軍の大砲が天地を覆い隠すように城内に攻撃を加え、城内は一面火の海になり、人びとはあちこちに逃げ惑っていました。私の父母は子供たちの手を引き、路地の中程にあった小さな防空壕へ急ぎました。私は一晩中寒さと空腹だったので、走る気力がなく、呆けたように地面に座り込みました。父は命の危険を感じ、私を防空壕まで背負って行きました。半時間程が経つと、砲撃が止みました。取り乱した難民たちは申し合わせたかのように集まりました。ある人がこう言いました: "砲撃が止んだ。城壁が壊され日本軍が、城内へ侵入したかも知れない。皆さん、今は動けません。" また他の人はこう言いました: "急いで逃げないと逃げ遅れるかも知れない。" 間もなく路地の外で泣き叫んでいる声が聞こえました。"人殺し、人殺し。" すると日本軍がすぐに路地になだれ込んできて、誰彼構わず難民に向かって "パン、パン、パン" と射撃を始めました。何人もの人がその場で倒れました。目の前の青年や壮年の人たちが倒されるのを見て、みんな慌てふためきました。"人殺し" と叫ぶ声やわめく声、子供の泣き叫ぶ声が路地全体を包み込みました。難民たちはあちこちに逃げ惑い、路地内は混乱しました。日本兵は人を見るとすぐに刀で切りつけ、銃剣で突き刺しました。

悪運が降りかかりました。私の祖母である父の母は父の一番下の弟小来来を抱いていましたが、まだ小さい弟は驚きのあまり懸命に泣き出したので、祖母は乳をあげ、泣き止ませようとしました。その時一人の日本兵が銃剣を水平に持ち、祖母のみぞおち目がけて突き刺しました。鮮血が祖母のみぞおちからボトボトと滴り落ちました。ですが、彼女はまだ手に抱いた小来来を落とさないように、我慢して持ちこたえました。鬼のような日本兵は銃剣を抜き、もう一度祖母を突き刺したので、今度は祖母が倒れてしまいました。

小来来は地面に転げ落ち、ワーワー大声で泣き出しました。その鬼は銃剣を持ち、小来来の尻を一付きし、担ぎ上げ、放り投げました。父の小さな弟は、激しく地面に打ち付けられました。父と他の弟たちは驚いて泣き叫びました。父は日本兵に銃剣で突き刺され、放り投げられた弟小来来の方向へ、泣きながら走り寄りました。

日本兵は子供たちの泣き声に同情する事なく、私の祖母を銃剣で刺し殺すことをやめようとしませんでした。

父は弟たちが心を引き裂くような声で泣き叫んでいるのを聞き、足を止め、振り返り、日本兵が私の祖母のみぞおちを刺そうとしているのを見ました。彼の大きい弟二龍、二番目の弟阿三、三番目の弟発発は、思いもよらない勇気を出して、日本兵の足にしがみついたり、服を力いっぱい引っ張ったり、服に噛み付いたりしていました。そして、"お母さんを刺さないで、お母さんを刺さないで、" と泣き叫んでいました。しかし、鬼の銃剣は無情にも今度はその幼い三人の弟たちを突き刺しました。

その結果、父の母と三人の幼い弟たちは全員日本兵の銃剣によって命を落とし、彼らの鮮血は地面を赤く染めました。

父は自分の家族が一瞬の内に一人一人殺されるのを目の当たりにしました。まだ9歳だった父は、目の前に広がる思いもよらなかった血のほとばしる殺戮の一幕に、恐怖と飢餓から気を失いました。父の姉も日本軍に何度も刺され、気絶しました。

父が目を覚ました時、死体が眼前に横たわっていました。気絶していた姉も目を覚まし、かすかな声で彼らの母を見に行くよう父に呼びかけました。

父は私の祖母のそばに行くと、祖母は今にも息絶えようとしていました。彼女が着ていた綿入れの服の胸元には鮮血がしみわたり、苦痛に満ちた低いうなり声をあげていました。彼女は父を見ると、涙が糸の切れた真珠の粒のように、彼女の頬を流れ落ちました。彼女の無力で苦痛に満ちた眼差しが私の父に注がれ、口元が力なく動きましたが、声を出す事はできませんでした。

あちらで"ママ、ママ"という子供の泣き声がしました。一番下の弟来来の声だと気付き、父は私の祖母の意思を悟りました。父は私の祖母に: "ママ、見に行ってくる。来来だと思う。" 地面は死体だらけで血にまみれ、少し落ち込んでいる地面の所には更に血がたまっていました。そこを足で踏んでしまい、ねっとりとしてしまいました。その日は特に寒い日でした。父は死人の山の隙間から、一人の子供が這い上がろうとしているのが見えました。"ママ、ママ" と泣き叫びながら這っていました。

父は下の弟がまだ生きているのを見て、"来来"と叫びました。小さな弟は兄の声を聞き、顔を兄の方へ向けて、そちらへ向かって懸命に這って来ました。彼の小さな靴は脱げ、小さな靴下もどこかへ行ってしまいました。その日は寒かったので、小さな足は赤く凍え、血だらけになっていました。

父は来来を抱き上げ、祖母の前へ連れて行きました。祖母は来来を見ると、懸命にもがきながら、力のない手で胸元の服を引っ張り、小さな弟来来の口に乳を含ませようとしました。父が来来をそっと祖母に近づけると、来来は開いた胸元を見て、懸命に祖母の懐に潜り込み、乳を吸いました。

私の祖母の体の刀傷から血が滴り落ち、何も分からない来来は、祖母の体に腹這いになって乳を吸っていましたが、吸えているのは全て血しぶきだとは気付いていませんでした。

父は血しぶきを見て、すぐに祖母に言いました: "ママ、僕が傷を抑えるから、もう少し、もう少し頑張って、必ず良くなるから。" でも彼の母はその時にはもう話が出来ず、力のない両目で 父を黙って見ていました。涙がとめどなく流れるなか、次第に首を垂れ、目尻に涙を浮かばせながらまぶたを閉じていきました。父は彼女を揺すりましたが、もう反応はありませんでした。 "ママ、起きて、死なないで、死んだら僕はどうすればいいの?" と叫びました。どんなに父が叫んでも、彼女は父の相手をもうする事が出来ませんでした。父は父の母が死んでしまったこと、永遠に目を覚まさないことを知りました。

父をふたたび死体の山に戻り、私の祖父である彼の父を探しに行きました。父は私の祖父がそこで跪いているのを見つけ、"パパ、パパ" と叫びながら手で私の祖父を揺すりました。すると祖父は倒れてしまいました。父は地面に血だまりがあるのを見ました。更に見ると、私の祖父の綿入れの服の背後に弾痕があるのを見つけました。父は私の祖父が日本軍に撃たれ、命を落としているのを知りました。

父は急いで彼の姉のそばへ走って行き、 "パパも日本軍に撃たれて死んでる"、と泣きながら告げました。

その時、路地にまた、日本兵の声がしてきました。父の姉は、すぐに彼女をそばの家の寝台の下へ引っ張って行き、隠すよう告げました。父は姉をドアのそばの寝台の下へ引っ張って行き、ドアが寝台の半分をちょうど遮るようにしてドアを開けました。そして、寝台の横にあった便器をドアの前に置き、便器の蓋を開け、自分も急いで寝台の下に隠れました。

まもなく鬼は部屋に入って来ましたが、誰もいないのを見て、また、便器から放たれている匂いを嗅ぎたくなかったので、すぐに出て行きました。父はドアの隙間から、日本兵が死体をひっくり返し、金目のものがないか探しているのを見ました。

父と彼の姉はこのようにして寝台の下に隠れ、一夜を過ごしました。

二日目の朝早く、外で女の人の泣き声がしているのを聞き、父と父の姉は寝台の下から這い出してきました。

一人の中年女性が一人の中年男性の体の上に覆い被さり、大声で泣いているのを見ました。父と父の姉は中年女性に、 "ママ、私たちを助けて"、と言いました。気立ての優しい中年女性は、父と父の姉が孤児になっているのを知り、路地にある家の中に連れて行きました。父と父の姉は彼女を太ったママと呼びました。

太ったママは二人に彼女の名は張といい、彼女の夫は演劇の役者で"武生"の役を演じていると言いました。そして、彼女の家の壁には大きな刀などの舞台道具が掛かっていました。

少し休んでいたその時、二人の鬼が家に飛び込んで来て、壁に掛かっている道具を見ました。彼らはごちゃごちゃ言いながら、銃を太ったママに近づけ、彼らに何か劇の歌を歌うよう強制しました。  

太ったママは日本の鬼から逃がれるために、やむおえず歌いました。日本兵はそれでも太ったママや父の姉を放さず、彼女らを強姦しました。可哀想な父の姉は当時まだ11歳で、更に前日日本兵の銃剣で刺された傷の痛みもありました。日本兵はまさに鬼畜のようでした。

ふたたび日本兵に蹂躙されないよう、父と太ったママは可哀想な姉を抱えて、苦労して難民区の金陵大学へ逃がれました。

金陵大学は相次いで20万人以上の難民を救助しました。難民区内には溢れんばかりの人がいましたが、父と父の姉はなんとか難民区内の一棟のビルの中に入ることができ、廊下の階段下に身を寄せることができました。その後二人は優しい夫婦に出会い、夫は姜阿州と言いました。彼らは父の境遇を知ると、姉弟二人を難民区内の彼らが住んでいたところへ連れて行き、二人を引き取って育てました。

父は思い出します: "難民は運動場へ追いやられ、男の人は一方へ、女の人と子供たちはもう一方へ集められ、日本兵が真ん中に立ちました。そして、男の人の中から一人引っ張り出し、彼を知っている人がいないか聞きました。当時子供を探している父親、子供を探している母親や夫を探している妻などが沢山いました。人びとは飛んだり跳ねたり叫んだりしましたが、あまりにも多くの人がいて、後ろの方の人たちは全く見えず、引き取ることができませんでした。そのため多くの人たちは日本兵に引っ張り出された後、引き取ってもらうことができず、日本兵に縄で縛られ連れ去られました。一時間くらいで多くの青年や中年の男の人たちの手が一人一人日本兵に縛られ、難民区から連れ出され、集団虐殺が行われました。

難民区が解散し、一人の知人が父と父の姉を家に連れ帰りました。父の祖母と曽祖母は二人を見ると、身も世もないように泣きました。

父と父の姉はその後、王府園へ行き、父母と弟たちの遺体を探しました。赤十字の遺体収容をしている人が言いました: "当時母子の遺体があったのですが、小さな子供が母親の体の上に 乗り、乳を飲みながら、二人一緒に凍え死に、離すことができませんでした。

父は泣きながら言いました。"それは私の可哀想な母と弟に違いありません。"

私の祖父は39歳で犠牲者となり、祖母は30歳でした。私の大おじは8歳、二番目のおじは6歳、三番目のおじは4歳、四番目のおじはまだ2歳になっていませんでした。

一家6人のかけがえのない命が訳も分からず、日本軍によって奪い去られました。

1937年12月13日、南京城は血で洗われた都市になりました。南京城には無実の罪で死んでいった人たちの亡霊が溢れています。多くの家庭が涙で顔を洗いました。


(中略)

結びの言葉

私は南京大虐殺事件での幸存者の子女で、初めて日本の証言集会に参加します。父はすでに高齢ですが、私達に彼の歴史の記憶を伝えてくれました。幸存者の子女として、私はこの史実を伝え、日本の人たちに真相を訴える責任と義務があると思っています。

南京大虐殺幸存者による侵華日軍に対する訴えは、幸存者が高齢になったり、亡くなったりする事で終わらせることはできません、それは私達 南京大虐殺幸存者の子孫に受け継がれます。南京大虐殺の惨劇は、中国人民にとって、心を切り裂くような歴史の一ページです。この事は私達の努力によって、世の中に人達に警示しなければなりません。

歴史を教訓として、今日の平和を尊び、悪魔のような戦争から遠ざからないといけません。中日両国人民の友好が、何代も続きますように。

 

 

戦争中の国際社会の南京大虐殺に対する反応 

        ―― 米国を中心として

 

                         南京師範大学 張連紅

 

 中国に侵略してきた日本軍が南京を占領してから最初の6週間のうちに、一般人と戦争捕虜に対する大規模な虐殺、女性に対する強姦、略奪放火等の暴行が行われた。日本軍が南京を占領していた初期、南京に駐在していた西側の記者は日本軍の暴行について広範な報道をし、南京大虐殺をいくつか経験した西側の記者は、いろんな手段で国際社会に伝えた。その後、次々と戻ってきた南京の西側外交官もまた、日本軍の南京における暴行を各国政府に報告し、南京大虐殺は当時の国際社会の関心の的となり、ルーズベルト米国大統領はこのために特別の指示を出した。

戦時中の日本当局がいろいろな手段で南京大虐殺の暴行を覆い隠したにも拘わらず、米国を中心とする戦争中の国際社会は、南京大虐殺に対して広範で十分な暴露をし、一定程度、国際社会の反日感情を引きおこした。

 

1,戦争中の西側記者は国際社会に対して南京大虐殺の暴行を適時報道した。

 

 日本軍が国民政府の首都南京を攻撃する前の日の夕方、日本軍当局はすべての西側人士に南京から離れるように要求したけれども、5名の西側記者が南京に留まり戦争の進展具合を報道した。この5名の記者はそれぞれ米、英両国から来た人で、彼らは『ニューヨーク・タイムズ』のダーディン(Frank Tillman Durdin)、『シカゴ・デイリー・ニューズ』のアーチボルド・スチール(Archibald T.Steele)、AP通信社のイエーツ・マクダニエル(C.Yates Mcdaniel)、米国パラマウントのメンケン(Arthur Menken)、そして英国ロイター社のスミス(L.C.Smith)である。日本軍は南京を占領した後すぐに西側記者が南京を離れるように要求した。15日、スチール、ダーディン、スミス、メンケン等4名の記者は長江岸に碇泊していた米国砲艦「オアフ」号に乗船して上海に向かった。翌日AP通信のイエーツ・マクダニエルは南京を離れた。

 日本軍が南京を占領した初期には、南京城内で西側記者が外部にニュース電報を打つ条件は十分ではなかった。このため、15日になって、オアフ号に乗船したスチールは、ようやく特殊な連絡方法で日本軍占領下の南京暴行の原稿を電報で打った。翌日『シカゴ・デイリー・ニューズ』(米国時間で15日、この時中国ではすでに16日)は、目撃者による叙述、陥落都市「四日間の地獄のような日々」、街路の屍体は5フィート〔1.5メートル〕の高さに積み重なっていることを主題として詳細な報道を行った。これは南京陥落後に西側記者による南京の現場報道の第一のものである。

それは、私はたった今、南京攻撃が始まってから最初に首都を離れた外国人とともに「オアフ号」軍艦に乗った。南京を離れるにあたって、私たちが最後に見た場面は300名の一群の中国人が長江に面する城壁の前に整然と並んで処刑されており、その屍体は膝の高さまであったということである。これはこの数日の凄まじい南京の風景の典型的な写真である。・・

 子羊を屠殺するような虐殺。どれくらいの数の軍人が被害に遭い殺されたか、計算もできない。5000から20000の間かもしれない

 陸路を切断されたので、中国軍人は?江門を通ってどっと河辺に向かったが、?江門はすぐに閉鎖された。今日城門を越えるには、5フィートの高さに積み上げられた屍体の山の上を通ってやっと城門を通ることができるのが分かる。すでに数百輌の日本のトラック、大砲が屍体の山の上を越えていった。

 城内のすべての街路には、一般の人々の屍体と遺棄された中国軍隊の装備と軍服があまねく敷き詰められている。長江を渡る船を見つけ出せなかったたくさんの軍人が、長江に跳び込み、十中八九が溺死した。

 同時に米国の『ザ・サン』、『デイリー・ポスト』は、それぞれ「地獄のような南京陥落、記者が離れるとき見た残酷な大虐殺」と「私は300人が虐殺されるのを見た」という題名の記事を掲載した。スチールは上海に到着した後、『シカゴ・デイリー・ニューズ』にたくさんの南京暴行の報道を送った。たとえば、『記者が戦争虐殺場面を描く』(1937年12月17日)、『南京の米国人、義に勇む』(1937年12月18日)、『恐怖残虐な場面を発表』(1938年2月3日)、『南京虐殺に恐れおののく中国人』(1938年2月4日)等。米国の『週刊タイムズ』1938年2月14日は、『目撃者』と題する報道を発表し、『シカゴ・デイリー』の先輩記者スチールが南京暴行に関して書いた記事を紹介した。次のようなものである。

 日本が南京を占領した時から、南京に駐在する記者スチールは、この事件の残酷な細部を外部世界に伝えようと企図した。彼は次のように書いている、「すべての中国人は皆、持っている軍服や銃器が発見されるとそれは死亡を意味することを知っている。ぶち壊された歩兵銃が街に捨てられ、焼却の為に積み上げられた。街中に遺棄された軍服と軍需品が満ちている。……日本人は血腥い虐殺に力を注いだ。彼らが捜し出せた中国兵や官員をすべて殺戮することで、彼らはようやく満足した……一人の日本兵が増え続ける屍体の山の上に立って、歩兵銃の弾をまだ少しでも動ける屍体に注ぐ。日本人に言わせるとこれは戦争で、私たちに言わせれば、これは計画的虐殺だ。最も正確な統計によれば日本人が南京で処刑したのは2万人、上海から南京の過程での殺戮は11万4千名の中国兵である。この過程での日本人の損失は1万1200の兵である。」

 ダーディン、イエーツ・マクダニエル、メンケンとスミスは上海に到着してからすぐに報道を始めた。ダーディンは12月17日上海から長編の報道『あらゆる捕虜はみな虐殺された』(『ニューヨーク・タイムズ』1937年12月18日)を発表、メンケンは1937年12月18日に『シカゴ・デイリー・トリビューン』上に『目撃者は中国軍敗退時の南京の恐怖現象を述べる』を発表した。1937年12月18日『シカゴ・デイリー・トリビューン』はマクダニエルの報道『戦地記者日記は恐怖の南京を描写する』を発表した。ロイター社のスミスも上海に到着してから、ロンドン本部に日本の南京占領後の暴行に関するニュース原稿を発送した。これらの報道は米国の主要メディア『ニューヨーク・タイムズ』の報道のなかでも突出したものであり、1937年12月13日から1938年1月31日まで『ニューヨーク・タイムズ』の日本軍の南京暴行に関する報道は21回の多きに上る。以下表を参考されたい。(表 略)

 

二、南京暴行を経験した西側人士の日本軍暴行の暴露

 

 日本軍南京占領の初期、20人以上の西側人士が南京に留まっていて、日本軍の暴行を目撃した。これらの人の内14名は米国人、6名がドイツ人、2名がロシア人、1名がオーストリア人(1938年3月15日、ドイツによるオーストリアの併合でドイツ人となる)、1名はデンマーク人であった。西側人士が組織した南京安全区国際委員会の会則があるので、ほとんど毎日日本領事館に日本軍暴行事件例を報告しなければならず、また、南京駐在の西側人士の圧倒的多数は戦争の期間中、書簡、日記、講演、映像等各種の手段を通して国際社会に南京の日本軍の暴行を暴露した。南京大虐殺の期間に南京安全区国際委員会のマネージャー役を担ったフィッチは、中国を離れて米国に行き、南京の真相を伝えた最初の外国人である。

 南京大虐殺の期間に南京国際紅十字会の主席宣教師のジョン・マギー(John G.Magee)は、16ミリ撮影機を手にこっそりとたくさんの南京における日本軍の暴行を撮影した。ジョン・マギーの撮影したフィルムの最初のもの(1−4号フィルム)は南京安全区国際委員会マネージャーのジョージ・フィッチ(George AshmoreFitch、1883年1月中国蘇州生まれ、中国名は費呉生)が生命の危険を冒して上海に持って行き、上海コダック社で編集現像し4セットを作った。

フィッチは米国のニューヨークユニオン神学校とコロンビア大学を卒業し、1909年長老会から中国への伝道に派遣された。上海国際キリスト教青年会(YMCA)で働き、1936年南京に来て、国民政府の新生活運動顧問となった。南京大虐殺の期間にフィッチは南京安全区国際委員会のマネージャー役を担い、生命の危険を冒して南京難民の保護と救済に参加した。

 1938年1月29日の朝、フィッチは許可を得て、英国外交官プリダ・ブルーン(Prideaux - Brune)とともに英国のガンボート「ビー(ミツバチ)」号で南京を離れた。フィッチは次のように回想している。

「朝6時40分日本軍の列車に乗って上海に着いた。私は一群の平然として恥知らずな兵隊たちと押し合いへし合いして一緒だったので、少し緊張した。なぜなら、8巻の日本軍暴行に関する16ミリフィルムを私のラクダの毛のコートの裏に縫い込んでいたからである。その大部分は金大病院〔鼓楼病院〕で撮影したものだ。疑いもなく、私たちは上海に入るとき私のカバンは詳細に検査された。もし彼らがこのフィルムを発見したならどうなるだろう。幸いにも彼らは発見せず、なおかつ私は上海に着くとすぐにコダック社に持ち込み現像したのだ。大部分のネガフィルムは聖公会のジョン・マギーが制作したもので、彼は後にワシントン聖ヨハネ協会の主教となった。これらはとても恐ろしいものであるが、人々は見たものを真実だと言わないわけにいかない。コダック社の代表は私にすぐに4セットのフィルムを作ってくれ、当然にも私は米国のコミュニティ教会やその他の地方でこの映像を上映するよう求められた。」

 フィッチは晩年の回想で、ちょっとした間違いをしている。彼が最初に上海にフィルムを持って行った時乗ったのは英国ガンボート「ビー(ミツバチ)」号で、2月12日、フィッチは米国軍艦「オアフ」号に乗って、また南京に戻った。2月20日、彼が二回目に上海に行ったときの交通手段は汽車で、マギーフィルムのネガフィルムは最初に南京を離れて上海に行ったときに持って行ったのだ。

 上海の同僚の慎重な計画の下、2月20日フィッチは順調に上海に戻り、25日フィッチはドイツの「グナイゼナウ」(Gneisenau)号に乗って香港に向かった。3月1日香港に着いてからすぐに友人の手配してくれた広州行きの汽車に乗り、その時の広東省主席呉鉄城の主催で、フィッチは日本軍の南京の暴行に関する講演を行った。3月8日、フィッチは香港から「フィリピン・クリッパー」(Philippine Clipper)に乗ってマニラ、グアム、ホノルルを経てサンフランシスコに向かった。国宣部公文書によれば、フィッチのこの旅行は国際宣伝部から派遣されたもので、計画は10ヶ月かかった。ホノルルに着いたとき彼は中国ホノルル駐在総領事梅景周に会見し、講演とマギーフィルムの上映を一度行った。1938年3月14日、フィッチはサンフランシスコに到着し、セントラル・サンフランシスコ・グループ通信社は次のように伝えた。フィッチは米国に到達した後、『日本軍南京のレイプ』と題する発表をした。文中に「彼が南京にいたとき、すでに日本軍の種々の暴行を合計二本の長さに撮影して、いくつかはすでに雑誌に掲載した。」と書いている。また「一部でも人々に見ていただきたい」と言っている。報道はこの映画はマギーのフィルムであると主張した。大公報が転載した訳文のなかでマギーフィルムをフィッチが撮影したものだと間違っている。しかしこの報道はフィッチがサンフランシスコ、ロサンゼルスに到着した後、彼がすぐに講演する過程でマギーフィルムを上映したことを説明している。フィッチは後に回想して次のように書いている。one where I showed my films which caused something of a sensation, even illness on the part of a couple of the audience。彼がフィルムを上映したとき、観衆の騒動を引きおこし、甚だしくは数人の観衆が体調不良になった。3月18日、フィッチはワシントンに来て、国会外交事務委員会、戦争情報局、新聞界でマギーフィルムを上映した。その後米国ニューヨーク、シカゴ等多くの年で何度も講演したが、しかし、フィッチは講演の中でマギーフィルムの上映回数は少なかった。その主要原因は「彼の友人がフィルムはとてもぞっとする(ghastly)もので、時には観衆を気分悪くさせるものだ」からである。

 フィッチが米国でマギーフィルムを宣伝すると同時に、元AP通信の記者リーフ(Earl H. Leaf,)も4月初めロンドンからニューヨークに来て、多くの手段を使ってマギーフィルムを上映した。マギーフィルムは米国に一定の影響をもたらし、例えば、1938年5月16日米国雑誌『ライフ』でThese Atrocities Explain JAP Defeatという題で一連の南京暴行の写真を掲載した。この写真はマギーフィルムから複写したものだ。1944年フランク・カプラ監督が撮った『我々は誰のために戦うか:中国の戦争』で、映画の中で日本軍の南京占領に関連して、マギーフィルムのなかの南京での日本軍暴行の映像を引用し、とても大きな影響を与えた。

 マギーフィルム以外にも枚挙に暇がない。例えば、ティンパーリー(H.J. Timperley)の『戦争の意味するものは何か―日本軍の中国における暴行』(What War Means: The Japanese Tarror in China)の本は米国で出版された。ベイツ(Bates)、ヴォートリン(Vautrin)とフィッチ等の日記、書簡は西側に広範に広まり、スミス(Lewis S. C. Smythe)の南京暴行の社会調査『南京戦禍の写真』(War Damage in Nanking Area: December, 1937 to March, 1938)は教会団体で出版された。こうしたたくさんの方式の伝搬効果は十分有効であった。

米国司法部の職員ウィリアム・ドーティ( William E.Daugherty) は、1942 年、日本軍の暴行が、米国で広がり得た原因であると分析した文章を書いた。「 (中国)宣伝部が外部世界に南京大虐殺(The Rape of Nanking)の状況を話す必要はない、実際に、当時、漢口当局の国際宣伝部( Chinese Board of Information) 自身もまた、上海の外国ニュースからこの怖ろしい悪夢を知ったのだ。まさに、米国人、英国人、ドイツ人という外国人が、彼らが目撃せざるをえなかった恐るべき惨劇を外部世界に伝えたのだ。こうした男性と女性が帰国したとき、彼らはみずから見たところを述べた。これらの叙述は米国で広範に広がった。」ドーティの分析では、日本軍の南京大虐殺の暴行が当時国際社会、特に米国でかなりの影響を与えたと説明している。

 

三、戦争中の西側外交官の南京の暴行に関する報告(略)

 

四、結語

 

 戦争の期間ではあったが、日本当局は、単に西側記者が南京に留まって取材報道をするのを強制的に阻止する措置を取るだけではなく、上海における西側記者が国際社会に向けて電報を打つのにも、厳格な報道検閲を実行し、また南京に留まった西側人士の行動の自由を厳格に制限し、かつ彼らを威嚇して、南京の真相を述べるのをできなくさせ、いろんな理由で西側外交官が南京に戻るのを遅らせた。しかし国際社会の主流メディアは日本軍の南京占領後の暴行について重点報道を持続し、西側主要国の政府上層と民衆はいろんな方法で日本軍の南京における暴行の真相を広く知った。

 戦争中の国際社会の広範な報道によって、日本政府上層もまた南京における日本軍の暴行を知った。一方で南京大虐殺が起きてから、国際社会の主流メディアの西側記者は絶え間なく報告し、いくつかの駐在国日本外交官は南京における日本軍の暴行を知り、彼らはこの情報を日本外務省に報告した。南京の幾人かの日本領事館員もまた日本政府に報告した。この一方で英国、米国等の外交官は南京に戻ってから絶え間なく日本政府に抗議を出した。

しかし日本政府の厳格な統制のために日本軍の南京における暴行のニュースは広範な日本の民衆には知らされなかった。当時金陵女子大難民所の西側宣教師のヴォートリン女士は日記のなかで次のように書いている。「もし日本の良識のある人が南京で起きている一切のことを知ったらいいのに」と。彼女のこの希望は、戦後の東京裁判の時になってやっと実現し、日本の民衆は南京の真相を知ることができた。

 南京における日本軍の暴行は、日本の国際上の姿に大きな影響を与えた。かつて日本軍の暴行を目撃した米国『ニューヨーク・タイムズ』記者のダーディンは、報道のなかで次のように言ったことがある。「日本軍に対しては、南京占領には最高至上の軍事的政治的意義がある。しかしながら、彼らの勝利は野蛮で残酷な捕虜の集団虐殺、街全体における略奪、女性の強姦、市民の虐殺と恣意的な破壊によって失意に沈んだ。これらの蛮行は日本軍と日本国家の名誉の上で汚点となる。」。1938年1月9日、南京に戻ったドイツ外交官のローゼンは南京の現状を目の当たりにした後、ドイツ外交部に報告して次のように言っている。「日本の軍隊の放火は、日本が占領してから一ヶ月以上経った今もまだ燃えており、女性と幼い少女に対する凌辱と強姦行為はまだ継続している。南京の日本軍はこのような事をなす事によって自分自身のために恥辱の記念碑をうち建てた。」

 国際社会が日本軍の暴行を暴露したので、一定程度国際社会の中国に対する同情と反日感情の高まりが引きおこされた。米国では組織的な日貨排斥運動が出現しただけではなく、「日本侵略に参加しない米国委員会」、「日本侵略排斥委員会」、「米国平和民主連盟中国援助委員会」、「中国救済キリスト教委員会」等、多くの日本侵略に反対し中国を援助する社会組織が設立された。

米国に普遍的な反日感情が出現したのに対して、当時の日本の駐米国外交官は注意深く見守った。日本のシカゴ駐在領事館の報告では、次のように言っている。「米国人の日本に対する一般の態度は甚だしく悪化した。これは私たちが演説するときの聴衆の態度を通して。また本領事館の受け取る脅迫文書が大幅に増加していることを通して、新聞紙上に掲載された記事を通じて、また多くの人が当地の日米協会主席の辞職を要求したことで、この事実が明らかになった。」。

1938年3月4日、日本のワシントン駐在大使館は東京に電報を打って、米国民衆の反日感情の高まりの原因を分析した。その第一は日本の「南京と上海への爆撃規模の誇大報告、無数の無辜の市民に大災害をもたらしたことが、米国人の感情のなかの敏感な部分に触れたこと。……同時に、日本軍が南京を占領したとき起きた混乱の誇大報告」、第二の原因を「日本が中国に派遣した大量の軍隊、この軍隊がもたらした大破壊、また戦争法規と人道に対する多くの違反行為の責任」と列挙し、これ以外にも、電報は特別に「中国に来た米国宣教師の民衆に対して及ぼした思想の影響」をあげた。

ここから、南京における日本軍の暴行が戦争中の米国社会の反日感情の高まりの重要な要素であることが分かる。          (2018年11月5日初稿)