群馬県の朝鮮人強制連行
国家総動員法の下で労務動員計画が立てられ、朝鮮半島から日本へと朝鮮人が動員されました。この労務動員は、1939年からは「募集」、42年からは「官斡旋」、44年からは「徴用」の形でおこなわれました。動員にともない、日本政府は協和会を設立し、動員数にあわせて警察官を現場に増員し、監視を強化しました。1944年には軍需会社指定によって現員徴用もなされました。軍事では、1938年から志願兵、1944年からは徴兵により動員がなされ、軍要員、工員、軍夫などの名で軍属としても動員しました。軍や事業所関係で「慰安婦」として動員された人びともいました。
日本への労務での動員数は約80万人ですが、群馬県にも連行されています。このような労務や軍務での動員を朝鮮人強制連行といいます。では具体的に群馬県への動員の状況をみていきましょう。
1 群馬県の朝鮮人数の推移
群馬県の朝鮮人数の推移からみてみましょう。
群馬県には1934年に1784人、1939年に2630人の朝鮮人が在留していましたが、動員がはじまると朝鮮人数は増加し、1943年6月には5508人、半年後の1943年12月には1万1934人と倍増しました。
当時の資料から、群馬県へは1944年3月までに約2000人が労務動員され(厚生省・朝鮮人労務者勤労状況報告)、44年12月の労務動員者の現在数は約3000人でした(内地在住朝鮮人帰鮮希望者見込数)。その後も動員がすすみましたから、群馬への動員数を6000人以上と推定できます。解放後、労務動員された集団移入半島人労務者2205人が引き揚げています(群馬県 内政部・事務報告書)。
群馬県や内務省・厚生省の文書から、労務動員による集団移入があったことは立証できます。この動員を、歴史用語で朝鮮人強制連行や強制動員などと表現するわけです(表1)。
1940年12月、41年10月、1943年3月の地域毎の朝鮮人数については協和会の資料からわかります。43年3月の数は5467人ですが(協和事業機構調)、1944年にかけて倍増しました(表2)。
表1 群馬県朝鮮人数の推移 |
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年月 |
朝鮮人数 |
男 |
女 |
動員状況など |
典拠 |
|||||||||
1934.12 |
1784 |
1088 |
696 |
戸数512 |
1 |
|||||||||
1935.12 |
2006 |
1255 |
751 |
戸数761 |
1 |
|||||||||
1936.12 |
2468 |
1634 |
834 |
戸数631 |
1 |
|||||||||
1937.12 |
2297 |
1400 |
897 |
戸数586 |
1 |
|||||||||
1938.12 |
2525 |
1460 |
1065 |
戸数697 |
1 |
|||||||||
1939.10 |
2630 |
1537 |
1093 |
戸数672 |
1 |
|||||||||
1940.12 |
4544 |
2875 |
1669 |
戸数1031 |
1 |
|||||||||
1941.10 |
4751 |
2850 |
1901 |
|
9 |
|||||||||
1942.6 |
5563 |
|
|
42年に92人動員、これまでに小串鉱山、日本ニッケル三波川工場整地工事・銭高組などへの動員承認 |
5・13 |
|||||||||
1942.12 |
5226 |
|
|
|
5 |
|||||||||
1943.3 |
5467 |
3189 |
2278 |
43.3までに鉱山142と土建59の201人動員、現在数鉱山48人 |
2・11 |
|||||||||
1943.6 |
5508 |
|
|
43.6までに150人動員(斡旋)、他県からの転送59人 |
5・16 |
|||||||||
1943.12 |
11934 |
|
|
43年に1459人動員、斡旋での動員1551人へ(うち逃走220)、中島飛行機小泉工場の12月徴用者に20人の朝鮮人 |
5・7・14 |
|||||||||
1944.2 |
11934 |
|
|
43.7から44.2までの労務動員数1715人、吾妻線・箱島発電、日発岩本発電、高崎鉄道工事などに配置 |
7 |
|||||||||
1944.3 |
|
|
|
44.3までに2073人動員、うち3月の事故帰国10、逃亡94、死亡4、在籍数は1474人 |
12 |
|||||||||
1944.4 |
10470 |
7668 |
2802 |
44年度移入予定数4560人(鉱山441、土建3678、工場他441)、1000人以上の事業所1か所から11か所へ |
3・6 |
|||||||||
1944.12 |
12356 |
8888 |
3468 |
うち、集団移入労務者数2964人(現在数) |
4・15 |
|||||||||
1945・ |
|
|
|
集団移入半島人労務者2205人引揚 |
8 |
|||||||||
|
|
|
|
朝鮮人送還者数3478人 |
10 |
|||||||||
典拠 |
||||||||||||||
1 群馬県協和会要覧1941.5 群馬県立文書館蔵 |
||||||||||||||
2 協和事業機構調1943.3(「協和事業関係」1944)国立国会図書館憲政資料室蔵 |
||||||||||||||
3 内政部長・事務引継書1944.8 群馬県立文書館蔵 |
||||||||||||||
4 内政部長・事務引継書1945.4 群馬県立文書館蔵 |
||||||||||||||
5 労務動員関係朝鮮人移住状況調など内鮮警察文書(種村氏警察参考資料)国立公文書館蔵 |
||||||||||||||
6 新規移入朝鮮人労務者事業場別数調、朝鮮人就労事業場数調(種村氏警察参考資料) |
||||||||||||||
7 知事・事務引継書1944.2 群馬県立文書館蔵 |
||||||||||||||
8 内政部・事務報告書1946.1群馬県立文書館蔵 |
||||||||||||||
9 群馬県在住朝鮮人世帯人員(警察署別)調(知事事務引継書1941.10) 群馬県立文書館蔵 |
||||||||||||||
10 朝鮮人等ノ送還者数(種村氏警察参考資料) |
||||||||||||||
11 移入朝鮮人労務者就労職場別数調、移入朝鮮人労務者数調(「協和事業関係」1944年) |
||||||||||||||
12 朝鮮人労務者勤労状況報告 厚生省1944.12 金英達収集文書、神戸市立図書館青丘文庫蔵 |
||||||||||||||
13 移入朝鮮人労務者状況調 中央協和会 1942(「協和事業関係」1944年) |
||||||||||||||
14 国民動員計画に基く移入朝鮮人労務者の状況 (「特高月報」1944.2) |
||||||||||||||
15 内地在住朝鮮人帰鮮希望者見込数 1945.9.25(「協和会関係会議書類」)国立国会図書館憲政資料室蔵 |
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16 朝鮮人運動の状況「特高月報」 |
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表2 群馬県協和会組織人員 |
|
|||||||||||||
支会 |
1940.12 |
1941.10. |
1943.3 |
1941.10男 |
1941.10女 |
1943.3男 |
1943.3女 |
|
||||||
1 |
前橋 |
339 |
355 |
341 |
225 |
130 |
207 |
134 |
|
|||||
2 |
大胡 |
8 |
12 |
11 |
6 |
6 |
7 |
4 |
|
|||||
3 |
高崎 |
278 |
217 |
678 |
140 |
77 |
382 |
286 |
|
|||||
4 |
渋川 |
70 |
77 |
261 |
46 |
31 |
160 |
101 |
|
|||||
5 |
安中 |
6 |
6 |
22 |
5 |
1 |
14 |
8 |
|
|||||
6 |
松井田 |
26 |
26 |
26 |
14 |
12 |
15 |
11 |
|
|||||
7 |
富岡 |
7 |
27 |
29 |
13 |
14 |
15 |
14 |
|
|||||
8 |
下仁田 |
29 |
33 |
41 |
21 |
12 |
25 |
16 |
|
|||||
9 |
藤岡 |
93 |
249 |
899 |
154 |
95 |
662 |
237 |
|
|||||
10 |
万場 |
23 |
25 |
1 |
25 |
0 |
1 |
0 |
|
|||||
11 |
伊勢崎 |
43 |
188 |
201 |
105 |
83 |
96 |
105 |
|
|||||
12 |
境 |
18 |
52 |
42 |
25 |
27 |
22 |
20 |
|
|||||
13 |
太田 |
162 |
195 |
273 |
114 |
81 |
151 |
122 |
|
|||||
14 |
館林 |
97 |
136 |
203 |
82 |
54 |
123 |
80 |
|
|||||
15 |
桐生 |
1402 |
1475 |
1392 |
765 |
710 |
705 |
687 |
|
|||||
16 |
大間々 |
908 |
889 |
120 |
509 |
380 |
56 |
64 |
|
|||||
17 |
沼田 |
91 |
152 |
247 |
118 |
34 |
94 |
153 |
|
|||||
18 |
原町 |
56 |
136 |
276 |
89 |
47 |
173 |
103 |
|
|||||
19 |
長野原 |
264 |
501 |
404 |
394 |
107 |
270 |
134 |
|
|||||
計 |
3920 |
4751 |
5467 |
2850 |
1901 |
3189 |
2278 |
|
||||||
典拠 |
|
|||||||||||||
1940年は 群馬県協和会要覧1941.5 |
|
|||||||||||||
1941年は 群馬県在住朝鮮人世帯人員(警察署別)調(知事事務引継書1941.10) |
|
|||||||||||||
1943年は 協和事業機構調1943.3(「協和事業関係」1944年) |
|
|||||||||||||
2 群馬県・朝鮮人強制連行の状況
では、群馬県での労務動員・強制連行についてみてきましょう。
1942年までに、北海道硫黄小串鉱山、日本ニッケル三波川工場整地工事(銭高組)への動員が承認されています(移入朝鮮人労務者状況調)。1942年に92人を動員という記事があることから(労務動員関係朝鮮人移住状況調)、42年中に動員がなされたとみられます。亜炭を採掘していた高崎炭礦では朝鮮人の移入を検討しています(高崎警察所管内工場・鉱山生産状況調査)。
1943年3月までに、鉱山142人と土建59人の201人が動員されました。現在数は鉱山48人となっています(移入朝鮮人労務者数調)。動員場所は動員が承認されていた小串鉱山と日本ニッケル三波川工場整地工事の現場であり、その後に承認された別の鉱山への動員もあったとみられます。
43年には、小串鉱山とともに三菱鉱業根羽沢鉱山に各100人が動員を予定されています(知事事務引継書)。根羽沢鉱山は政府による金山整理で43年に休山となっていますが、休山による配置転換表には朝鮮人の記載はありません(金鉱業整理ニ伴フ労務者配置転換案)。
1943年6月までに150人が動員され、さらに他県からの転送者が59人いました。43年の動員数は計1459人であり、42年の92人と合せると、動員数は1551人となります(労務動員関係朝鮮人移住状況調、特高月報)。
1943年7月から1944年2月にかけては、吾妻線工事・箱島発電工事1110人、日発岩本発電工事763人、高崎鉄道改良工事100人などに計1715人の動員がなされました。このうち逃走は273人でしたが、51人は発見され、5人が送局されました。1943年12月の中島飛行機小泉工場への徴用者のうち20人が朝鮮人でした(知事・事務引継書)。
1944年度の動員予定数は4560人であり、内訳は鉱山441人、土建3678人、工場他441人です。内務省はこの動員で1000人以上の事業所が1か所から11か所に増加すると想定しています(新規移入朝鮮人労務者事業場別数調、朝鮮人就労事業場数調)。それにあわせて警察官を増員したのです。
1944年1月には軍需会社法により、第1次の軍需会社の指定がなされ、中島飛行機など150社で現員徴用がなされました。軍需工場で働く朝鮮人の多くが現員徴用されたわけです。44年度第4四半期には国鉄渋川に50人、さらに45年には100人が動員される予定でした(半島労務者ノ配置状況、昭和20年度半島労務員移入計画表)。1944年12月の集団移入労務者数は2964人(現在員数)となりました(内地在住朝鮮人帰鮮希望者見込数)。
1945年には、中島飛行機藪塚地下工場工事(鹿島組)、理研工業前橋工場などへの動員が新たになされました。
朝鮮人が集団移入された主な動員現場は以下のようになります(表3)。
鉱業 北海道硫黄小串鉱山、日本鋼管群馬鉱山、高崎炭礦、
土木 日本ニッケル三波川工場整地工事(銭高組)、吾妻線工事(大倉土木・熊谷組)、箱島発電工事、日発岩本発電工事(間組)、高崎鉄道改良工事、中島飛行機藪塚地下工場(鹿島組)、同後閑地下工場(間組)、前橋飛行場工事(神崎組)、
工場 中島飛行機太田工場、同小泉工場、理研工業前橋工場、関東電化工業渋川工場、関東製鋼渋川工場、
運輸 国鉄渋川、
農業 朝鮮農業報国青年隊(薄根・白沢)、
軍人軍属 農耕隊(浅間)、農耕隊(堤ケ岡)
ほかにも、草津の硫黄鉱山、アルミ原料の上信鉱山、神戸発電工事、中島飛行機の大胡・多野の地下工場工事、各地の飛行場工事、火薬廠地下工事などに朝鮮人が動員されています。中島飛行機の前橋や伊勢崎などの工場での現員徴用もあったとみられます。吾妻線工事の佐藤工業・西本組、岩本発電の大林組などは他の現場で連行朝鮮人を多数使っています。ここでは資料不足から強制動員の現場とはしていませんが、調査がすすめば、強制動員を確認できるでしょう。
群馬県でも協和会が設立され、内鮮警察機構が強化されています。動員された朝鮮人への監視の状況を示す資料もあります。1943年9月22日、日発岩本発電工事・間組山中事務所配下、金本寛吾方の国本宰禹は、8月13日の天皇に関する発言を不敬罪され、検挙、送局されました(特高月報1943.10)。主要な動員現場には移入労務者事故防止協議会が設置され、内鮮警察専任職員が送られ、朝鮮人を監視するようになりました。
表3 戦時群馬県朝鮮人動員現場一覧 |
|||||
|
動員現場 |
所在地 |
動員状況 |
|
典拠 |
1 |
北海道硫黄小串鉱山 |
嬬恋村 |
三井系、1940年120人動員承認、41年100人募集動員、43.4に50人動員(番号で呼ぶ) |
● |
1・2・10 |
2 |
北海道硫黄石津鉱山 |
嬬恋村 |
小串鉱山の支山、朝鮮人労働 |
|
10 |
3 |
帝国硫黄吾妻鉱山 |
嬬恋村 |
若山組朝鮮人80人、太子付近に動員(半田組の下請へ) |
|
10 |
4 |
日窒硫黄草津白嶺鉱山(びゃくれい) |
草津町 |
入道沢、上信鉱業の開発に労働者派遣 |
|
4 |
5 |
上信鉱山 |
嬬恋村 |
パイロフィライト(アルミ原料)採掘、43軍需会社指定、吾妻鉱山から労働者受入、朝鮮人80人も移動 |
|
4・10 |
6 |
白根鉱山 |
草津町 |
朝鮮人労働 |
|
10 |
7 |
日本鋼管群馬鉱山 |
中之条町 |
褐鉄鉱採掘、45.1鉄鉱石搬出、動員朝鮮人461人(錬成工)、下請の半田組にも朝鮮人 |
● |
8・10 |
8 |
三菱鉱業根羽沢鉱山(ねばざわ) |
片品村 |
41年100人募集予定、43年金山整備で休山 |
|
2 |
9 |
高崎炭礦 |
高崎市 |
亜炭採掘で朝鮮人移入計画 |
● |
19 |
10 |
日本ニッケル三波川工場整地工事・銭高組 |
藤岡市 |
41年100人動員承認、42.6以降動員(旧多野郡鬼石おにし) |
● |
1 |
|
吾妻線(長野原線)工事 |
|
42.10着工、45.1開通、44.2までに吾妻の鉄道・発電で1100人動員 |
|
3 |
11 |
吾妻線1区・佐藤工業 |
渋川市 |
渋川〜小野上(おのがみ) |
|
|
12 |
吾妻線2区・熊谷組 |
渋川市 |
小野上〜村上 |
|
|
13 |
吾妻線3区・西本組 |
中之条町 |
村上〜中之条 |
|
|
14 |
吾妻線4・5・6・7区・大倉土木 |
東吾妻町・長野原町 |
中之条〜長野原、43.9工事開始、44.1現在移入朝鮮人285人、陜川などから連行 |
● |
4・10 |
15 |
吾妻線8区(日本鋼管群馬鉄山専用線)・熊谷組 |
長野原町・中之条町 |
43.10工事開始(長野原〜太子おおし)、44.1現在移入朝鮮人350人 |
● |
4 |
16 |
国鉄渋川 |
渋川市 |
44年第4四半期に50人予定 |
● |
6 |
17 |
高崎鉄道改良工事 |
高崎市 |
44.2までに鉄道改良工事に100人、操車場工事の地下通路現存、間組請負 |
● |
3・10 |
18 |
日発箱島発電所工事 |
沼田市 |
44.2までに吾妻の鉄道・発電で1100人、43.6から工事 |
● |
3 |
19 |
古河神戸発電所工事(ごうど) |
みどり市 |
足尾鉱山の電力、39.12開始、42年完成、40年現在朝鮮人800人、飯場40、朴聖守の遺骨 |
|
5・15 |
|
日発岩本発電工事 |
沼田市 |
44.2までに岩本発電工事に763人、45.3中止、後閑地下工場現場へ |
|
3 |
20 |
日発岩本発電工事・間組 |
沼田市 |
導水路工事、朝鮮人1000人動員、秋田からの転送も、中国人連行 |
● |
9・18 |
21 |
日発岩本発電工事・大林組 |
沼田市 |
発電所工事 |
|
|
22 |
中島飛行機太田工場 |
太田市 |
熊谷組函館から100人を工場に転送、多数の朝鮮人徴用工員、空襲死者9人の碑 |
● |
10・12 |
23 |
中島飛行機小泉工場 |
大泉町 |
43.12第19次新規徴用に朝鮮人20人ほか |
● |
3 |
24 |
中島飛行機藪塚地下工場・鹿島組 |
太田市 |
太田工場用、朝鮮人約3000人・中国人も連行、御岳から転送、斡旋朝鮮人1000人 |
● |
10・13 |
25 |
中島飛行機後閑地下工場・間組 |
みなかみ町 |
小泉工場用、45年工事、岩本発電工事の朝鮮人・中国人を使用、海軍3013設営隊600人 |
● |
10 |
26 |
中島飛行機大胡地下工場 |
前橋市 |
大胡城跡と正治、正治には朝鮮人100人 |
|
10 |
27 |
中島飛行機多野地下工場 |
藤岡市 |
45年から工事、朝鮮人労働、飛行場工事も |
|
15 |
28 |
理研工業前橋工場 |
前橋市 |
マグネシウム、45.1朝鮮人徴用工88人入所 |
● |
14・15 |
29 |
関東電化工業渋川工場 |
渋川市 |
マグネシウム、苛性ソーダ、朝鮮人労働者、軍需会社指定 |
● |
15・17 |
30 |
関東製鋼渋川工場 |
渋川市 |
45.8現在数・移入半島工36人 |
● |
7・15 |
31 |
陸軍岩鼻火薬製造所吉井地下工事・間組 |
藤岡市 |
朝鮮人労働、現・陸上自衛隊馬庭弾薬支処、山名にも掘削 |
|
10 |
32 |
陸軍火薬製造所沼田地下工事 |
沼田市 |
上川田地区、朝鮮人動員 |
|
10 |
33 |
松井田軍需工場建設 |
安中市 |
朝鮮人100人 |
|
10 |
34 |
安中地下工場 |
安中市 |
朝鮮人100人整地・トンネル |
|
10 |
35 |
陸軍前橋飛行場工事・神崎組 |
高崎市 |
(堤ヶ岡)、43.8工事開始、44.8完成、朝鮮人労働 |
● |
10 |
36 |
朝鮮農業報国青年隊(薄根・白沢) |
沼田市 |
44年、薄根に江原50・咸南50人、白沢に咸北50人 |
● |
16 |
37 |
吾妻・炭焼き |
中之条町 |
43.12から炭焼き特攻隊50人、暮坂峠奥 |
|
15 |
38 |
浅間山麓・農耕隊 |
長野原町 |
44.10朝鮮人195人の農耕隊(徳江中尉以下) |
● |
10・11 |
39 |
堤ヶ丘・農耕隊 |
高崎市 |
45.5高崎38部隊から農耕隊1小隊転属 |
● |
20 |
40 |
陸軍砲兵・補充兵 |
長野原町 |
特別訓練実施(証言) |
● |
18 |
典拠 |
|||||
1 「移入朝鮮人労務者状況調」中央協和会1942年 |
|||||
2 「知事事務引継書」1941年10月 |
|||||
3 「知事事務引継書」44年2月 |
|||||
4 「西部吾妻における地下資源の開発と吾妻線鉄道施設概況」 |
|||||
5 「社会連帯」群馬県社会事業協会1940年6月 |
|||||
6 「半島労務者配置状況」国鉄 |
|||||
7 「終戦直後の鉄鋼労務」鉄鋼統制会 |
|||||
8 「鋼管鉱業株式会社30年史」 |
|||||
9 「間組100年史」 |
|||||
10 猪上輝雄「消し去られた歴史」『かぶらはん』連載(1997〜2004年) |
|||||
11 「第2農耕勤務隊名簿」 |
|||||
12 朝鮮人犠牲者慰霊之碑・碑文(金龍寺) |
|||||
13 「昭和20年度第1次朝鮮人労務者割当表」 |
|||||
14 「上毛新聞」 |
|||||
15 「群馬における朝鮮人強制連行と強制労働」2014年 |
|||||
16 吉沢佳世子「内地派遣朝鮮農業報国青年隊の研究」 |
|||||
17 韓国強制動員真相糾明委員会調査・資料 |
|||||
18 「百萬人の身世打鈴」1998年 |
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19 「高崎警察所管内工場・鉱山生産状況調査」(戦時下内務関係綴、「群馬県史 資料編」) |
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●= 強制動員現場と判断(2019年3月現在) |
3 強制労働の状態
動員された朝鮮人の労働状態についてここでみておきましょう。
秋田県の夏瀬ダムの間組の工事現場に強制動員され、岩本発電工事に転送された李用鎮さんの証言をみてみます。
李用鎮さんは京畿道始興郡から1944年3月に動員されました。秋田の夏瀬ダム工事現場に連行され、飯場に収容され、切り立つ崖を発破し、ダム建設の取り付け道路をつくる仕事をされられました。発破の暴発事故で仲間の身体が肉の塊になる事故があり、逃亡しました。しかし、捕まり、リンチを受け、蹴られたために右の肋骨が折れました。同年5月に、岩本発電工事の現場に送られました。45年の2月には神奈川県逗子の地下壕工事の現場に送られました。解放後、リンチにより骨折した肋骨の化膿がわかり、肋骨7本を摘出しました(「百萬人の身世打鈴」)。
間組岩本発電工事については中国人・朝鮮人の収容状況を示す地図が群馬県文書から発見されていますが、動員された朝鮮人はこのような労働の状態のなかにあったのです。
「元吉さんは中島飛行機太田工場へと函館の熊谷組の飛行場工事現場から転送されました。その証言をみてみましょう。「さんは1943年6月に全羅北道南原郡から函館に連行されました。現場では人間扱いされず、逃亡して捕まると裸にして引きずり出し、ベルトで叩くなどのリンチがおこなわれました。100人ほどが函館から中島飛行機の太田工場へと送られました。工場では部品つくりをさせられました。45年2月の空襲の際に逃亡し、草津の岩戸の朝鮮人飯場若山組に入り、硫黄鉱山で働きました(「群馬における朝鮮人強制連行と強制労働」)。
姜奉俊さんは1941年に全羅北道から千島の飛行場建設に動員され、仙台の松島飛行場工事に転送されています。そこから逃亡し、東京、福島、山形などの現場で働き、群馬鉱山に来て、半田組に下で働きました。群馬鉱山には京畿道方面から連行された朝鮮人が数百人いて、鉄条網が張り巡らされた監視付の飯場に収容されていました。草津には3000人近い朝鮮人がいたといいます(「群馬における朝鮮人強制連行と強制労働」)。
事故の状況をみてみましょう。1944年3月時点の全国統計(朝鮮人労務者勤労状況報告・厚生省)では、群馬県に1944年3月までに2073人を動員したとし、そのうち3月では、事故帰国が10人、逃亡が94人、死亡が4人とされ、在籍数は1474人とされています。この死亡4人のうちの一人は、岩本発電工事での埋火葬記録から「中山金戊」(胸部損傷・骨折、全北沃溝出身)とみられますが、他は不明です。
1945年2月の太田空襲での死亡者については2人の名が明らかになっています。太田市にある朝鮮人犠牲者追悼碑の碑文には多数の朝鮮人が動員されたと記されていますが、氏名が判明しているものはわずかです。
だれがどこで亡くなったのか、名も記されることもないままの人びとの名前を明らかにすること、歴史を歪曲し、追悼碑を撤去しようとするのではなく、名も記されていない人びとの名を明らかにし、碑の内容を深めることが行政の道であると思います。その作業が友好につながるのです。
4 群馬県での調査の課題
ここでは、「協和事業機構調」(1943年3月)から、群馬県19支会の朝鮮人数が5467人であり、動員の強化により、半年で約6000人が増加し、1943年末には1万2000人ほどになったことを示しました。知事事務引継書(1944年2月)の記載から、中島飛行機小泉工場へは1943年12月に朝鮮人20人が徴用されたことも示しました。
群馬県への動員数は1942と43年の強制動員数、44年の動員予定数から約6000人と推定できます。戦時の群馬県の朝鮮人労働現場は40か所ほどあり、約半数を強制動員の現場と判定することができます。死亡状況は不明のものが多く、今後の調査課題です。
未見の社会保険加入資料や埋火葬認可証の調査、韓国での強制動員真相糾明活動の資料との照合などにより、実態をさらに明らかにすることができるでしょう。第2農耕勤務隊は朝鮮人兵士を中心とした部隊であり、栃木、群馬に展開していますが、名簿があります。
「群馬における朝鮮人強制連行と強制労働」での、根羽沢鉱山、強制連行数の表、日本ニッケル三波川、犠牲者名簿などの訂正も求められます。より正確な記載を追及し、右派の歴史歪曲をはねのけてゆくことが求められます。
動員は甘言や暴力による強制的なものでした。強制連行はなかったというのは、歴史の歪曲です。群馬県が朝鮮人の追悼碑の設置を取り消す行為は歴史の歪曲に与するものです。行政として当時の朝鮮人の死者を明らかにし、追悼活動に積極的に関与すべきです。それが正義の実現と尊厳の回復につながり、友好の起点となるでしょう。私たち自身が歴史を獲得し、東アジアの平和を構築するという意味でも、強制動員の歴史を明らかにし、追悼をすすめることは重要であると思います。