富山県の朝鮮人強制労働 強制連行・不二越訴訟・韓国徴用工判決
ここでは、富山県の朝鮮人強制労働のテーマで、戦前の富山県での朝鮮人労働、富山での朝鮮人強制連行、不二越訴訟の経過と課題、韓国大法院徴用工判決、植民地責任の現在の順に話します。
1 富山県の朝鮮人労働
富山県では、1910年代後半から40年代はじめにかけ、発電工事や鉄道・道路工事などの現場で多くの朝鮮人が働いています。朝鮮人労働者の死傷事故や労働争議も数多くおきています。
1918年8月7日の北陸タイムスには、立山砂防工事で朝鮮人100数十人が労働していたのですが、虐待に耐えかねて10数人が脱走したことが記されています。労働者の白銷石、白成俊、金明洙、金徳男、柳桂植、金景順など名も示されています。
1927年8月には、富山白衣労働同盟(信友会)が結成され、翌年4月、北陸朝鮮労働組合となります。1931年11月には富山土木建築労働組合が結成されています。朝鮮人労働者による団結と争議もあったのです。
発電工事の事故死亡者の名前を刻んだものに、庄川の祖山ダムの殉難者記念碑(1933年7月)があります。死亡者28人中、5人が朝鮮人です。
黒部川流域のダム工事にも多数の朝鮮人が働いていました。当時の労働状況についてみておけば、黒部の日電黒薙支線第4号トンネルでトロッコの下敷きとなり、2人が死亡しています。ひとりは朝鮮人の金全洲(日本名春山白)でした(北陸タイムス1927年10月20日)。1938年8月、黒部でダイナマイト事故が起き、竹田飯場の南慶述ら6人は頭部・顔面を粉砕され、即死しました(北陸タイムス1938年8月29日)。
黒部電鉄の内山駅近くの山林に、大邱出身の「呂野用」の墓が残っています。死亡日は1937年10月9日となっています。この墓には一時期20人ほどの朝鮮人の骨が集められたといいます。宇奈月の薬師寺の墓地には萬霊之塔がありますが、この追悼塔は黒部工事関係で亡くなった朝鮮人を含む人びとを追悼するものです(「黒部・底方の声」73頁)。
黒部第3発電所工事では、志合谷(しあいたに)雪崩(1938年12月)、阿曽原(あぞはら)雪崩(1940年1月)などの事故が起き、朝鮮人も亡くなっています。志合谷雪崩では下賜金拝受証が発見されていますが、39人分が朝鮮人です。志合谷には地蔵堂(1940年11月、佐藤工業)、阿曽原には殉難之碑があります(「黒部・底方の声」78頁)。
電力を豊富に供給できるようになると、1930年代には富山港周辺での重化学工業化がすすみ、富山港近くの伏木港での荷役も増加しました。そこでは朝鮮人も働いていました。新聞記事から朝鮮人の労働現場を確認することができます(表1)。
2 富山県の朝鮮人強制連行
強制連行者数
では、富山県での朝鮮人の強制連行について、動員数からみていきます。
最初は、集団募集により、強制動員がすすめられました。富山県では1940年に入り、761人が動員されました。動員の初期には縁故による動員もおこなわれ、761人のうち277人が縁故による動員です(「労務動員関係朝鮮人移住状況調」種村氏警察参考資料、表2)。
中央協和会の「移入朝鮮人労務者状況調」(1942年)からは、佐藤工業が有峰発電工事に100人、小原発電工事に134人、黒部第三発電工事・宇奈月に149人を連行したことがわかります。佐藤工業の日本海船渠工場の建設工事にも149人が動員されていますが、これらの人びとは宇奈月からの転送者とみられます。
東岩瀬の運河工事への動員も予定されていました。この工事は富岩運河に続くものであり、東岩P臨港工業地帯造成事業により、岩P運河と住友運河を開削するというものです。そこに朝鮮人を集団動員したのです。
労務動員初期には縁故募集による動員もありました。佐藤工業が黒部発電工事を請け負いましたが、配下の飯場頭の金命石は三日市警察署から渡航許可証明書を得て、慶南居昌郡の親戚などに送って渡航させ、現場で労働させました。白永煕さんはこのような縁故募集で動員されました(「黒部・底方の声」35頁)。朴敬浩さんは父が飯場頭であり、佐藤工業による1940年4月の朝鮮での募集に行きました。黒部には80人ほどが配置され、工事が終わると30人ほどを岩瀬の運河工事に連れて行った。宿舎は監視され、逃亡して捕まると皆の前で半殺しの目にあわされたといいます(「黒部・底方の声」36頁)。
1942年からは官斡旋による動員もすすみ、1943年3月までに富山県に628人が連行されています。内訳は土建382人、鉄鋼50人、軽金属196人です(中央協和会「移入朝鮮人労務者数調」1943年3月)。工場への動員もすすめられたのです。この時点での協和会の県内での組織状態については「協和事業機構調」から知ることができます(表3)。
「労務動員関係朝鮮人移住状況調」からは1943年12月までに1161人が動員されたことがわかります。「新規移入朝鮮人労務者事業場別数調」での1944年の動員予定数は7210人(土建5885人、工場他1325人)とされています。1944年に入ると動員がさらに強化されたわけです。1940年から45年までの動員数は「労務動員関係朝鮮人移住状況調」、「新規移入朝鮮人労務者事業場別数調」などの記事から、8000人を超えたとみることができます。
軍需工場への動員
官斡旋による動員がすすむとともに1944年には徴用による動員がおこなわれました。軍需工場への動員が強化され、1944年1月からは軍需会社の指定により、労働者が軍需徴用(現員徴用)されました。
富山県で軍需会社に指定された工場は、日本鋼管富山工場、帝国特殊製鋼高岡工場、日本曹達富山工場、同岩瀬工場、同高岡工場、日本マグネシウム富山工場、不二越鋼材工業富山工場、同東岩瀬工場、昭和電工富山工場、国産軽銀工業富山工場、住友金属工業富山工場、保土谷化学工業富山工場、立山重工業、日本海船渠工業、燐化学工業、富山化学工業などです。官斡旋で動員され、現場で徴用されることもありました。そして1944年9月からは、徴用を発動しての動員がおこなわれました。
不二越鋼材工業への動員は1944年からです。朝鮮女子勤労挺身隊も動員されました。富山県の軍需工場では不二越が最大の動員企業でした。富山県の三菱重工業名古屋工場の疎開工場にも、名古屋から転送された女子勤労挺身隊員を含む朝鮮人がいました。日本マグネシウム富山工場には朝鮮北部から200人の徴用工が動員されました。鉄鋼統制会の史料「鉄鋼労務問題」6(1945年9月)からは敗戦時の現在員数がわかり、日本高周波の80人、日本鋼管富山工場の126人、日本曹達岩瀬工場の72人を確認できます(表4)。
戦後の供託資料からも動員状況の一部が判明します。富山県の供託資料には、住友金属工業富山製作所、不二越鋼材工業、不二越鋼材工業東富山製鋼所、立山重工業、日本海船渠工業、保土谷化学工業富山工場、燐化学工業、日本マグネシウム、日本カーボン富山工場、日本人造黒鉛笹津工場、日本曹達高岡工場、日本鋼管富山電気製鉄所、日本高周波重工業富山工場、日本カーバイド工業魚津工場、中越電気工業などの軍需工場、日本通運富山支店、日本通運富山港支店、砺波運輸、伏木海陸運送などの運輸・港湾関係での未払い金が示されています。不二越と日本カーバイドの未払金はそれぞれ当時の金額で9万円を超えるものになります。供託金の件数から動員数を推定することもできます(表5)。
富山県への動員は戦時に工事が継続された発電工事の現場とその電力を利用して稼働した軍需工場が多かったのです。工場疎開のために地下工場が建設されました。三菱の雄神、不二越の文珠寺の地下工場建設では朝鮮人の動員が明らかにされています。
軍需工場以外でも動員がすすみました。
伏木港には、陸軍船舶部隊の水上勤務隊員として軍事動員された朝鮮人がいました。水上勤務隊員は伏木へと1945年4月に1000人ほどが動員されています。死者名簿から咸鏡南道から軍属として集団動員され、港湾労働を強いられていたことがわかります。船舶工兵第41連隊も1100人ほど動員されていますが、そこに朝鮮人が組み込まれていた可能性があります。陸軍船舶部隊によって徴用された船に乗っていた朝鮮人もいます。
農業報国青年隊の形で動員された朝鮮人もいました。1943年に富山の3地区に黄海、平南、慶南からそれぞれ31人が動員されています。
強制動員期の死亡者
強制動員期の朝鮮人死亡者については、労務では不二越で1人、軍属や徴用船関連で10人、発電工事で10人ほどが判明しています。しかし、本名の半数ほどがわからないままです(表6)。
黒部発電工事での1940年1月の阿曽原雪崩での死亡者は、北陸タイムスの1940年1月12日の記事から、金基出、権興植、具寿甲ら計10人が判明します。新聞調査でもう少し詳細な名簿を作成できます。
富山空襲で亡くなった朝鮮人の名前は不明です。戦後70年を経た今も、動員とその後の死亡の真相が明らかになっていないものは多いのです。一人ひとりの存在を明らかにすることができればと思います。
3 不二越への強制連行と訴訟
不二越への強制連行
つぎに、不二越への強制連行とその裁判の経過をみてみます。
不二越の創業は1928年です。戦時には高角砲や機関銃など兵器部品を製造していました。不二越は1944年から朝鮮人を連行しました。男子は朝鮮北部から44年8月、10月頃に計540人が連行されました。女性は女子勤労挺身隊の名で、1944年5月に慶北から約100人、6月に慶南から約150人、7月に京畿から約200人が、1945年3月には京畿と全北・全南から約650人が連行されました。12〜15歳ほどの少女を1090人も動員したのです。女子勤労挺身隊令は1944年8月に出されますが、それに先行して勤労報国の名で動員がなされていたのです。
日本での不二越第1次訴訟の際に、不二越は従業員名票を出してきました。新井弘子さんの名票からは1931年4月生まれ、1944年3月に京城の清涼初等科を卒業、1944年7月6日に不二越に動員されたことがわかります。
女子勤労挺身隊のうち1944年5月から7月にかけて連行された人びと約430人は45年7月に朝鮮黄海道の鳳山製作所に転送されました。不二越富山工場の朝鮮人男388人、女595人は45年10月に帰国しています。
13歳ほどの少女が教育の機会や収入などの甘言で欺罔され、動員されました。動員先では、軍隊式訓練をさせ、旋盤などの重労働を強いています。一日1円弱の低賃金で労働させ、国民貯蓄や預金などの名で強制貯金をしました。日本は植民地支配によって暴力を構造化させ、皇民化による精神への動員をすすめました。子どもたちに自ら志願していくように内面を操ったのです。そのような内面への暴力性をみることが大切です。
不二越訴訟の経過
不二越第1次訴訟は1992年9月にはじまりました。原告は元勤労挺身隊の李鐘淑、崔福年さん、元徴用工の高徳煥さんの3人でした。
勤労挺身隊の原告は、不二越は人間として扱わなかった。12から13歳の少女をこき使い、その賃金を50年間も横取りしておいて、すみませんという気持ちがあるべきです。人を踏みにじり、自分たちの都合のいいように生きていくのが日本人の道徳ですか、自分の賃金を貰うために裁判をしなければならない国ですか、不二越はわたしたちの血と汗の代価を横取りしたままですと訴えました。原告側は国際慣習法(奴隷禁止)違反、人道に対する罪違反、強制労働条約違反などを示し、未払い賃金の支払い、不法行為・債務不履行への損害賠償、謝罪などを求めたのです。しかし、不二越は不知、否認、時効・除斥、個人請求権の消滅、供託済みなどをあげて抗弁しました。
1996年7月の地裁判決は奴隷労働と未払い賃金の事実については認定しました。しかし、請求権の起点を1991年8月とし、1年で時効としました。それにより不法行為は除斥になるとし、原告の請求を認めなかったのです。原告は控訴しますが、1998年12月、控訴は棄却されました。控訴中の1998年7月に、元勤労挺身隊員は社会保険事務所で未払い金の一部である厚生年金脱退金請求18円を受け取りました。原告は最高裁に上告し、交渉の末、2000年7月、和解となりました。不二越は「不毛な争い」を清算するとし、謝罪はしないまま、解決金を支払ったのです。
2001年10月、他の元挺身隊員が不二越を訪問しましたが、不二越側はすべて解決済みとし、元隊員を外に放り出しました。そのような対応が、2003年4月の第2次訴訟となりました。原告は元挺身隊員の李慈順、李福實、柳賛伊、安喜洙、崔姫順さんら23人です。不二越の不法行為・安全配慮義務違反、強制労働条約違反を追及し、損害賠償と謝罪を求めての提訴でした。
しかし、2007年9月、富山地裁は、事実は認定するものの日韓請求権協定によって解決済みとし、請求を棄却しました。2010年3月、高裁も請求を棄却しました。この判決では、不法行為については認定し、会社の債務不履行も認めましたが、請求権協定で裁判上訴求権能がないとしたのです。原告は上告しましたが、2011年10月に最高裁は棄却しました。
第1次訴訟では、請求権を認め、除斥によって請求を棄却していましたが、第2次訴訟では請求権協定により裁判上訴求権能がないとする判断を示すようになったのです。
しかし、韓国で2012年5月、韓国大法院が日鉄・三菱広島の元徴用工判決に関し、高裁への差し戻しを決定しました。この判決では、日本の判決を大韓民国憲法の核心的価値と正面から衝突するものとし、日帝強占期の強制動員自体を不法であるとみなしたのです。
この動きは不二越の原告に力を与えました。2013年2月、不二越の元隊員31人が韓国ソウル地裁に訴訟(第1次)をおこしました。そして2014年10月、1人あたり8000万〜1億ウォンの計15億ウォンを獲得する形で勝訴しました。
2015年には第2次、第3次の不二越訴訟がおこされ、地裁で2016年11月に第2次が勝訴、17年3月には第3次が勝訴しました。韓国大法院での2018年10月の日鉄訴訟の原告勝訴判決を受け、2019年1月、不二越の第1・2・3次の控訴審判決が続けて出され、原告が勝訴しました。韓国不二越訴訟の大法院での勝訴は、確実な情勢です。
このような情勢であるにもかかわらず、2019年2月29日の不二越株主総会での会社側答弁は「一貫して韓国訴訟につきましては、強制連行、強制労働、さらには賃金未払いの事実は無いと裁判で主張」してきました。「2000年に和解しましたが、20世紀の不幸な問題につきましては、20世紀のうちに清算するという考えで、第2次大戦中に当社で働いた方に感謝の意を表する『勤労の碑』を建てました。また、解決金というものを支払いました。ただしこれは、それまで裁判にかかった費用というものの相当金額を払ったもので、法的な責任を認めたというものではございません。」というものでした。
日本の裁判で奴隷労働と賃金未払いの事実、その不法行為が認定されているにも関わらず、責任をとろうとしない発言をしているのです。
4 韓国徴用工大法院判決
強制動員慰謝料請求権の確定
2018年10月に韓国大法院は日本製鉄訴訟、11月に、三菱広島、三菱名古屋訴訟で原告勝訴の判決を出しました。この徴用工大法院判決の意義をみてみましょう。
判決は強制動員を、日本の不法な植民地支配や侵略戦争の遂行に直結した日本企業の反人道的不法行為とみなし、強制動員被害に対する慰謝料の賠償請求権を認めるものでした。原告の求めるものは、未払賃金請求権ではなく不法な強制動員被害への慰謝料請求権とし、強制動員慰謝料請求権を確定させたのです。
日韓請求権協定で解決済み論に対しては、協定は両国の民事的な債権債務関係を解決するものであり、反人道的不法行為に対する請求権は、日韓請求権協定の適用対象には含まれないと判断しました。
大法院判決の歴史的な意義は、戦争被害者個人の企業に対する賠償請求権を認め、強制動員企業の法的責任を明示したことです。また、日韓請求権協定(1965年体制)では、強制動員の損害賠償は未解決であることを示すものでした。さらに判決は、被害者の尊厳回復、解決に向けての市民の行動を正義とするものです。企業による強制動員を反人道的不法行為とし、戦争被害者の尊厳を回復するということ、それは被害者を支えた市民の活動をも正義とするものであり、画期的な判決なのです。
日韓会談では、日本側は植民地支配を合法とする立場でした。それは日本により朝鮮が近代化し、朝鮮とは戦争状況になく賠償は生じないというものです。交渉は、戦争と植民地支配の賠償ではなく、財産請求権問題の解決のためのものでした。交渉では、植民地支配の償いはなく、日本の生産物と役務で支払う「経済協力」の形で決着しました。当時の日韓両政府は被害者の声を無視したのです。
戦後補償の裁判が始まると、日本政府はこの協定で解決済み、個人請求権はあるが、裁判で訴えることができないという見解(「救済なき権利」論)を示すようになり、裁判所もその見解を支持しました。ただし、法廷外で関係者が被害救済に向けて努力することはできるというのです。
けれども、植民地責任を問う国際的な潮流は存在します。その力が大法院判決を生んだといえるでしょう。
日本政府の問題
大法院日鉄判決に対し、2018年11月1日、安倍首相は衆議院予算委員会でつぎのように発言しました。
「旧朝鮮半島出身労働者の問題につきましては、1965年の日韓請求権協定によって、完全かつ最終的に解決しています。今般の判決は国際法に照らせば、ありえない判断であります。日本政府としては国際裁判も含めあらゆる選択肢も視野に入れて毅然として対応していく考えでございます。なお、政府としては徴用工という表現ではなくて、旧朝鮮半島出身労働者の問題というふうに申しあげているわけでございますが、当時の国家総動員法下、国民徴用令においては募集と官斡旋と徴用がございましたが、実際、今般の裁判の原告4名はいずれも募集に応じたものであることから、旧朝鮮半島出身労働者の問題と言わせていただいている」と。
安倍政権は、強制労働ではない、朝鮮半島出身労働者の問題、判決は国際法違反、暴挙、日韓関係の土台を崩すなどとし、対抗しての経済措置をも示唆しています。
けれども、2018年11月14日の衆議院外務委員会での穀田恵二議員の質問では、外務省国際法局長は、1991年8月27日,92年3月9日の柳井俊二条約局長の答弁をふまえ、請求権協定では個人の請求権は消滅せず、請求権協定上の財産、権利及び利益とは財産的価値を認められる全ての種類の実体的権利であり、慰謝料等の請求は財産的権利には該当しないことを認めています。河野太郎外相も個人請求権が消滅していないことを認めました。
日韓請求権協定による解決とは財産請求権をめぐる外交保護権であり、個人請求権は消滅してはいません。慰謝料請求権も消滅していないのです。大法院判決は、ありえない判断ではなく、国際法に照らしてありえる判断です。植民地支配の不法性を認めてこなかった日本の姿勢が招いた判決なのです。
植民地合法論の克服
この判決に対し、西岡力「奇怪な「日本統治不法論」」(正論2019年1月)はつぎのように主張します。
判決は日本の朝鮮統治が当初から不法であるとする奇怪な観念によるものである。それにより合法的な賃労働である戦時労働者問題が人権問題に化ける。判決は反人道的不法行為への慰謝料を認めたが、日韓請求権協定で、韓国は対日請求要綱に関して、いかなる主張もなしえないことになっている。歴史認識問題研究財団をつくり、統治合法論に立って、国際的にも広報し、対抗すべきである。
右派の「人種差別に反対するNGO日本連合」の主張はつぎのようなものです。
韓国政府は反日教育を推進し、子どもに日本民族への憎悪を植えつける。日本民族への差別意識に発展し、レイシャルハラスメントを引き起こしている。韓国民の日本民族への差別意識は年々増大しているが、政府による反日教育によるものである。韓国の教科書や反日施設は国家ぐるみの最大級のヘイトスピーチであり、人類の崇高な倫理観に反する。国連人種差別撤廃委員会は韓国政府に反日教育の改善を勧告すべきである。
かれらは、植民地支配は合法であり、日本が近代化させた、韓国による独立運動への評価を反日教育とし、ヘイトとみなすのです。判決は、反日教育による被害であり、日本への人種差別となるわけです。
しかしながら、不二越訴訟では1996年の富山地裁判決で奴隷労働と賃金未払いの事実、その不法行為が認定されているのです。日本製鉄では2001年の大阪地裁判決、三菱名古屋では2007年の名古屋高裁判決で、強制労働の事実は認定されています。
歴史を歪曲する人びとは、それを受け入れずに、戦争と植民地支配を肯定し、韓国判決や被害者の行動を「反日」とし、自らを被害者とみなすのです。日本の過去の加害事実を否認し、韓国への批難を煽動する側に立つのです。
そのような歴史観に近い安倍政権は、企業と被害者との自主的和解を妨害しています。そこには強制動員被害者の尊厳回復への視点が欠落しています。それは、国政を私物化し、憲政を蹂躙するものたちによる、人を人として見ない政治のあらわれです。けれども確定した強制動員慰謝料請求権を覆すことはできません。
5 植民地責任の現在
強制動員慰謝料請求権の確定をふまえた対応が求められます。日韓の友好は日本が植民地責任をとることからはじまります。日本政府は韓国の司法判断への批判を止め、植民地支配の不法性を認め、その下での強制動員(強制労働)の事実を認知すべきなのです。判決を契機に、韓国政府は強制動員問題の解決へのこれまでの不作為を反省すべきなのです。
強制動員に関わり、その歴史を継承する日本企業は、その事実を認知し、日韓政府とともに解決に向けて、共同の作業をはじめるときなのです。被害者への賠償に応じ、和解をすすめるべきです。また、包括的解決に向け、日韓共同での財団・賠償基金の設立を検討するときなのです。法の正義とは人権の回復であり、協定がその正義の実現の妨げとなっているならば、それを超える政策を考えるべきでしょう。
被害者の人権回復を中心に国際法を理解し、解釈することが大切です。今回の判決は日韓の友好やその基盤を破壊するものではありません。強制動員慰謝料請求権の確定を人類史の成果として評価すべきです。強制労働被害者の尊厳回復・正義の実現の地平から、あらたな日韓の関係を形成するときがきたのです。過去を清算する、強制動員問題をはじめ植民地責任をとろうとする真摯な取り組みが、信頼を生み、北東アジアの平和と人権への構築につながると思います。(竹内)
2019年4月28日、コリアプロジェクト・富山主催、富山での講演に加筆
表1 戦前・富山県内の朝鮮人労働現場(1920〜30年代) 発電工事 |
富山電気庵谷発電拡張工事(佐藤組) |
県営愛本発電(佐藤組・日産土木) |
日本電力柳河原発電(佐藤・清水組) |
日本電力黒部第2発電(佐藤・大倉・大林・間組) |
日本電力黒部第3発電(加藤・佐藤・大林組) |
日本海電気片貝川発電 |
県営上滝発電(西松・定村・佐藤・加藤組) |
県営小口川第2・第3発電(佐藤組) |
県営小見発電(佐藤組) |
県営真川発電(佐藤・加藤組) |
県営立山発電(米沢組) |
県営称名川発電(増田組) |
県営有峰発電(佐藤組) |
日本電力蟹寺発電 |
庄川水電小牧発電(佐藤組) |
昭和電力祖山発電(佐藤組) |
日本発送電小原発電(佐藤組) |
五ケ山電気湯谷川発電 |
鉄道・道路工事 |
黒部鉄道第二期線工事 |
県営鉄道工事 |
飛越鉄道工事(加藤・佐藤・飛島組) |
越中電気軌道工事場 |
高岡市新設道路工事 |
富山市県道改修工事 |
東谷村村道新設工事 |
西呉羽国道改修工事 |
工場建設・工場 |
北海電化工事場・伏木 |
大日本人造肥料建設工事 |
大正製紙工場 |
第一ラミー紡績 |
土木・港湾 |
常願川上流林業工事 |
富岩運河工事(佐藤組) |
立山砂防工事 |
片貝川砂防工事 |
神通川改修工事 |
下條川改修工事 |
県営蛇谷川溜池工事(森本組) |
県庁舎新築工事 |
泊町小学校建設工事 |
朝日山中学校敷地整地 |
伏木港 |
参考 内田すえの・此川純子・堀江節子『黒部・底方の声
黒三ダムと朝鮮人』桂書房1992年
表2 富山県・朝鮮人強制連行者数
年 |
動員予定数 |
動員数 |
動員累計 |
朝鮮人数 |
註 |
1938 |
|
|
|
3056 |
朝鮮人数は38年12月末の数 |
1939 |
736 |
0 |
|
|
|
1940 |
900 |
761 |
|
|
動員数のうち縁故277 |
1941 |
280 |
154 |
|
3929 |
朝鮮人数は41年6月末の数 |
1942 |
600 |
148 |
|
3350 |
朝鮮人数は42年6月末の数 |
1943 |
500 |
98 |
1161 |
6058 |
朝鮮人数は43年12月末の数 |
1944 |
7210 |
|
|
|
予定数内訳土建5885、工場他1325 |
1945 |
|
|
|
|
解放後の送還数3788 |
典拠 「労務動員関係朝鮮人移住状況調」1943年末現在(「昭和20年度追加予算参考書」内文書「種村氏警察参考資料第110集」)、「昭和19年度新規移入朝鮮人労務者事業場別数調」(「内鮮警備整備に要する経費の増加」内文書、『同資料第98集』)「朝鮮人等ノ送還者数」(「同資料第117集」)、「労務動員関係朝鮮人移住状況調(昭和17年6月末現在)」(同資料第82集)ほか。
表3 富山県協和会の組織1943年3月現在 |
|
||||
|
支会名 |
人数 |
男 |
女 |
|
1 |
富山 |
951 |
559 |
391 |
|
2 |
東岩瀬 |
188 |
166 |
22 |
|
3 |
大久保 |
99 |
60 |
39 |
|
4 |
滑川 |
149 |
77 |
72 |
|
5 |
上市 |
156 |
77 |
79 |
|
6 |
雄山 |
87 |
54 |
33 |
|
7 |
魚津 |
299 |
199 |
100 |
|
8 |
桜井 |
184 |
101 |
83 |
|
9 |
泊 |
139 |
77 |
62 |
|
10 |
八尾 |
136 |
70 |
66 |
|
11 |
高岡 |
486 |
295 |
191 |
|
12 |
小杉 |
12 |
8 |
4 |
|
13 |
新湊 |
183 |
137 |
46 |
|
14 |
水上〔伏木〕 |
62 |
24 |
38 |
|
15 |
氷見 |
89 |
49 |
40 |
|
16 |
出町 |
136 |
76 |
60 |
|
17 |
福光 |
0 |
0 |
0 |
|
18 |
井波 |
112 |
100 |
12 |
|
19 |
城端 |
6 |
2 |
4 |
|
20 |
石動 |
143 |
84 |
59 |
|
|
計 |
3683 |
2192 |
1491 |
|
(3617 2215 1401)
合計は一致しない。( )は筆者による集計。県内の朝鮮人数は1943年末には倍増し、6000人を超えた。さらに7000人以上が労務動員され、朝鮮人数は1万3000人を超えた。「富山県警察史」では、終戦時の県内朝鮮人数は2万人。
表4 朝鮮人強制労働現場一覧
日本鋼管富山電気製鉄所 |
軍需工場 |
高岡市 |
● |
鉄鋼・供託 |
軍需工場 |
高岡市 |
● |
供託 |
|
日本高周波重工業富山工場 |
軍需工場 |
高岡市 |
● |
記事・鉄鋼 |
北海電化工業伏木工場 |
軍需工場 |
高岡市 |
|
連合軍捕虜 |
燐化学工業 |
軍需工場 |
富山市 |
● |
供託 |
昭和電工富山工場 |
軍需工場 |
富山市 |
● |
調査 |
立山重工業 |
軍需工場 |
富山市 |
● |
供託 |
日本曹達岩瀬製鋼所 |
軍需工場 |
富山市 |
● |
社史 |
日本カーボン富山工場 |
軍需工場 |
富山市 |
● |
供託 |
日本人造黒鉛富山工場 |
軍需工場 |
富山市 |
● |
供託 |
不二越鋼材工業 |
軍需工場 |
富山市 |
● |
社史・供託 |
不二越鋼材工業富山製鋼所 |
軍需工場 |
富山市 |
● |
供託 |
保土谷化学富山工場 |
軍需工場 |
富山市 |
● |
供託 |
日本海船渠工業 |
軍需工場 |
富山市 |
● |
供託 |
日産化学富山工場 |
軍需工場 |
富山市 |
◎ |
|
日本マグネシウム笹津工場 |
軍需工場 |
富山市 |
● |
調査・供託 |
日本カーバイド魚津工場 |
軍需工場 |
魚津市 |
● |
社史・供託 |
三菱重工業 福野疎開工場 |
軍需工場 |
南砺市 |
● |
調査 |
三菱重工業 井波疎開工場 |
軍需工場 |
南砺市 |
● |
調査 |
三菱重工業 大門疎開工場 |
軍需工場 |
射水市 |
● |
調査・証言 |
日発小原発電工事 佐藤工業 |
発電工事 |
南砺市 |
● |
協和 |
黒部発電工事 佐藤工業・大林組 |
発電工事 |
黒部市 |
● |
協和 |
有峰発電工事 佐藤工業 |
発電工事 |
富山市 |
● |
協和 |
朝鮮農業報国隊 桜井・雄山・福野 |
農林 |
黒部.立山.南砺 |
● |
記事・調査 |
僧ヶ岳・鉱山(モリブデン) |
鉱業 |
黒部市 |
◎ |
記録 |
庄川合口水路工事 佐藤工業 |
土木建設 |
高岡市 |
|
|
日曹富山製鋼専門運河工事佐藤工業 |
土木建設 |
富山市 |
|
|
住友金属工業富山工場 |
土木建設 |
富山市 |
● |
証言・供託 |
日本海船渠工事 佐藤工業 |
土木建設 |
富山市 |
● |
協和 |
東岩瀬運河工事 佐藤工業 |
土木建設 |
富山市 |
● |
協和 |
不二越文殊寺地下工場 |
地下工場建設 |
富山市 |
◎ |
調査 |
三菱重工雄神地下工場 佐藤工業 |
地下工場建設 |
砺波市 |
◎ |
調査 |
日本海船渠円山地下工場 佐藤工業 |
地下工場建設 |
氷見市? |
|
|
長岡・飛行場工事 |
飛行場建設 |
富山市 |
● |
特高 |
伏木海陸運送 |
運輸港湾 |
高岡市 |
● |
港史・供託 |
国鉄岩瀬 |
運輸港湾 |
富山市 |
● |
国鉄 |
国鉄富山 |
運輸港湾 |
富山市 |
● |
国鉄 |
日通富山支店 |
運輸港湾 |
富山市 |
● |
供託 |
日通富山港支店 |
運輸港湾 |
富山市 |
● |
供託 |
日通岩瀬支店 |
運輸港湾 |
富山市 |
|
連合軍捕虜 |
特設水上勤務隊・伏木港 |
軍人軍属 |
高岡市 |
● |
調査 |
耕作第7中隊・立野原 |
軍人軍属 |
南砺市 |
● |
調査 |
「戦時朝鮮人強制労働調査資料集1」から転載・補正。●は強制連行確認
表5 朝鮮人労働者の供託金・富山県分
未払金 |
54 |
551.50 |
1946.12.9 |
富山供託局 |
|
住友金属工業富山製作所 |
預り金 |
5 |
170.20 |
1946.12.9 |
富山供託局 |
中越電気工業 |
傷病手当金 |
5 |
203.34 |
1946.12.19 |
富山供託局魚津 |
砺波運輸 |
退職金 |
1 |
396.00 |
1948.3.4 |
富山司法事務局出町 |
日本カーバイド工業魚津工場 |
退職慰労金 |
393 |
45612.00 |
1948.4.15 |
富山供託局魚津 |
日本カーバイド工業魚津工場 |
厚生年金 |
406 |
26715.32 |
1948.4.15 |
同上 |
日本カーバイド工業魚津工場 |
延長手当 |
66 |
13200.00 |
1948.4.15 |
同上 |
日本カーバイド工業魚津工場 |
預り金 |
22 |
450.52 |
1948.4.15 |
同上 |
日本カーバイド工業魚津工場 |
貯金 |
83 |
10374.86 |
未供託 |
|
日本カーボン富山工場 |
厚生年金未給付 |
154 |
4899.53 |
未供託 |
|
日本カーボン富山工場 |
厚生年金脱退金 |
29 |
1355.69 |
未供託 |
|
日本マグネシウム |
退職慰労金 |
157 |
18603.08 |
1948.4.17 |
富山司法事務局 |
日本マグネシウム |
厚生年金脱退金 |
160 |
5584.01 |
1948.4.17 |
富山司法事務局 |
日本海船渠工業 |
退職慰労金 |
90 |
8356.51 |
1947.2.1 |
富山供託局 |
日本海船渠工業 |
厚生年金脱退金 |
90 |
4379.50 |
1947.2.1 |
富山供託局 |
日本鋼管富山電気製鉄所 |
退職慰労金 |
11 |
3260.00 |
1947.4.14 |
富山供託局高岡 |
日本鋼管富山電気製鉄所 |
厚生年金脱退金 |
131 |
5994.35 |
1947.4.14 |
同上 |
日本鋼管富山電気製鉄所 |
債券 |
11 |
315.00 |
1947.4.14 |
同上 |
日本鋼管富山電気製鉄所 |
貯金 |
32 |
322.17 |
未供託 |
|
日本高周波重工業富山工場 |
未払金 |
14 |
1873.09 |
1946.12.26 |
富山供託局高岡 |
日本人造黒鉛笹津工場 |
脱退手当金 |
23 |
719.92 |
1947.2.4 |
富山供託局 |
日本曹達高岡工場 |
休業手当金 |
294 |
8173.02 |
1948.3.16 |
富山司法事務局高岡 |
日本曹達高岡工場 |
退職慰労金 |
3 |
433.75 |
1948.3.16 |
同上 |
日本曹達高岡工場 |
預り金 |
1 |
150.00 |
1948.3.16 |
同上 |
日本通運富山港支店 |
厚生年金 |
28 |
1444.73 |
1946.12.20 |
富山供託局 |
日本通運富山支店 |
貯金払戻金 |
27 |
3077.40 |
1946.11.26 |
富山供託局 |
日本通運富山支店 |
基本補給金 |
11 |
420.20 |
1946.11.26 |
富山供託局 |
日本通運富山支店 |
特別補給金 |
27 |
3469.50 |
1946.11.26 |
富山供託局 |
日本通運富山支店 |
未払賃金 |
27 |
1456.00 |
1946.11.26 |
富山供託局 |
日本通運富山支店 |
厚生年金脱退金 |
49 |
2694.51 |
1946.11.26 |
富山供託局 |
不二越鋼材工業 |
退職積立金 |
122 |
510.57 |
1947.8.30 |
富山司法事務局 |
不二越鋼材工業 |
退職金 |
441 |
1252.44 |
1947.8.30 |
同上 |
不二越鋼材工業 |
厚生年金 |
184 |
3464.82 |
1947.8.30 |
同上 |
不二越鋼材工業 |
国民貯蓄 |
459 |
29226.17 |
1947.8.30 |
同上 |
不二越鋼材工業 |
預り金 |
430 |
55188.19 |
1947.8.30 |
同上 |
不二越鋼材工業 |
貯金 |
16 |
1062.00 |
未供託 |
|
不二越鋼材工業東富山製鋼所 |
厚生年金 |
34 |
1395.09 |
1947.4.12 |
富山供託局 |
不二越鋼材工業東富山製鋼所 |
貯金 |
4 |
72.00 |
1947.4.12 |
富山供託局 |
不二越鋼材工業東富山製鋼所 |
貯金 |
37 |
1637.60 |
未供託 |
|
伏木海陸運送 |
退職慰労金 |
5 |
320.00 |
1946.11.19 |
富山供託局 |
伏木海陸運送 |
厚生年金脱退金 |
3 |
79.86 |
1946.11.19 |
富山供託局 |
伏木海陸運送 |
預り金 |
5 |
2066.31 |
1946.11.19 |
富山供託局 |
保土谷化学工業富山工場 |
厚生年金脱退金 |
48 |
1156.16 |
1946.12.26 |
富山供託局 |
立山重工業 |
賃金 |
1 |
181.80 |
1948.2.26 |
富山司法事務局 |
立山重工業 |
貯金 |
41 |
1101.66 |
未供託 |
|
燐化学工業 |
厚生年金脱退金 |
21 |
945.00 |
1948.2.25 |
富山司法事務局 |
燐化学工業 |
貯金 |
13 |
3615.81 |
未供託 |
|
『経済協力 韓国105 労働省調査 朝鮮人に対する賃金未払債務調』大蔵省1953年(国立公文書館つくば分館蔵)、「戦時朝鮮人強制労働調査資料集2」から転載。
表6 富山県・強制連行期朝鮮人死者(判明分)
氏名 出身 生年/歳 動員年 動員先 死亡年
仙石公子 |
京畿 京城 |
|
1945.2 |
不二越鋼材 |
1945.6 |
金城元淳 |
全南 済州 |
1919.6.11 |
|
船舶司遼河丸.伏木港 |
1945.10.25 |
高山錫 |
全南 光山 |
|
|
船舶司遼河丸.伏木港 |
1945.10.25 |
平本穆憲 |
全南 務安 |
|
|
船舶司遼河丸.伏木港 |
1945.10.25 |
武村正平 |
全南 務安 |
|
|
船舶司遼河丸.伏木港 |
1945.10.25 |
徳山性権 |
咸北 慶興 |
|
|
船舶司遼河丸.伏木港 |
1945.10.25 |
呉山遵道 |
全南 済州 |
1912.4.16 |
|
2鳥海丸 伏木港外 |
1945.8.6 |
大山鍾燮 |
咸南 文川 |
|
|
34野戦勤務隊・伏木 |
1944.7.27 |
金山永鳳 |
咸南 豊山 |
1924.1.2 |
1945.4 |
水上勤務72中隊伏木 |
1945.8.3 |
趙炳a |
咸南 永興 |
1924.9.19 |
1945.4 |
水上勤務73中隊伏木 |
1945.7.27 |
金原瑞 |
咸南 北青 |
1924.8.26 |
1945.4 |
水上勤務73中隊伏木 |
1945.7.27 |
金基出 |
慶南 蔚山 |
30 |
|
黒部第3発電工事 |
1940.1.9. |
権興植 |
京畿 京城 |
29 |
|
黒部第3発電工事 |
1940.1.9. |
具寿甲 |
慶南 居昌 |
28 |
|
黒部第3発電工事 |
1940.1.9. |
李伯龍 |
慶北 醴泉 |
33 |
|
黒部第3発電工事 |
1940.1.9. |
金煥奎 |
慶北 達城 |
50 |
|
黒部第3発電工事 |
1940.1.9. |
李鳳九 |
慶南 東莱 |
31 |
|
黒部第3発電工事 |
1940.1.9. |
朴三岩 |
全南 光陽 |
24 |
|
黒部第3発電工事 |
1940.1.9. |
崔柄鉄 |
忠北 □川 |
51 |
|
黒部第3発電工事 |
1940.1.9. |
金富源 |
慶北 漆谷 |
50 |
|
黒部第3発電工事 |
1940.1.9. |
河在成 |
|
|
|
黒部第3発電工事 |
1940.1.9. |
金村仙吉 |
|
|
|
黒部第3発電工事 |
1940.1.9. |
「戦時朝鮮人強制労働調査資料集1」から転載・加筆