明治産業革命遺産の展示を問う!シンポジウム報告

 

2021年5月22日、「明治産業革命遺産の展示を問う!シンポジウム」が強制動員真相究明ネットワークの主催で開催された。オンラインで100人ほどが参加した。

今回のシンポジウムは2020年に開館した産業遺産情報センターの展示を問うために開催された。産業遺産情報センターは2015年、明治産業革命遺産の世界遺産登録の際、日本政府が戦時の強制労働を認め、犠牲者を記憶するとして設置を約束したものである。しかしセンターの展示は明治期の産業化を賛美するとともに強制労働を否定するものになっている。特にゾーン3「資料室」の展示は端島(軍艦島)元島民の写真・インタビューを中心に、強制労働の存在を否定する資料が集められている。

今回のシンポジウムでは、情報センターで展示すべき戦時に動員された朝鮮人、中国人、連合軍捕虜の強制労働の実態が示された。また、産業遺産情報センターの展示と運営の問題点が明らかにされ、改善への意思を共有する場となった。以下、報告を紹介する。

●中田光信「明治産業革命遺産をめぐるこの間の経過」

シンポジウムでは最初に、強制動員真相究明ネットの中田光信さんが「明治産業革命遺産をめぐるこの間の経過 歴史をゆがめる産業遺産情報センター」の題で報告した。

中田さんは、明治産業革命遺産の概要、日本政府による登録時の約束、ユネスコ世界遺産委員会の勧告内容、日本政府による約束・勧告の反故の経過、産業遺産情報センター展示の問題点などを話した。

日本政府は登録時に強制労働を認め、犠牲者を記憶にとどめる情報センターの約束をした。また、世界遺産委員会は、歴史全体を示すとともに、関係者との対話をすすめることを勧告した。しかし日本政府は表面的にはその約束と勧告を実行する姿勢を示しながら、実際には、自国中心の産業遺産賛美の展示をすすめ、強制労働を否定する資料を集めた。

日本政府のユネスコへの報告書には、産業遺産情報センターで徴用政策や労働について展示されているかのように記しているが、センターの展示には端島などでの強制動員被害者の写真や証言はない。展示を委託された産業遺産国民会議によるセンターでの展示は、端島元住民の証言を恣意的に編集したものであり、強制労働を否定する内容になっている。

端島にいた在日韓国人(1939年当時6歳)の証言もある。その証言は、朝鮮人が奴隷労働させられ、鞭うたれているのを見たかなどと問い、「そんな話は聞いたことがない」と答えさせ、端島では「朝鮮人差別はなかった」とまとめるものである。恣意的な編集である。また、センターにはセンターの案内パンフレットではなく、「真実の端島の歴史を追求する会」の端島での強制労働を否定する2冊の冊子があった(2021年2月)。

このようなセンターの運営と展示に対して、真相究明ネットワークは展示の改善と国民会議への運営委託の中止を求める要請書を出した。

●   金丞垠「韓国の被害者証言について」 

続いて、韓国民族問題研究所の金丞垠さんが「韓国の被害者証言について 新しい声、再確認された事実」の題で、韓国での動員被害者の証言収集の活動を報告した。

民族問題研究所は日帝強制動員被害者支援財団の要請を受け、日帝強制動員被害者証言収集事業をおこなっている(2020.11~2021.6)。韓国政府が約4万3700人の強制動員被害生存者への支援を始めて10数年が経つが、生存者は2400人ほどに急減した。証言収集では24人の聞き取りを行った。明治産業遺産関係では高島炭鉱1人、三井三池炭鉱3人がいる。

証言収集作業から動員の特徴をみれば、動員された人は、親がいない人や農家の住み込み人、貧農層が多い。面長や区長、警察に目をつけられて動員されている。訓練に行く、工場に送る、楽な仕事で食物に困らないなど、詐欺や虚言によって動員された。他人や家族の身代わりに動員され、無念な思いを繰り返して話す人もいた。戦争末期、植民地支配での差別と貧困が動員に応じる契機となっていた。

労働状態をみれば、無学であり、日本語での意思疎通ができない場合が多く、動員場所以外の周辺の環境や位置に関する記憶がないケースが多い。作業工程の記憶はあるが、全体の工程に関する理解は薄い。日本人と警察の命令は無条件で服従させられたという。抵抗や逃亡は考えられなかった。自由がなかった、閉じ込められていたという記憶が強い。炭坑での事故死者についての記憶はあるが、その死者の処理については知らない。空襲の記憶はあるが、日時を特定できないものが多い。学ぶ機会を奪われ、解放後、日雇労働などで生活した者が多い。年数が経ち、補償については諦めざるをえない感情を持つ。

明治産業遺産関連での証言をみておこう。

孫龍岩さんは1943年に江原道からサハリンの炭鉱に動員され、さらに高島炭鉱に動員された。高島では採炭とエアパイプの管理をした。逃亡は困難だった。預金され、帰るときに渡すとされ、小遣い程度の月給をもらった。すぐにくれといえる状況ではなかった。早く家に送り返されることを願う日々だった。

柳、孫、李の3人は三池に動員された。柳さんは忠南公州から三池炭鉱の採炭現場に、孫さんと李さんは製錬所に配置された。採炭現場には忠南公州、黄海、京畿水原からの動員者各100人がいた。製錬所では憲兵出身の隊長が宿舎を監視し、取締りが逃亡者を探した。ただ閉じ込められて働くという身だった。給料を家に送ったと言われたが、帰国後家族に聞くと送られていなかった。

韓国の真相糾明委員会は膨大な資料を残した。これらの被害者の記録が公開され、利用される必要がある。明治産業革命遺産関係地に動員された人々の資料から公開を求めていきたい。

●新海智弘「長崎の中国人強制動員について」

長崎の中国人強制連行裁判を支援する会の新海智広さんは「長崎の中国人強制動員について」の題で、長崎県での中国人強制連行の調査、長崎での強制連行裁判の経過、連行された中国人の証言、産業遺産国民会議による証言収集の問題点などを話した。

中国人強制連行は1942年11月の東條内閣による閣議決定から始まるが、44年2月の次官会議決定「華人労務者内地移入ノ促進ニ関スル件」により、本格化した。小磯内閣による44年8月の閣議決定「国民動員実施計画策定に関する件」には朝鮮人の内地移入とともに華人労務者の本格的移入についても記されている。それは中国人が国民動員計画に組み込まれていったことを示す。

1943年から44年にかけての日本への中国人連行数は3万8935人、うち6,830人が死亡した。長崎県では高島・端島・崎戸・鹿町の炭鉱へと計1042人が連行され、115人が死亡した。明治産業遺産関係では、高島炭鉱に44年7月に205人、同年8月に端島炭鉱に204人が連行された。ともに死亡者は15人である。

長崎県では1992年に平和公園の地下駐車場工事現場から浦上刑務支所の遺構が出土した。それにより原爆死した朝鮮人、中国人の問題が再燃した。市民団体による中国での連行者・遺族探しが繰り返され、被害者による長崎三島中国労工受害者聯誼会が結成された。被害者は三菱に対して謝罪と賠償を求めたが、三菱は拒否した。そのため2003年に長崎地裁に提訴した。

裁判では、身柄を拘束された強制的な連行であり、暴力により強制労働がなされたこと、その不法性が認定された。端島炭鉱をみれば、暴力による監督であり、休息や会話は著しく制限され、暴力が多数の者に対してかなりの頻度でふるわれ、安全面での配慮も十分でなかった、衣類も日本への船上で支給された後は褌程度しか支給されず、坑内で、褌一つ程度で稼働することになったと被害が認定されている。裁判では事実関係とその不法性は認定されたが、除斥を理由に原告側が「敗訴」した。しかし、その後の被害者の追及により、三菱マテリアル(三菱鉱業の継承会社)は和解に応じ、強制連行・強制労働を認知し、和解金を支払うことになった。

日本の裁判所も三菱マテリアルも、高島と端島での強制労働を認めているのである。しかし、産業遺産国民会議は元端島住民の証言を編集して、「端島は地獄島ではない」と宣伝する。中国人の証言については、その一部を取り上げて、間違いと指摘する。だが、国民会議が証言者として利用する元端島住民は、中国人と労働してはいない。産業遺産情報センターの展示には、中国人強制労働被害については何もない。

端島に連行された李慶雲さんの証言では、王玉蘭は日本人監督にケージに乗った時に蹴飛ばされて墜落死したという。事業場報告書には墜落死の原因を本人の居眠りによるものと記されている。李さんによれば、坑内ガス漏れ事故で2人の中国人が死亡したため、抗議しストライキを起こした。それに対して警察は暴行を加えた。事業場報告書には中国人への暴行の記事はない。李さんの首筋にはその際の傷跡がある。李さんの証言には信ぴょう性がある。情報センターはこのような被害者の証言を示すべきである。

 

●笹本妙子「九州における連合軍捕虜の強制動員について」

POW研究会の笹本妙子さんは「九州における連合軍捕虜の強制動員について」の題で、日本への連合軍捕虜の連行と配置の状況、連合軍捕虜の日鉄八幡製鉄所、三菱長崎造船所、三井三池炭鉱での強制労働の実態を報告した。

日本軍は連合軍捕虜のうち約3万6000人を日本国内に移送し、国内の捕虜収容所は約130か所に及んだ。日本の敗戦までに3500人が死亡した。九州では23か所に連行され、そのうち炭鉱は12か所だった。終戦時の九州での収容人員は1万411人、収容中の死者は1204人だった(死亡率10.3%)。

八幡製鉄所の捕虜を収容した福岡俘虜収容所第3分所は、当初、八幡市仲町の有営館という労働者住宅に置かれ、2階に捕虜が居住した。後、捕虜は小倉市中井に移動したが、有営館には朝鮮人が住んだ。小倉の収容所は10棟あり、1棟に150人が住んだ。4メートルの板塀で囲まれていた。動員された捕虜の数は1300人以上だった。そのうち死者は158人で、国内最多である。

1日8時間労働とされたが、実際には9から10時間の労働だった。賃金は企業から軍に対して捕虜一人1日1円が支払われたが、実際の受け取り分は兵卒10銭、下士官15銭、准尉25銭であった。残りは給養費とされ、国庫に納付された(各地の収容所も同じ)。食糧不足で栄養失調になり、病気になるものが多かった。食べ物を盗むと殴る蹴るの暴行を受けた。

三菱長崎造船所は、三菱重工幸町工場の敷地内に福岡第14分所を開設させ、捕虜を動員した。ジャワのオランダ捕虜300人、長崎沖での沈没船の捕虜200人などが収容された。その後、戦況の悪化により仕事量が減ったため、200人が筑豊に移動し、一部が幸町工場で働いた。原爆により収容所は全壊し、8人が死亡、30から50人が負傷した。生き残った者は小ヶ倉寮に移動した。終戦時の捕虜数は195人、死亡者は113人である。

収容所から造船所まで徒歩で行いて行った。1日8時間労働とされたが、証言では、10から12時間の労働だった。クレーンで釣り上げた鋳型が落下し、直撃を受けて死んだ者もいた。海軍の衛兵や工員による暴力があったが、死に至るほどの虐待はなかった。死者数の多くがグループ肺炎によるものであり、90人以上が死亡した。

オランダの捕虜遺族を中心に追悼碑の建立計画が出され、平和公園の一角に追悼碑が2021年5月4日に完成した。遺族らは三菱重工に協力を求めたが、三菱は手紙の受け取りも拒否した。

三井三池炭鉱に動員された連合軍捕虜の終戦時の収容人員は、フィリピンのアメリカ兵、インドネシアのオランダ兵など1730人であり、死者は138人である。三池炭鉱は国内最大の連合軍捕虜の動員現場である。捕虜は炭鉱と亜鉛製錬工場で使役された。労働時間は12時間、休日は10日に一日だった。収容所は33棟あった。食糧不足のために体重が減った。

捕虜の証言では、日本人監督が火薬の導火線やシャベルで殴打した。坑内の湧き水、重い木材の運搬、低い天井で腰をかがめての労働は苦役だった。生き埋めになり足を切断した者もいた。罰で極寒の中、裸足のまま立たされたため凍傷になり、足指が抜け落ち、壊疽が広がり、膝から下を切断した者もいた。過酷な仕事から逃れるために自ら体の骨を折る者もいた。

営倉内での餓死、刺殺による処刑があり、戦争犯罪が問われ、所長ら4人が絞首刑となった。

元捕虜たちは日本政府と企業に謝罪と賠償を訴えたが、棄却された。三井三池炭鉱に連行され、訴訟も起こしてきたレスター・テニーが2007年に元捕虜団体ADBCの会長となった。翌年、駐米大使がADBCの年次大会で公式に謝罪し、元捕虜を日本に招待することを約束した。和解事業として、2010年からアメリカとオーストラリアの捕虜を招待する事業が始まった。

●全鎮晟「産業遺産情報センターの問題点と対応方案」

ユネスコ韓国委員会の全鎮晟さんは「産業遺産情報センターの問題点と対応方案」の題で、明治産業革命遺産の問題点、守られない日本の約束、産業遺産情報センターの運営と展示の問題点、今後の対応について話した。

明治産業革命遺産は登録以前から、産業遺産の核心的要素である労働者に対する説明・記録の欠落、廃墟状態の場所の登録、産業誕生期の明治に限定してそれ以降を意図的に加えない歴史観、機械施設の原型を検証せずに稼働産業施設を候補としたこと、松下村塾など明治産業革命とは無関係の施設を候補とすることなどが問題とされた。また、戦時に強制動員や人権侵害がなされた場所も含まれていた。

2015年の世界遺産登録にあたり、ユネスコ世界委員会は歴史全体を理解できる解釈戦略を立てるように勧告し、登録の際に日本政府代表は、朝鮮人などを意思に反して動員し、過酷な条件の下で労働させたとし、情報センターなどで犠牲者を記憶にとどめる措置をとるとした。しかし、日本政府による履行状況を示す2017年の保全状況報告書では、「労働を強いた」が「産業を支えた」とされ、「犠牲者を記憶」の場が「産業遺産の保存・啓蒙」の場とされた。日本代表の発言とはかけ離れた内容に変えられていった。

この中で産業遺産情報センターが2020年に開設された。そこでは、明治産業革命遺産の概要とともに、戦時の強制労働や民族差別を否定する資料や証言が展示されている。そのような強制労働否定の展示は登録時の約束を守らないものであり、歴史的事実を意図的に歪曲するものである。強制労働被害者の証言での間違いは指摘するが、展示には盛り込まないという点は意図的偏向である。

世界遺産委員会に対しては、以下を指摘する必要がある。産業遺産情報センターなどの日本による情報は、意図的偏向性によるものである。歴史全体を示すという第39回世界遺産委員会の勧告に反し、日本が約束した事がらは履行されていない。第42回世界遺産委員会(2018年)が勧告した関係当事者間の対話はなされずに進行しているから、誠実な対話が必要である。産業遺産情報センターでは、観覧者数や写真撮影の制限がなされ、統制された観覧方法で運営されている。それは世界遺産への自由なアクセス権を保障するものではなく、自由にアクセスできることをすすめるユネスコの精神にも反するものである。

明治産業革命遺産の説明で示されるべき内容を体系的に整理する必要がある。強制労働の問題は韓国だけでなく、中国や連合軍捕虜を含む複数の間での問題である。強制労働の本質を伝える歴史資料や被害者の証言を収集し、後世に伝える作業が求められる。良質な情報を様々なチャンネルで伝え、交流連帯を強め、広報する必要がある。

以上の問題提起をふまえ、真相究明ネットの竹内康人、庵逧由香、民族問題研究所の金英丸が、討論者として意見を述べ、シンポジウムは終了した。

●「産業遺産情報センターの改善にむけて」(竹内討論文)

産業遺産情報センターには安倍・菅政権の過去の戦争を肯定する歴史認識が反映されている。それは過去を正当化し、侵略や植民地支配を認知しようとしないものであり、強制労働も認めないものである。明治産業遺産の世界遺産登録は首相案件とされ、官邸主導でなされた。政府官邸から産業遺産国民会議へと産業遺産に関する調査や委託の予算が計上され、明治賛美と強制労働否定の宣伝が産業遺産情報センターで展示されるようになった。

遺産登録の過程で明治産業革命遺産の保全委員会とその下にワーキンググループが組織されたが、ワーキンググループの座長は加藤康子と規定され、産業遺産国民会議に助言を受けることも規定されている。産業遺産情報センターはそのような枠組みの中で設立された。情報センターの展示では、2015年世界遺産登録時、強制労働を認めてその犠牲者を記憶するとした日本政府の国際約束に反する展示がなされている。

情報センターでは、報道関係や見学者を監視し、写真撮影を制限する。センターの展示内容や運営方法に関する情報公開請求ではセンターに関する内容の多くが不開示である。加藤康子センター長は「Hanada」誌にセンターに批判的な報道をする記者の個人情報などを書いている。強制労働を指摘する報道や発言を「韓国のプロパガンダ」「反日」「活動家」「無実の島民を加害者扱い」「センターの展示戦略や端島元島民の声を棄損」「国益を損なう偏向番組」と批判してやまない。センター長として知りえた情報を国民会議専務理事と名で記しているが、公私が混同されている。それはセンターの私物化を示すものとみることもできる。

情報センターの展示をみれば、明治期の産業化、資本形成を賛美するものであり、労働や国際関係については十分に記されない。歴史全体は示されていない。端島元住民の証言は恣意的に編集されている。その展示には端島は仲良しのコミュニティであり、強制労働はないという見方が反映されている。強制労働を否定するための展示構成である。八幡製鉄所、三池炭鉱では戦時に朝鮮人・中国人・連合軍捕虜、長崎造船所では朝鮮人・連合軍捕虜、高島炭鉱(高島、端島)では、朝鮮人、中国人の強制労働がなされた。被害者の証言も残されているが、センターには展示されていない。

センターの展示では、昭和の大東亜共栄、内鮮一体、労資一体、産業報国など、戦争をすすめた考え方への反省が感じられない。

このような情報センターの展示は改善されなければならない。まず、明治賛美の物語を変えることである。萩の城下町や吉田松陰を産業化の起点とする物語には無理がある。日本の近代化と産業革命は戦争と一体のものであり、多くの労働者が必要であった。産業遺産では資本、労働、国際関係の多面的な視点が必要であり、明治期で区切ることができない。端島の元住民の多くは、戦時中は子どもであり、その証言だけでは、戦時期の動員状況は説明できない。さまざまな証言を展示すべきであり、とくに動員被害者の証言が大切である。

ユネスコの理念は平和の砦を人々の心に作るというものであり、世界遺産を学ぶことによって市民間の知的精神的な連帯の形成が求められる。情報センター関係者は、自国中心的で不寛容な姿勢を改め、強制労働の歴史を否定するという誤った宣伝を中止すべきである。人類共同の遺産とするには、多様な視点が提示され、歴史全体が示されねばならない。強制労働についても被害者の証言や資料が展示され、犠牲者を記憶し追悼する場とされるべきである。そうすることで国際的で普遍性のある共同の場となる。世界遺産の現場を対立の場ではなく、共同の場とすべきである。         〔竹内〕