韓国・仁川陸軍造兵廠地下工場

 

 日本陸軍は兵器生産のための工場を持っていたが、そこは製造所や工廠などと呼ばれた。陸軍造兵廠の設立は1923年のことであるが、各地の陸軍の工場は1940年に陸軍造兵廠に統合された。それにより、陸軍造兵廠は東京第一、東京第二、相模、名古屋、大阪、小倉、南満州、仁川などに置かれることになった。東京第二陸軍造兵廠をみれば、火薬製造所(火工廠)が再編されたものであり、工場は東京の板橋、多摩だけでなく、深谷(埼玉)、曽根(福岡)、宇治(京都)、岩鼻(群馬)、忠海(広島)、香里(大阪)、荒尾(熊本)などにもあった。

 朝鮮での新たな陸軍造兵廠の設立は1939年に決定され、仁川近くの富平地区に建設された。これが仁川陸軍造兵廠であり、小銃、機関銃、銃剣、軍刀などの生産が計画された。開廠は19415月のことである。近くには三菱製鋼の工場も建設された。1945年に入ると東京第一陸軍造兵廠の実包(鉄薬莢)部門の仁川への地下施設での移設が計画された。そのため仁川造兵廠の周辺の山々に地下壕が建設された。

仁川陸軍造兵廠には朝鮮半島各地から朝鮮人が強制動員された。仁川陸軍造兵廠の留守名簿や臨時軍人軍属届からは1万人ほどの動員を知ることができる。さらに地下工場や道路、鉄道、水道、宿舎の建設工事のために4000人の朝鮮人が動員されとみられる。陸軍の平壌の兵器製造所も仁川造兵廠の傘下とされた。

 解放後、アメリカ軍は富平にアダムス、タイラー、ハリソン、マーケット、グラントなどの7つのキャンプが置いたが、仁川造兵廠の跡地はキャンプマーケットになった。その後の基地再編により、富平の基地の多くが1973年に返還され、2019年にはキャンプマーケットの約半分が返還された。返還された米軍基地の跡地には仁川造兵廠の銃床工場、研磨工場、鋳物工場などの施設が残り、戦争遺跡としての保存が課題となっている。周辺の地下壕は27か所が発見され、一部は見学が可能である。三菱製鋼の工場跡地は富平公園となり、平和の少女像(2016年)や徴用労働者像(2017年)が設置されている。三菱の労務者社宅の一部が残っている。

 202465日、富平文化院の案内で仁川陸軍造兵廠の地下工場跡を歩いた。発見された地下壕はABCD地区に分類されているが、弾丸や実包の製造が計画された咸鳳山山麓のC地区をみた。C地区の横側は現在も軍事基地である。地下壕のC6が公開されている。壕の奥には発破用の穴が数か所残っていた。陸軍造兵廠の疎開工事であり、発破などの掘削工事を陸軍の工作部隊あるいは土木業者が担い、動員された学生たちが土砂の搬出作業をおこなったとみられる。削岩機のロッドとみられる棒が穴に刺さったまま残っていた。壕の発見により、動員された学生の証言が得られたという。

仁川陸軍造兵廠に動員された朝鮮人の証言が李商衣解題『日帝の強制動員と仁川陸軍造兵廠の人々』にまとめられている。李商衣「旧日本陸軍仁川造兵廠の今-強制動員と抵抗の象徴-」によれば、兵器製造を学び独立運動に利用しようとして検挙された事例もあるという。

  

参考文献

李商衣解題『日帝の強制動員と仁川陸軍造兵廠の人々』国史編纂委員会2019年(「玄善允・在日・済州・人々・自転車・暮らしと物語」のウェブサイトに訳)

李商衣「強制動員と抵抗の象徴,日本陸軍仁川造兵廠」『仁川歴史通信』2021年(同サイトに訳)

曺健「日帝末期 仁川陸軍造兵廠の地下化と強制動員被害」『韓国近現代史研究』982021

許光茂「アジア太平洋戦争期の仁川陸軍造兵廠について」『在日朝鮮人史研究・日韓合同研究会、資料集』2022

「富平地下壕」富平文化院