全羅南道・強制動員調査報告2                 2024年6月7日光州

強制動員朝鮮人の南洋ミリ環礁チルボン島での抵抗と虐殺

                                                      

今日の報告は、南洋のミリ環礁に強制動員された朝鮮人が1945年3月にチルボン島で起こした日本軍への抵抗の闘いとそれに対する虐殺に関するものです。(当時日本軍はミレ島と呼称していましたが、ここではミリ環礁と表記します。)

ミリ環礁は南洋東南のマーシャル諸島のなかにある大小100ほどの島々です。位置をみるとハワイとニューギニアの中間点になります。ミリ環礁の先住の島人は500人ほどでした。マーシャル諸島には他に、マジュロ、ウオッジェ、アルノ、クェゼリン、アイリングラップなどの環礁があります。

1 先行研究、史料、証言

①    先行研究

はじめにミリ環礁への強制動員の先行研究からみます。

調査報告としては、尹ジョンイル・金銀植「太平洋戦争末期、マーシャル諸島の日本軍の現況と朝鮮人軍属の実態 ミリ島朝鮮人虐殺事件を中心に」 (民族問題研究所2007年)があります。これは韓国の強制動員被害真相糾明委員会による研究委託報告書です。この報告書ではミリ島事件での証言や資料などが整理され、日本の海軍軍属身上調査表の分析を課題としてあげています。

この報告をふまえ、真相糾明委員会の後継団体である強制動員調査支援委員会は曺健「南洋群島ミリ環礁で虐殺された強制動員朝鮮人に関する真相調査」(2011年)作成しました。この調査報告は海軍軍属身上調査表を分析し、抵抗闘争の実態をとらえたものです。この調査に米軍の資料の分析を加えたものに、曺健「アジア太平洋戦争末期ミリ環礁動員朝鮮人の抵抗と被害」(崇実史学47、2021年)があります。

②    日本軍とアメリカ軍の史料

 次に日本軍とアメリカ軍の史料をみてみましょう。

「被徴用死亡者連名簿」は日本軍の史料から作成された名簿です。これは日本軍に軍人や軍属で動員され死亡した朝鮮人の名簿です。日本政府から1973年に韓国政府に渡された名簿を韓国の財務部が「被徴用死亡者連名簿」の名で出しました。この名簿には氏名、本籍、階級、死亡場所、死因、連絡先などが記されています。ミリ環礁に動員され死亡した人々のほとんどが全羅南道の出身です。もうひとつ、「旧海軍軍属身上調査票」(海軍軍属履歴原表)があります。これは1993年に日本政府から韓国政府に渡された個票です。南方に動員された第4施設部と芝浦補給部の綴にミリ環礁に動員された朝鮮人の個票が入っています。

アメリカ軍の資料には「俘虜名票」があります。これはアメリカ軍が捕虜とした際に作成した個表です。ミリ環礁から逃亡した朝鮮人をアメリカ軍か救出した際に撮影された写真(1945年3月)も残されています。そこには「Part of the 68 Koreans, being Rescued by a Navy LCI」(米海軍上陸用舟艇に救助される68人の朝鮮人の一部)などと記されています。これらの写真はアメリカ国立公文書館にあり、韓国国史編纂委員会ウェブサイトで閲覧できます。

アメリカ軍はハワイに捕虜収容所を設置し、ミリをはじめ南洋などで捕虜になった朝鮮人を集めました。帰国に際して作成された名簿が「自由韓人報」(第7号付録1945年12月)の形で残されています。

③    動員された朝鮮人の証言

ミリ環礁に動員された朝鮮人やその遺族の証言も残されています。

 1990年代に入ると、動員被害者が日本で裁判を起こすようになりましたが、「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求裁判」(1991年12月提訴)の訴状には、文炳煥(長興郡長平面出身)、朴鍾元(光山郡河南面出身、動員時、潭陽郡大田面居住)、高在龍(光山郡大村面出身、原告は子の高允錫)の証言があります。朴鍾元はチルボン島抵抗闘争の生存者です。高在龍はチルボン島で抵抗に参加し、自死を強いられています。ハンギョレ新聞は朴鍾元の証言を掲載しました(1991年12月3日記事)。

ミリ環礁に連行された李仁申(長興郡出身、東森仁州)は逃亡に成功しましたが、体験は「日帝強制連行 太平洋戦争 マーシャル諸島ミリ島受難記」の形でまとめています。「東亜日報」(1990年11月3日)に体験記の紹介があります。のちに『南方紀行』(韓国・強制動員真相糾明委員会2008年)に収録されました。

光州千人訴訟の資料(1992年)には、張□変(原告は子・張鋿玉)、姜永培(海南郡花源面出身、44年12月死亡、原告は子・姜明得)、高炫栄(死亡、原告は妹・高炫淑)、曺萬基(死亡、原告は子・曺尚鉉)など記載があります。

軍人軍属裁判の陳述資料(2001年6月提訴)には次のような記録があります。羅鍾徳は羅州郡文平面出身で44年2月に戦病死しました(原告は弟・羅日完)。李鳳宰も羅州郡文平面出身、44年12月に戦死しました(原告は子・李鍾運)。李春宰も羅州郡文平面出身で45年7月に戦死しました(原告は甥・李鍾碩)。姜聖圭は求礼郡光義面出身で44年5月に戦死しました(原告は子・姜学東)。鄭大植は谷城郡兼面出身、1945年5月戦死しました(6月戦死の記事もあります、原告は孫・鄭炳鮮)。

韓国・強制動員真相糾明委員会による「ハワイ収容所での韓人捕虜に関する調査」(2008年)の付録には、ハワイ収容者から、尹聲鉉(木村聲鉉、康津郡道岩面出身)現地逃亡、尹項鉉(伊村象鉉、康津郡道岩面出身)、趙沃濟(巴山忠一(推定)、高興郡南陽面出身)現地逃亡、姜信鍾(石本信鍾、谷城郡三岐面出身)現地逃亡、45.6捕虜、呂河鉉(咸呂河鉉、谷城郡火面出身)現地逃亡、45.5捕虜など異動状況が記されています。

鄭吉采(霊岩郡金井面出身)は1991年に来日し、日本人と朝鮮人が闘争し、日本軍が機関銃で射殺したこと、そこで生き残ったことを証言しています(朝日新聞1991年8月18日記事)。

④    日本人兵士の証言                     

精神科医であり、作家でもあった式場隆三郎は『地獄島 兵士の敗戦記録』(文苑社1946年)という小冊子を記しています。この本はミリ環礁などでアメリカ軍の捕虜となった兵士から送られてきた手記をまとめたものです。そこに収録された「ミレー島日記」には、1945年3月にゼルボン(チルボン)島分遣隊の朝鮮人暴動とその失敗により130人が自殺、処刑されたという記事があり、チャパノール島、バル島にいた朝鮮人70人にも逃亡の気配があり、銃殺されたという記事があります(13頁)。ミリ環礁での朝鮮人の抵抗は1946年の段階で知らされていたのです。

『証言記録 兵士たちの戦争 飢餓の島 味方同士の戦場~金沢 歩兵第107連隊~』(2009年11月9日、NHKアーカイブス)には、駒井藤吉、小川力松、常山多喜雄、中蔵信らの証言があります。そこでは飢餓の中での日本兵同士の殺し合い、上官の殺人、餓死と人肉食などが証言されています。これらの証言は飢餓のなかで朝鮮人軍属が殺害対象となっていった状況をうかがい知ることができるものです。

 2 1945年3月ミリ環礁での抵抗と虐殺

 では次に、韓国委員会調査をふまえ、1945年3月のミリ環礁での朝鮮人の抵抗と虐殺についてみてみましょう。

①   ミリ環礁への朝鮮人の強制動員 

ミリ環礁は日本軍の最前線に位置し、日本軍はミリ環礁最大のミリ島に3つの滑走路をもつ飛行場を建設しました。さらに砲台、宿舎、弾薬庫、格納庫、通信所、地下壕の建設を行いました。日本軍はその建設労働力として朝鮮人を徴用したのです。第4施設部の「工員」として配置され、身分は日本軍の軍属です。朝鮮人は日本軍に徴用された労働者であったわけです。

1942年3月、全羅南道から2400人が海軍第4海軍施設部の工員として出発、1600人は他の島に下船し、4月初めに800人がミリ島に到着しました。ミリでの第4施設部の日本人工員は約80人です。出身地別に40人で1班とされ、5つの班で団が編成されました。200人で一つの団になりますから、全南出身者は4つの団に編成されたとみられます。ミリには約1か月前に忠南からの動員者がおり、飛行場建設がひと段落すると帰郷したといいます。

ミリ環礁での日本軍の概要をみれば、海軍は第66警備隊など約1400人、陸軍は歩兵第122連隊、107連隊、山砲兵第16連隊、工兵第52連隊など約2500人が配置されました。1944年1月の数字をみれば、約3600人の兵員です。これに朝鮮人軍属が800人(忠南出身者を入れれば1000人)、島民は約500人がいました。島の総人員は5000人ほどになります。

この状況で日本軍の補給が途絶えたわけです。わずかに1944年の3月と6月に潜水艦による補給がありましたが、その補給はわずかなものであり、日本軍は「現地自活」を強いられました。米軍は上陸せずに空襲を繰り返しました。米軍の主な空襲には43年11月、44年1月、2月、8月などがありました。

②   ミリ・チルボン島での朝鮮人軍属の抵抗闘争

日本軍は食糧難のためにミリ環礁の島々へと分散配置をおこないました。チルボン島へは日本人11人、朝鮮人約180人の1団が分散させられました。

朴鍾元の証言によれば、1945年に入り、朝鮮人軍属が日本兵に殺害され、その肉が「クジラ肉」として朝鮮人軍属に出されたといいます。殺された朝鮮人軍属を朝鮮人が発見し、朝鮮人は抵抗しての脱出を計画しました。計画は実行され、日本人7人を殺害したのですが、他は逃走しました。翌日、5~6キロメートル横のルクノール島から日本軍が襲来しま

した。機関銃の攻撃により銃殺され、追い込まれて自死を強いられた者もいました。この混乱の中で脱出に成功した人々もいました。

 朴鍾元の証言では抵抗開始日は1945年の2月28日、3月1日の前日です。日本軍の身上表での記録では3月18日に「反乱」での「銃殺」、「自決」などと記録され、「戦死」ではなく「死亡」という形で処理されています。米軍の記録での救出日は3月18日とされています。写真記録には、193人の朝鮮人のうち68人を救出、朝鮮人が日本人の奴隷、奴隷労働に対し反乱を起こしたと記されています。英文を示せば、revolted against Japanese slavery」「68survivors of original 193 Korean slave labors who revolted against Japanese.」です。

 このような記述から朝鮮人の抵抗闘争は1945年3月17日の夜に始まり、弾圧が3月18日から行われたとみていいでしょう。

米軍が救出した際に撮影した写真があります。写真には、逃げてくる所、救出ボートへの乗船、軍艦への乗船、裸体で詰め込まれた状態、衣服の支給状況などがあります。写真を見ると10代後半のような顔立ちの若者もいます。

③   ミリ環礁朝鮮人抵抗事件調査の現状と課題

旧強制動員委員会調査では旧海軍軍属身上調査表からミリ関連で約650件の動員者を確認しています。この海軍軍属身上調査表では帰還者は433人、死亡者は215人(1942~1945年) とされています。旧委員会による被害者認定は315件ほどといいます。

身上調査表には、海軍技術大尉中川清人の情報として麻田技手を隊長日本人14人、半島工員184人が分散していたが、45年3月18日に逃亡を目的とした反乱を起こした。討伐隊による銃殺がなされ、第4艦隊は反乱罪として処理したと記されています。

旧委員会の身上調査表調査では、この事件での生存が95人、死亡が55人(銃殺32人、自決23人)であり、抵抗者数は150人となります。この死亡55人の郡別内訳は、全南の潭陽25人、光陽7,高興5、順天4、光山4、和順3、宝城3、光州2、務安1、羅州1などとなります。先にみたように米軍による朝鮮人脱出の写真記録では、ミリ環礁で日本軍の奴隷状態から反乱を起こし、193人の朝鮮人奴隷労働者のうち、生存が68人と記載されています。

 身上調査表では生存とされていても実際には死亡している者がいるのかもしれません。ミリ関係の650人ほどの身上調査表の収集とその分析が求められます。

死亡状況から1945年3月にミリ環礁で全南潭陽郡の強制動員者を中心とする抗日闘争が起き、弾圧を受けたものの、60人以上が脱出に成功した。少なくとも55人が殺害されたということができます。

植民地支配下、民族性を奪って強制的に集団動員が行われました。南洋のミリ環礁へは1942年3月に連行されています。戦争の最前線の南洋へと労働力として配置しました。そこで餓死直前に追い込まれました。人間の肉食を強制されました。逃げると銃殺され、抵抗による脱出行為は「反乱罪」とみなされ、銃殺や自死を強いられました。その歴史は隠蔽され、責任は取られていません。実態は知られないまま、80年が過ぎようとしています。

課題をあげれば、まず第1に、真相究明が求められます。資料収集が必要ですし、動員実態の調査が求められます。少なくとも創氏改名されたままの名前の本名を明らかにしたい。第2に名誉回復が求められます。45年3月の事件は、奴隷状態からの解放を求めた抵抗闘争であり、その参加者の名誉の回復が求められます。日本軍による動員と飢餓の下での虐殺であり、真相究明とともに謝罪と賠償も必要でしょう。そして第3に追悼し、祈念する活動が必要で考えます。

この事件ついては日帝強制動員市民の会の会員の間でも十分に知られていません。旧委員会は調査報告書を出してはいます。しかし全羅南道での動員被害の実態について地域の人々に十分に示してはいません。今回は日帝強制動員市民の会がこの事件について話す集いを設定し、報道関係者にもこの事件について話す機会を設定しました。記者の皆さんもこの事件の調査を進めてほしく思います。

今回、現地調査のために「ミリ環礁・強制動員死亡者名簿」(218人)を作成しました。この名簿は主に「被徴用死亡者連名簿」(全羅南道、海軍分)から作成しました。旧強制動員委員会の調査報告では45年3月の抵抗事件の死者55人が示されています。しかし、示されたのは氏名の姓の一部と郡名だけでした。それでは現地調査の資料としては不十分です。ここでは、今後の調査のためにミリ動員者の死亡者218人(1942~1945年)の氏名、住所を示します。表の死亡欄での●は3・18抵抗での銃殺、▲はその際の自死を示します。これは判明分です。

死亡者が3人以上の面は集団動員があった場所とみられます。それは以下の場所です。現地調査が進むことを希望します。

潭陽郡潭陽邑、鳳山面、金城面、昌平面、古西面、水北面、大田面、

寶城郡福内面、会泉面、文徳面、務安郡押海面、安佐面、康津郡郡東面、道岩面、

長興郡長興邑、安良面、冠山面、光山郡孝池面、大村面、

順天郡順天邑、双岩面、住岩面、上沙面、楽安面、求礼郡光義面、山東面、

和順郡北面、二西面、同福面、羅州郡文平面、霊岩郡金井面、

高興郡南陽面、光陽郡多鴨面、玉谷面、津月面、谷城郡三岐面、兼面、梧山面、

3 資料 ミリ環礁・強制動員死亡者名簿

 ミリ環礁・強制動員死亡者名簿(第4施設部所属 「被徴用死亡者連名簿」から作成)

「海軍軍属身上調査表」での銃殺●、自死▲

整理番号 

資料名簿番号

 氏 名

生年

死亡年月日

死亡区分

 本籍地

1

143

晋山永培(姜永培)

1917

1944.12.14

戦死

海南郡(以下略)

2

160

大林南錫

1913

1945.05.18

死亡

海南郡

3

177

李村康淳

1923

1944.03.19

戦死

海南郡

4

336

菊本東華

1915

1944.12.14

戦死

潭陽郡

5

337

延金思(忠)烈

1917

1945.03.18

死亡●

潭陽郡

6

338

金島溶浚

1919

1945.03.18

死亡▲

潭陽郡

7

339

山本貫大

1917

1945.03.18

死亡▲

潭陽郡

8

340

金山東鉉

1917

1945.05.06

戦死

潭陽郡

9

341

大原洪南

1910

1945.04.22

戦死

潭陽郡

10

342

田本永植

1918

1945.05.01

戦死

潭陽郡

11

343

金海大善

1925

1945.04.25

戦死

潭陽郡

12

350

鞠本東錬

1915

1945.03.18

死亡▲

潭陽郡

13

356

木原啓洙

1919

1944.10.14

戦死

潭陽郡

14

357

南尹元燮

1920

1944.07.06

戦死

潭陽郡

15

358

金本基南

1924

1945.03.18

死亡●

潭陽郡

16

359

朴成玉

1918

1945.03.18

死亡●

潭陽郡

17

377

金山千洙

1906

1945.06.22

戦死

潭陽郡

18

383

朴吉鎬

1922

1945.03.18

死亡▲

潭陽郡

19

384

李在煥

1913

1945.03.18

死亡●

潭陽郡

20

385

廣村芝容

1920

1945.03.18

死亡●

潭陽郡

21

386

文仲漠

1912

1945.03.18

死亡●

潭陽郡

22

395

夏山喜圭

1900

1945.03.18

死亡▲

潭陽郡

23

396

金田丁文

1917

1945.03.18

死亡▲

潭陽郡

24

399

木村又永

1920

1945.03.02

戦死

潭陽郡

25

400

金河栄善

1916

1945.05.05

戦死

潭陽郡

26

404

吉田達煥

1910

1943.11.15

戦死

潭陽郡

27

406

柳璟鎬

1924

1945.03.18

死亡●

潭陽郡

28

410

崔本玉順

1917

1945.03.18

死亡▲

潭陽郡

29

411

海原太善

1921

1945.03.18

死亡▲

潭陽郡

30

412

周原琦豊

1920

1945.03.18

死亡▲

潭陽郡

31

422

金岩昌龍

1914

1944.08.04

戦死

潭陽郡

32

425

河相洙

1916

1945.03.18

死亡▲

潭陽郡

33

426

金山基萬(金基萬)

1923

1945.03.18

死亡▲

潭陽郡

34

427

徳山雅巳

1922

1945.03.18

死亡●

潭陽郡

35

428

金澤花変

1922

1945.03.18

死亡●

潭陽郡

36

429

宋子亨植

1924

1945.05.12

戦死

潭陽郡

37

430

金谷容一

1922

1945.05.16

戦死

潭陽郡

38

431

木村完述

1926

1945.11.10

戦死

潭陽郡

39

435

花山元童(文重)

1914

1945.03.18

死亡▲

潭陽郡

40

436

完山五奉

1920

1945.03.18

死亡▲

潭陽郡

41

437

金淳均

1917

1945.03.18

死亡▲

潭陽郡

42

438

文山春基

1923

1945.03.18

死亡●

潭陽郡

43

439

朴判洙

1908

1945.03.18

死亡●

潭陽郡

44

454

山原徳珍

1920

1945.06.21

戦死

寶城郡

45

456

廣川容徳

1922

1944.12.14

戦死

寶城郡

46

458

朴本斗月

1923

1944.11.02

戦死

寶城郡

47

460

金海浩連(活連)

1921

1945.03.18

死亡●

寶城郡

48

461

李秉宗

1903

1945.05.20

戦死

寶城郡

49

462

茂山正太

1945.07.17

戦死

寶城郡

50

463

朱本秉吉

1903

1945.02.06

戦死

寶城郡

51

464

青山点萬

1923

1945.06.21

戦死

寶城郡

52

470

李田洙石(岩)

1908

1944.10.29

戦死

寶城郡

53

471

大山鶴奉

1917

1945.03.18

死亡▲

寶城郡

54

472

木陽順善

1916

1945.03.18

死亡●

寶城郡

55

473

金炳均

1908

1945.05.20

戦死

寶城郡

56

474

木下福順

1914

1943.08.25

戦病死

寶城郡

57

477

金甲中

1908

1945.04.15

戦死

寶城郡

58

483

咸本秉善

1917

1944.11.01

戦死

寶城郡

59

484

伊東敏善

1917

1945.04.29

戦死

寶城郡

60

486

杉本桂烈

1902

1944.10.08

戦死

寶城郡

61

496

東村學祚

1903

1944.12.14

戦死

木浦府

62

503

金沢哲男(夫)

1917

1945.03.18

死亡▲

光州府

63

504

柳基春

1909

1945.01.10

戦死

光州府

64

505

李成根

1913

1945.03.18

死亡●

光州府

65

574

金田吉洙

1945.07.03

戦死

務安郡

66

592

松本栄一

1918

1945.07.05

戦死

務安郡

67

593

福山久川

1921

1945.07.05

戦死

務安郡

68

594

平川振國

1923

1945.06.25

戦死

務安郡

69

595

豊田春吉

1907

1945.07.06

戦死

務安郡

70

596

張本米蔵

1923

1945.07.05

戦死

務安郡

71

611

新本翼童

1920

1944.06.02

戦死

務安郡

72

612

金光奉鎮

1902

1945.07.08

戦死

務安郡

73

613

大山達用

1921

1945.07.05

戦死

務安郡

74

614

金本明石

1920

1945.07.08

戦死

務安郡

75

615

金本大順

1919

1945.07.05

戦死

務安郡

76

616

鄭貴変

1945.03.18

死亡●

務安郡

77

617

福川安基

1922

1945.07.06

戦死

務安郡

78

620

河本炫宋

1925

1944.04.20

戦死

長興郡

79

621

長谷川道章

1917

1945.06.21

戦死

長興郡

80

622

山城炳基

1923

1945.03.05

戦死

長興郡

81

646

白川周善

1907

1944.11.17

戦死

長興郡

82

647

文子秉春

1917

1944.11.17

戦死

長興郡

83

648

李川命龍(明龍)

1911

1944.12.14

戦死

長興郡

84

676

世田森平

1921

1942.06.17

戦病死

長興郡

85

677

文甲石

1911

1944.12.23

戦死

長興郡

86

679

金売乭

1923

1945.04.28

死亡

長興郡

87

680

金吾珠

1919

1943.07.30

戦病死

長興郡

88

712

丁炳皓

1924

1945.03.18

死亡●

光山郡

89

718

梁志石

1911

1945.03.18

死亡●

光山郡

90

723

玉川 煥

1912

1944.12.24

戦死

光山郡

91

724

木下三石

1923

1944.06.21

戦死

光山郡

92

725

裵公洙

1920

1944.03.19

戦死

光山郡

93

727

光山承良

1914

1944.09.15

戦死

光山郡

94

728

金本星南

1912

1944.12.08

戦死

光山郡

95

729

高本周治(高在龍)

1925

1945.03.18

死亡●

光山郡

96

730

柳貴仁

1912

1945.03.18

死亡▲

光山郡

97

731

高山光玉

1918

1943.11.19

戦死

光山郡

98

734

文原順植

1913

1945.12.18

戦死

光山郡

99

768

陽田鳳

1923

1945.03.18

死亡●

順天郡

100

770

吉本安武

1923

1945.06.26

戦死

順天郡

101

771

金谷行男

1921

1945.07.01

戦死

順天郡

102

775

木村錤珍

1923

1943.11.21

戦死

順天郡

103

776

金井東聚

1916

1943.11.21

戦死

順天郡

104

840

長川謙吉

1906

1943.11.15

戦死

順天郡

105

842

金本尋岩

1920

1945.06.27

戦死

順天郡

106

844

金本斗成

1919

1944.03.28

戦死

順天郡

107

845

廈金貴童

1920

1944.12.23

戦死

順天郡

108

846

松原庚同

1910

1943.11.21

戦死

順天郡

109

847

松本秀保

1920

1943.11.21

戦死

順天郡

110

848

金山學先

1908

1943.11.21

戦死

順天郡

111

850

石川浩建

1923

1943.11.21

戦死

順天郡

112

851

石川正烈

1922

1943.11.21

戦死

順天郡

113

854

玉川圭亮

1926

1945.04.25

死亡

順天郡

114

855

松山空烈

1924

1945.04.25

死亡

順天郡

115

856

吉川順烈

1923

1945.04.25

死亡

順天郡

116

857

松原仁朝

1918

1944.12.14

戦死

順天郡

117

865

山宮元孝

1917

1945.07.10

戦死

順天郡

118

866

木村玉奭

1945.03.18

死亡●

順天郡

119

870

金谷信輝

1923

1944.12.23

戦死

順天郡

120

871

神農大鎮

1919

1945.04.29

死亡

順天郡

121

872

原 福成

1922

1945.04.25

死亡

順天郡

122

891

高本振九

1921

1945.03.18

死亡▲

順天郡

123

892

朴八万

1916

1945.03.18

死亡▲

順天郡

124

893

玉川善熙

1907

1945.06.23

戦死

順天郡

125

894

金村順必

1914

1945.06.27

戦死

順天郡

126

897

平原桂根

1912

1943.11.21

戦死

順天郡

127

898

裵万基

1924

1943.11.21

戦死

順天郡

128

985

海城永桓

1923

1945.07.21

戦死

求礼郡

129

1006

神農聖圭(姜聖圭)

1914

1944.05.26

戦死

求礼郡

130

1008

金海基東

1908

1945.05.21

戦死

求礼郡

131

1009

盧参壽

1922

1945.04.28

戦死

求礼郡

132

1011

張村政源

1900

1945.07.01

戦死

求礼郡

133

1045

尚本五峰

1922

1944.05.26

戦死

求礼郡

134

1046

松田東変

1916

1944.05.16

戦死

求礼郡

135

1047

共田義逑

1921

1945.07.21

戦死

求礼郡

136

1082

松本庫基

1945.04.15

戦死

和順郡

137

1083

朴在鳳

1904

1945.03.18

死亡▲

和順郡

138

1084

戸今龍

1911

1945.02.20

戦死

和順郡

139

1096

河本正徹

1921

1945.04.12

戦死

和順郡

140

1097

鄭在均

1918

1945.03.18

死亡●

和順郡

141

1098

松本昌守

1892

1945.02.18

戦死

和順郡

142

1099

羅本奉宰

1909

1943.12.05

戦死

和順郡

143

1101

藤本太明

1921

1944.03.29

戦死

和順郡

144

1102

金基化

1906

1945.03.18

死亡▲

和順郡

145

1106

松田在根

1901

1943.12.05

戦死

和順郡

146

1232

牧野勇男

1922

1944.06.02

戦死

羅州郡

147

1233

吉村學均

1920

1945.07.08

戦死

羅州郡

148

1239

達城日柱

1924

1945.03.18

死亡▲

羅州郡

149

1249

羅本長蓮

1922

1945.06.28

戦死

羅州郡

150

1253

李鳳宰

1918

1944.12.14

戦死

羅州郡

151

1254

山田鐘徳(李鐘徳)

1923

1944.02.08

戦死

羅州郡

152

1255

金澤在日

1911

1945.04.12

戦死

羅州郡

153

1256

松村奉述

1913

1945.06.23

戦死

羅州郡

154

1257

錦湖錫柱

1914

1945.06.30

戦死

羅州郡

155

1274

國本春宰(李春宰)

1918

1945.07.15

戦死

羅州郡

156

1386

蜜川慶彬

1923

1943.11.23

戦死

霊岩郡

157

1419

金本三萬

1920

1945.06.03

戦死

霊岩郡

158

1420

津山重根

1914

1945.06.28

戦死

霊岩郡

159

1421

松原甲哲

1917

1944.06.02

戦死

霊岩郡

160

1422

武田正洙

1913

1944.06.02

戦死

霊岩郡

161

1423

海中奉洙

1924

1944.06.02

戦死

霊岩郡

162

1424

李宗于

1918

1944.06.02

戦死

霊岩郡

163

1428

清州正業

1924

1943.11.19

戦死

霊岩郡

164

1448

瑞山泰善

1919

1945.03.18

死亡▲

高興郡

165

1449

大森政田

1922

1945.03.18

死亡

高興郡

166

1450

茂山清盛

1912

1945.03.18

死亡●

高興郡

167

1451

元本萬同(用)

1913

1945.03.18

死亡●

高興郡

168

1452

新平錦童

1922

1945.03.18

死亡●

高興郡

169

1453

苞山昌良

1915

1945.03.18

死亡●

高興郡

170

1454

金本永植

1917

1945.07.07

戦死

高興郡

171

1455

木下秀雄

1918

1945.07.21

戦死

高興郡

172

1456

林茂日

1913

1945.02.18

戦死

高興郡

173

1457

根本栄治

1909

1943.03.04

戦病死

高興郡

174

1458

金用又澤

1911

1943.03.09

戦病死

高興郡

175

1507

金谷成煥

1915

1945.03.18

死亡●

光陽郡

176

1508

砂月斗水

1923

1945.03.18

死亡●

光陽郡

177

1509

神農道順

1915

1945.03.18

死亡●

光陽郡

178

1510

本井一奉

1919

1945.06.14

戦死

光陽郡

179

1516

陽谷起模

1917

1945.03.18

死亡●

光陽郡

180

1517

國本昌秀

1922

1945.03.18

死亡●

光陽郡

181

1518

國本斗秀

1915

1943.12.23

戦死

光陽郡

182

1519

徳山鎔雨

1920

1943.12.23

戦死

光陽郡

183

1520

金光又洙

1913

1943.12.23

戦死

光陽郡

184

1576

新川容點

1918

1945.01.10

戦死

光陽郡

185

1582

安田烔式

1919

1944.08.08

戦死

光陽郡

186

1583

金山容九

1918

1945.03.18

死亡▲

光陽郡

187

1584

玉川容福

1914

1945.03.18

死亡▲

光陽郡

188

1585

神田文碩

1920

1945.04.26

戦死

光陽郡

189

1587

吉川康淑

1924

1943.12.23

戦死

光陽郡

190

1588

安田明悠

1900

1943.12.23

戦死

光陽郡

191

1596

清川尚玉

1922

1945.06.30

戦死

谷城郡

192

1620

清川鳳順

1918

1945.06.22

戦死

谷城郡

193

1621

海金史培

1918

1945.06.26

戦死

谷城郡

194

1622

慶金商東

1918

1945.06.26

戦死

谷城郡

195

1623

慶金同済

1917

1945.06.26

戦死

谷城郡

196

1624

井上信溶

1917

1945.06.18

戦死

谷城郡

197

1625

伊川二変

1907

1943.12.10

戦死

谷城郡

198

1626

清川玉龍

1912

1943.12.10

戦死

谷城郡

199

1627

夏山冑煥

1916

1943.12.23

戦死

谷城郡

200

1634

金光判洙

1922

1945.06.26

戦死

谷城郡

201

1635

松原大植(鄭大植)

1903

1944.05.10

戦死

谷城郡

202

1638

金光喜来

1913

1943.12.23

戦死

谷城郡

203

1639

弓長基萬

1921

1944.05.10

戦死

谷城郡

204

1641

平林東鎬

1919

1944.08.23

戦死

谷城郡

205

1643

高山判植

1912

1945.06.23

戦死

谷城郡

206

1644

岩山相根

1914

1945.06.23

戦死

谷城郡

207

1645

金山満斗

1917

1945.06.22

戦死

谷城郡

208

1678

井同貴煥

1908

1944.12.14

戦死

康津郡

209

1679

金井正模

1923

1945.06.22

戦死

康津郡

210

1682

山村鐘民

1922

1943.06.17

戦病死

康津郡

211

1694

山本光造

1923

1944.03.31

戦死

康津郡

212

1726

伊道点洙

1920

1944.12.14

戦死

康津郡

213

1727

戹本突龍

1944.03.19

戦死

康津郡

214

1728

新井ト順

1922

1945.07.03

戦死

康津郡

215

T226

辛木永洙(勝休)

1916

1942.09.23

戦病死

(忠南)公州郡

216

T548

田原恒鎮

1918

1942.07.01

戦病死

(忠南)保寧郡

217

K74

桂城鐘熙

1920

1945.06.22

戦死

(慶南)居昌郡

218

K84

高山守正(正金)

1902

1943.12.23

戦死

(慶南)河東郡

 

4 潭陽・霊岩での現地調査

この報告は、2024年6月7日に全羅南道の光州でおこなった記者会見と市民の会の集いでの報告をまとめたものです。翌日、市民の会の会員と全羅南道の潭陽と霊岩で現地調査をしました。

潭陽は光州の北部にあります。潭陽ではこの死亡者名簿の表の33番の金基萬(1923年6月生)の甥の金貴男さん(86歳、1938年4月生)と会うことができました。金基萬の父は金光五といい、長男が萬石、その下に弟が3人と妹が一人、末の弟が基萬です。貴男さんは萬石の子で、基萬は叔父になります。

金貴男さんはつぎのように話しました。祖父の光五は農業をしていた。基萬おじさんの死については聞いたことがない。南洋に行ったという話だけだ。祖母(李若任、基萬の母)は90歳まで生きたが、1~2年は手紙が来た。送金もあったが換金せずに持っていたという。動員されたが死亡は知らされていない。解放後も帰ってこなかったが、うまく生活できているのだろうと思っていた。やっと消息が分かった。

貴男さんの話は息子さんが経営する餅屋で伺いました。貴男さんは30年ほど持っていた土地に加えて土地を借りてグリーンハウスを経営し、パパイヤとトマトを生産して暮らしてきました。おじの基萬さんが抵抗の闘いに参加し、自死を強いられたという話は初耳でした。近くに生家の跡があり、路地の土壁は80年前のままの形で残っていました。日本の統治期、若かった基萬もこの路地を駆け抜けて育ったのでしょう。

潭陽は平地が多く、土壌もよく、農業に適しています。今もイチゴ、メロン、ミニトマトなど近郊農業が盛んです。竹製品の産地としても知られています。歌辞(カサ、長詩)の文化も生まれた土地柄です。潭陽には歌辞文学館があります。

農業と文学の伝統は抵抗の精神の基礎となり、植民地下でも解放への運動が取り組まれたのでしょう。潭陽出身者が中心になっての1945年3月のミリでの脱出に向けての闘いもこの風土が育んだように思いました。

霊岩は羅州の南に位置し、西には木浦があります。霊岩の南には月出山があり、霊岩はその麓になります。月出山は「湖南の小金剛」ともいわれ、岩峰が険しく連なっています。その姿は全羅道民の反逆の心性を示すものとみなされてきました。その霊岩郡の金井面ではミリで7人が死亡しています。

霊岩の金井面の地は小山が多く、その間に農地が広がっています。霊岩の特産はイチジク、梨、サツマイモ、韓牛、柿などです。そこを現地の農民組合の仲間が農業用トラックで先導して巡りました。光州から運転してきた李国彦さんも熱心です。ここは地元、霊岩の金井小学校を出て、知人も多いといいます。

ミリで亡くなった李宗千の生まれた連宝里の地は現在では柿畑になっていました。月坪里の松原甲哲の生地には別の家族が住んでいました。山に囲まれた青龍里は武田正洙の出身地ですが、今は竹林と畑地になっていました。親族が浮島丸事故から生還したと語る農民もいました。臥雲里は清州正業が生まれたところですが、番地は何軒かで分割されていました。

金井面からの動員者は1944年6月2日に4人が戦死とされています。アメリカ軍の攻撃で共に命を失ったのでしょう。直接の手掛かりはなかったのですが、現地を回りながら80年前の強制動員の、状況を考えることができました。

霊岩からは南方のタラワ、サイパン、パラオ、ニューギニア、フィリピンなどにも連行されています。北方の大湊施設部に連行され、帰国途中に浮島丸事故で亡くなった人もいます。日本各地の炭鉱や工場に連行された人々もいます。地域から強制動員の実態についても把握することも求められます。              

以上の報告は、2024年6月7日に光州でおこなったものをまとめたものです。この報告は中間報告です。今後、調査・研究を続け、補充していきます。掲載にあたり写真は略しました。

 (2024年7月、竹内)