7・14浜岡原発を問う!集会
2024年7月14日、浜松市内で「浜岡原発を問う!」集会がもたれ、200人ほどが参加した。集会では樋口英明「原発はエネルギー問題でもあるが国防問題である」、井戸謙一「能登半島地震と原発」、北野進「珠洲原発阻止28年の活動」、今中哲二「40年で廃炉はマボロシのスローガン」の講演があった。
樋口英明さんは原発の問題点をつぎのように話した。原発は難しい問題という先入観に問題がある。電力会社の言い分が信用できるのか。原発は人が管理しないといけない、管理できなくなると事故の被害は想像を絶するほど大きい。規制基準に適合しているのかではなく、原発の耐震性が問題が。原発の耐震性は極めて低いのであり、原発の運転は許されない。福島事故の損害額は少なくとも25兆円であり、コスト論は通用しない。原発は自国に向けられた核兵器でもある。大きな事故が起きれば日本は破滅する。過酷事故は破滅的であり、甚大な被害を与え、国を崩壊させる。人格権を否定する原発の危険性を裁判所は十分に審理していない。
井戸謙一さんは志賀原発の問題をつぎのように解説した。24年の震度7の能登半島沖地震で志賀原発も揺れたが、大きな隆起からは免れ、とんでもない短周期地震動にも襲われなかった。短周期地震動は一万ガルの揺れをもたらす。志賀原発では一部の外部電源の停止、変圧器からの油漏れ、原発内での80か所の段差などトラブルが多数おきたが、大事故には至らなかった。地震の教訓をみれば、まず活断層の存在や規模についてはよくわかっていないということであり、海域活断層の認識は不十分なものだった。今回、150キロもの海域活断層が連動したが、20キロ離れた陸域断層と連動した可能性もある。また避難計画は絵に描いた餅だった。地震の多発地帯で原発を推進しているのは日本だけだ。大地震の想定震源域での浜岡や伊方の原発の稼働は言語道断である。
北野進さんは珠洲原発反対の歴史をつぎのように話した。珠洲原発は電力会社三社によるものであり、中電の予定地は寺家、関電の予定地は高屋だった。今回の地震でその予定地はともに隆起した。さらに地割れ、陥没、土砂崩れ、落石が起きた。道路は寸断,海路も断たれ、屋内避難もできず、通信は途絶し、情報は来ない、自治体は防災業務ができず、支援もストップした。閉じ込められ、原発があったなら被ばくを強いられていた。放射能は流出し日本海も汚染されただろう。
珠洲原発は地元誘致型、一石十鳥の大事業の宣伝だった。珠洲は「原発大基地」として構想された。1980年代、先行して中部電力が動いたが、反対地権者が抵抗した。当時関西電力は「強固な岩盤」と言っていたが、今回隆起した。市長選では反対派の票数が過半数を占めた。市庁舎に40日間、座り込み抵抗した。1993年の市長選挙は「不正選挙」であり、最高裁で選挙の無効の判決が確定した。当時、反原発へのいやがらせが頻発していた。だが、蛸島漁協は反対し続け、反対する住民は共有地を持ち、議会で反対派議員を拡大させるなど、抵抗した。その結果、2003年に電力三社は撤退を表明した。今回の地震被害のなかで、珠洲に原発がなくてよかったという理解が広まっている。
今中哲二さんはつぎのように福島原発事故の問題点を指摘した。母は広島で被爆したので私は被爆2世である。就職するときに京都大学の研究所に採用された。原発は田舎にしか作らない。それは事故があると危険だから。定年前に福島原発事故が起き、その問題をいまも調査している。福島原発事故は人災である。2008年に東京電力内では地震での津波に対する防潮堤計画を建てていた。しかしこの防潮堤計画は東電役員によって握りつぶされた。非常電源はタービン建屋の地下にあり、津波で電源を失った。それにより燃料棒を冷やせず、メルトダウンが起き、1,3号機では水素爆発が起きた。4号機も3号機の水素が入り込み爆発した。福島原発から放射性物質が放出された。8割は太平洋に流された。汚染があっても情報がないため、自ら調査した。飯館では3月15日の2号機からの放射性物質による汚染が大きかった。これから100年以上、放射性物物質と付き合うことになる。廃炉計画は燃料プールからの燃料の取り出し、デブリを取り出すという計画であるが、高レベル汚染があり、うまくできていない。汚染水はコンクリートで固めるか、大きなタンクで保管するしかない。事故の危険性と放射性物質をみれば、原発をエネルギー源とすべきではない。
今回の集会は、浜岡原発の再稼働が狙われる中、浜岡原発反対の思いを重ねるものだった。推進派に話をしても聞こうとしない状況のなかで20代、30代にどう伝えていくのか、原発を残して敵地攻撃を語っている状況をどう変えるのかなど、多くの課題が提起された。問題の第一は原発の耐震性だ。放射能安全神話のウソを批判しよう。(t)