即位式大嘗祭違憲訴訟 高裁 意見陳述
2024年11月12日、東京高裁で即位式・大嘗祭違憲訴訟の控訴審第1回がもたれ、5人の原告が意見陳述した.陳述後、裁判官は結審を告げた.これに対し、抗議の声が上がった。
意見陳述の内容は、即位式・大嘗祭の具体的内容を挙げてその違憲性を指摘、さらにそれらの儀式が信教の自由や主権在民に反するものであること、キリスト者からみて大嘗祭が公的行事として推進されることで不利益を受けること、大嘗祭が神道行事であり天皇への崇拝を植えつけるものであること、日本国憲法下ではこれらの行事が公的に行なわれてはならないことを訴えた。
以下は、意見陳述の一部である。
1 帝国政府による戦争下で生き残った父母
いうまでもなく、日本の近代の歴史においては、天皇主権の下で民主主義と人権が否定され、戦争動員と植民地支配がなされました。日本国憲法はその戦争の末に成立しました。そこでは天皇は象徴とされ、その権力は制限され、主権在民、人権尊重、平和主義の3原則が憲法の柱とされました。政府により天皇が現人神となる国家神道の儀式がなされる時代は終わったはずでした。
2 天皇代替わり体験(1988年・89年)と違憲訴訟の地平
しかし1988年末から89年にかけての裕仁の死去、明仁の即位に伴う動きはこの3原則の定着が不十分なものであったことを教えるものでした。現人神であるかのように「自粛」がなされ、戦争責任を指摘した長崎市長が銃撃され、政府の行為により新天皇の即位への「奉祝」が宣伝される状況となったのです。
すでに1979年には「元号法」が制定され、学校現場では「君が代」が強制されるようになりました。元号は天皇が時間と空間を支配し、その在位によって人びとの生を支配するというものですから、主権在民に反するものです。君が代の「君」も天皇を示しますから、これも主権在民に反します。政府による法制化や通達、国家による指示は、学校現場では強制力となります。校長の指示は職務命令の内実を持ち、場合によっては戒告などの処分が加えられます。現場での処分行為は、指示に服従するという内面を形成していきます。通達する側、指示する側は命令していないように装いますが、現場では命令となり、服従が形成されるのです。国家による要請は、強制力として構造化され、現場では内心の自由を奪う暴力となるのです。異議を唱えるものには警察の監視がつきます。私も監視された体験があります。それは精神の自由を圧迫し、侵害するものです。
このような代替わりの動きのなか、日本の戦争責任を追及し、民主主義を形成しようとする人びとは1990年に大阪で「即位礼・大嘗祭」違憲訴訟を起こしました。この訴訟の大阪地裁判決は、政教分離に関しては「制度的保障論」を採用して原告の権利侵害を認めないものでした。大阪高裁も原告の請求を棄却したのですが、高裁はつぎのような憲法判断を示しています。
大嘗祭については、神道儀式であることは明白であり、目的効果基準に照らしても、国家神道への助長・促進になる行為として政教分離規定に違反するという疑義は一概に否定できない。即位礼についても、神道儀式である大嘗祭と関連付けされ、天孫降臨の神話による高御座を使用するなど、政教分離に違反する疑いを一概に否定できない。天皇が主権者を代表する首相を見下ろす位置で「お言葉」を発するなど、国民を主権者とする現憲法の趣旨に相応しない。さらに政府による奉祝の要請は慎重でなければならない。このように指摘しているのです。
このような判断をふまえ、代替わり行事は主権在民と人権に留意してなされるべきです。この代替わりの体験と訴訟から私は即位礼・大嘗祭の基本的な問題点を学びました。その問題点を顕在化させたのは天皇制の強化に反対する、あるいはその廃絶を求める民主主義の活動だったのです。主権在民はそのような活動によって維持されるのです。
3 本訴訟の原告となった理由
明仁から徳仁(ナルヒト)への天皇の地位の移動は2016年の明仁の退位表明から始まりました。2019年には徳仁の即位礼・大嘗祭がおこなわれましたが、これらの儀式は30年前の明仁の即位と同様のものでした。
関連費用は約160億円とされました。結果は2018年から20年度にかけて、内閣府が即位礼などで25億円、宮内庁が大嘗祭などで34億円、外務省が接客などで43億円、警察庁が警備などで29億円と計133億円が使用されました。このように国税が支出されたのですが、天皇家の神道行事のために多額の国税を支出する必要があるのでしょうか。私は主権者、納税者としてそのような使途に納得できません。
即位礼は天皇が高御座から即位を宣言し、首相が祝いの言葉を述べ、天皇陛下万歳を唱えるものです。高御座は天孫降臨の神話によるものであり、天皇を万世一系、神聖とみなした帝国憲法下の天皇制認識と国家神道行事を継承するものです。高御座に向かっての首相のお祝いの言葉と万歳は国民を天皇の臣下とする行為です。そのような行為は現憲法の主権在民に反するものであり、憲法違反です。
大嘗祭は天皇が現人神になる儀式であり、これも天皇を万世一系、神聖とみなす国家神道の儀式です。即位礼・大嘗祭違憲訴訟の大阪高裁判決にあるように国家神道を助長・促進するものです。国費による大嘗祭の遂行は政教一体の行為であり、政教分離原則に反します。それは信教の自由を侵すものであり、違憲です。
徳仁は高御座での発言で、明仁が「いかなる時も国民と苦楽を共にされながらその御心をご自身のお姿でお示しになってきた」と言いましたが、いかなる時も国民と苦楽を共にすることは不可能です。そうしたいのなら、退位し、高御座から降り、市井で働き、労苦を分かち、語り合うべきでしょう。
安倍首相は高御座の天皇に向かって「即位を内外に宣明され」、「一同こぞって心からお慶び申し上げます」、「私たち国民一同は天皇陛下を日本国及び日本国民統合の象徴として仰ぎ」と言い、万歳をしました。しかし私は「一同」にされる意思も、万歳を唱える意思もありません。私はこの儀式での首相による「天皇陛下万歳」の行為は主権在民の放棄であると考えます。
これらのことから、私は政府による象徴天皇制の賛美は主権在民の意識を後退させるものであり、精神の自由を侵害するものであると考えます。帝国憲法から新憲法に移行するなかで天皇の地位は、天皇主権から国民主権下の象徴に変わりましたが、象徴という表現は天皇主権の維持と天皇制廃止の主張の拮抗関係のなかで生じた概念であり、無理と欺瞞を含むものとなっています。そもそも、ひとりの人間が国家と国民統合の象徴となりえる事はできないし、なりえると言えば欺瞞となるからです。
歴史に学べば、政府は天皇の行為を制限し、その宣伝を抑制することに配慮すべきです。政府の行為として即位礼や大嘗祭をおこない、天皇教を宣伝してはならないのです。そのような宣伝は主権在民に反するものとなり、思想や信教などの精神の自由を侵害するものとなるからです。
徳仁即位に関する大嘗祭や即位礼の政府による執行は、私を天皇の臣下とするものであり、それは私の主権者意識を侵すものとなり、また、私の思想や信教などの精神の自由を侵す圧力となっています。これが、私が原告となった理由です。
4 控訴した理由
2024年1月の東京地裁判決は、即位礼・大嘗祭が主権在民や信教の自由に反するものであるという憲法判断をせず、政教分離に関しては「制度的保障論」を持ち出し、原告への人権侵害を認めようとしないものでした。このような判決は明仁即位時の即位礼・大嘗祭訴訟での大阪地裁の判決と同様のものです。大阪高裁では、憲法判断に踏み込み、即位礼での主権在民の侵害、大嘗祭での信教に自由への侵害に言及しましたが、そのような内容は示されなかったのです。
裁判所は即位礼・大嘗祭に関して積極的に憲法判断をすべきです。違憲行為の指摘は司法の役割であり、それが憲法を生かすことになるからです。東京地裁判決は消極的すぎます。
政教分離、信教の自由に関しての「制度的保障論」を克服されるべきです。この論は、政府による政教分離違反が直ちに私人の信教の自由を侵害したと言えないとするものです。それは政府による政教分離違反を容認するために作られた詭弁であり、不断の努力によって人権を維持しようとする人びとの権利の実現、尊厳の回復を排除するものです。
言うまでもなく、信教の自由を含む精神の自由は王制との闘いによって実現しました。その権利の形成の歴史を踏まえるのならば、裁判所は国家による神道行事の推進が私人の信教の自由を直接・間接に侵害するものとみなし、違憲と判断すべきです。
政府による協力依頼は自治体の末端、学校などでは祝意の強制となっていきます。祝意の強制を感じ、異議を唱える、それに反対する行動は警察の監視対象とされます。公安によって主権在民と人権尊重を主張する者がリスト化され、素性は写真付でファイル化されるのです。国家権力による監視がなされ、些細な行為が犯罪とされ検挙される事件も起きます。
私は歴史を学び、それを表現する仕事をしています。これまで、浜松の空襲で亡くなった人びと、浜松の陸軍航空基地から出撃した部隊によるアジアの人びとの被害、差別からの解放を求めて若くして志なかばで亡くなった人びと、植民地朝鮮からの戦時強制動員により亡くなった人びと、原子力発電所建設の動きに抗議した人びとの歴史を記してきました。これらの多くが記録されてこなかった人びとの歴史ですが、その声なき声を伝えることができればと考えています。つぎの時代が、社会的には弱い立場にいる人びとが幸せに暮らせるものになってほしいと願っています。
最近、歴史を改ざん、否定し、真相を隠そうとする動きが顕著です。そのような動きの影響は、群馬の森の朝鮮人追悼碑撤去に関する東京高裁判決にみられるように、司法にも及んでいると言って過言ではありません。判決には同時期の政府権力に忖度し、同調する傾向がみられます。裁判官の思想が歴史否定論に感染しているようにも思います。
しかし人間には真実と正義を実現する能力があります。政府による神道行事の遂行は直接間接に人びとの信教の自由を侵害するものです。人びとの精神の自由ヘの侵害は表現行為への萎縮を生みます。そのような現実を放置するわけにはいきません。
私は、裁判長が即位礼・大嘗祭に関する憲法判断を行い、主権在民と政教分離に違反することを認定すべきと考えます。私たち控訴人らの主権者としての権利を救済し、その尊厳を回復しえる判決を出すことを求めます。裁判所は主権在民と精神の自由を擁護し、人びとを天皇の臣下とするような政府の行為を止めさせることができるのです。
裁判長、高御座に立った者、その下で万歳を唱えた者たちの行為と存在は、主権在民と精神の自由の理念に反するものであり、それらは人権を求める多くの声を消しさってしまう行為です。それにより消されてしまう声なき声に耳を傾けてください。私たち控訴人の権利の救済、尊厳の回復を求める思いを実現してください。