「昭和100年」を問う 天皇制の侵略・植民地責任
きょうは、「朝鮮人強制労働・「昭和100年」を問う 天皇制の侵略・植民地責任」の題でお話したいと思います。支配の側の「昭和100年、戦後80年」宣伝に対して、天皇制の戦争責任・植民地責任を切り口に考えるというテーマですから、反省なき戦争責任・植民地責任の事例として、帝国憲法主権者のヒロヒト、政治家の岸信介、企業家の久保田豊についてみながら、「昭和100年」、「激動と復興」の宣伝、そこで欠落しているものは何なのかを考えたいと思います。そして継続する植民地主義を示すものとして朝鮮人の強制労働の問題や安倍政治の問題点にも触れたいと思います。
「昭和100年」だけでなく、2025年は、1875年江華島侵攻から150年、1905年韓国乙巳(ウルサ)保護条約から120年です。1945年の日本敗戦から80年、1965年日韓条約・請求権協定から60年でもあります。さらに1995年村山談話から30年、2015年安倍談話から10年という節目の年です。
歴史をみる視点としては、朝鮮を鏡として日本の歴史を見るということ、戦争被害者の尊厳を回復するということ、支配される者の側から歴史をみることが大切と思います。日本近代の歴史は侵略戦争と植民地支配が一体となった歴史ですから、朝鮮の歴史は日本の行動を映し出す鏡になります。その歴史は植民地主義の克服、過去の清算の課題をわたしたちに示すものと考えます。
「昭和100年」を賛美する者たちは、それを「激動と復興」の名で括っていますが、その内実を問うべきでしょう。「激動」の名で侵略戦争と植民地支配の責任を隠蔽してはならないし、「復興」の名で継続してきた植民地主義の存在をみるべきでしょう。では本題に入ります。
1 反省なき戦争・植民地責任 ヒロヒト
▼ヒロヒトの90年
最初に、反省なき戦争責任・植民地責任の事例として、ヒロヒトについてみます。
かれは1901年に生まれ、1989年まで生きました。かれの歴史をみれば、1921年に摂政となり、23年の震災戒厳令に関与しました。軍警による朝鮮人虐殺、社会主義者虐殺に関して摂政としての責任があります。この年には朝鮮人虐殺や難波大介がヒロヒトの命を狙った虎の門事件もありました。1932年の李奉昌の桜田門事件でも命を狙われました。そのような事件に出会い、かれは社会主義者や朝鮮人独立運動ヘの反感や憎悪を増幅させたと思います。
ヒロヒトは1926年に天皇に即位しますが、28年の張作霖爆殺、31年の満洲事変、36年の二・二六事件、そして37年に日中戦争、41年には太平洋戦争の開戦(宣戦)、そして45年の敗戦・講和と、即位から20年ほどがアジア太平洋での侵略戦争の時代です。かれは主権者として日本民衆の権利を抑圧し、戦争動員をおこなったのです。かれは統治と統帥の責任者であり、「東洋平和」、「大東亜共栄」の理念を体現していました。
戦後は、1945年にマッカーサーと会見、46年の日本国憲法公布というなかで、アメリカの占領統治に協力し、戦争責任を免れました。在位中の68年には「明治100年」行事が開催されました。75年にはアメリカを訪問、86年には在位60年を迎えました。その際、中曽根は、天皇は「元来平和主義者」等と喧伝しています。そして1989年に天皇代替わりとなります。ベルリンの壁が崩壊した年でした。
代替わりキャンペーンのなかで天皇は、平和主義者であるだけでなく、巡幸して復興に貢献した、高度成長・繁栄に寄与した人物などと喧伝されました。平和と復興の象徴とされたわけです。
けれども帝国憲法は天皇主権でした。天皇は神聖不可侵とされ、統治権、統帥権を持ち、宣戦・講和、戒厳、勅令の権利を持っていました。その責任は消しえないものであり、ずっと問われるでしょう。
▼ヒロヒトの戦争指導
ここで、統帥権、その戦争指導の実態についてみてみましょう。
天皇の発言などによる作戦への影響の事例については、山田朗さんの分析があります。
そこでは、1936年の2・26事件への武力鎮圧、37年日中戦争初期での兵力増強・戦略爆撃方針、1939年度帝国海軍作戦計画への修正要求、40年の宜昌再確保への作戦転換、42年のバターン要塞への早期攻撃、重慶攻略方針の決定と取止、ガダルカナル攻防戦への陸軍航空隊の投入、43年のニューギニアでの新たな攻勢、統帥部内での中部ソロモン放棄論の棚上げ、アッツ島戦後の海上作戦の要求、ニューギニアでの陸軍航空戦への投入、「絶対国防圏」設定後の攻勢防御、44年のサイパン奪回計画の立案、45年の沖縄戦での攻勢作戦等、ヒロヒトが作戦を理解したうえで、自ら戦争指導を行なってきた実態が示されています。 (山田朗『昭和天皇の軍事思想と戦略』362頁)
。
かれの発言を具体的にみてみましょう。(山田朗『昭和天皇の戦争』124,178,203,204,209,210,212,244頁)。
1940年6月20日(木戸幸一に)「八紘一宇の真精神を忘れないようにしたいものだ」(木戸幸一日記・下)。
42年5月8日(永野修身軍令部総長に)「敵を全滅すべき旨を仰せ」(天皇実録)。
43年6月8日、(蓮沼蕃侍従武官長に、アッツ島など戦闘に関して)「何とかして何処かの正面で米軍を叩きつけることは出来ぬか」(真田穣一郎少将日記(参謀本部作戦部長、軍務局長)、杉山元(陸軍大将、元帥、戦後自決)杉山メモ・下」)。
43年6月9日、(杉山元参謀総長に、ニューギニア方面作戦で)「何とかして米を叩きつけねばならぬ」真田穣一郎少将日記(杉山メモ・下)。
43年8月8日(杉山参謀総長に、ソロモン方面で)「海軍はいったいどうしているであらうか」「何とか叩けないかねー」真田穣一郎少将日記(杉山メモ・下)。
43年8月24日(永野軍令部総長に、ラバウルに関し)「敵が来たら海上で叩きつけることが出来るならばよいが、それがどうも少しも出来て居ない」(真田穣一郎少将日記)。
45年2月14日(近衛上奏文(講和促進)に関し)「今一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しいと思ふ」(木戸幸一関係文書)、などがあります。
このように戦争に主体的に関与し、軍部から情報を得て戦争を指導する発言をしていたわけです。ヒロヒトは宣戦・講和の権利を持ち、指揮者・大元帥でした。「八紘一宇」の思想の下、彼自身、決戦へのこだわりを持ち、国体護持に執着していたのです。細菌戦・毒ガス戦などについても情報を持っていたはずですが、その戦争犯罪の責任は不問とされました。アメリカによる核使用の犯罪追及や植民地支配の責任が不問とされて80年が経つわけですが、反人道的不法行為に時効はありません。「平和主義者」は偽りです。
▼天皇免責とその世界観
日本政府は敗戦に至るなかで「国体護持」、天皇制の存続に固執しました。東久邇宮稔彦(ナルヒコ)内閣は45年9月の施政方針演説で「全国民総懺悔」を語りました。それは、戦争を反省するのではなく、敗戦を天皇に詫びるというものであり、責任を国民に転嫁するものです。戦争自体の責任を示さず、天皇の戦争責任を回避しようとするもくろみです。
続いて幣原内閣は45年11月5日に「戦争責任等に関する件」を閣議決定します。その内容は、大東亜戦争はやむを得ないもの、自衛権の発動である。天皇は開戦決定・作戦計画の遂行について憲法運用上確立した慣例に従い大本営や政府の決定事項は却下していない。幕僚長は初期作戦の大綱のみ奏上したというものです。
つまり、戦争は自衛戦争である、天皇は立憲君主として政府決定を追認したにすぎない、天皇は詳細については不知であるとし、天皇は立憲君主であり、平和主義者であるいう認識を示したのです。それは天皇制存続・国体護持のための歴史の偽造でした。そして、天皇の戦争責任は東京裁判で被告とならないことで解決済みとされました。
以後80年、この枠組みは変わっていないと言っていいでしょう。日本政府による侵略と植民地支配を反省し、その責任をとるという行為もなされていません。95年の村山談話は侵略と植民地支配への反省とお詫びを表現しましたが、韓国併合の不法については認めていません。その当時、アジアの戦争被害者が訴訟に立ち上がっていましたが、日本政府はその謝罪と賠償の要求には応じてはいません。日本政府は日韓請求権協定で解決済みを語り、司法も「訴求する権能がない」などと語り、政府の責任を認定しなかったのです。
田島道治の「昭和天皇拝謁記」からはヒロヒトの世界観が伺われます。田島は1949年から53年にかけて第2代宮内府長官と初代宮内庁長官を務めました。この書物はヒロヒトの1950年前後の再軍備の時代の反共・反民主の精神状態を記録するものになっています。
原武史さんのまとめを参考に主な発言をみてみます。(原武史『象徴天皇の実像』54,56,90,116,175頁)
1952年3月12日(共産党の非合法化について)「此赤の思想の温床であり、又反米思想の温床ともなる所の事をもっと留意して手を打たなければどうかと思う」。
52年3月26日(北海道に行けば)「共産化に対する防御になるといふ点で行きたいと思ってる。」
52年5月7日(労働運動に参加する女子学生に)「学業よりも政治に興味を持つことはどうも困る。中国もあんなふうではなかったかと思う」。このように強い反共意識を持っていました。
また、1952年2月11日の「(憲法改正)他の改正は一切ふれずに、軍備の点だけ公明正大に堂々と改正してやった方がいゝ」というように再軍備を支持していました。
朝鮮に関する認識をみてみましょう。
53年6月24日(朝鮮戦争に関し)「朝鮮は常にいずれかに隷属してきた国民だから、どうも武か何か圧力で行くより仕方のない人種だよ。日本も鴨緑江でやめておくべきであった。軍人が満洲、大陸と進出したからこういうことになった」。
53年11月24日(朝鮮人学校について)「あゝいふ学校はつぶしたほうがいゝ。大体国費を使って赤の学生を養成する結果となるような大学もどうかと思うが、こんな朝鮮の学校に国帑(ど)を費やす事はどうかと思う」。
このように朝鮮の植民地支配に対する反省はなく軍部に戦争の責任を転嫁しています。また民族教育への理解もありません。
ヒロヒトは強い反共思想を持ち、朝鮮支配への反省はなかったのです。そもそも国民統合の「象徴」であることなどは無理であり、欺瞞です。ヒロヒトの発言は彼が親米反共の象徴であったことを示すものです。
2 統制経済・親米反共・利権政治 岸信介
▼満洲・日本での統制経済、強制労働
岸信介は山口県出身で1896年に生まれ、1987年まで生きました。東大の法学部に入り、上杉慎吉に師事し、北一輝や大川周明の影響を受けました。青年期はロシア革命後の民主主義の時代であり、東大新人会などの活動もあった時期ですが、かれは国家改造、大アジア主義に共感し、対外膨脹を支持し、国家統制による経済体制構築の考えを持つようになりました。
岸は農商務省に入って頭角を現し、1935年には商工省工務局長となります。36年に日本の植民地、満洲国へ行き、実業(産業)部次長、国務院総務庁次長として経済政策の実権を握りました。満洲国建設に意欲を示し、産業行政の指揮をとり、部下に椎名悦三郎がいました。そこで東条英機と親交しました。東条は35年に関東軍憲兵隊司令官となり、37年に関東軍参謀長となっています。
岸は満洲開発5か年計画を実行し、百万戸移住20か年計画も立てます。満洲国の財務部専売総局がアヘンを取扱い、それは満洲国の財源、岸の利権にもなったといいます。岸は37年に日本産業(鮎川義介)を満洲へ呼び、満洲重工業開発を設立させます。1939年10月の帰国に際し、大連埠頭で記者に「満洲国の産業開発は私の描いた作品だ」と語っています。
その実態については、満洲重工業開発総裁だった高碕達之助が『満州の終焉』に次のように記しています。「そこには王道も、楽土もなかった。あったのは、力を持ってする支配、ただそれだけであった。」「生産増強も、その裏に、強制徴用の満州人労務者の大きな犠牲があったのを、見逃すことは出来ない。いやがる満州人を強制徴用し、しかもその待遇は、依然として改善されていなかった」。
では満洲での労働政策をみてみます。日本の総力戦体制の下で、満洲では38年1月に労務動員を担う組織として満洲労工協会が設立されました。38年2月に国家総動員法、6月に暫時労働票発給規則がだされ、登録を義務化し10指の指紋も取ります。7月に満洲国務院に企画処を設置、労務委員会が置かれ、12月に労働統制法が出されました。労務統制・動員の実行です。さらに39年1月中国労働者募集並に使用に対する要綱も出して、労務動員を進めました。
1939年10月に岸は満洲を去って日本政府で統制経済を推進しますが、その後の満洲での労務統制の動きをみれば、40年6月には国内労働者統制募集に関する件などが出されています。41年9月の労務新体制確立要綱により、国民勤労奉仕や労務興国運動がすすめられ、10月、満洲労工協会を解散し労務興国会が設立されました。すでに41年4月には華北労工協会が設立され、満洲への中国人動員をおこなっています。満洲国民生部による労働者の統制・労務動員、国民皆労・国民勤労奉公などがすすめられたわけですが、それは満洲での強制連行・強制労働の推進です。大規模動員がなされた場所では多くの死者が出たため「万人坑」が残されています。
満洲国での強制労働の現場としては、豊満ダム工事(吉林省)があります。それは第2松花江にダムを作るというものですが、工事は37年から42年にかけておこなわれ、岸も関与しています。ダムには28万キロワットの発電力があり、43年から発電をはじめています。労働力は華北からの募集や「特殊工人」とよばれた捕虜、勤労奉仕隊などによりました。12時間2交替の労働でしたが、劣悪な衣食住、重労働、暴力管理、伝染病、労働災害(堰堤崩壊事故など)により、1000人を超える死者が出ています。万人坑がありますが、その死者数は6000人規模ともいいます。逃走や抵抗闘争も起きています。
さて岸は日本に戻り統制経済を進めるわけですが、すでに日本では37年10月に企画院が設置され、総力戦による物資動員計画が立てられるようになっています。岸は39年10月に帰国すると、阿部内閣で商工次官となり、40年7月には第2次近衛内閣で商工次官となります。かれは統制経済推進の革新官僚として、産業ごとに統制会を設置していきます。41年10月には東条内閣の商工相(次官は椎名)となり、開戦詔書に大臣として副署しました。42年4月には翼賛選挙で当選しました。
岸は43年11月に軍需省が設置されると軍需省次官となり、軍事物資の調達をすすめました(椎名は総動員局長のち軍需次官となります)。岸は朝鮮人・中国人の強制動員計画に関与する立場にもいたわけです。44年に東条と対立し東条内閣総辞職の原因となりましたが、岸は戦争経済づくりの中心にいたわけです。軍部の侵略を支えたのは軍需経済であり、侵略地では軍の支配下で企業が利益を上げました。当然、岸には戦争責任・植民地責任があります。
▼A級戦犯から首相へ
岸はA級戦犯で逮捕され3年3か月の間、拘留されました。岸は48年に釈放されましたが、東京裁判を「圧制と人権蹂躙と暴虐」と評しています。GHQの参謀部のG2(第2部)は岸を反共利用するために釈放に動いたといいます。
岸は1952年に日本再建連盟を結成していますが、この組織は、新しい時代感覚、共産主義の侵略の排除と自主外交、日米経済連携とアジア諸国との通商、福利増進と民生安定、憲法改正などを主張していました。この岸新党は挫折しますが、親米反共政治での経済推進という立場でした。
岸は53年に自由党から代議士となり、55年の保守合同による自由民主党の初代幹事長となりました。57年に石橋湛山の跡を継ぎ、首相となりました(岸内閣)。第2次岸内閣での官房長官は椎名でした。(※ 中国人強制連行者の劉連仁の出現は1958年2月です。)
岸の経済政策の特徴は、東南アジアへの賠償を経済協力によるビジネスとして推進したことです。このなかで、賠償建造の船舶10隻のうち9隻が首相・運輸相と親しい業者であるというインドネシア賠償疑惑などが問題とされました。経済開発協力基金設置(円借款)も経済協力ビジネスによるものです。
岸は政治では60年に新安保条約を強行採決しました。それにより退陣しましたが、岸は79年まで国会議員であり、自民党内で最高顧問として力を持ち続けました。
岸は1965年の日韓条約締結にも関わりました。これは佐藤内閣による締結ですが、外相は椎名であり、椎名は「深く反省」を口にして、韓国側を宥和しました。岸は駐日韓国代表部と佐藤のパイプ役となり、朴正煕と密接な関係を持ちました。締結後の66年に岸は訪韓し、佐藤首相の親善大使として朴と会談しています。岸は日韓協力委員会の初代会長となり、利益誘導によって開発独裁政権を支援しました。請求権協定・経済協力資金は日本の生産物と役務で支払うというものであり、利益を日本へと循環させるものでした。請求権資金の関連事業の受注で日本企業が利益をあげたわけです。
このなかで二重価格やリベートなどの不正が日韓構造汚職として問題となります。たとえばソウル地下鉄では、韓国への納品額は186両84億円が118億円と40%増額されました。日本企業はソウル地下鉄の納入代金を利用して、朴政権への賄賂にしました。このとき三菱商事は22億円を得たといいます。浦項製鉄の建設は新日鉄と三菱商事などが受注しました。経済協力は賠償ではなく、新たな経済進出の梃子とされたわけです。73年にも岸は訪韓していますが、これは金大中事件の政治決着のためであったのです。
そのような活動とともに岸は反共活動をすすめ、64年に岸の邸宅の一角に統一協会日本支部を置き、68年には笹川・児玉らと国際勝共連合を結成しています。そして自主憲法制定国民会議議長、スパイ防止法制定促進議員有識者懇談会会長として活動したのです。岸はCIAと関係を持ちつつ、反共活動をすすめました。
過去の戦争が自衛と大東亜共栄のため、民族協和の理想郷の形成であるとする認識は変ることはなかったのです。かれに侵略戦争と植民地支配への反省はありません。
3 水電開発・賠償利権 久保田豊
▼朝鮮窒素での水力発電工事
久保田豊は1890年に熊本県で生まれ1986年まで生きました。1914年に東大の土木工学科を出て、内務省に入り河川工事を担当しました。1920年に久保田工業事務所(水力発電事業)を設立、その後、朝鮮に渡り、日本窒素(朝鮮窒素)社長野口遵(したがう)の下で電力会社を設立し、窒素の建設部長(工務部長)として活動、朝鮮電業の社長となります。
久保田は1920年代~40年代にかけて鴨緑江支流(蓋馬(ケマ)高原)の赴戦江、長津江、虚川江での水電工事を担い、鴨緑江本流での水豊(スプン)ダム工事も担いました。支流での工事は鴨緑江に流れる水を朝鮮側に逆走して発電するというものであり、ダムと導水路工事を含む大工事でした。電力は主として朝鮮窒素へと供給されました。工事を担ったのは間組、西松組、松本組などであり、労働力は朝鮮人、中国人です。
長津江水電開発をみれば、4つの発電所で計33万キロワットを発電する予定であり、工事は33年からはじまり、第1発電所の完成は35年、第4発電所は38年に完成しました。貯水池から第1発電所の水槽までの隧道(導水路)は約24キロメートルあり、計50キロメートルほどの隧道掘削をしています。そのための道路工事や鉄道工事にも多くの労働者が動員されています。
鴨緑江の水豊ダム工事は中国への全面戦争が始まる時期の1937年から44年にかけて行なわれています。日本窒素と長津江水電(株)は朝鮮鴨緑江水力発電(株)と満洲鴨緑江水力発電(株)を設立して工事をすすめました。この2つは、名称は違いますが一体のものでした。
ダムの高さは106メートル、10万キロワットの発電機を7つ設置し、70万キロワットを発電するというものです。工事を間組・西松組が請け負い、そこで朝鮮人・中国人の強制労働がなされました。工事での事故や「集団部落」での伝染病もありました。満洲国南部には抗日闘争があり、それを弾圧しつつ、工事が行われました。民衆を「集団部落」に押し込め、そこに募集をかけて工事に動員することもありました。殉職者慰霊祭の資料では朝鮮人102人、中国人72人、日本人4人の計178人の死者とされますが、それ以上の死者がいたでしょう。ここにも万人坑があり、現地では死者は5000人といわれています。
久保田はこれらの工事の推進者でした。その技術と構築物は朝鮮人、中国人の強制労働を基礎にして形成されたものです。
▼日本工営による賠償ビジネス・東南アジアでの水電工事
敗戦後、久保田は1946年に新興電業を設立して社長となり、翌年社名を日本工営に変更しました。日本工営は日本最初のコンサルタント会社です。久保田は公職追放されたものの、政府とつながり、岸が復活する動きの中で、東南アジアで水力発電開発をすすめ、賠償ビジネスをすすめました。朝鮮戦争後の復興事業も担いました。
具体的にみれば、講和条約後にビルマ、ベトナム、ラオス、インドネシアなどを訪問して電源開発や農業水利事業を示し、それを賠償に絡めたのです。賠償締結協定では、賠償を現金ではなく機械やブラント類の資本財で支払うことにし、事業計画を記した文書を付けました。
ビルマをみれば、賠償額は2億ドル(720億円)であり、その中心がバルーチャン発電所建設でした。1953年末に久保田はビルマを訪問し、現場を調査しました。かれは吉田総理に直訴し、工事を日本の賠償で行うように求めました。この工事は発電所工事だけでなく、ラングーンまでの送電網、付随する鉄道網、港湾施設の復旧を伴うものです。それはビルマ賠償総額の16.8%、約104億円であり、第1期工事は56年から60年にかけてです。設計は久保田の日本工営が受け、工事は鹿島建設、水車・発電機類は日立製作所が受注しました。ダムによりカレン民族の居住地は水没しました。
南ベトナムをみれば、賠償額は3900万ドル(140億4000万円)であり、その中心事業はダニム発電所工事です。サイゴンやカムラン湾への電力供給にむけて、工事は60年から64年にかけておこなわれました。それは南ベトナムの賠償額95%、約126億円です。設計は日本工営、工事は鹿島建設、水車は東芝、水力発電機は三菱、変圧器や送電機械、配電板類も日本企業が受注しました。この賠償は南ベトナム政府の政権維持に利用されました。
インドネシアをみれば、58年の賠償協定では賠償額2億2308万ドル(803億880万円)ですが、久保田はブランタス川総合開発によるカランカテスダム工事をすすめました。設計は日本工営、東カリマンタンのリアムカナンダムとともに約109億円の工事です。ダム工事後も、洪水制御のために円借款による工事が行われ、インドネシア政府の負債は増加することになります。円借款による工事は67年以降ですが、その投資はスハルトによる開発独裁を支えるものになりました。
久保田は64年に海外コンサルティング企業協会を設立し、南米やアフリカでも事業をすすめました。
このように日本工営が各国政府にプロジェクトを提示し、賠償や準賠償(経済協力)資金で日本企業が建設をすすめていったわけです。日本は賠償・借款を東南アジアの市場進出に利用し、輸出振興の梃子としたわけです。その賠償は開発独裁政権を支えるものにもなりました。日本の経済成長は朝鮮特需・賠償特需により、形成されました。韓国とは65年条約・協定を結び、日本の企業が利益を受ける形で市場としていったわけです。その締結時に日本政府は、過去の植民地統治を不法と認めはしませんでした。1970年代には、日本の商品がアジアの市場で氾濫するようになり、批判を受けるようになりました。
昭和100年を賛美して「激動と復興」と形容してますが、アジア侵出や環境汚染の視点からその「復興」の内実を問うべきでしょう。復興は日本帝国主義の復活であり、植民地主義の継続であったのです。
4 植民地主義の継続、安倍政治、未解決の朝鮮人強制労働
▼安倍政治、政治の私物化とグローバル派兵体制
2010年代の第2次安倍政権は岸の政治を継承するものでした。安倍政権は政治を利権の場とし、政治の私物化がすすみました。2015年の安保法制定はグローバルな派兵を想定し、「存立危機事態」の名で日米が集団として戦争を行うという態勢づくりでした。それは新たな軍拡に向かうものでした。特に沖縄への自衛隊ミサイル配備と辺野古米軍基地工事が大きな問題です。安倍政権以降もこの流れは強化され、敵基地攻撃能力保持にむけて日本各地で基地強化がすすんでいます。
辺野古の基地建設についてみれば、日本工営が辺野古埋立の設計を独占的に受注し、大成建設などのゼネコンが工事を受注しています。
このなかで防衛省の技術検討会の委員に日本工営の社内委員(地盤工学)が入る、防衛省から日本工営へと天下りがあるなど、防衛省と日本工営の癒着が問題視されています。「プロポーザル契約は官製談合の隠れ蓑」といわれますが、日本工営が中心となった企業体の落札率は99.9%(23年統括事務整理業務約48億円)のものもあります。ですから談合の疑いも示されています。また、工事費用は当初3500億円とされていましたが、23年末までに5319億円、2025年度は約2005億円が計上されています。軟弱地盤工事により工費は1兆円以上とみられています。工期は延長され、いつ完成するのかも不明です。
日本工営は防衛省に大浦湾・軟弱地盤について「海面下70mより深い海底地盤は非常に固い粘土層」などと示し、海面下70mに砂杭など7万本以上を打ち込み地盤を固める計画です。しかし軟弱地盤は90mに達する箇所もあり、工事は不可能という見解もあります。
日本工営は政府と結託し、設計受注を独占して巨大化した企業ですが、辺野古基地建設に関しては、工事は無理と判断し、現在の計画を見直し、いったん中止すべきでしょう。
▼朝鮮人強制労働・継続する植民地主義
2015年安倍談話では、朝鮮への侵略も植民地支配も認めようとしません。植民地主義は継続しています。2018年に韓国で強制動員判決が出されるとそれを批判し、宗主国のように経済制裁までおこないました。安倍政治の継続する植民地主義の事例として朝鮮人強制労働についてみてみましょう。
戦時、日本はアジア各地で民衆を動員し、労働を強いています。その一つが朝鮮人強制動員です。
朝鮮での強制動員については朝鮮内での労務動員、日本への労務動員(1939年から45年)、軍人軍属の動員などがあります。植民地支配下での皇民化政策による動員は植民地民衆にとって強制性を持つものでした。
朝鮮の解放直後から強制動員被害者の運動がありました。韓国の民主化のなかで90年代に入って日韓の市民が連帯する形で被害者運動が形成されてきました。その結果が2018年の韓国大法院での強制動員判決です。その内容は、65年日韓請求権協定は個人の賠償請求権を処分するものではなく、企業に対する強制動員被害者の損害賠償権はあると認めました。反人道的不法行為である強制動員に関与した日本企業に対する「強制動員慰謝料請求権」を認定するものだったのです。
65年日韓請求権協定では、日本政府は植民地支配が合法であるという立場でした。植民地期の不法行為は未解決のまま、いまに至っています。それに対して、大法院判決は民間企業に対する賠償要求を認め、被害者の尊厳回復の道を示したのです。
65年の日韓請求権協定では、第2条の1で、財産、権利及び利益と請求権が「完全かつ最終的に解決されたこととなる」、その3で、「財産、権利及び利益」と「すべての請求権」に関して「いかなる主張もすることができない」と記しています。
この請求権をめぐる表現について、当時、外務省条約局長だった佐藤正二は「こちらはonce for allで全部の請求権をつぶそうという考えだった」。「殴られて裁判継続中で実体的にはまだ損害賠償請求権が発生していないけれども文句はいっているというものまでつぶしておかないといけないからあとに「請求権」という字句を条文にいれた」(「日韓会談における請求権・経済協力協定第二条に関する交渉」)。と語っています。
また、当時、外務省条約局法規課書記官、会談代表補佐・請求権問題担当であり、のち国際司法裁判所所長となった小和田恆(ひさし)は「原則は全部消滅させるのであるが、その中で消滅させることがそもそもおかしいものがある」。「理論的にいってどこまでのものを消滅させ、どこまでのものを生かしたらいいのかという問題と政策的にいってどこまでのものを消滅させなければいけないのかという問題」があった。そこで、「「請求権は放棄する」と書き、説明として外交保護権の放棄であるということにした」(「日韓会談における請求権・経済協力協定第二条に関する交渉 合意事項イニシャル後協定調印まで(追録)」)と話しています。
これらの証言は外務省による聞き取り記録に収録されているものです。外務省側が政策として請求権協定で解決済みとすることにしたものの、理論的には個人の請求権は消滅させることができないと判断していたことを示すものです。このような判断は韓国大法院判決での企業に対する強制動員慰謝料請求権の認定と対立するものではありません。
ところが日本政府(安倍政権)はこの民事の判決に対し、「国際法違反」、「請求権協定で解決済み」と反論して対抗したのです。そのため日韓関係は悪化しましたが、原因は日本政府の判断にあったのです。大法院判決をめぐっては日韓の対立として問題が表現されますが、日本人が帝国主義・植民地主義をどう克服するのかという歴史認識の問題としてとらえるべきでしょう。2021年、安倍政権を継承した菅義偉内閣は強制連行、強制労働の用語を適切ではないとし、教科書から消してしまいました。強制労働に関しては歴史否定がすすんでいるのが現状です。
このような朝鮮人強制労働の歴史否定の動きを克服し、問題の真相究明、尊厳回復、記憶継承をすすめることでしか、問題は解決しません。
おわりに 「昭和100年」を問う
2024年5月7日に「国による昭和100年記念式典の実現を目指す超党派議員連盟」が設立(代表麻生太郎)され、7月5日、政府は内閣官房副長官補に昭和100年関連施策推進室を設置しました。
24年4月29日の産経社説「昭和100年式典 日本を挙げて開催したい」をみると、次のように記しています。
「国を挙げて」「昭和天皇の遺徳をしのび、激動の日々に思いをはせる機会」、「昭和100年式典も、国民一人一人が激動の時代をしのび、将来の国づくりに生かす場にすべき」、「政府・軍部も国民も本土決戦を覚悟、昭和天皇が終戦の聖断を下し、大東亜戦争は終わった」、「(1952年に)主権を回復、高度経済成長を成し遂げた。戦争の荒廃を乗り越え、国民各層の力で復興・発展を果たしたのが昭和」、「4月29日は昭和天皇の誕生日にちなむ「昭和の日」」、「激動の年月だった昭和をしのび、式典開催に向けた準備を」。
内閣官房は12月24日に「「昭和100年」関連施策について」(案)を出していますが、昭和を「激動と変革、苦難と復興」の時代としています。2026年に政府主催の記念式典を挙行し、この「昭和100年」の機運を盛り上げるための施策をおこなうとしています。
このような「激動と復興」の動きで欠落するもの、特に「復興」「経済成長」の宣伝のなかで隠蔽されてきたもの、とくに隠されたままの戦争加害の実態、回復されていない被害者の尊厳について考えることが大切であると思います。日本の帝国主義を支えた人脈は温存され、復活し、植民地主義は継続しています。近年、歴史否定がすすみ、ふたたび被害者の尊厳を侵害する動きが顕著です。それを克服するとともに、グローバルな帝国主義による新たな戦争に抗するグローバルな反戦運動の主体形成も必要と思います。
韓国の作家の韓江(ハンガン)が2024年12月のノーベル文学賞授与式の講演で「現在が過去を助けることはできるのか?死者が生者を救うことはできるのか?・・・本当に過去が現在を助けている、死者が生きている者を救っていると感じるときがあった」。晩さん会スピーチで「文学を読み、書くという営みは、同じく必然的に、生を破壊する全ての行為に真っ向から対立するということです。この文学賞を受賞する意味を、暴力に真っ向から立ち向かう皆さんと分かち合いたいと思います」と語っていました。
ノーベル賞自体の評価はさておき、歴史を読み、書くという営みもまた、文学と同じであると思います。過去を変え、死者を生き返らせることはできないのですが、過去が、死者の存在が、現在を救うことはできます。王制は暴力です。たとえ儀礼的存在でも。構造化された暴力は見えない力で民を縛るものです。いらないものはいらないと、声をあげ続けていきたいと思います。
2025年2月22日、東京の集会での講演記録。竹内
主な参考文献
家永三郎『戦争責任』岩波書店1985年
藤原彰・荒井信一編『現代史における戦争責任』青木書店1990年
荒井信一『戦争責任論』岩波書店1995年
山田朗『昭和天皇の戦争』岩波書店2017年
山田朗『昭和天皇の軍事思想と戦略』校倉書房2002年
原武史『象徴天皇の実像 「昭和天皇拝謁記」を読む』岩波書店2024年
原彬久『岸信介』岩波書店1995年
宮崎学『安倍晋三の敬愛する祖父岸信介』同時代社2006年
姜尚中・玄武岩『大日本・満州帝国の遺産』講談社2010年
松村高夫『日本帝国主義下の植民地労働史』不二出版2007年
青木茂『万人坑を訪ねる 満州国の万人坑と中国人強制連行』緑風出版2013年
王紅艶『「満洲国」労工の史的研究』日本経済評論社2015年
姜在彦編『朝鮮における日窒コンツエルン』不二出版1985年
『水豊ダム現地調査報告集 戦前の「水豊」から「安野」の今へ 西松建設の戦争責任』中国人強制連行・西松建設裁判を支援する会1999年
広瀬貞三「「満州国」における水豊ダム建設」『新潟国際情報大学情報文化部紀要6』2003年
鷲見一夫『ODA援助の現実』岩波書店1989年
小林英夫『戦後アジアと日本企業』岩波書店2001年
倉沢愛子『インドネシア大虐殺』中央公論新社2020年
中野敏男『継続する植民地主義の思想史』2024年