3・9 フィールドワーク武蔵野と朝鮮人
2025年3月9日、「フィールドワーク武蔵野と朝鮮人」が「ヒロシマ講座」の主催でもたれた。案内は『朝鮮戦争と日本人 武蔵野と朝鮮人』の著者、五郎丸聖子さんである。
JR三鷹駅の北方に発動機(エンジン)を製造した中島飛行機武蔵製作所があった。日中戦争開始後の1938年に陸軍用の発動機工場の武蔵野製作所が開設され、1941年には隣接して西方に海軍用の発動機工場、多摩製作所が開設された。1943年に両工場は合併して武蔵製作所となった。1945年4月には重要軍需工場の国営化政策により、中島飛行機は第1軍需工廠とされ、武蔵製作所は第11製造廠とされた(以下、武蔵工場と略記)。
武蔵工場の労働者は5万人ほどとなり、そこには朝鮮人も徴用された。また、この工場の建設工事や地下壕の掘削にも朝鮮人が動員された。
●中島飛行機東伏見地下壕跡
西武新宿線の東伏見駅の南方に早稲田大学の大東伏見グラウンドがあり、横を石神井川が流れている。その南側が崖になっているが、そこから武蔵工場に向かって地下壕が掘削された。掘削工事は空襲が激しくなった44年末ころから始まったようである。工事を担った朝鮮人は宮本組、竹田組、城山組などに属していた。
中島飛行機の工事の多くを大倉土木が請け負っており、これらの朝鮮人の組は大倉土木の配下とみられる。宮本組の李鳳祚は調布飛行場、浅川での工事もしたという。中島飛行機武藏工場は空襲が激しくなると高尾山近くの浅川に疎開のための地下工場を建設した。大倉土木が請け負い、そこにも多くの朝鮮人が動員された。
すでに東伏見の壕は埋め戻され、痕跡は残っていないが、1969年撮影の壕の写真が残されている。
●中島飛行機殉職者慰霊碑
東伏見稲荷神社の北方に中島飛行機武藏工場の殉職者慰霊碑と碑文、殉職者名を刻んだ碑がある。殉職者慰霊碑の裏側には1948年建立とある。碑文には、武藏工場へと全国から徴用工が集められ、労働者は5万人を超えた。工場への10数回の爆撃により200人余の死者、500人を超える負傷者が出た。戦後の1948年に殉職者慰霊碑を建立し、1964年に神社に移したと記されている。この碑文は移転した1964年のものである。
殉職者名をみると、宋乙永、金本正鎬、豊田在興、完山玉信など、朝鮮人とみられる名も並んでいる。徴用され、同時期に爆撃によって亡くなったとみられる。
神社の入口の社務所の横には1939年4月に中島飛行機が寄贈した掲揚台が残っている。そこには「奉獻 中島飛行機株式会社武蔵野製作所」と当時の社名が刻まれている。
中島飛行機の工場への朝鮮人の動員については、愛知の半田工場では朝鮮北部からの集団動員、群馬の太田工場では函館の飛行場工事現場からの転送や陸軍軍属としての動員、鎮海で教育を受けての少年工としての動員などが確認できる。
武藏工場には炭鉱から送られてきた朝鮮人がいたという証言があるが、武藏工場への動員についての調査は今後の課題である。
●中島飛行機武蔵工場跡
中島飛行機の武蔵工場の西工場跡は現在、武蔵野中央公園となり、東工場跡は武蔵野緑町パークタウン(団地)となっている。また工場跡の北側にはNTT研究開発センターがある。
工場跡の中央部には「ここは東洋一といわれた航空機エンジン工場=中島飛行機武蔵製作所の跡地であり、マリアナ諸島からの日本本土空襲の最初の目標となった場所です」、「中島飛行機武蔵製作所について」、「B29のマリアナ基地配備と日本本土空襲」(2枚分)、「戦後の歩み」など5枚のパネルが展示されている。その記述から、中島飛行機での発動機生産の歴史、武蔵工場への空襲(初期の高高度精密爆撃、艦載機による空襲、4月の低高度爆撃・中高度爆撃、原爆模擬爆弾)、戦後の米軍住宅の建設と変換の歴史などを知ることができる。
また、工場には地下道が設置されていた。その一部が2016年に公園拡張工事にともない発見された。地下道の幅・高さは約2.7メートルあり、工場の地下を縦横に通っていたという。工場中央部のパネルの近くには遺構(床盤の一部)が展示されている。
公園入口には「都立武蔵野中央公園の歴史」の解説(1999年)、グリーンパーク緑地には工場への引き込み線跡を示すパネルも展示されている。「都立武蔵野中央公園の歴史」の解説文には「大東亜戦争(太平洋戦争)」の文字があった。それは戦後50年を経ても戦争肯定の歴史認識が存在することを示すようだった。
武蔵野市は2011年に最初に米軍空襲を受けた11月24日を「武蔵野市平和の日」とした。中央公園の「はらっぱ」は平和の象徴とみなされている。武蔵野市観光機構が出した「武蔵野の戦争遺跡を訪ねる平和散策マップ」には、戦争遺跡の地図と遺跡の説明が記されている。良く調べてあり平和行政の推進を示す案内チラシである。
空襲の実体験や遺物があることから、武蔵工場や地域への空襲被害を示すことができる。だが、日本が中島飛行機で製造されたエンジンや軍用機を利用してアジア各地で行なった空襲などの加害の事実の表現の表現はない。工場の建設労働や工場での労働に朝鮮人が動員されていた。それについても記されていない。戦後の平和の構築と継承にあたり、戦争責任、植民地責任の視点を踏まえて、地域の歴史をどう記していくのか、それが課題である。
●朝鮮人帰国記念碑
中島飛行機武蔵工場の近くの関前には朝鮮人が集住した。この地区の朝鮮人は中島飛行機関連の工場の建設や拡張、地下壕工事などに関わったとみられる。解放後には、朝鮮人連盟武蔵野支部関前分会が置かれ、朝鮮学校(学院)もできた。関前の飯場の親方だった崔南容は武蔵野支部委員長、妻の李仙汝は女性同盟の委員長となった。いまでは関前は市街地となり、飯場の建物などは残ってはいないが、戦後の歴史を追想できる。
武蔵野市民文化会館の裏手に朝鮮人の帰国記念碑が残されている。碑文には「記念 朝日友好永久親善 朝鮮民主々義人民共和国 帰國者植樹 一九五九年十二月」とある。帰国事業は1959年12月から始まるが、その最初の時の記念碑である。市役所の門の近くに木犀を植樹した際の碑であるが、市役所が移転するなかで現在の場所に保管されている。木犀の行方は不明であるという。この碑は21世紀に入って再発見された。
浜松の陸軍爆撃隊の基地建設は大倉土木が請け負い、そこに朝鮮人も動員された。浜松の爆撃隊はアジア各地に派兵され、加害を繰り返した。浜松にはプロペラを製造した日本楽器があり、中島飛行機の発動機工場もできた。浜松地域での最初の空襲も1944年11月27日のことである。武藏工場に向かう内の数機が湖西、磐田方面に投弾した。その後も毎月、東京の武藏工場や名古屋の三菱の航空機工場への爆撃の際に、浜松にも爆弾を投下した。原爆模擬弾も投下された。掛川には中島飛行機の地下工場が掘削され、多数の朝鮮人が動員された。浜松城公園には朝鮮人の帰国者の碑がある。
中島飛行機武藏工場の跡地を歩きながら、浜松の戦争の歴史をどのように表現していくことができるのかを考えた。 (竹内)
参考
五郎丸聖子「フィールドワーク 中島飛行機武蔵製作所と朝鮮人労働者たち その痕跡をたどる」2025年、同『朝鮮戦争と日本人 武蔵野と朝鮮人』クレイン2021年
「猫が星見た―歴史旅行」 https://nekohoshi.hatenablog.com/
梁裕河「ノート・中島飛行機と朝鮮人」『武蔵野女性史 あのころ そのとき 国策に絡め捕られて』むさしの市女性史の会2013年