NO AWACS
− 浜松を再び派兵拠点にさせるな − (1994年発行冊子から)
1 AWACSとは何か
@ AWACSの特徴 2
A レーダーとコンピューター 4
2 AWACSによる戦闘指揮
@ ペルシャ湾岸戦争91 7
A ボスニア戦争94 9
B 沖縄嘉手納のAWACSと朝鮮派兵 11
3 AWACS導入の背景
@ 日米の世界戦略 14
A AWACS疑惑 15
B AWACSと日本の軍需資本 16
4 NO・ AWACS
@ 政府防衛庁の詭弁 21
A AWACS導入配備反対 23
5 AWACS導入配備関係年表 25
6 浜松基地の歴史
@ 侵略・派兵拠点としての歴史 29
A 自衛隊浜松基地の歴史・年表 32
B 浜松基地の地図・概要 35
7 参考文献 37
はじめに
「難しい事はわからない」 という声をよく聞くが、 本音は、 わかる事、 考える事によって、 この 「そこそこに豊かな生活」 を手放したくないのではないか。 面倒臭い事は誰かがやってくれるだろうという脳天気な発想は主権者意識の喪失ともいえるだろう。
様々な問題を最も簡単に解決するのは、 それを自分の事でなく他人事にしてしまう事だ。 その場では非常に楽だが、 管理する側にとって、 こんなに好都合な事はない。 それぞれが個を主張するという複雑性や多様性 (つまり個性) が失われ、 平均化した人間ばかりになるからだ。 そして文字通りバラバラの 「個の連なり」 の無い集団となってゆくから、 管理はしたい放題となる。 麻薬中毒患者と同じで、 その場の快楽を得るために 「だって仕方無いでしょ」 と何でも許す事になる。 だが見放してしまったものに早晩自分が見放されるだろう。
行政側の 「こういうことが決まった」 、 「今度はこうなる」、 といった一方的な姿勢、 市民の主権の無視、 市民の政治参加を拒み、 スポーツやイベントなどの文化装置に誘導する姿勢は、 極めて政治的な操作である。 もちろん市民の側の主権者意識の欠落も問題だが、 相互補完的には、 こうした行政側の 「脱政治」 の強制が市民不在の反民主的情況を生んでいる。 政治を操る側にすれば、 市民がふれあい○○やスポーツなどのイベントに参加している方が都合がいい。 いいかえればタコ祭りもサッカーも、 アクトのコンサートも強力な政治的意図をもつ文化装置といえる。 さらに対抗する少数意見の排除がセットになれば立派なファシズムだ。
浜松市の広報課はNO−AWACS−広瀬隆講演会の 「広報はままつ」 への掲載依頼を拒否した。 市の行事を中心に編集しているのと、 物理的に締め切りに間に合わないという理由だ。
では行政としてAWACSの情報を何らかのメディアに載せたのか?否である。 その予定も無いそうだ。 またNO AWACSの会のメンバーが教育委員会に出向いて講演会の後援を申し入れたが「政治的なものはだめ」 という理由で断わられた。 プロレスなどは後援するのにである。 これらの事から読み取れるのは、 一方的な行政側の情報のタレ流しと市民の主権の無視だ。 「上意下達」 。 国が決めた事だから仕方が無い、 という意識が 「主権者が誰なのか」 という民主主義の根本をはき違えた、 超危険な石頭をしてあの膨大な犠牲を出した戦争にも懲りずに同じ轍を踏もうとしている。
「遠州にショパン」 というシュールな発想 (?) にため息をついた人は少なくなかった筈だ。 まるで骨粗しょう症のように入居率の低い、 でかいだけのアクトビルをでっちあげ、 次はAWACSだという。 これは好ききらいどころの話ではない。 なにしろ現代戦の中枢兵器だ。 B−767の背に巨大なレーダーの円盤が乗っている。 音速こそ超えないが憲法9条の壁は完全に超えてしまう。 その衝撃波には民主主義なんぞブッ飛ぶだろう。 具体的な音の大きさ、 形の大きさよりも、 目にみえない平和への影響力、 破壊力のほうが問題だ。 ともかく、 二つの巨大な皿は市民の無関心を糧にして浜松の空に舞う事となる。
腐りかけた、 古い楽器に何億もの金を注ぎ込んでも、 百人以上もいる路上生活者には目もくれない。 今年二月の凍死者を始まりとするのか、 終とするのか…。 秋の日のヴィオロンの溜息とともに路上生活者のうめきが聞こえる。
すべては浜松市民五〇万人の意識にかかっている。 見栄と利権のための膨大な出費を 「文化」 と許し、
戦争のための膨大な出費を 「国家優先」 と許すのか。
たった一人の路上生活者の命を救う事も出来ない五〇万都市が声高に叫ぶ 「文化」
とは一体、 何なのか。 (高木)
1 AWACSとは何か
@ AWACSの特徴 AWACS (エイワックス)とはAirborne Warning and Control System の略であり、 空中での早期警戒・管制・指揮をおこなう軍用機のことである。 AWACSは全作戦中、 上空に滞在し、 警戒と作戦指揮を担う$「界危機に最も敏感に反応し、$「界最高の能力をもつとされる作戦指揮機である。
AWACSは三次元レーダーシステム、 コンピューターデータ処理・伝達システム、 指揮管制システムをもつ。 すでに実戦に使われているボーイング社のE3CAWACSの場合、 一六〇〇q先へと派遣されて六時間の哨戒をおこなうことができ、 半径約五〇〇q内の目標を探知し、 空中指揮をとることができる。 AWACSは陸上戦闘を支援し、 地上指揮能力が及ばないところで侵攻作戦の指揮をとることができる°とぶ司令部である。
浜松基地へ配備される予定のE767AWACSの場合、 七〇〇〇m上空において一三時間以上の航空ができ、 レーダー捜索範囲は半径五五〇qにおよぶという。 また空中給油なしで八三四〇qから九二六〇q先へと飛行することができ、 日本から遠く離れた洋上で監視し、 攻撃指揮をおこなうことができる。
これらがAWACSの特徴であり、 AWACSは相手国内部への侵攻作戦をおこなううえでかかせない兵器なのである。
AWACSはボーイング社のB707の機体にウェスティングハウス社のレーダーを搭載して製造されてきたが(E3AWACS)、 日本へと導入されるAWACSはB767を改造したAWACSである。
機体となるB767−200ERは長距離用機体であり、 三菱重工等の日本企業も機体生産に関与している。 B767の翼幅は四七・五七、 全長は四八・五一、 重さは一七五トン、 最高高度は一万〜一万三〇〇〇、 マッハ〇・八で飛行する。
B767のAWACS用エンジンにはゼネラルエレクトロニクス製のCF6・80C2が二基装備され、 B767の機体にウェスティングハウス社製のレーダーがとりつけられる。
A レーダーとコンピューター E3AWACSにはじめに搭載されていたのはウェスティングハウス社製のAPY1レーダーである。 このレーダーは直径九・一四、 厚さ一・八三であり、 APX103敵味方識別装置 (IFF) のアンテナも収容されている。 レーダーロートドームは一〇秒で一回転する。 レーダーの通常の捜索距離は約四〇〇qであり、 六〇〇個の目標を探知・識別し、 二〇〇個以上のエコーを同時処理できる。
APY1レーダーを改良し、 E3AWACSに新たに装備されたAPY2レーダーは洋上監視能力をもち、 洋上モードで低速移動目標、 洋上停止目標までをスクリーンに表示できる。 それにより洋上部隊とAWACSとの連携ができるようになった。 E767AWACSに搭載される電子装備はE3Cの改良型であり、 最近の巡航ミサイルなどの早期発見ができるようになっている。 E767AWACSにはこのAPY2レーダーが装備される。
レーダーでとらえた多数の目標の同時処理をIBM製のCCIコンピューターがおこなう。 この大型多重処理能力をもつコンピューターで情報処理がなされ、 機内の状況表示コンソール (SDC) にしめされる。 SDCはE3Aに九基、 E3Bに一四基、 E3Cで一九基、 E767で一四基が配置され、 他機種との情報交換もおこなうことができる。
CCIコンピューターからCC2コンピューターへと開発がすすむことにより、 初期CCIモデルの五倍以上の能力をもつようになったとされる。 E767AWACSへはこのCC2が装備される。
AWACSにはコンピューターの処理データを地上基地の三軍統合戦術情報伝達システム (JTIDS) に連係し、 味方攻撃機へと攻撃司令を出す、 TDMA通信システムや相手の電波妨害 (ECMシステム) に対抗するECCMシステム、 全天候下で自力行動できる航法システムも装備されている。
最近のAWACSには任務総合機材 (ブロック30/35) が換装され、 新電子支援手段 ( ESM) によって五四〇q以上から相手目標を識別できるようになっている。
AWACS運用のノウハウはアメリカからブラックボックス (秘密) の形で導入される。 日本は指揮・管制・情報の面で米軍に依存・従属することになり、 航空自衛隊とE767AWACSは米軍の戦術航空団の一部隊としての役割をもつようになるだろう。
レーダーとコンピューターを装備した°とぶ司令塔であるAWACSが日本へと導入され浜松に配備されるという。 AWACSは派兵することによってその能力を最大限に発揮することができる。 AWACSは危機対応能力、 侵略的機能の高い兵器なのである。 AWACS導入配備により、 「自衛隊」 は海外派兵能力を高め、 派兵現地での制空権を確立できるようになるのであり、 浜松はその派兵拠点となっていくのである。 そしてE767AWACSは米軍のAWACSと共同して運用され、 米軍の一翼として行動するように配置されていくのである。
2 AWACSによる戦闘指揮
@ ペルシャ湾岸戦争 (ガルフウォー)
米軍E3AWACSとAWACS要員は一九七九年三月からすでにサウジアラビアへと派兵されていた。 イラン・イラク戦争時から訓練や地勢の監視をすすめ、 戦争の準備をしていた。 湾岸戦争時には米軍AWACSが五個 (サウジ内四個、 トルコ内に一個) の軌道、 サウジのAWACSが一個の軌道を設定し、 国境沿いを飛行して警戒、 多国籍軍に情報を伝え、 攻撃の指揮をした。
一九九一年一月から二月の約四〇日間の戦闘における十万回以上の作戦の全てにAWACSの支援がおこなわれ、 AWACSからあらゆる部署に情報が伝達された。 AWACSは三七五回の飛行、 五千時間の任務を完遂した。
全航空作戦のレーダー画像をAWACS機のテープを使って完成することができたという。 AWACSは低高度で飛ぶあらゆる場所の敵機を探知・追跡し、 味方機に確認し管制・指揮をした。
AWACSと迎撃用のF15は、 最後の攻撃機がミサイルと爆撃を投下するまで空中にとどまり、 F15は空中給油をうけたのちに基地へと帰った。
AWACS指揮下にF15は行動し、
イラク側のミラージュを迎撃・撃墜した。
AWACSの下に制空権を多国籍軍が掌握していったのである。
AWACSは多国籍軍の攻撃・迎撃の指揮、 管制をおこなった。 多国籍軍の 「ピンポイント攻撃」 はE3AWACSの指揮・統制・通信システムのもとにおこなわれていった。 AWACSは現代の航空戦の主役ということができる。
A ボスニア戦争 一九九四
一九九四年二月、 AWACSの指揮下でNATO・米軍によりセルビア機ガレブが撃墜された。
NATO軍のAWACSはイタリアの基地から発進し、 ハンガリー上空とアドリア海上に軌道を設定し、
約九三〇〇上空からボスニア上空を警戒していた。 ハンガリー上空からサラエボまで約三二〇qであり、
AWACSはサラエボを含めてボスニア・ヘルツェゴビナ、 セルビアを完全に監視できる。
AWACSからデータがNATOの共同空軍作戦センターへと送られた。 作戦センターはイタリアのセンセンゾにあり、 ここからAWACS経由でF16に撃墜の許可があたえられた。 F16はガレブ六機のうち四機を撃墜した。 この戦闘に参加したF16の二編隊のうち一編隊はAWACSから飛行方向指示をうけて現場へと到着している。
このようにAWACSは国境ぞいでの警戒、 情報連絡、 誘導・指揮・統制をおこなうのであり、 戦闘の帰趨にかかわる兵器なのである。 AWACSは戦争地域へ派兵されることで兵器としての意義をもつのである。
B 沖縄・嘉手納のAWACSと朝鮮派兵
沖縄米軍嘉手納基地には第九六一空中警戒管制中隊のAWACSが三機配備された
(一九八〇年) 。 現在は二機である (一九九三年に一機減) 。 この部隊は米ティンカー空軍基地の第五五二空中警戒管制航空団の中隊であり、
同航空団はアラスカ・アイスランド・沖縄・サウジへと部隊を派兵している。 嘉手納にはAWACS司令要員として太平洋航空作戦スタッフ分遣隊も派遣されている。
現在沖縄のAWACSは第五空軍 (横田) 第一八航空団第一八作戦群に所属している。 最近空軍組織が再編されてこのようになった。 沖縄のAWACSは 「アイズオブパシフィック (太平洋の目)」 というニックネームをもっている。 沖縄のAWACSはE3B型であり、 海洋監視システムが搭載されている。 一九九一年六月、 日本の 「思いやり予算」 によって九億円をかけて専用格納庫が建てられている。
AWACSはF15・F16、 その他の軍機と共に対朝鮮戦時を想定して軍事訓練をくりかえしている。 これらの部隊を米軍横田基地の司令部が指揮している。 「チームスピリット」 という米韓の共同訓練では横田は司令基地となり、 横田へは軍用機が飛来し、 そこにはE4B (核戦争司令機)、 EC130 (空中指揮機) そしてE3AWACSも飛来している。 日米共同作戦体制下、 日本のAWACSはこれらの在日米軍の司令・指揮機と共同して実戦に加わっていくことになるであろう。
沖縄のAWACSは韓国烏山の米韓防空管制システムと連結し、 日米軍のF15・E2Cとをバッジシステム (警戒・通信・迎撃システム) でむすび、 AWACS指揮下で共同訓練を重ねている。 この共同訓練のなかで日本のF15は米AWACSの指揮をうけているのである。
沖縄AWACSは朝鮮半島東西の沿岸や国境付近での哨戒、 米韓共同の軍事訓練の指揮をくりかえしている。 一九九四年の状況をみれば、 三〇〇〜四〇〇機の大編成部隊が月に一度は偵察・攻撃・迎撃・支援の諸訓練を実施している。九四年八月の動きをおえば、 対地攻撃・制空戦・電子戦・空中給油・夜間空中戦・空輸・夜間空中給油・爆撃・対潜作戦・上陸作戦・大型輸送・偵察などの訓練が連日のように実施されている。 朝鮮北部への偵察は月に二〇〇回以上おこなわれ、 八月のAWACSの哨戒はわかっているだけでも一六回におよんでいる。
このような米軍AWACSと共同して日本のAWACSは動くのであり、 戦時には警戒指揮の中枢として機能する。 米軍指揮下、 自衛隊は朝鮮戦時には 「後方支援」 として位置づけられ、 AWACSは前線の警戒指揮を担うことになるだろう。 湾岸戦時、 サウジのAWACSに米軍将校が同乗し、 サウジAWACSが米軍の一部となったように、 日本のAWACSは米軍の指揮下、 情報を米・韓軍へと伝え、 攻撃、 迎撃作戦の中心的役割を担うことになる。 またAWACSは戦時の防衛 (TMDシステム) の中核とされている。
一九九四年一一月八日から一八日にかけて日米統合軍事訓練 (キーンエッジ) がおこなわれた。 日本側一万三〇〇〇人、 米側一万人が参加、 空母キティホークの参加もあった。 この演習では両軍の統合化が重視され、 空自千歳基地から米軍F16が発進したり、 陸自装甲車に米兵が乗って指揮をとるといった姿がみられた。
沖縄嘉手納基地からはAWACS、 空中給油機 (KC135) が横田基地へと展開した。 AWACSは小松基地北西部、 三沢基地東部等の訓練地域へと派遣され、 米軍機、 自衛隊機の管制・指揮をおこなっている。
日米の指揮所と実動での統合演習にみられるように米軍と自衛隊の部隊が互いに支援をうけながら前進攻撃をする訓練が重視されている。 空軍においてはAWACSの管制指揮が戦闘の要になっている。
浜松に配備されるAWACSがこのような日米の統合指揮のなかにくみこまれていくことはあきらかである。
防衛庁はAWACSの運用について 「日米共同での運用は検討していない」 「日本の防衛のための作戦に使用する」 と語っているが、 すでに日米の共同での作戦機の運用は実態としておこなわれているのである。 AWACSはその中枢機なのである。
浜松は以上のようなAWACSの派兵拠点・センター的機能を担うことになるだろう。 地域への軍事的監視は強められ、 朝鮮人等外国人への排撃がおきる危険性も高い。 朝鮮で戦争の危険が高まればAWACSは朝鮮半島へと飛んでいくことになる。 AWACSの半径五〇〇qを警戒するレーダーは朝鮮北部をその監視下におくことによって早期警戒の意味をもつ。 それは 「自衛」 の名による参戦の道である。 AWACS配備により浜松は前線基地となり、 実戦中枢機能をもつことになるのである。
3 AWACS導入の背景
@ 日米の世界戦略
アメリカは一九八〇代後半、 日本に対し、 AWACS、
イージス艦、 空中給油機などの購入をもとめた。 これらの装備により日本の海外派兵能力はたかまる。 それは海外資産が増加しその権益をみずからの軍事力で保持しようとする日本の意志と合致することでもある。
日本とアメリカが共同して戦争に参加できる体制づくりが現在すすめられているのである。
「米ソ冷戦」 以後、 アメリカは世界戦略をみなおし、 地域紛争制圧戦略へと戦略を転回させた。 日米安保体制下、 日本の派兵国家化がすすめられている。 日本のPKO派兵がすすみ、 多国籍軍への日本の参加がねらわれている。
アメリカは軍産複合体の意思を体現してイラクへの戦争、 朝鮮への戦争挑発をおこない、 それをとおしてアメリカの軍需資本はハイテク兵器を各国へと売りこんでいる。
一九九二年一月のブッシュ・宮沢の日米会談において、 %米はアジア太平洋地域で 「死活的利害」 を有し 「平和と安全」 のために協力するとされた。 ここでブッシュはAWACSの購入を日本に要求しているのである。 日本の資本侵出がすすみ、 それにともなう海外資産・資源・市場の拡大は、 日本の軍事的派兵をもたらしている。 日本政府は 「国際貢献」 「国連協力」 の美名で民衆を動員し、 日米共同作戦体制を実際に発動させることにつとめ、 派兵し戦争のできる体制づくりをすすめている。 AWACS導入配備はこのような派兵・戦争体制づくりの一環なのである。
一九九四年八月の防衛問題懇談会 (首相の私的諮問機関) の報告をみると、 自衛隊は 「能動的秩序形成者」 とされ、 自衛隊の実戦にむけての装備の強化がねらわれている。 そこでは装備のハイテク化、 PKFへの参加、 空中給油機の導入、 長距離輸送能力、 海上輸送への支援、 イージス艦の増強、 防空戦能力の向上、 TMD (戦域ミサイル防衛) システムの研究などが課題とされている。 日米安保体制はアジアから全世界へと適用され、 実際に海外へと派兵できる体制づくりが着々とすすんでいる。 AWACSは警戒・指揮機能をもつ派兵用兵器であり、 ハイテク兵器強化による派兵体制づくりをもとめる日本政府にとってかかせないものとされているといえる。
AWACSはアメリカの開発した地域戦争時の戦域ミサイル防衛システム (TMD) 計画になくてはならないものとされる。 TMDは相手の戦域弾道ミサイルを軍事衛生とAWACSで探知し、 イージス艦・ペトリオット・THAADのミサイルで迎撃するというものである。
AWACSはTMDシステムにおいて警戒の役割をもつものとされているわけであるが、 それ以上に、 相手の弾道ミサイルから 「自衛」 するために、 ミサイルが発射されるよりも早く相手の基地を攻撃する指揮機としての役割が重視されるといえるだろう。
AWACS導入配備に反対することは日本を再び派兵国家としないという意味で意義あることである。
A AWACS疑惑
アメリカの軍産複合体の購入圧力により、 日本は一九九一年〜九五年度の中期防衛力整備計画でAWACSを四機購入しようとした。しかしボーイング社はB707の生産ラインを閉じ、 ラインを再開してのコスト増をふくめ、
B707AWACSを一機七〇〇億円の価格で提示した。 そのため日米のAWACS交渉は難航した。
その後、 一九九一年十二月、 ボーイング社はボーイング767改AWACSを提示した。
翌年九二年一月ブッシュの来日時、 「アクションプラン」 でAWACS購入が明示された。 ブッシュ政権はAWACSの売りこみをつよめたのである。 このとき軍産複合体の代理人ら (国防副長官ドナルドアトウッド [元GMヒューズエレクトリック社長]) 、 国防次官ポールウォルフォウィッツ [元スタンダード石油AMOCO重役]) らの働きかけがおこなわれ、 ロビイスト (ジョンカーボウ・軍事企業コンサルタント、
弁護士) らが介在した。 一九九二年六月の金丸信・小沢一郎の訪米はAWACS一機を五七〇億円とする地ならしといわれている。
九二年十二月には畠山防衛局長が訪米、 リリー国防次官補、 ペンドレー国防次官補代理と交渉、
一機を五七〇億円とした。 この九二年十二月政府は九三年度での二機購入を決定し翌年度の国会で予算案の承認をうけた。
このAWACS導入に際し、 小沢、 金丸らAWACS導入をおこなった議員に汚職があったといわれている (一説によれば一機につき五〇億として小沢一郎に二〇〇億円が流れたといい、 他説によれば金丸信に五七億円の口利き料が流れたという)。
一九九三年度は一機五五一億円、 九四年度は一機五二六億円の価格であるが、 九四年度予算では五・五億のみ支払い、 残りは後年度負担としているように長期分割の支払なのである。
* 一九九四年九月の二機分の契約額は約一〇五一億円となった。 伊藤忠に対しては機体二機分を四七三億円で発注している。
B AWACSと日本の軍需資本
B767は一九七〇年代、
日・米・伊の共同開発によってつくられている。 三菱重工など三社が共同出資会社をつくり、
日本国内で胴体生産をしている。 B767が売れると日本企業へも利益が流れるのである。 政府はB767AWACS用の輸出を武器輸出ではないとしている。 伊藤忠はこのB767AWACSを
「輸入」 して利益をあげるのである。 空中給油機にもB767が使用される予定といわれている。
一九九三年十一月、 AWACSの機体整備を川崎重工、 エンジン整備を石川島播磨、 電子機器整備を東芝が担当することに内定した。
機体整備をおこなうのは川崎重工岐阜工場の技術となるだろう。 岐阜工場は航空自衛隊各務原基地の横におかれ、 日常的に軍用機の整備をおこなっている。 川崎重工は戦術ミサイル、 航空機、 潜水艦等の製造をおこなってきた企業であり、 三菱重工とならぶ軍需産業である。
エンジン整備には石川島播磨の田無工場 (東京都) の技術が利用されるだろう。 田無工場はジェットエンジンの専用工場であり、 これまでF15、 P3Cのエンジン製造をおこなってきている。
電子整備をおこなう技術は、 東芝の川崎 (小向、 堀川町) 、 日野、 青梅、 鶴見の各工場からのものとなるだろう。 これまで東芝はレーダー、 コンピューターを生産し、 対潜哨戒レーダー、 対迫レーダー、 地上電波妨害装置、 対空誘導弾システム、 管制進入装置などの製造をおこなってきた。
AWACS整備で東芝は年間一億円の利益をあげることができるという。 さらに整備によって米軍の電子技術の習得も同時におこなわれていくことになる。
AWACS導入は日本の軍需企業に軍事知識と整備メンテナンスによる利益を与えていくことになり、 その知識は戦争に利用され、 企業の得る利益は国税から支出されるのである。
戦争で流れるのは民衆の血、 そして軍備の金は民衆の汗から生まれる。 それらをむさぼる者は一部の支配階級、 独占資本である。 米日の軍需産業とそこから資金をえる政治家たちのための戦争に加わってはならない。 再び浜松を派兵拠点としてはならない。
4 NO!AWACS
@ 政府・ 防衛庁の詭弁
一九九四年八月三〇日、 防衛庁はAWACSの浜松基地配備を浜松市に通告した。 九月には防衛施設庁から浜松市へとA四版四枚の簡単な説明書が届けられた。 E767AWACS導入の
「重要性」 と 「概要」 がそこには記されている。
その特徴をあげれば以下のようになる。
・地域紛争の危険性等の不安定要因があり、 我が国周辺地域の軍事動向を効果的効率的に情報収集し、 防衛を近代化し着実な防衛努力をおこなうこと。
・我が国領域及びその周辺の海空域での早期警戒・監視の必要性
・B767のすぐれた飛行性能とレーダー・コンピューターの高い任務遂行能力。
・遠隔地へ進出して陸地・海面上空の広範なエリアを長時間哨戒ができること。
・通信装置により複数の相手 (バッジシステム・要撃機・E2C等) と通信できること。
・E767は、 航空侵攻に対する早期警戒監視を任務とし専守防衛の趣旨に反しない。 また武装がない。
・騒音はT4と同等であり、 離陸86 、 着陸92 である (滑走路から約一q地点)。
防衛庁の文章は防衛庁 『日本の防衛』 (一九九三年) にあるAWACSに関するものとほとんど同じである。 そこではAWACSのもつ派兵・侵攻作戦での指揮能力についてはふれられていない。
AWACSは危機対応用の兵器として派兵され、 そこで警戒し攻撃・迎撃の指揮管制をおこなう空とぶ司令塔として開発されたのであり、「専守防衛」 用の兵器ではない。 防衛庁はAWACSについて 「専守防衛」 用、 「武装のない」 ものと記して、 その指揮能力、 他の要撃機を率いての戦闘能力についてはふれようとしないのである。
防衛庁は朝鮮半島での戦争を想定している。 そのためAWACSを朝鮮半島沿岸へ派兵し、 「北」 を哨戒し、 攻撃・指揮のできる兵器を準備し、 それを浜松に配備し、 浜松を派兵拠点としようとしている。
今回の配備通告は地方自治体の意向を無視し、 一方的に通告したものであり、 AWACSの今後の運用については一切示されていない。 また浜松基地配備の理由やAWACS導入配備にともなう基地被害についても騒音値のみしか示していない。その騒音値はT4と同じ程度であり、「問題ない」 といわんばかりである。
AWACSが持つ渡洋しての指揮管制能力をおおいかくし、 「専守防衛」 用・「非武装」 兵器としてAWACSを示す防衛庁の配備通告は浜松市民を愚弄する詭弁である。
A AWACS導入配備反対
NO
AWACSの会は以下の理由でAWACSの導入の浜松配備に反対している。
●軍隊・核のない社会を目指す考え方とあいいれない。
●芸術の街づくりににあわない。
●平和・人権・環境 運動と軍拡とは対立する
●日本国憲法 (第九条) に違反している
●政府自治体は市民の平和的生存を追求すべきである
●浜松を再び海外派兵の拠点にしてはならない
●AWACSは浜松を実戦中枢基地とする。
●浜松のAWACSは在日米軍のAWACSと共同し海外派兵・戦争に協力する可能性が高い
●基地被害(騒音・事故など) が増加する
●ボーイング社等アメリカの軍 需産業のために高い兵器を買う必要はない
●東芝・川崎重工・石川島播磨などの日本の軍需産業はAWACS整備で利益を得ようとしている
●三菱重工等が生産するB767機体のAWACS用輸出は武器輸出である
●海外派兵を可能とする武器の配備よりも過去の戦争犯罪を処罰し戦後補償の実現を求める
●基地の強化ではなく基地の返還・廃止へと第一歩を踏み出すべきである
●憲法違反の派兵基地は子供たちの未来に必要ない。
現在、 日本政府は天皇族の外交派遣をとおして天皇の元首化をつよめ、 自衛隊の海外派兵をくりかえして日本国憲法の基本的精神をふみにじっている。 天皇制と軍隊を利用しながら日本の独占資本・支配階級は海外での権益を守るために巧みに言葉をあやつり、 民衆を操作・動員して、 戦争のできる体制づくりをすすめている。
AWACSの任務は他の要撃機を率い、 国境沿いに派兵されて、 他国の民衆を殺りくするための指揮をおこなうことなのである。 浜松はAWACSの派兵拠点となり、 実戦中枢機能を担うようになる。
政府が 「国策」 の名によって憲法の平和条項を無視し市民の平和的生存をおびやかすのであるならば、 そのような政府は市民によって変革されるべきだ。 朝鮮・韓国をはじめ外国の隣人たちと共に生きるためには日本政府の派兵体制づくりの方向をかえていかなくてはならない。自衛隊員の生命を 「国際貢献」 の美辞麗句によって派兵することで奪ってはならない。 自衛隊の兵士の人間としての権利が擁護され、 抗命権がかちとられるべきだ。 戦争で利益をえる者たちのために民衆の子弟を兵士にして殺させてはならない。
日本は戦争責任・戦後責任をとろうとせず、 自国の憲法を都合のよいように解釈し運用している。 このような日本のありように国際的信頼はないだろう。 アジアの民衆に信頼されるありようを日本は追求すべきであり、 そのためには、 天皇制の戦争責任をはっきりさせ、 アジアの戦争被害者に戦後補償をおこない、 若い世代に過去の侵略の事実を語り伝えていくことがもとめられている。 日本政府はAWACS導入配備計画を撤回し、 軍縮と基地返還にむかって歩むべきである。 政府の行為による戦争でたたかわされる前に戦争とたたかっていくことが大切だ。
AWACSはアジアの民衆の 「平和と安全」
にとって脅威であり、 そのような侵略的兵器を浜松の地からなくしていきたい。 AWACSが浜松に配備されなければよいというものではない。 日本へのAWACSの導入そのものがまちがっている。
NO!AWACS
AWACS導入経過年表
1977.3 E3A・AWACS、 米軍、 戦術航空軍団第552早期警戒管制航空団に配備 (ボ ーイング707にウェスティングハウスレーダーを搭載)
1977 日本・E2C (空中早期警戒機) の導入を決定 (13機を三沢配備へ)
1980 米軍沖縄嘉手納基地にE3AAWACSを配備 (3機)
1981.1 日本、 E2C基幹要員を派米し教育
1981.12 日米共同訓練にAWACS (以後日本の管制官がのりこむケースも)
1982 NATO E3A・AWACSを導入 (18機)
1983.11 日本、 E2C臨時警戒航空隊として発足 (三沢)
1984 E3A・AWACSの改良型、 E3B・AWACS開発 (CC−2搭載)、 E3Aの改修機はE3C・AWACSとなる。
1985 防衛庁、 AWACSと空中給油機の導入検討
1986 サウジアラビア、 E3A・AWACSを導入 (5機)
1989.11 米議会、 日本に対し 「共同防衛」 への 「貢献」 を要求 (AWACS、 イージスシステム、 空中給油機の導入)
1990.8 米、 日本政府にAWACS、 空中給油機導入を要請
1990.9 米安全保障政策センター、 AWACS12〜14機導入を提言。 米議員70名、 4機のみの購入を 批判 (10数機を要求)
1990.12 日本、 1991〜95年の中期防衛力整備計画でAWACS4機の導入を計画へ
1990 イギリスE3DAWACS配備 (7機、 1986年導入決定)
1990 フランスE3FAWACS配備 (4機)
1991.1 ペルシャ湾岸戦争においてAWACS指揮下で多国籍軍の攻撃がおこなわれる。
1991.6 ボーイング社B707ラインの再開コストをふくめ1機700億円近い割増価格を提示、 日本・防衛庁との交渉難航、 7月、 購入を1年みあわせる。 米議員ら購入圧力。
1991.9 米シューマー議員ら (64名) 海部首相にAWACS予算の復活を要請。
1991.12 ボーイング社、
B767改AWACSを提示
1992.1 ブッシュ来日、 「アクションプラン」 でAWACS購入を明記、 売り込み強化、 ペンタコン 財閥代理人の策動
1992.6 金丸信・小沢一郎訪米、 AWACS価格交渉、 1機570億円でまとめる方向へ ( ロビイストの介在)
1992.7 米側、 価格引下げの努力を表明、 9月ボーイング社約100億円の値下げへ
1992.12 畠山防衛局長、 ペンドレー国防次官補代理会談 (アメリカにて) 1機570億円へ
1992.12 日本予算案でAWACS2機購入へ (AWACS疑惑)
1993 日本国会、 予算案承認 (AWACS導入へ)
1993 沖縄米軍嘉手納基地のAWACS3機から2機へ
1993.3 日本政府、 AWACSの胴体輸出は武器輸出3原則にふれないと見解表明
1993.7 ボーイング社AWACSのメンテナンス技術を日本企業へ移管へ
1993.9 台湾、 グラマン社AWACSを4機発注へ
1993.9 日本 AWACS2機発注 (1機551億円)
1993.11 東芝、 AWACSの電子部門、 川崎重工〜機体、 石川島播磨〜エンジンの整備担 当へ内定
1993.12 日米、 戦域ミサイル防衛をめぐり初会合
1994 日本AWACS追加2機分の予算成立 (1機、 543億円) 94年度予算での支払 いは5.5億円 (残りは後年度負担) 。
1994.7 村山首相 AWACSは憲法内と発言
1994.8 AWACSの浜松配備を防衛庁決定
1994.9 日本、 AWACS2機発注 (1機約526億円) 伊藤忠へは2機機体分として473億円で発注
1995〜96 浜松基地の滑走路とエプロンの改修
1995.1 米ウィチタ工場でB767をAWACS用に変更工事
1995.10 米シアトル工場でB767に電子設備装備
1996.4〜 米シアトルで7ヵ月間の飛行テスト
1996.10 米AWACSの整備
1998.1 米から最初の2機を日本へとひきわたし (浜松配備)
1999年追加2機のひきわたし (浜松配備)
6 浜松基地の歴史
@ 派兵拠点としての浜松 アジア太平洋戦争と浜松基地
二〇世紀に入り植民地獲得のための帝国主義国家間戦争がはげしくなるなかで、 一九〇七年、 浜松への歩兵第六七連隊の設置が決定された。 この部隊は第一次世界戦争にともない、 中国・青島へと派兵され、 中国侵略の尖兵となった。
第一次世界戦争後の 「軍縮」 と軍備の近代化のなかで、 一九二五年、 浜松の歩兵六七連隊は廃止され、 歩兵部隊は豊橋一八連隊に統合された。 浜松へは豊橋一八連隊第三大隊の分遺隊が配置された。 一方、 一九二六年に浜松飛行第七連隊、 一九二八年には高射砲第1連隊が浜松に配置された。 第一次世界戦争後の軍近代化、 総力戦体制の確立の流れのなかで航空戦力が重視され、 浜松の基地はその一拠点として位置づけられたのである。
飛行第七連隊は爆撃部隊として編成され、 一九三一年の日本帝国主義による 「満州」 侵略戦争にともない、 中国東北部へと派兵された。 一九三二年の上海での戦闘においては、 浜松の高射砲部隊が派兵された。 浜松での重爆教育は中国民衆への爆撃の形で実戦に使われた。 それにより多くの中国民衆が殺害された。
一九三三年には航空兵の教育基地として陸軍飛行学校が浜松に開校された。
一九三七年、 日中全面戦争のはじまりとともに浜松の軍事基地は拡張され、 一九三八年、 第七航空教育隊、 各務原陸軍航空廠分廠の設置、 一九三九年、 飛行第六二戦隊の編成、 一九四一年、 航空通信教育隊、 第五教育飛行戦隊の編成などがおこなわれた。 このような形で航空戦力の強化がおこなわれていったのである。
基地拡張では朝鮮人労働力が使われ、 また三方原基地の排水用貯水池が掘削されたが、 そこでも朝鮮人労働者が数多く使われた。
対ソ、 ノモンハン戦闘以降、 化学戦が重視され浜松でも化学戦研究がおこなわれ、 一九四四年には三方原教導飛行団として独立した。 この部隊は毒ガス戦研究、 たとえば毒ガスを使っての雨下実験等をおこなっている。
アジア太平洋戦争勃発を前後して、 浜松の工場は軍需生産へと移行した。 中島飛行機、 日本楽器、 浅野重工業、 鈴木織機、 国鉄浜松工機部、 日東航空他、 多くの工場で戦争のための生産がおこなわれ、 生産された兵器はアジア侵略に用いられた。
アジア太平洋戦争がはじまると浜松の部隊はシンガポール他東南アジア各地へ派兵された。 一九四二年には中島飛行機浜松製作所の建設が始まった。 不足する労働力を補うために朝鮮半島、 中国 (華北) から強制連行がおこなわれるようになった (静岡県内へも連行された)。
日本帝国主義が敗北する局面で、 空襲が増加した。 一九四五年に入ると空襲は更に激しくなり、 基地、 工場は標的とされ、 都市部は焼夷弾攻撃をうけ、 艦砲射撃もおこなわれた。 一九四五年六月十八日の浜松大空襲で浜松地域は大きな打撃をうけた。 これらの空襲で三〇〇〇人以上の市民が生命を失った。
沖縄戦において浜松の航空部隊は特攻隊を編成している。 「本土決戦」 にむけて浜松でも義勇戦闘隊が民衆を動員してつくられた。 遠州には 「護古部隊」 が 「本土決戦」 用に配置された。 軍需工場は疎開し、 建設労働力として朝鮮人が動員された。
一九四五年八月の敗戦時には三方原で兵士の反乱がおきたという。
浜松は侵略・派兵拠点であり軍事基地・軍需工場が集中していた。 浜松で生産された兵器と訓練された兵士によってアジア侵略がおこなわれた。 それらの侵略は浜松大空襲をもたらした。 政府は 「国体護持」 に終始し、 天皇制を維持するため多くの兵士の命をすてさり、 犠牲者を 「英霊」 としてたたえた。 戦後、 戦争犯罪の多くがおおいかくされ、 天皇制の存続がはかられた。 今も天皇制の戦争責任追及は不十分なままである。 戦後責任は未だとられず、 アジア各地の戦争犠牲者が日本政府を訴え、 追求しているのが現状である。 そして政府は憲法第九条の 「解釈」 により実質的に改憲し、 海外派兵をおこないはじめた。
浜松にくるAWACSは海外派兵に対応する兵器である。 浜松は再び海外派兵の拠点としての性格をもちはじめているのである。
A 自衛隊浜松基地の歴史
日本の敗戦にともない日本軍は解散し、
浜松の旧軍用地の多くが民衆へと解放されたが、 一部は米軍が占有した (横田基地分基地として) 。
日本の再軍備によって一九五二年には保安隊航空学校が浜松に設置された。 一九五四年、 自衛隊発足により、 浜松に第一航空団が設立された (航空自衛隊浜松基地) 。 以後浜松基地は浜松市の約三一五万uを占拠し、 浜松市の民主的発展を阻害しつづけて現在に至っている。
一九五七年には浜松基地、 第一航空団に所属するF86Fの墜落事故が多数おきた。 一九五七年から一九六五年の事故をみれば墜落不時着事故が二〇回近くおきている。 F86Fの操縦教育は一九七九年に廃止された。
一九五七年六月、 浜松基地の自衛官 (パイロット) の集団抗命のたたかいがおきている。 パイロットらは安全飛行対策協議会をひらき飛行訓練を拒否した。 あいつぐ墜落事故の原因を追求し、 施設改善を要求してのストライキであった。
一九五八年には、 基地は北基地と南基地に分離した。 北基地には第一航空団、 管制、 気象、 飛行教育集団司令部が配置され、 南基地には術科教育本部 (一九六二) 、 教導高射隊 (一九六九) 、 浜松救護隊 (一九七一) などが配置された。
一九六〇年代はじめにロッキードF104が導入された。 六〇年代の浜松基地の特徴は宇都宮からの飛行教育集団司令部の移転にみられるように空自の教育基地としての機能が強化されたこと、一九六九年の教導高射隊の配置にみられるように対空体制も強化されていったことである。六〇年代後半、 ベトナム戦争の拡大とベトナム反戦運動の高まりのなか、 ナイキとF4EJの浜松基地配備がすすめられ、 一方、 一九六七年、 松菱百貨店での自衛隊展反対運動や一九六九年十月、 浜松基地での自衛隊兵士三七名による治安訓練拒否行動がおこなわれている。 拒否した兵士の多くが退職を強要されたといわれている。 基地内で民衆弾圧の訓練がおこなわれ、 それに対し民衆弾圧訓練を拒否するというたたかいが、 営外の民衆運動のたかまりのなかで自衛隊兵士らによっておこなわれていったのである。
六〇年代以後、 防衛庁による 「周辺整備」 がおこなわれるようになった。 たとえば騒音対策のために周辺学校へと防音装備 (二重窓) がつけられていったが、 窓をしめ切っての授業は不可能であり、 防音対策といっても不十分なものであった。
一九七〇年代後半になると自衛隊の 「地域浸透作戦」 がすすめられた。 中部航空音楽隊が設置されたり (七六年) 、 高校生むけに 「防衛講座」 がひらかれたり、 子どもたちに自衛隊をPRするといった活動が強められた。
一九八〇年代に入ると日米共同作戦体制強化にともない、 浜松基地がミッドウェー艦載機の夜間訓練基地候補とされたり (一九八二) 、 基地航空祭に米軍機が飛来したり (一九八四〜) という事件がつづいた。
一九八五年には中部航空警戒管制団・第六移動警戒隊が配置され、 一九八九年には南基地、 北基地が統合されて航空教育司令部がおかれ、 さらにペトリオットが配備され、 基地機能の統合と警戒・迎撃体制の強化がすすんだ。 また練習機はT33から高性能のT4へと変更され (一九八八)、 それに伴い空自が訓練区域拡大を要求したり、 T4のエンジントラブル事故を四回にわたり公表することなく処理していた事が発覚するなどの動きがあった。
一九八〇年代の事故としては一九八二年のブルーインパルスの墜落事故があり、 それに伴い 「浜松基地に反対する萩丘住民の会」 が結成された。 一九八八年には射撃訓練中の流弾が民家に飛びこむ事件があった。
一九九〇年にはT4部隊として、 第三二教育航空隊が新設された。 この年 「軍・産・民」 共催という形で 「エアフェスタ」 が開催されたが、 市民の反対の声のなかでその規模は縮小された。 このエアフェスタはこれまで自衛隊の地域浸透作戦を担ってきた 「西部防衛協会」 が企画し、 浜松の商工会議所や自治会、 警察などを巻きこみ地域一体となって空自の航空祭を推進しようとするものであった。
一九九〇年代のアメリカの戦略転換と日本共同作戦体制のもとで、 日本の軍事基地は海外派兵に対応した装備の強化をすすめてきている。 PKO協力法制定、 有事立法研究、 自衛隊法改悪による自衛隊機の海外派兵 ( 「邦人救出」 名目) などにみられるような新日本軍の海外派兵体制づくりは着々とすすんでいる。 日本の海外権益防衛のために日本の軍事的侵出がおこなわれつつある。
浜松基地へのAWACS配備決定 (一九九四年八月) はこのような状況下おこなわれた。 AWACSは海外派兵に対応できる兵器であり、 AWACS配備により浜松は再び派兵拠点とならざるをえない。
AWACSの渡洋能力と警戒指揮機能は浜松を再びアジア等の民衆を攻撃する拠点とし、 浜松は指揮中枢センターの役割を担うようになるだろう。
浜松の未来は軍事基地とその基地と 「共存」 する資本のためにあるのではない。 浜松の未来は基地の返還と市民の平和的生存、 他国民衆との共存のうえにあるものと確信する。 わたしたちはAWACSの導入配備計画の撤回をつよくもとめ、 基地の返還を展望する。
自衛隊浜松基地の歴史・年表
1995 米軍、 横田空軍基地の分基地として接収 <占領下>
1952 保安隊、 航空学校設立 <朝鮮戦争>
1953 三方原農民の接収反対運動
1954 自衛隊・操縦学校設立、 墜落事故2回
1955 航空団設立 (翌年第1航空団と改称)
1957 F86Fの墜落事故8件、 他事故を含めれば12回の事故
6月には自衛隊パイロットの訓練拒否・施設改善要求のたたかい
F86Fの墜落・不時着事故は1965年までに19回に及ぶ
1958 北基地と南基地に分離、 北基地に第1航空団、 浜松管制分遺隊・気象隊配置
1958 湖東村谷上地区、 全戸が移転を陳情 <60年安保闘争>
1960 F86F、 4回の墜落事故、 T33、 1回墜落
1962 南基地に術科教育本部設置
1962 ロッキードF104J導入 (〜63) 、 反対運動
1963 萩丘小、 防音工事完成
1964 北基地に飛行教育集団司令部移転 (宇都宮から)
1967 松菱自衛隊展反対運動 <ベトナム戦争激化>
上島小・葵ケ丘小・北庄内小で防音工事へ、 80ホン以上の騒音被害のある学校は24校
静大工学部で自衛官入校反対運動 <ベトナム反戦運動>
1968 浜松基地反対市民会議結成
1969 ナイキ・教導高射隊の設置 (南基地)
浜松基地での自衛隊治安訓練の拒否行動 (37名の隊員)
自衛隊、 浜松基地への体験入隊増加 (企業等)
1970 篠原中自衛隊入隊試験事件、 西伊場子供会体験入隊事件
1971 南基地に浜松救難隊の設置
1972 T33墜落事故
1973 F4ファントム配備
1974 陸軍爆撃隊記念碑 (基地内へ建立)
1975 新基地周辺整備法による騒音線引問題 (1979〜89年までに個人宅防音工事に約203億 円、 施設建設に約15億円支出)
1976 中部航空音楽隊設置・自衛隊の地域浸透作戦増加
1979 F86Fの操縦教育廃止 <ガイドライン安保>
1980 浜松基地で高校生への 「防衛講座」
1981 浜北市新原小で自衛隊音楽祭中止へ
1982 米空母ミッドウェー、 艦載機の夜間訓練基地候補となる
ブルーインパルス墜落事故 (82・11) <日米共同作戦体制>
浜松基地反対萩丘住民の会結成
1983 上島小自衛隊音楽隊事件
T33の補助タンク落下事故
1984 浜松基地航空祭に米軍機飛来
1985 中部航空警戒管制団、 第6移動警戒隊設置
1988 第1航空団T33からT4へと練習機種変更へ (90〜)
T4配備により、 空自、 訓練区域拡大を要求
射撃訓練の流弾、 民家へ
1989 南・北基地の統合、 航空教育司令部の設置、 ペトリオット配備
滑走路西に防護トンネル建設
T4エンジン事故かくし (4回) 発覚
1990 T4の第32教育航空隊新設
軍、 産、 民共催のエアフェスタ開催、 反対運動 <湾岸戦争>
1991 T4墜落事故
1993 浜松基地に 「航空機博物館」 建設計画 (96年完成) <自衛隊海外派兵>
1994 AWACSの浜松基地配備決定
AWACS浜松基地配備に反対する市民の連絡会結成
B自衛隊浜松基地の概要
● 航空教育集団司令部〜空自の教育部門を統轄
● 第一航空団〜飛行群、 整備補給群、 基地業務群〜教育
●第一・第二術科学校〜整備・通信・レーダー・管制他技術教育
● 教材整備隊
● 教導高射隊〜ペトリオット・ナイキの技術教育
● 第六移動警戒隊〜移動レーダー部隊
● 浜松救難隊
● 浜松気象隊
● 中部航空音楽隊
● 浜松地方警務隊
● 浜松地方調査隊
7 参考文献
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菊地・山本 「不透明な機種選定に怪しげな男の影」( 『週刊朝日』 1994.10.7)
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1994.12 第213号
* 「浜松基地航空祭」 ( 『航空ファン』 1995.1)
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日本平和委員会 『平和新聞』 1994.9.15 第1440号
派兵チェック編 『派兵チェック』 1994.9 第24号
青木謙知編 『続軍用機知識のABC』 イカロス出版 1994
航空ジヤーナル 『世界の軍用機』 航空ジャーナル社 1984
「丸」 編 『スーパーウェポン大事典』 潮書房 1983.2
B. ガンストン 『スパイ機』 ホビージャパン 1988
床井雅美監 『湾岸戦争ハイテク兵器事典』 勁文社 1991
*『世界航空機年鑑』 1993
* 『ジェーン年鑑』 1993
防衛庁 『日本の防衛』 1993
林茂夫・松尾高志 『平成自衛隊改造』 労働旬報社 1993
藤井治夫 『戦争がやってくる』 筑摩書房 1991
広瀬 隆 『地球のゆくえ』 集英社 1994
梅林宏道『情報公開法でとらえた沖縄の米軍』 高文研 1994
小川和久 『在日米軍』 講談社 1985
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静岡県歴教協 『静浜基地の歴史と基地闘争』 1984
木原正雄『日本の軍事産業』 新日本出版社 1994
『中日』 『毎日』 『朝日』 『静岡』 『共同』 『日経』 各紙他
あとがき
私が生まれた年の一九五七年、 F86Fが浜松市営グランドに墜落した。 このことを知ったのは最近の事だ。
一九六〇年代に入ると、 私の通っていた小学校・中学校は騒音対策のために防音工事がおこなわれた。 防音といっても、 夏は窓を開放するから 「防音」 効果はほとんどなかった。 冬、 二重窓の中で遊び、 内部が高温のために体調をこわした思い出がある。 高校生のとき文化祭で自衛隊研究の発表をHRでおこなった。 友人が基地の写真をとりにいったら基地で問いつめられた。 七〇年代はじめの事だった。
そのころはベトナム反戦運動がさかんであり、 沖縄への自衛隊配備に抗議して自衛隊員が反戦の意志表示をおこなったりする季節だった。・ガイドライン安保・以降 (一九八〇年代)、 日米共同作戦体制は実戦態勢をつよめ、 一九九〇代に入ると日本の海外派兵の時代をむかえた。 このようななかで自衛隊員自身の人権運動は重要な意義をもつようになっている。
一九七〇年代中ごろに浜松をはなれ、 私は十数年ぶりに浜松へもどってきた。 生まれ育った田園地帯は市街化し、 地域の風景はおおきく変貌していた。 浜松基地も実戦中枢的機能をつよめ、 派兵拠点としての色あいを強めつつある。
九四年に入りAWACS配備が防衛庁から市へと通告された。 「国策」 に民衆が服従していくスタイルは過去のありようとかわっていない。 天皇がやってくれば旗をふる奴隷根性もかわることなく生きつづけている。
AWACSが浜松以外に配備されればよいのか。 騒音値が低ければよいのか。 浜松が攻撃対象とならなければよいのか。 市民生活をかえりみない軍事基地の存在はあやまりであるが、 AWACSのもつ機能と配備の意味について考えてみることが大切であると思う。
AWACSは日米共同の実戦態勢により海外で作戦指揮をおこなう。 多数の要撃機を管制・指揮し、 多数の民衆を殺害していくセンター的機能をもつ。 浜松はその殺りくの拠点となっていくだろう。 私たちの生活はAWACS指揮によって殺されるであろうアジアの人々の血のうえに存立していくことになるのではないか。 AWACS配備は浜松を前線基地とする。
戦争をおこし、 戦争に参加することがまちがっている。 戦争に勝った負けたで喜んだり悲しんだりするのではなく、 戦争への道をはばむことが大切だ。
私たちが直接みることができないところでAWACSは、 多数の民衆を殺りくするであろうし、 私たちは今よりもさらに加害者となっていくだろう。 このことは歴史認識・想像力の問題であり、 現代の日本にすむ私たちにとって大切な視点であると私は思う。
「NO AWACSの会」 はAWACSの導入・配備に反対し、 浜松基地の撤廃をもとめる。
子どもたちの未来に軍事基地はいらない。 (竹内)