沖縄の旅・辺野古2005年春

 

辺野古2005年3月末

2005年の三月末、辺野古での344,345日目の座り込みに参加しました。漁港の工事のため、テントの位置は海岸沿いに移動されていました。海上に出ている人が大変多く、テントの中の人数は以前より少し減っているように感じました。

この辺野古の闘いは、沖縄だけでなく日本全国、世界各地に広がってきています。テントで静岡県共闘の鈴木卓馬さんにお会いし、「週刊金曜日」でも報じられたように「グリーン・ピース」も応援にかけつけていました。この3月で、昨年4月19日からの座り込みの延べ人数は3万人を超えました。

明るい展望も少し見えてきています。3月29日沖縄タイムス朝刊は『「普天間移設県外も検討」「SACO見直し言及」小泉首相、関係方面に指示』と報じていました。もちろん、地元の人達がこのことをそのまま喜んでいるわけではありません。その記事の中にも「政府内に、小泉首相の言葉に疑問の声」という記述もありました。でも、「辺野古は断念」という類いの文字がとてもたくさんある記事でした。

345日目の海上は、工事阻止側が船9隻・参加人数31名、朝7時には櫓を囲みました。一方、工事をする側は船6隻、9時頃集合し9時30分から作業にかかるような状態でした。「単管の状態を調査させて欲しい、単管を取り替えさせて欲しい」等、作業は阻止側の承諾を得ないと全く進まないようになっていました。元々、単管は4〜5週間の           つもりで組まれており、今ではもう錆がひどく、櫓も傾いているようです。「作業をしているように見せないと、交渉をしているように見せないと、俺たちも監視されているから」と言う作業員もいるそうです。

海上での主導権は、今や、完全に阻止側が握っているような状態でした。このまま工事が中止になることを願うだけです。

※沖縄タイムスは、名護市辺野古への代替施設建設が暗礁に乗り上げていることから、政府内では最近「普天間飛行場を自衛隊に移管し有事の際に米軍が使用するという有事駐留案が浮上している」(3月29日付)と報じていました。

 

宜野湾2005年4月1日

さて4月1日は何の日でしょうか?沖縄の人達にとって、この日は60年前、米軍が読谷村に上陸し、あの悲惨な沖縄戦が始まった日です。

よりによって、この日に米軍がイラクから普天間、嘉手納基地に帰ってきました。1日・2日の両日で、昨年8月13日沖国大に墜落した同型のヘリコプターを引きつれて、2000人の海兵隊員が帰ってきました。偶然4月1日になっただけだとお考えになる人もいるかと思いますが、かなり意図的なものが含まれていると思います。

前日、米軍関係者は「彼らはイラクで民主的国家建設のため勇敢に戦った英雄である。沖縄の人達も歓迎して欲しい」と談話を発表しました。これに対し稲嶺知事は「沖国大ヘリ事故と同型機を含む帰還は、県民感情への配慮を欠く」。また、伊波宜野湾市長は「県民の声を無視してまでも、沖縄に駐留しようとする在沖海兵隊の意志の表れ」と怒りの声を上げました。

1日夜、「普天間ヘリ部隊は帰ってくるな!市民集会」が普天間第二小学校を会場に開かれました。400人の参加でした(昼間も50人参加の抗議集会がもたれました)。伊波市長、小学校三年生の久場るこさん、ライターの知念ウシさん、命を守る会の金城祐治さん等、10数人がつぎつぎに壇上にあがり「静かな、豊かな沖縄になって欲しい」「辺野古でもどこでも沖縄にこれ以上基地はいらない」と、思いを訴えました。集会終了後「お前達は英雄じゃない。侵略者だ。イラクへの侵略者だ。沖縄への侵略者だ。ここはお前達の故郷じゃない。故郷のアメリカへ帰れ」等のシュプレヒコールを上げながら瑞慶覧ゲートまでデモ行進をしました。

金曜集会はいつものように私には少し辛口の話でした。でも毎日闘っている女性たちの話を聞くことができました。佐敷町「風の里」の高江洲さんをはじめ、スタッフの優しいもてなしとおいしい料理、読谷村ペンション「ま〜みなあ〜」での静かなとき、そしてどこからでも見ることができる美しい海。

こんなにも豊かな島に基地を築こうとする米国、それに追随する日本政府。沖縄にも、日本にも、そして世界中どこにもいらない軍事基地、暴力でなく対話で築く平和、余りにも理想的すぎますが、そんな世界を作るために私たちは、いや、私には何ができるのだろうか?と考えました。

「行動しない良心は偽善だ。行動しない良心は不義だ。新しく生きてゆく君の動作を愛していく」(イ・ハンソル)。