‘04。8沖縄・平和の旅
その2
辺野古:
ヘリ基地建設反対座りこみ
3日間、辺野古の座り込みに参加しました。4月19日以来、117,118,124日目の座り込みに参加しました。
テントの真中に阿波根昌鴻さんの写真が飾ってありました。「はじめて来られた方へ」という印刷物には非暴力行動である事や、座りこむための約束事が書いてありました。
「漁業施設は漁民の神聖な場所です」という一文が印象に残りました。厳しい闘いを強いられながらも常に他の人々への思いやりを忘れない人間のあたたかさを感じました。
テントの中は非常になごやかで、読書する人・昼寝をする人・おしゃべりに興じる人、いろいろでした。沖縄に「ゆんたく」という言葉があったと思いますが、何となくこんな感じかなと思いました。
4月19日以来毎日、それこそ雨の日も、風の日も、台風の日も50人を超える人々が座りこんでいることに驚かざるをえません。高校生のグループも先生に引率され、応援や差し入れ・学習に来ていました。具志川の高校のラグビー部マネージャーが差し入れてくれたかき氷が大変おいしかったことが忘れられません。 また、三線や歌の演奏もあります。124日目は、まよなかしんやさんに辺野古まで連れて行ってもらったのですが、そこでしんやさんのパワーアップした「あかばな」を聴かせてもらいました。
辺野古の座りこみは沖縄県民へも大きな影響を与えています。新聞のアンケートによると、普天間基地の辺野古への移設に賛成する人は、今年4月以前は県民の50%を越えていましたが、5月以降、つまり座り込みが始まってからは6%あたりまで一気に下がり、今も下がり続いています。
帰る途中、しんやさんに漁港のまわりを案内してもらいました。まず国立工業高専の立派すぎる建物が目を引きました。寮と学校が県道幅30mぐらいを隔ててありますが、それを渡り廊下でつないでいるという贅沢なものでした。また、辺野古の道の両側に10mから20m毎に水道の蛇口がついています。しんやさんにこの事を説明された時、最初私は何のことを言っているのかわかりませんでした。実際道の両側に水道の蛇口がありました。「何のために?」本当に何のためにあるのでしょうか。あまり必要とも思われないところにもお金を使っています。
隣の集落ではまだまだ使える公民館のすぐ横に近代的で大変立派な公民館が建てられています。辺野古でもこれから新しい公民館や(もちろんまだ使える公民館は存在します)、また400mトラックをもつ運動場が作られようとしているようです。そしてこれらは全額国の負担です。
「これだけお金を使って、国や県がそう簡単に辺野古をあきらめるとは考えにくい」と語る地元の人もいました。
「ヘリ墜落」続報
このあと、しんやさんの誘いもあり、晩6時30分からの「カマドウの会」の人達の集会に参加させてもらいました。実はこの人達とはその日の昼から行われた「金曜集会」でも会っていました。その時「ヤマトの人達がしっかりしてくれないから60年間も私達はこんなつらい思いを強いられている。私達はもうヤマトの人達とは付き合いたくない」と言われ、私は返す言葉に困りました。
集会は20数名の参加でした。
A: 「怒りで涙が出た。この怒りをどこへぶつけたらいいのかわからない。ちょうど8月15日は宜野湾祭りで、この祭りを抗議集会に切り替えようと提案したが、商工会が入っているからと断られた。沖国大で抗議集会をしている10人程の学生を警察が囲み米軍を保護している。米軍に対して警察は何もできない。これがイラクの日常かなとも思った。」
B: 「パンパンと乾いた音がした。米兵がドーッと走って行って変だなと思った。黒煙が立ち昇っていた。」
C: 「パニック障害という病名をつけられて薬を飲まされている。ヘリコプターが飛ぶと精神的におかしくなる。精神安定剤も飲んでいる。いつかは落ちるだろうと思っていたが、思っているだけで何もしなかったのはまだまだ甘かった。皆がまとまる機会にしたい。」
D: 「息子からのメールで墜落を知った。窓から現場を見て、息子に返信のメールを送ろうとするのだが、手が震えてメールのボタンが押せなかった。一人でいると意味もなく涙が出たり、手が震えたり、精神的におかしい。落ちると思っていたが何もしなかったのは甘かった。県警も抗議集会を開くべきだ。」
E: 「午後2時45分に第一報が入った。屋上へ出てみたらすごい黒煙だった。死者が出たと思った。大学の自由・自治なんて全くウソ。3分間で、米兵でいっぱいになり、写真を撮ったらすぐに米兵からストップがかかった。」
F: 「九州大学の時には教授がすごくがんばることができ、現場を長い間残すことができた。今の沖縄と状況が全く違う。今日からヘリが飛んでいる。何の反省もない。」
G: 「こういう話をしたくない…」
先日、「NO!AWACSの会」に「平和的生存権の意味がわからない」とメールをくれた人がいるそうです。
私は「カマドウの会」の人達の発言を聞いて、「米軍基地に苦しめられている」という言葉の意味を少し実感できたのかなと思います。昼間の「金曜集会」で私の心につきささったトゲの意味もほんの少し理解できるようになりました。
ヘリ墜落や辺野古の問題に象徴されるように、沖縄とヤマトのあまりの温度差に私も驚かされます。少なくとも私が沖縄にいた8月21日まで、「琉球新報」「沖縄タイムス」の1面トップ記事はすべてこの問題でした。ヤマトの全国紙のどれだけがこの問題に紙面を割いたのか。8月13日当日、NHK夜7時のトップニュースはナベツネのオーナー引退であり、「ニュース23」でもヘリ墜落のニュースは3番目の扱いだったと聞いています。「筑紫哲也はもうかりゆしルックでテレビに出るな」と沖縄の人は怒っていました。
地理的には遠い所にある沖縄を、私達の想像力と工夫で少しでも距離を縮め、沖縄の人たちの痛みを理解していく。そして、このような日本の状況ですから、できる限り横のつながりを作って励まし合いながら、自分たちができることを実際の行動として表現していくことができたらと思います。
大きな宿題をかかえ、AWACSの街・浜松へ帰ってきました。
9月5日 (池)
緊急レポートを沖縄から送ります。米軍ヘリCH53が沖縄国際大学に墜落したのは8月13日の金曜日午後2時17分頃でした。
私はこの日、辺野古の座り込みに参加していました。第一報が入ったのは午後2時45分。60名程参加していたテントの中がざわめきました。一番多かった反応は、負傷者の安否を気遣うことと、やはり「そら見たことか」というものでした。平良夏芽さんはインタビューに来た記者に対し、まずけが人3名のけがを心配するとともに「起きるべきして起きたこと」また「だから早く辺野古へ移転すべきだという声が上がってくることを心配しています」と言っていました。もともと世界一危険な飛行場であることは米軍も日本政府もわかっていたことです。それなのに何の手当てもされてこなかった。死者が出なかっ
たことが不幸中の幸いというしかない出来事です。
また、米軍の対応にも少し触れておきます。沖縄国際大学の学長は13日午後5時50分、記者会見に臨んでいました。「現状も把握していない。三階にも一階にも衝突したかもしれない。一歩も入れないから分からない」と怒りをぶちまけました。ヘリ墜落直後、多くの職員・学生があちこちの校舎から飛び出してきて、教職員は学生の退避に翻弄され
ました。その間に米兵数十人が普天間基地から走ってきて、爆発が続くヘリの墜落現場を包囲、本館を含め一帯を完全封鎖しました。黒島安武事務局長もヘリの墜落後、本館から離れた五号館に避難するよう学生に呼びかけていました。「無我夢中だった。最初米兵が来たのを見た時は、救助の意味で来たのだろと思った。しかし、その後すごい人数で来て現場を囲みだした」と振り返りました。墜落現場は米軍の管理下に置かれ、学長はじめ大学首脳陣による再三の立ち入り要求はことごとく無視され続けました。結局、渡久地学長が本館に入ったのは墜落から丸一日以上たった14日午後6時30分過ぎでした。
また、周辺の道路を封鎖したのは米軍でしょう。警察も現場に近づけないようでした。これを見て、外務省は「(地位協定により)何も問題ない」と語っていました。
本日(8月16日)の新聞によれば、県は辺野古移設より前に「普天間」返還をし
て欲しいと首相に伝える予定。また、地元経済界の中からもこれに賛成する意見が多
数出ています。米海兵隊はCH53以外の飛行を16日より再開すると発表。被害
39ヶ所(まわりの民家、マンション等)。 8月16日 沖縄にて (池)