朝鮮戦争での米軍細菌戦の跡を訪ねて2002年
2002年7月26日から8月5日にかけて「朝鮮戦争米軍細菌戦史実調査団」(森正孝団長)の一員として中国・朝鮮を訪れた。以下は記念館の展示や証言から中国・朝鮮での米軍による細菌戦被害状況をまとめたものである。
1 米軍による細菌戦の概略
朝鮮側によれば、米軍による細菌戦は1950年から謀略的におこなわれ、1952年に入って全面的投下作戦がとられたという。
開戦前からスパイによる軍部隊の食物へのサルモレラ菌の投入行動があり、1950年6月に朝鮮戦争が始まると、1950年8月にはスイカなどの果物にコレラ菌を注入、1950年12月~1951年1月にかけては、撤退時に天然痘粉末を散布したり、再起熱や発疹チフスの患者を放置して感染を拡大するなど、細菌の謀略的使用がおこなわれた。1951年秋には細菌に汚染された玩具や食料を投下した。また、捕虜に対しての人体実験もおこなわれた。
1951年末には全面的投下作戦が指令され、1952年に入って細菌兵器が朝鮮半島各地に投下されていった。細菌弾には10余の菌種と媒体としての20余の動物・昆虫が使われた。米軍はペスト・チフス・炭疽・コレラなどの細菌類に汚染された動物・昆虫を投下し、汚染地帯を形成しようとした。
中国側の展示史料を含めて中国・朝鮮への細菌攻撃の状況をみると、中国東北の北部(甘南やチチハルほか)、遼寧省の中心(瀋陽・阜新ほか)、丹東から長白に至る中国朝鮮国境、朝鮮側では中国からの支援ルート、東西の主要道路と鉄道沿線の都市、38度線北方の前線部隊の拠点地帯などが攻撃されている。1953年4~7月の捕虜交換の際にも赤痢による人工的感染がおこなわれたとされる。
米軍による全面的投下作戦が始まると、中国や国際民主法律家協会・国際科学委員会などが調査団を派遣、報告書を書いて米軍による細菌戦の事実を確認している。そのとき米軍捕虜は細菌弾投下などの細菌戦について詳しく供述した。しかし、帰国すると捕虜はそれらの証言を否定した。アメリカ政府は細菌戦について否定している。
朝鮮戦争下、米軍は「オペレーションストラングル」(絞め殺し作戦)を展開し、朝鮮各地をナパーム弾などの使用によって焦土と化し、核攻撃さえおこなおうとした。この作戦下で細菌弾の投下がおこなわれていったとみられる。旧日本軍731部隊のリーダー石井・若松・北野らは米軍の下で朝鮮戦争に関与していったといわれている。
アメリカは731部隊の史実を隠蔽し、人体実験や細菌戦実行の戦争犯罪を免責した。アメリカは731の資料を入手し、細菌兵器開発に利用することで、最大の細菌兵器開発国家となった。731の免責とその資料の利用によって、アメリカは731の戦争犯罪を日本とともに継承することになったともいえるだろう。アジア民衆に対し大量殺傷能力を持つ新型兵器をつぎつぎに使用していく歴史のルーツのひとつがここにある。
朝鮮戦争での細菌戦の実態については不明なことがらが多い。実際に現地を訪れ、被害者の声を聞き、その地平から真実を明らかにしていくことが大切だと思う。アメリカは細菌戦の実行を否定しているが、朝鮮と中国では史実とされている。
2 現地調査から
@ ハルピン侵華日軍第731部隊罪証陳列館
ハルピンの平房にある「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」には朝鮮戦争時に米軍が使用したという細菌弾が展示されている。リーフレット用の爆弾が細菌弾へと転用されたという。
ハルピンの731陳列館は年々整備され、ここで人体実験によって死を強いられた人々の氏名も一部だが明らかにされ、壁にその氏名が刻まれている。また、遺族調査もすすめられ、一人ひとりの歴史が明らかにされてきている。
ハルピンでは元中国人民軍兵士の張起泰さん(1928年生)の証言を得た。張さんは第38軍12師335団の一員として1950年10月に吉林省集安から朝鮮に入った。満浦から朝鮮人民軍を支援し、米軍・韓国軍と飛虎山や松骨峰で戦った。1952年春頃に順川で補充になった。2月頃に連隊レベルでの会合があり、細菌についての指示があった。張さんは順川郡竜徳里で市民とともに消毒活動をおこなった。
李峰さん(1931年生)は12歳で抗日戦争に参加し、1951年秋には67軍の一員として朝鮮に入った。平壌付近清河付近まで行き,咸鏡北道などを転戦した。細菌戦についても話を聞き、軍の命令でビンなどには触っていけないといわれたという。
江?用輝『在三八軍在朝鮮』には1952年2月19日に38軍334団337団の駐屯地近くで細菌弾が発見されたとある。
A 丹東の抗米援朝記念館
丹東は中朝国境の街であり、街の横には鴨緑江が流れ、川の向うは朝鮮の新義州である。丹東は援朝の拠点であり、当時は安東といったが、米軍による空爆を受けた。鴨緑江の第一鉄橋は1950年の朝鮮戦争で米軍によって破壊されたが、一部は残存し、戦争遺跡となっている。
丹東には抗米援朝記念館がある。これは朝鮮戦争の際に中国が朝鮮を支援したことを記念する展示館であり、1993年に建てられている。ここには朝鮮戦争時に中国東北でおこなわれた米軍による細菌戦についての展示がある。
細菌戦については寛甸防疫委員会の報告や寛甸上河村の反細菌戦控訴書、採取した昆虫の検定報告書なども展示されている。展示には郭沫若の詩「消灰細菌戦」もあり、これは細菌を持ったハエやノミを捕らえることを呼びかけた歌である。
この記念館にはパルピンにあるものと同じ型の細菌弾が展示されている。表面には「BOMBS」といった英字が記されている。館の展示目録によれば、この弾は丹東におとされたものである。所蔵目録を見ると、館には1952年3月26日に長白県に投下された弾の残骸も保管されている。
また投下された細菌を帯びた昆虫類の標本も展示されている。展示目録によれば寛甸地区に投下された昆虫の見本である。
館長の張中勇さん(1948年生)は語る。中国東北だけでも72回、丹東へは27回の攻撃を受けた。当時5~6歳だったが昆虫の採取をして、防疫をした。安東地域の55歳以上の民衆なら誰もが知っている事だ。米軍による細菌戦については館の展示を見れば明らかなことだ。寛甸で採集された細菌弾などもある。米軍はとうもろこしや木の葉、羽、粟、昆虫などを落下傘や缶につめて投下した。
抗米援朝記念館で閲覧できた中国側の保存文書は1952年2月以降のものであったが、それらを読むと、米軍機が通過した後に、昆虫や羽根・樹葉などを発見したという記録が、龍王廟(呉慶福)、1952年4月1日二龍渡(王文哲)、4月14日通江(趙学善)、4月30日長甸(王炳先)、5月28日河口(高嵩)ほか、多数残されている。
資料館で『中国人民解放軍歴史図表8』を見たが、そこには細菌戦関係の写真が多数収められていた。中国人民解放軍の歴史のDVDのなかにも細菌戦関連の状況を映し出したものが含まれていた。
『英雄城市英雄人』(1989年)には李思倹「鉄証如山」・兆化「反細菌戦」、『保家衛国的貢献』(2000年)には張中勇「安東人民在反細菌戦運動中的貢献」・張在発「寛甸人民粉砕美国細菌戦記実」ほかの細菌戦についての証言や論文が収められている。『抗美援朝戦争史3』(2000年)には13章「粉砕美国的細菌戦」がある。
丹東では、中国人民軍兵士だった謝長平さん(1934年生)の証言を得た。謝さんは第50軍150師の兵士として鴨緑江を渡り、新義州での防衛戦に参加した。その後定州を経てソウル攻撃にも参加した。米軍の反攻によって後退し、1952年の春には定州にいた。3月頃に細菌戦の話を聞き、定州での防疫活動に動員され、山に入って蚊や虫を殺した。雪の上にハエなどの昆虫を見たが、分散し飛べずに動いていた。部隊は米軍の上陸や核攻撃に備える対策をとったという。
丹東では研究者の万照華さん(1952年生)の話を聞くこともできた。丹東市共産党の研究室の万さんは現地史料を使って「反細菌戦」を1988年に記している。研究によれば、1952年1月28日から米軍は中国東北で細菌を投下した。反細菌戦の活動から愛国衛生運動が始まったとした。コレラなどの病気はそれまでこの地にはなかった。衛生運動でそれらの病気をなくした。万さんは寛甸での細菌戦に言及し、李思倹さんらの証言や細菌弾の破片、当時の反細菌戦関係史料から米軍による細菌戦は史実であり、それは国際法違反であり、全人民への犯罪である。その史実は全世界の人民に示すべきものと語った。
B寛甸の細菌戦 李思倹証言
李思倹さんの証言は1952年の国際科学委員会の調査報告書(『朝鮮と中国での細菌戦に関する事実調査の国際科学委員会報告書』)に掲載されている。
この李さんは健在であり、本溪県田師付鎮の炭鉱住宅で話を聞くことができた。李さんは現在69歳だが、当時は寛甸中学生、細菌弾の第一発見者だった。李さんは1952年3月に投下された細菌弾の破片の当時の写真を見ながら、次のように証言した。寛甸城東で、鳥の羽を切ったものや昆虫をたくさん発見した。白い破片は石膏のような材質であり、鉄の破片もあった。すぐに学校に報告した。記者団と話したり、瀋陽の遼寧ホテル(国際交際処)に行って証言したり、北京に行き展示会にも参加した、と。
本溪では当時寛甸中学校長だった王従安さん(1922年生)にも会うことができた。王さんは細菌弾の発見を県政府へ報告し、自らも昆虫を現場で確認している。中国のハエよりも少し大きいハエであり、雪の上でも昆虫が生きていた。李思倹と一緒に瀋陽まで出向き国際調査団に対して証言したという。
李思倹さんが細菌弾を発見したという寛甸の現場を現地研究者の尚振生さん(1951年生)とともに訪れた。尚さんは寛甸での米軍細菌戦の資料を示しながら、現場を案内し細菌弾が発見されたという場所を示した。尚さんはいう。寛甸では12箇所で細菌弾攻撃があった。1951年3月12日昼に米軍機が白い物体を投下した。すぐに村の委員会に報告され、その後、李思倹が発見し、村の委員会が回収した。細菌攻撃により、防疫活動が取り組まれたが、寛甸では6人が死亡した。この被害を寛甸人民は忘れない。
寛甸は中国から朝鮮への支援ルートのひとつだった。寛甸城東の漏河の東側で1952年3月12日に細菌弾が投下され、のちに「人造卵殻器」の細菌弾の破片200個以上と帽子型の鉄板、金属軸が発見された。国際科学委員会の報告書によればそれらには炭疽菌が付けられていたという。
C 平壌の祖国解放戦争勝利記念館
平壌には「祖国解放戦争勝利記念館」があり、その展示の中には細菌戦に関するコーナーがある。ここには朝鮮半島各地に投下された昆虫の標本があり、採取時期・場所・虫種などが記載されている。読んでみると1952年2月・3月に採集されたものが多い。そこには5月に大同で採集されたハマグリもある。朝鮮北部に投下された細菌弾の写真もあり、鉄製・陶磁器製などさまざまな形の細菌弾があった。1952年2月11日には鉄原郡に落下傘のついた円柱型の紙製弾が投下され、そのなかに細菌に汚染された昆虫がいた。昆虫入りの紙袋は宣川・中和・平壌・碧潼など各地に投下されたという。中国の展示館に展示されていたものと同じ型の細菌弾も展示され、表面にはEMPTYの文字が書かれていた。
展示には南三郎から韓国国防長官の申性模への1949年11月の手紙があった。そこでは「特殊兵器(謀略用兵器及資材)は日本人技術者を雇傭して製作研究せらるるが便」とすすめている。謀略兵器の開発には旧日本軍関係者も組み込まれていったとみられる。北の獲得文書には韓国・陸軍本部情報局第三課の「謀略工作計画表」があり(『事実は語る』所収)、1950年の細菌謀略先として、鎮南浦、羅津、元山、師団本部炊事場,咸興、金川、満浦、鉄原、連隊司令部炊事場、海州、興南、大隊司令部炊事場などがあげられている。実行されたのかどうかは不明であるが、細菌を使っての謀略が実行されていた可能性がある。
海兵隊第1空軍連隊参謀長F・H・シェーバーの証言は細菌兵器の投下命令系統を示すものである。彼の証言は『朝鮮人民軍』1952年2月23日・24日付けに収められている。J・クイーンら米軍捕虜は細菌戦について具体的に証言したが、帰国後はその内容を否定した。
江原道准陽郡蘭谷面松洞では米国によって撒かれたノミが発見されている。その写真が国際科学委員会調査報告書にある。中国軍の2人の中尉が准陽付近の山でノミの群れを発見した。容器はなかったが、部隊による検査ではノミはペスト菌に汚染されていた。このような細菌戦に対し朝鮮・中国側は防疫活動を強めた。このような防疫活動、死者の埋葬、捕虜への質問、調査活動、昆虫の状況などを映した『米軍の細菌蛮行』(1952年)という20分ほどの映像が平壌に保管されていた。
D 朝鮮戦争での米軍細菌戦・金成重証言
平壌では金成重さん(1918年生)の話を聞くことができた。金さんは義州出身、京城帝国大学医学部卒、現在も医学科学院に勤めている。朝鮮戦争時に防疫局長として米軍による細菌戦を直接体験している。金さんは米軍による細菌戦全般について詳細に説明することができる人だった。
金さんは、アメリカは石井らの細菌戦の資料を獲得し、世界最大の細菌兵器国になった。米軍は原爆よりも細菌を重視し国際法に反して細菌戦をおこなった。防疫活動によって1948年度の段階でコレラ・腸チフス・発疹チフスなどは基本的に根絶していたが、この防疫経験が細菌戦のときに役立った、と語った。
そして、米軍の細菌戦を1950年から1951年の謀略的使用期・準備段階と1952年以降の本格的投下作戦期に分類し、汚染地区を提示した。
金さんは、謀略的使用の例として、サルモレラ菌による謀略のスパイ2人を捕らえたこと、コレラ患者が出たためスイカやメロンを検査するとコレラ菌が注入されていたこと、白い粉末を撒いて逃げたという報告が出た後3500人余の天然痘が発生し、30パーセントが死亡したこと、大邱・釜山では回帰熱、烏山ではチフスが発生したことや中朝の捕虜への人体実験などについて具体的に例を挙げて示した。
全面的投下作戦については、流行性出血熱の確認やネズミやノミの投下があったことを示し、1952年2月には伊川を始め投下地区の各地を訪問し、細菌弾やノミ・ハエなどの昆虫・ネズミを現認した体験を語った。
金さんはいう。紙で作った細菌弾や鉄製の縁の爆弾もみた。伊川では陶磁器製の弾を見、中国の学者とともにペスト菌を検出した。米軍は上空を何度も旋回し地上300~400メートルで投下した。米軍のやり方がわかってきたので高射砲で射撃すると高空で投下して逃げた。高空で投下された磁器弾は壊れ、昆虫も死んでいた。動物で一番多かったのは野ねずみだった。そのネズミは石井らが研究していたセナカスジネズミであったが、朝鮮にはいないものであり、初めてそれを見た。人につくノミもたくさん投下した。ペスト菌は崔ウンソップが検出した。ハエもたくさん投下され、コレラやチフスに汚染された。流行性出血熱もウイルスも分離して抗体を作った。さらに米軍は中国やソ連との交通を遮断するために前線にも投下した。捕虜の交換時には細菌性赤痢が爆発的に増加した。マラリアの予防の名目で菌が植え付けられたようだ。大同では貝が投下されたが、他の地域では魚やお菓子も投下された。解剖するとコレラ菌が検出された。菓子からはボツリヌス菌が検出されることもあった。ニシンなど東海岸で獲れる魚を西海岸近くに投下することもあった。戦闘だけでなく細菌による被害も多いと思う。ペストも出血熱もこれまで発生したことがない場所で、しかも金化など前線で発生した。米軍は石井の史料を戦争に利用したのだ。このような細菌戦についての報告は軍事委員会に提出され、ソ連のスミルノフの報告書になった(1952年3月モスクワ出版)。
金さんはこのように語り、最後に、戦争は独占資本のためのもの、科学は戦争のためのものではなく、病気や戦争のない社会の実現するためにある。正義と真理のために、病気と戦争のない社会の実現に向けてたたかおう、と呼びかけた。
『朝鮮通史下』には細菌戦について次のようにまとめている。米軍は731部隊を取り込んで細菌兵器の研究をおこない、1950年冬から細菌戦を始めた。はじめは実験段階であり、占領地からの撤退時に天然痘を散布した。全面的作戦が始められると、1952年1月28日から3月までは実験的に使用し、1952年5月下旬からは全面的作戦段階になった。汚染地帯が指定され、集中的投下がおこなわれた、と。
E 朝鮮での細菌戦被害証言
金ヨンファンさん(1928年生)は38度線近くの高城郡で診療所の医師をしていた。
金さんはいう。米軍は汚染された毛布・食料や汚染されたシラミ・ノミ・ダニ・ネズミを投下した。毛布・食料を使った人は例外なく発病し、10日ぐらいで高熱が出、手足に激痛がはしった。1951年には大量の患者が発生した。結膜が充血し、不整脈となり、目はウサギのように赤くなり、苦しんで亡くなった。チフス・コレラ・再帰熱・天然痘が多かった。いろいろな病気が連続して大量に発生した。雪の上にたくさんの昆虫が投下されたが、ハエは江原道のものとは形が違った。毒バエは攻撃的だった。毒バエにやられると目や顔に水泡ができた。高城郡の天然痘では3200人が亡くなった。今も後遺症が残る。戦争孤児もたくさん生まれた。個人的にハエ・カ・シラミ・ネズミを採取し検査を依頼したところ、天然痘・チフス・出血熱に汚染されていることが判明した、と。
インボクニョさん(1932年生)はソウルの第116号野戦病院の衛生兵だった。インさんは言う。前線の野戦病院からソウルの第18病院へと負傷者を送った。1951年1月ごろから患者が増えた。天然痘・再帰熱・発疹チフスが多かった。岸辺に細菌弾が投下されたことによると聞いた。病院の部隊長や衛生兵も罹患し、わたしも発疹チフスと高熱で気を失った。江原道の実家に帰ると多くの人々が天然痘、チフス、出血熱で死亡したり、髪の毛を失っていた。姉もチフスで死亡した。わたしは奇跡的に生き残ったが、免疫力の低下や不整脈ほかの後遺症がある。細菌戦は平和愛好人民の敵であり、歴史の審判台に立たせるべきだ。
金ホヨン(1925年生)さんは黄海道松禾郡上里面で面保安署長として被害者と対応した。金さんは語る。1951年1月中ごろから腸チフス・発疹チフス・天然痘が急増し、再帰熱も発生した。死者の埋葬と食糧確保が課題となった。患者は40度以上の熱を出し、もがき苦しみ骸骨のようになった。上里面でも300人以上が死んだ。1952年3月ころ青龍洞に細菌弾が投下された。翼がありゆっくりと落ちてきた。中の昆虫は見なかったが、防疫機関が処理し、ハエ・カ・南京虫の入った弾であると聞いた。細菌戦のような反人民的大殺戮行為は許されないことだ。
金徳鎬さん(1926年生)は南の晋州生まれ、日本支配期には父や弟が処刑され、自身も投獄された。金さんが人民警備隊の指揮官だったときに2人の隊員が汚染された。内務機関の調査団に参加したが全地域での膨大な規模の汚染だった。1952年1月22日に黄海道鳳山郡に細菌が投下され、確認に行き雪の上にハエ・クモ・ダニがいるのをみた。農民が嘔吐や下痢になった。鉄原郡では主要道路から100メートルほど離れた低い山の麓の40戸余りの集落でコレラが発生した。大同郡の警備隊本部にいた1952年2月に、テビョンに細菌弾が投下されたという情報を入り、細菌弾を見た。鉄製でありへこんでいた。金さんは細菌兵器による攻撃は朝鮮民族の抹殺を狙うものであり、米軍の細菌戦は朝鮮各地でおこなわれた前例のない時効なき戦争犯罪と語った。
F大同での細菌戦
旧大同郡古平面車里(現在は平壌市万景台区大平洞)では1952年5月にコレラに汚染されたハマグリが投下され食べた住民が死亡した。この現場近くを訪れた。
崔允協さん(1937年生)は大同江区域の病院に勤めている。崔さんは当時16歳、中学2年だったが、現場近くで次のように証言する。夜、米軍機が村の上空を何回も低空で旋回した。翌朝山菜取りに出て貝の入った藁袋を見つけて持ち帰り、料理して食べたところ感染した。貝毒の話が村人に伝わり、現場にいった。防疫隊が来て周囲を封鎖し、死体は裏手の山で焼き、消毒して埋められた。貝の包み方は風習を研究して投下したやり口だった。数日後、国際調査団も来た。1952年の11月ころには細菌弾も集落の裏山に投下された。弾はカーキ色で裏側には虫を入れるような仕切りがあった。防疫隊が出動して処理した。大平洞では空爆で全焼した村もある。クラスの10人が死亡し、弟も亡くなった。美しい村を私は愛している。アメリカへの憎悪を禁じえない。細菌戦の関与者は人民のためにも名乗り出るべきだ。
以上が、中国・朝鮮での展示館や証言のまとめである。現地には投下物の標本や被害証言がある。米軍の細菌戦実行に関する史料はいまだ発見されてはいないが、米軍によって細菌戦がおこなわれた可能性はきわめて高いとみられる。
今回の調査の報告は、森正孝「血ぬられたアメリカの『正義』を暴く・朝鮮戦争時の米軍細菌戦現地調査報告」『飛礫』37、2003年)、中嶋啓明「『悪の枢軸』と批判するアメリカが朝鮮戦争でおこなった細菌戦」『週刊金曜日』424号、2002年8月)、中嶋啓明「朝鮮戦争における米軍の細菌戦被害の実態・現地調査報告」大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター年報1、2004年3月)などにまとめられている。
G2003年2005年の朝鮮での調査
「朝鮮戦争米軍細菌戦史実調査団」のメンバーはさらに2003年・2005年と朝鮮現地での調査をおこなった。
2003年には被害現地2箇所7人から聞き取りをおこなった。平安南道江東郡元灘面松烏里では崔ギョンソク・李グァンドさんら4人の1952年2月末ハエのような大きな羽アリが発見されて防疫活動がおこなわれた話を聞いた。元北西郡衛生研究所機動防疫隊長崔ドンギュさんから北西郡などでの防疫活動について聞き、国際科学委員会に提出した原資料を見た。元中央防疫試験隊の金ラクチェさんから1952年に平安南道や江原道のハエからコレラ菌を検出したことや大同での貝毒事件についても証言を得た。韓仁花さんからは江原道ヘアン郡でのハエや昆虫の投下以後の住民の罹患について聞き取った。朝鮮戦争最大のペスト被害地安州郡テリ面(現文徳郡万興里)を訪問し、1952年2月末の状況を調査し、梁テファンさんの話しを聞いた(中嶋啓明「朝鮮半島の『大量破壊兵器問題』に横たわる闇・米軍細菌戦現地調査報告」『飛礫』41号)。
2005年には、平原郡ソンファ里での1952年2月ころの細菌戦の被害を調査した。金真学さん、沈徳華さん、金ヒョンウォンさんらによれば、大きなハエが投下されたのちに熱病が発生、発熱と嘔吐により多くの人々が亡くなった。平原郡では現在、被害実態調査がすすめられ、被害調査票が作成されている。また、江西郡ソンテ面の朴ユンハさんの話、元民主朝鮮記者のユンチャンウさんの米軍捕虜への聞き取りの話などを聞いた(中嶋啓明「朝鮮戦争下アメリカ軍が行なった細菌戦」『統一評論』481号)。
これらの調査からわかるように、米軍の細菌投下によるとみられる被害実態が実際にあり、その真相究明がもとめられているのである。
3 真相究明にむけて
米軍による731部隊の免責は、米軍による細菌戦の実施という形でその戦争犯罪が継承されていったといえるだろう。この実態を明らかにすることは今後の課題である。
最後に朝鮮戦争での米軍細菌戦関係の記述をあげ、今後の調査にむけての課題の提示としたい。
デヴィドコンデは『朝鮮現代史2』の第10章を「絞め殺し作戦と細菌戦」とし、アメリカ議会の1951年春の緊急予算としての細菌兵器予算の計上、52年4月の宣伝パンフ使用爆弾を使っての細菌兵器攻撃の報道、情報局第3課の1950年度の細菌を使っての情報活動、朝鮮を横断する感染地帯形成を目的とする1952年7月に撃墜され捕虜になったシュワーブルの証言などを紹介している。
ギャバンマコーマック『侵略の舞台裏・朝鮮戦争の真実』では、1952年春にCIAがフォートデトリックの細菌戦研究所と細菌兵器とその運搬方法の開発協定を結んだことを記し、細菌兵器を経済に打撃を与えずに安価な費用で敵を弱体化するものとして評価する記事を紹介している。
シェルダンハリスは『死の工場』で石井と内藤が米軍のキャンプで細菌戦の講義をしたというサンダースの証言をあげている。
ハルゴールド『証言731部隊の真相』は、流行性出血熱に米軍も2600人が感染して165人が死亡し、この処理のために米軍研究員は旧731部隊員に助言を求めたことを記している。
韓桂玉『韓国軍駐韓米軍』では、バレン米国防省化学部主任の1951年7月4日以降米化学戦機関の朝鮮内での活動を示す証言、米第8軍司令官ヴァンフリートの細菌兵器を含む化学兵器使用発言、石井らの朝鮮入りを伝える52年2月の記事、米陸軍在日医療本部第406医学研究所(相模原から座間)・米陸軍化学戦部隊生物研究所(朝霞)・米陸軍化学兵器研究所(宜野座)の活動などをあげている。
太田昌克『731免責の系譜』は、米国立公文書館の米軍統合参謀本部の生物兵器研究と細菌戦戦略のファイル資料にある1950年以後のダグウェイ実験場での細菌投下装置実験報告記事や1951年9月の統合戦略計画委員会のペストやボツリヌスなど9種を兵器化する記事などを紹介している。
Pウイリアムス、Dウォーレス『731部隊の生物兵器とアメリカ』の第4章では朝鮮戦争と細菌戦についての論評がある。日本訳では、訳者が今回、調査団が撮った写真を転用しているが、P,215の細菌標本の写真キャプションを誤っている。
『高校生が追うネズミ村と731部隊』には、占領軍と米406部隊が日本人研究員を雇用し、朝鮮戦争の際には国連軍406診療部輸血部が組織され朝鮮に派兵されたこと、埼玉県内で大連から運ばれてきた「スナネズミ」の生産を飼育農家におこなわせ、米406部隊が大型輸送車でネズミを取りに来たこと、朝鮮戦争が終わるとネズミ生産は不景気になったこと、実験動物中央研究所・406部隊・予防衛生研究所・伝染病研究所の所員や隊員は旧731部隊関係者が占めていたこと、などが記されている。
李泰『南部軍』には朝鮮南部でのパルチザン部隊のなかで、1951年2月ころには全羅南道、4~5月にかけては全羅北道の部隊で高熱を繰り返す得体の知れない伝染病(「再帰熱」)が流行したこと、また、忠清北道の浴離山付近でも流行したことが記されている。
韓国の米軍虐殺蛮行真相究明全民族特別調査委員会の「コリア国際戦犯法廷」にむけての2001年の調査によれば、無等山一帯・全南和順郡二西面永坪里で細菌戦がおこなわれた。1951年にパルチザン討伐を名目に米軍機が白い噴霧液を散布したため、住民も含めて熱・下痢症状となった。「再帰熱」といわれ、皮膚の変色症状が出たという。また和順郡北面や白雅山でも細菌戦がおこなわれたという。(「全南日報」2001・6・18,6・19、「東亜日報」2001・8・2、)。ブライアンウイルソンは「6・25戦争当時米国の細菌戦疑惑」で出血熱毒素T-2真菌によるものとみている(『民族21』2001・10)。
Sエンディコット、Eハジェールマン『アメリカと生物戦争』は翻訳されていないが、朝鮮戦争での細菌戦を追及したものであり、中国での調査、CIAの活動や406部隊についても詳細な論及がある。この本の蓄積のうえに今後の研究があるべきである。
ところで、産経新聞は1998年1月8日の記事で、ソ連「秘密文書」から朝鮮での2箇所の汚染地帯が捏造されたものと判断し、米軍の細菌戦を否定した。
しかし、ここで見てきたような米軍の細菌戦に関する朝鮮・中国各地での記憶と史料、被害者のすべてを否定することにはならない。アメリカの生物戦に関する文書の公開を含め、真相の究明こそ求められていると思う。
旧日本軍731部隊の存在の隠蔽と米軍による免責は、米軍による生物戦(細菌戦)の実行という形で継承されたのであり、その戦争犯罪は今も続いているということができる。その再発の防止に向けての真相究明が、新たな戦争の時代のなかで求められているのである。
2002年8月記事・2006年10月補記(竹内)
参考文献
軍事科学院歴史研究部『抗美援朝戦争史3』軍事科学出版社2000年
江?用輝『在三八軍在朝鮮』遼寧人民出版社1988年
『中国人民解放軍歴史図集8』長城出版社2002年
『共和国戦争1950-1979』北京北影録映有限公司(DVD)
劉?発編『英雄城市英雄人』(李思倹「鉄証如山」・兆化「反細菌戦」ほか所収)中共丹東市党史研究室1989年
中共遼寧省党史研究室・丹東抗美援朝記念館『保家衛国的貢献』(張中勇「安東人民在反細菌戦運動中的貢献」・張在発「寛甸人民粉砕美国細菌戦記実」ほか所収)2000年
抗米援朝記念館蔵・細菌戦関係文書
『抗美援朝記念館』台海出版社1999年
孫洪久・張中勇『凝固的歴史瞬間』遼寧人民出版社2000年
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張起泰「我所知道的当年美国在朝鮮戦争中使用細菌戦状況」2002年
許宗浩・姜錫熙『美帝国主義是発動朝鮮戦争的罪魁衲首』朝鮮外文出版社1993年
金昌鎬・姜根照『朝鮮通史下』外国文出版社1996年
社会科学院歴史研究所『朝鮮人民の正義の祖国解放戦争史』1973年
『事実は語る 朝鮮戦争挑発の内幕』外国文出版社1960年
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デヴィドコンデ『朝鮮現代史2』太平出版社1971年
ギャバンマコーマック『侵略の舞台裏・朝鮮戦争の真実』影書房1990年
シェルダンハリス『死の工場』柏書房1999年
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ハルゴールド『証言731部隊の真相』廣済堂出版1997年
韓桂玉『韓国軍駐韓米軍』かや書房1989年
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埼玉県立庄和高校地理歴史研究部『高校生が追うネズミ村と731部隊』教育史料出版会1996年
森村誠一『悪魔の飽食第3部』角川書店1983年
日韓関係を記録する会『資料細菌戦』晩聲社1979年
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中嶋啓明「歴史の闇に閉じ込められる米国の細菌戦」『週刊金曜日』575号2005年9月
中嶋啓明「朝鮮戦争における米軍の細菌戦被害の実態・現地調査報告」『大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター年報』1、2004年3月
中嶋啓明「朝鮮半島の『大量破壊兵器問題』に横たわる闇・米軍細菌戦現地調査報告」『飛礫』41号2004年
中嶋啓明「朝鮮戦争下アメリカ軍が行なった細菌戦」『統一評論』481号2005年11月
藤本治「無等山で鄭雲龍氏に聞く」『日本軍による細菌戦の歴史事実を明らかにする会通信』18、2003年2月
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