クラクフ・アウシュヴィッツの旅

 クラクフ

 クラクフはポーランドの南部にある古都であり、ヨーロッパの中央部にある。プラハからクラクフを経てキエフへと抜ける道ができたが、ユダヤ人はその商業活動によってクラクフの都市建設において大きな役割を果たした。その後、ユダヤ人は15世紀末にクラクフの南方に強制移住をさせられカジミエシュ地区が形成された。

 11世紀から16世紀にかけてクラクフはポーランドの王都として繁栄し、旧市街にあるバベル城の聖堂ではポーランド王の戴冠式が18世紀までおこなわれた。城の入り口にはコシュ―シカの像がある。

 19399月のナチスドイツによるポーランド占領によって、10月クラクフにポーランド総督府がおかれた。当時クラクフには63千人を超えるユダヤ人が居住していたが、それはクラクフ人口の25%ほどであった。

 占領にともない、193911月には一二歳以上のユダヤ人へのダビデの星の腕章の着用が強制され、12月には強制労働が義務化された。1941年3月にはカジミエシュ地区南方のポドグジェ地区にゲットーの建設が始まった。ここに約24千人のユダヤ人が収容された。ユダヤ人の絶滅政策によって19426月にはクラクフからベウジェッツ絶滅収容所への連行がおこなわれ、10月にはベウジェッツとアウシュヴィッツへの連行がおこなわれたた。またゲットーの南方(ポドグシェシェ地区)にはユダヤ人墓地を掘り起こしてプワシュフ収容所が建設された。12月にはゲットーがAとBに区分され、Aは労働者用、Bは労働不能者とされた。19433月にはゲットーAは閉鎖され、プワシュフに移送された。またBも閉鎖され、そこで約1000人が射殺され、4000人がプワシュフ、2000人がアウシュヴィッツ・ビルケナウに送られた。12月にはゲットー自体が解体された。

 プワシュフ収容所には19437月からはポーランド人も収容されていった。クラクフでは鉄道員7人がサボタージュを理由に絞首刑にされる弾圧事件もおきている。19446月にはプワシュフ収容所の解体が始まり、収容者はマウトハウゼン収容所やアウシュヴィッツへと転送されていく。

 カジミエシュ地区にはユダヤ人街の町並みが残っている。16世紀のユダヤ教会もある。イザックシナゴーグではユダヤ人虐殺の展示がおこなわれていた。ユダヤ人墓地に入ると右側に大きな追悼碑が建てられている。周辺には破壊された墓石が収集されて壁に作り変えられ、この碑を守るかのように並んでいる。ナチスは墓石を破壊し道路に敷いたという。

ポドグジェ地区には、ユダヤ人とともに街で暮らしたポーランド人パンキェヴィチの薬局、ゲットーの壁、シンドラーの工場跡が残されている。プワシュフ収容所にはモニュメントが建てられている。パンキェヴィチの薬局については、田村和子『生きのびるクラクフとユダヤ人』に紹介がある。クラクフのゲットーについては『The Pharmacy in the Cracow GHETTO(クラクフ歴史博物館刊2004)もある。

 クラクフのガイドブック(『CRACOWKIER刊)をみると、市外の東北にあるラコウィッキ墓地には1848年蜂起関係碑・世界戦争の追悼碑のほかに、劇作家カントールを追悼し、かれの作品『死の教室』から採った十字架とともに座る少年のオブジェもある。それは戦争下の生と死を暗示する作品である。

 クラクフの町を歩きながら、都市形成に果たしたユダヤ人の役割、戦時下のゲットーへの隔離、強制収容所への隔離、銃殺、絶滅収容所への移送、ポーランド人の抵抗運動、戦後の記憶の継承、クラクフを拠点とした劇作家の歴史などをみていくことができる。

 クラクフの旅で印象に残ったものは、奪われた墓石を回収して作られた壁とガイドブックの中の『死の教室』のオブジェだった。

 

 アウシュヴィッツへ

アウシュヴィッツ収容所はクラクフの西方約60キロメートルに建設された。クラクフからバスに乗って約一時間三〇分で収容所に到着する。アウシュヴィッツはドイツ語であり、この地はポーランドではオシフィエンチムという。

ここはヨーロッパ各地の中央部にあり、鉄道の要衝であるとともに隔離に便利だった。ナチスドイツはここに強制収容所を建設し、そこが拡充されてユダヤ人の殺戮センターになった。収容所の建設命令は19404月にだされた。406月にはタルヌフ刑務所から700人余のポーランド人政治犯が連行された。当初は数棟だったが、その後増築され、30棟ほどになった。このアウシュヴィッツの建物から鉄道方面にかけて、ナチスSSの工場・倉庫や兵器工場が置かれていた。

1941年にはアウシュヴィッツから3キロ離れたブジェジンカ村にビルケナウ(アウシュヴィッツU)が建設された。さらに1942年にはモノヴィッツ村にIGファルベン工場の労働力用にアウシュヴィッツVが建設された。アウシュヴィッツTとUは国立オシフィエンチム博物館となり、この時代の戦争犯罪を語り伝えている。それらは墓標なき死者を追悼する建物群でもある。

2005年に中谷剛『アウシュヴィッツ博物館案内』が出され、展示内容について事前に詳細な学習ができるようになった。館で印刷して配布している一枚の地図にも多くの情報が含まれている。館の作成した『アウシュヴィッツビルケナウ案内書』には日本版もある。また館で販売している地図『AUSCHWITZ BIRUKENAU』(Expressap刊)も写真と英文付の解説があり、わかりやすい。事前にじっくりと読む必要がある。

館が出している写真集『AUSCHWITZ A History in Photographs1993年も充実している。DVDも『AUSCHWITZ1991年、『The Liberation of AUSCHWITZ2005年、『From The AUSCHWITZ Chronicle2005年などがある。どれにも貴重な映像が納められている。

かつて収容者の受入口だったところが博物館の入場口になっている。小さな売店があり、そこに地図や図録、DVDなどが販売されている。ホールでは映画が上映されている。英語版の解放直後のソ連撮影の記録映画が上映されていた。解放直後の生存者の姿や遺品の数々が記録されている。これらの映像の一部は図録にも収録されている。

ARBEIT MACHT FREI」と鋳造された有名な文字の門をくぐると、収容所の堅固な建物が並んでいる。この建物の内部に強制収容所の歴史と遺品の展示がある。収容所内には厨房と洗濯場を除いて28号館まである。この門の前にはSS用の防空壕があった。

門からまっすぐ行った右側の建物が4号館である。ここにはアウシュヴィッツのヨーロッパでの位置を示す地図がある。ノルウェーから2000キロ、ソ連から1300キロ、フランスから1500キロ、ギリシャから2150キロ、イタリアから1350キロなどとその位置が示され、ドイツ占領地(第3帝国内)の南東部において、ユダヤ人の絶滅をすすめるにあたっての輸送距離が示されている。川に挟まれた湿気の多い土地だが、秘密裏に殺戮をすすめるには都合のいい場所であった。

4号館には収容所の残された灰を収集した祈念のオブジェが置かれている。壊れた人形の顔はここで破壊されていった生命の無念を示している。ここではアウシュヴィッツの歴史が展示され、連行状況を示す写真やビルケナウのガス室の模型がある。チクロンBのガス缶もある。フランクフルトのDEGESCH社製作という。

部屋一面を使って髪の毛が置かれている。60年の歳月を経て展示用ガラスの向う側から髪の毛のにおいが部屋の中に流れている。

5号館には眼鏡・義足・カップ・帯・服・靴・トランク・台所用品などの遺品が展示されている。それらのものはそれぞれ所有者があり、その生命が奪われた歴史を示している。トランクには「MARIE KAFKA PRAG[833」「ANNA KRAUUS 1613CK33」というように名などが記されたものもあった。小さな子どもの服や靴もたくさんある。靴は壁全面に積まれていた。これらは虐殺の証言物である。

6号館には生体実験の資料や刺青などの収容の状況が絵などで展示され、廊下には判明している犠牲者の顔写真とその履歴が展示されていた。その数はほんの一部であるが、歴史は数値ではなく、一人の一人の名であり、その生命であることを痛感する。

その名をみてみると「15691IDKOWIAK ANNA194288連行、1024殺害」「11984OGLODEK JAN,1899生、194145連行、1111銃殺」「29719AMES MOSES 1929生、1942416連行、71死亡」などとある。また、「29308MULARZYK JOZEF」ら3人の農夫の家族が1942年に連行され3人ともその年の内に死んでいることもわかる。このように死亡が判明し示されているのはポーランド人という。

10号館では生体実験がおこなわれていた。この建物は非公開であり、入り口にその実験についての解説板がある。

11号館は地下監獄を持つ「死のブロック」と呼ばれた建物であり、この建物の横に銃殺がおこなわれた「死の壁」がある。11号の一階には政治犯の拘束室や処刑前に服を脱がす部屋があり、地下には28室の牢がある。22号牢は直立牢となっていて、内部が示されている。20号は暗闇牢という。コルベ神父が殺されたのは18牢である。牢の中を除く窓があり、薄暗い中を眺めることができるが、そこにはまだ人間の怨恨が渦巻いているようだった。死の壁には追悼のキャンドルと花輪が置かれている。

13号館にはシンティ・ロマ、14号館にはソ連捕虜、15号館にはポーランド、16号館チェコ・スロバキア、17号館ユーゴ・オーストリア、18号館ハンガリー、19号館フランス・ベルギー、20号館イタリア・オランダと展示があり、27号館にはユダヤ人ゲットーなどについての展示がある。これらは時間の関係で見ることはできなかった。

収容所の鉄条網の横にはSS管理棟やSS病院があり、その横に第1クレマトリウムと呼ばれたガス室と焼却炉があった。ガス室内部には階段を下りてはいることができ、その横側に作られた焼却炉もみることができる。1942年には1日に340体を処理できる3つの焼却炉が作られたという。ビルケナウが完成するとこのクレマトリウムは倉庫や防空壕として使われた。そのときに焼却炉や煙突は解体された。現在の煙突や焼却炉は再現物であるが、建物は現存物である。ガス室内には▼型のオブジェが置かれている。ガス室横に機能的に作られている焼却炉のレールがある。その殺戮の機能性を示すレールは、訪れる人々に人間の方向について語りかけているように思う。このガス室の横に収容所所長ヘスを戦後に処刑した場所が残されている。

点呼がおこなわれた中央広場には首をかけて処刑した処刑用のレールが残され、処刑された人々のことがパネルで展示されていた。

オシフィエンチム市内には国際青年交流センターがおかれている。交流センターにはホールや図書館があり、宿泊もできるようになっている。このセンターはポーランドとドイツの支援で運営されている。ここではアウシュヴィッツへの訪問学習、国際セミナーの開催、教育関係者の訓練、ワークショップの開催などをおこない、歴史を継承し、過去を清算に向けての意識を共有し、未来に向けての活動をすすめる拠点となっている。若い職員に最近の世界情勢を聞くと、自身の意見としつつも、イラク戦争やレバノン侵攻を批判する見解を示した。

 

アウシュヴィッツ・ビルケナウへ

アウシュヴィッツでの展示を見た後、ビルケナウに行った。ビルケナウには展示解説は少ないが、そこは跡地を歩きながら殺戮の歴史を見つめ、平和への意思を継承する場である。

列車の軌道を中央に引き込んだビルケナウの監視塔が入場口となっている。ここは「死の門」と呼ばれた。この監視搭の屋上に上がって収容施設を一望できる。多くの建物は壊れているが、右側BU地区の最前列の木造の20ほどの棟が修復されていて、そのほかの壊れた建物の跡にはレンガ造りの暖房用の塔が、追悼碑のように並んでいる。また左側のBT地区には女性たちが収容された建物が残っている。BTには懲罰班や特命労働隊が居住させられた建物も残っている。これらはレンガ造りであり40棟ほどがある。これらの建物のかなたに4個のクレマトリウム(ガス室・焼却施設)跡・倉庫跡がある。

収容所の入り口のかなたにアウシュヴィッツVのおかれたモノヴィッツのIGファルベンの高い煙突が見えた。今も操業しているという。

このビルケナウの収容所には300ほどの棟が建設された。BU跡に残る木造の棟の中をみると、トイレとして使われていた場所や木造の3段ベッドなどが残されている。入ると収容所の木のにおいがする。暖炉跡には追悼の花輪が置かれていた。アランレネの映画『夜と霧』のなかに出てくる棟の風景がここにあった。棟の上部の柱に「清潔にしろ」とか「嘘をつくな」といったスローガンが書かれていた写真が残されている。

BU地区は6区に区分され、順に検疫隔離区、テレジンからのユダヤ人家族区、ハンガリーからのユダヤ人中継区、男性収容区、シンティ・ロマ収容区、病人収容区となる。BT地区は女性の収容に使われていたところが多い。

シンティ・ロマについては連行された2万1000人ほどの氏名を記した名簿がポーランド人政治犯によって残されている。ソ連捕虜も処刑されている。

引込み線は内部で3本に分かれている。収容施設の中央部分に降車場があり、ここで整列と選別がおこなわれた。ここに立つとかなたにはクレマトリウム(ガス室・焼却室)があり、ここで生と死の選別がなぜおこなわれたのか理解できる。引込み線は降車場の向うまで続き、その終点はクレマトリウムになっているのだ。

メンゲレの生体実験の場所を示すものなど各所に説明板がある。引込み線の末にあるクレマトリウムの横には1967年に建てられた国際追悼碑があり、たくさんの石板がはめ込まれている。これらの一つ一つの石板が死者をしめすものである。また、各所にシンティ・ロマ、フランス人死者などを追悼する碑などが建てられている。

クレマトリウムはナチスドイツが撤退するときに破壊された。第2第3クレトリウムの前に立つと、その分厚いコンクリートの残骸が斜めにその姿を大地に残している。ガス室に向かう階段が残っている。まっすぐに行って曲がればガス室、そのまま進めば焼却炉だ。訪問者が書いた何通かの追悼紙あり、その上に石が置かれていた。見るとドイツとイスラエルとの友好を示す絵が描かれていた。陽光のなか、夏風に追悼の紙が揺れる。

第2第3クレマトリウムと第4第5クレマトリウムの間には「カナダ」と呼ばれた略奪品をためた30箇所ほどの倉庫があった。これらの建物は残っていない。近くに収容者を受け入れた建物(「ザウナ」)が残っている。ここには2400枚近くのユダヤ人の写真が展示されている。最近の調査で600人近くの氏名が判明したという。当たり前のことだが、被害者の氏名発掘は第一の課題である。ここには死者の砕いた人骨を運んだ台車も展示されている。

「ザウナ」を超えると第4・第5クレマトリウムの残骸が現れる。第4クレマトリウムは収容されていた特命労働隊の蜂起によって破壊された。彼らは死体処理の労働を強いられていたが、自らが殺される前に蜂起したのだった。この蜂起のために女性労働班のメンバーが数ヶ月間かけて火薬を集めてダイナマイトを確保したという。かの女たちは銃殺された。第45クレマトリウムの構造は第2第3クレマトリウムと異なり、階段・脱衣所・ガス室・焼却炉が直線になっている。ガス室の出口は焼却炉である。

第4第5クレマトリウムの周辺の白樺の林は、連行された家族が待たされていたところである。待機する写真が残され、それを伝える説明板がある。近くの野原は野積みの死体を焼却したところでもある。そこには焼却を示す説明板と追悼碑が建てられている。特命労働隊が死体を野原で焼く場面を秘密裏に取った写真はこの場所のことだったのだ。また骨や灰が捨てられた池もある。

訪問者が歩いている道は固くなっているのだが、草の生えた更地に入ると柔らかである。外周の碍子をつけたコンクリートの柱は60年の年月のなかでひび割れ、なかには内側の鉄筋が露出したもの、折れ曲がっているもの、倒壊寸前のものもある。

収容所跡地に赤アザミ、白ツメ草、コンゾリナ、ワレモ紅などが咲き、風にあおられている。ときおり強い夏風が吹き、白い種が空に舞い、収容所のレンガとコンクリートの瓦礫の上を飛ぶ。この収容所で起きた出来事は決して過去のことではなく、現在の問題である。ガス室は崩壊しているが、その瓦礫はその姿を永遠に示し続け、瓦礫の墓標群の形で、人間の価値とその方向性を問い続けると思う。

 

カジミェシ スモーレンさんの話から 

ここでアウシュヴィッツの棟の中で聞いた元館長のスモーレンさんの話をまとめておこう。以下は話の要約。

   みなさん今日は、ようこそ、ポーランドへ。

 1939年のドイツのポーランド占領により学校や大学は閉鎖されました。ユダヤ人はゲットーに収容されるようになりました。占領に抗して1939年10月にはポーランド人の抵抗組織が形成されました。12月にはポーランドパルチザンの組織に入りました。戦いはしなかったのですが、武器や爆弾を集めたり、地下出版のチラシを配ったりしました。40年4月にゲシュタポの家宅捜索を受けました。家には何もなったのですが、逮捕され連行されたのです。本部の地下に連れて行かれ壁に並んでいる仲間を見ました。顔はわからなかったのですが、個人のファイルを作成しているところであり、学校の仲間でした。夕方には刑務所の牢屋に入れられました。このとき25人の教師、180人の生徒ら約200人のポーランド人が逮捕されました。

 私たちは互いに話し合わず、顔を下に向けて寝るように命じられました。向きをかえずに顔を床につけて寝ました。夜のみ200グラムほどのパンが出ました。ずっと取調べを受けて、拷問され、筋肉も弱りマヒ状態でした。このような状況が3ヶ月ほど続きました。

 1940年7月6日にアウシュヴィッツへと連行されました。当時はなかったのですが11ブロックの横側に並ばされました。夏、太陽に顔を向けて並ばされ顔が火傷状態になりました。又SSはしゃがんで並ばせて回転させて、その動きを熊の踊りといって笑っていました。夕方シャワーを浴びて、縞模様の囚人姿に着替えました。それからは囚人番号で呼ばれたのです。はじめの頃は3棟のバラックがあり、有刺鉄線が張られていましたが、そこに入れられ夜の点呼を受けました。10の列をつくり、SSが走って人数を確認しました。SSは殴りながら初めて「ビエヨフスキ」という名を呼びました。直訳すると逃げるものという意味の名です。逃亡者の再逮捕はできずに、点呼は18時間も続きました。それは一番長い点呼でした。

 バラックにはベッドはなく、マットレスのみでした。朝起きてそれを積み上げました。わたしたちは皮膚病になりました。六時頃には起こされ夜まで仕事をさせられました。1940年末まで、地ならしの重労働でした。それは新たな収容のための基礎工事で、有刺鉄線の設置工事もしました。靴もなく裸足で、走るように働かされました。病院があっても入院することはなく、薬もありませんでした。夜の点呼は年末の寒い中、毎日3~4時間受けました。収容者は肺炎や腎臓病で亡くなっていきました。鎮痛剤を万能薬のように使っていました。包帯は週1回交換するだけです。2週間以上入院しているとフェノール注射で殺されました。病院は「焼却炉の玄関」と呼ばれていました。

 1941年にヒムラ−の視察があり、アウシュヴィッツを3万人が収容できるように拡大することになりました。一階のレンガ造りの施設は2階に増築しました。さらに2500人のポーランド人を退去させてビルケナウの建設がおこなわれました。それは10万人から20万人を収容する施設をつくるためです。同様に、モノヴィッツにアウシュヴィッツVを建設しました。この建設のためにアウシュヴィッツで四千人の労働班をつくりました。わたしたちは朝早くからビルケナウに行き、退去ポーランド人の家々を解体しました。それらの建材を集めてビルケナウを建設しました。

 ビルケナウは沼地のようなところで、ひざまで水に浸かって仕事をしました。SSに殴られ殺される人もいます。毎日夜、アウシュヴィッツに戻るとき殺された10数人を背負って戻ったのです。夜の点呼のときに、横に置きました。数軒のバラックができるとそこに泊まるようになりました。ビルケナウの状態はアウシュヴィッツよりも悪いものでした。 

わたしはゲシュタポによる取調べのためにアウシュヴィッツに戻されました。収容所では体ではなく目と耳が働かないと生きていけません。取調べでは「父は何をしている」と聞かれました。父はマウトハウゼンに収容されていました。「ドイツ語はできるか」というので「大体わかる」と答えました。「きれいな字がかけるか」と聞くので「医者の字よりいいが、タイプが打てる」と答えました。その結果収容所の事務所で働くようになりました。1940年末にはポーランド人だけでした。ゲットーから逃亡したユダヤ人200人もいましたが、かれらは収容所内の刑務所(11ブロック)に入れられました。水もなく、労働もなく、SSが棒やシャベルで殴り、ユダヤの歌を大声で歌わせました。虐待の2週間のうちに皆殺されました。

1942年1月のヴァンゼー会議を経て、アウシュヴィッツに全ヨーロッパからユダヤ人が送られてくるようになりました。1日に3~4千人が連行されてきました。連行されてくる人々のファイルを作る仕事を夜もしました。SSに受け取り書類を書いたので、どこから何人連行されたのかという情報を得ました。1942年後半、連行されたユダヤ人数と囚人番号が当てられた人数が違うことに気づきました。たとえば4千人来ても500人のみの番号なのです。番号をつけられた人だけが収容され、それ以外は第一ガス室で毒殺したのです。

毎日より多くのユダヤ人が連行されてきました。一箇所のガス室では毒殺が不可能になりました。ビルケナウのポーランド人に家を改築して臨時ガス室が作られました。しかし狭いために、より多くのユダヤ人を殺すための四つの大きなガス室の建設が始まりました。

ユダヤ人連行者は1944年の夏が多かった。とくにハンガリー系ユダヤ人が四ヶ月で35万人送られてきたため、死体が焼却しきれなくなりました。死体が野積みになり、SSは伝染病につながるために野積みの死体の焼却を命じました。2〜30メートルの堀を掘らせて焼いたのです。ビルケナウからアウシュヴィッツまで3キロほどありますが、風向きによっては焼く臭いが伝わり、野積みのまま焼く煙で霧がかかったような状況でした。

1944年末のことですが、ソ連軍が接近して来ました。SSは犯罪の跡を消そうとし、アウシュヴィッツの囚人7万人ほどをドイツ本国へと撤退させました。彼らは犯罪の証拠になるからです。1945年1月にはドイツ軍で鉄道はいっぱいになり、3万人が歩いて撤退しました。わたしは1945年1月18日に最後に撤退するグループ四千人の一員として出発しました。行進の食料はパン一キロ缶詰一つのみでした。飲み物は無いため雪を食べました。1945年一月の冬は零下25度にもなる厳しいものです。わたしたちは明るいうちに行進し、暗くなるとSSに囲まれて野宿しました。歩けなくなった囚人は射殺されて溝に棄てられました。戦後、溝から1500人ほどの死体が発見されています。これは「死の行進」と呼ばれています。

わたしたちはマウトハウゼンに到着しました。わたしたちはマウトハウゼンで囚人番号をつけられ、副収容所のネウプ収容所へと送られ、地下軍事工場の建設をさせられました。その仕事は2~300メートルの地下トンネルを掘り、コンクリートの壁をつくるという仕事でした。3月末頃までそこで仕事をしました。ソ連軍が接近してきたために、さらにアルプスのエーベンゼー収容所に撤退しました。SSは東から西へと撤退していったために、一万人の収容所が3万人となり、食料が不足しました。混雑して衛生状態も悪く、病気も増えました。3万人中少なくとも50パーセントが飢えや病気で死にました。生き残ったものも歩くことができずに、体を動かすだけの状態でした。

1945年5月3日、米軍の空襲から守りたいので地下トンネルに入るようにと命令されましたが、トンネル入り口にはダイナマイトがあり、入ったら爆破されて墓場となると考え、囚人は反対しました。SSは米軍が近くに居ることがわかっていました。夕方には衛兵が皆逃亡しました。5月6日わたしたちは米軍によって解放されました。食べ物を子どものように受けとって食べました。しかし、解放後にも2千人が死亡しました。

3ヵ月後に鉄道でポーランドに帰りました。戦後わたしは法学部の学生になり、ニュルンベルク裁判の証人にもなりました。大学を卒業してナチス犯罪追及委員会の仕事をしました。犯罪証拠の収集や裁判での犯罪証明をしたのです。SS隊員を資料の上だけでなく個人的に知っていました。彼らはうそをつくか黙っていました。懺悔の気持ちは一度も感じませんでした。

ビルケナウのガス室や積み下ろし場の話をしました。SS隊員が撮った1944年の選別の写真があります。積み下ろし場が見えます。何千人もいますが笑顔はありません。死体はありません。そこでSSの医者が外観で働けるか否かを選別し右か左かで運命が決められたのです。子ども、妊婦、身体の障がいのある者、年寄りは働けないとして殺されたのです。

今ビルケナウの積み下ろし場は墓地のような静けさです。選別の状況を想像してみてください。家族や親戚の近くにいたいと、互いに名前を呼び探しあいました。子どもや大人の泣き声がしていた2~3時間の状況が急に静かになり、連行者の7~8割がガス室へと送られ、残りが収容されていったのです。第5ガス室付近の写真がここにあります。周りに小さな林があります。多くの人々が写っています。ゲットー体験や輸送での体験を経て、笑顔はなく、子どもたちは怖がっています。写真に写る人たちは50メートルはなれたところにガス室があることは知りません。2~3時間後には第5ガス室で殺されたのです。

              (2006年8月アウシュヴィッツ収容所内にて・要約)

                                (竹内)